2012年12月31日月曜日

気づきに気づけないのは


 啓示やヒント、或いは閃きというようなものは突然やってくる。

 ただ、たいていの場合それは微かなものであることが多いから、気にも留めないでやり過ごしてしまうことが多々あって、後で気づいて残念に思う。

 

 単純に、「今なにをやれ」とか、「どこそこに行け」とか、「何を食べなさい」とかいうようなものが多いのですが、それが何を意味しているのかその時には解らないからです。

でも、それを素直に実行するということが次の段階への入り口となるから大事なことだったということが後からわかるのです。

 

 一発で効く特効薬のようなものを期待していると、そんなものは最初からはまずないから、認識を改めないとならないということだと思うのです。

 素直が一番なのかも知れません。

2012年12月30日日曜日

口にすれば必ず叶ってしまう言葉


願い事というのは、なかなか叶わないのが通り相場となっていますが、必ずすぐに叶ってしまう言葉というのがあります。

それは、「ああ、もう俺は駄目だ。」という言葉。

自分が自分の神様に宣言するのですから、これは覿面に聞き届けられてしまいます。

口が裂けても、言ってはならない言葉ということになります。

 

そうしてみると、口に出して宣言すると良い言葉というのがありそうです。

2012年12月29日土曜日

再婚しませんという意味をもつ白い喪服


喪服は黒と決まっているように常識化しているけれど、日本では、仏教が伝来するまでは白を着用していたのだと言われます。

仏教では、黒が悲しみを表す色ということから来ているのだそうですが、江戸時代くらいまでは、白い喪服を着用していたらしい。

死に装束と言われるものは白です。

 

中村勘三郎さんの葬儀に、夫人が白無垢の喪服を着していたのが目を魅きました。

未亡人が白の喪服を着るのは、再婚しませんという意思表示でもあるのだとか。

 

ところで、この「未亡人」と言う言葉は、本人が世を憚って言う表現ですから、他人がそう呼ぶのは大変失礼なことになります。

「未亡人」とは「いまだ亡びざるひと」ということであり、本来一緒に死ぬべきところ生き残っています、という意味なのですから。

2012年12月28日金曜日

引き寄せたのは、他ならぬ自分


不平不満愚痴を、人前でも平気で口にする人がいます。

口にする以上は、そう言いたくなる現象が結果として自分の上に起こったということなのでしょう。

因果律で言えば、結果と言うものは原因がなくては表れない。

酷な言い方ですが、全部自分が招いたのだということになります。

きっとどこかで、悪い想念を持ったのだということになります。

自分が覚えてもいない前世のことであったかもしれませんが、縁を得て現れたのです。

類は類を持って集まる。朱に交われば赤くなる。

 

原因となることは、それが良いことでも悪いことでも、潜在意識に刻み込まれます。

潜在意識に刻み込まれたことは、どんなことであっても実現に向かって動き出すのだと言われています。

もし、嫌なことが自分に起こったのであれば、「ああ、こうして自分に表れたのだから、これで消えるのだ。」と信じきるのです。

間違っても、その厭なことに捉われて、原因として又掴み直してしまってはならないのです。

難しいことなのですが、許して解放するのです。

「こんな厭なことが起こったのだから、後にはきっと良いことが起こるに違いない。」という善念に切り替えると良いと思います。

 

では、良いことを想ったら、良い結果に結びつくのか?ということになるのですが、それは必ずそうなります。それが因果律の真理です。

良い結果がすぐ現れるときもあれば、なかなか現れないということもあります。

潜在意識は、時機を選ばないといいますから、やむを得ません。
ただ、原因のないところに結果はあらわれない、というのも真理なのです。

2012年12月27日木曜日

幸運の神様の精妙な波動に触れるには


 心霊世界に携わる人たちは、願いの筋を神様に届ける為に精進潔斎して先ず身を浄めます。不浄は、聖なるものに近づく妨げになるからです。

 送られてくる「気付き」「ひらめき」などの通信は、汚れにブロックされてしまうようです。

 初詣に行くときは、ちょっと気を付けて、気持ちも清浄にしていくと良いと思います。

 

 私たちは、自分の体をお風呂で清潔にしたり、衣服を洗濯したり、部屋を掃除したりということは日常的にできますが、大事な先祖が眠る墓石を綺麗にするということになると、その方法がわかりません。

 それどころか、墓石を縁起が悪いと思っている人さえいます。

 でも、綺麗にしてあげると、自分まで気持ち良くなるのです。

 

墓石にこびりついた水垢は、少しばかり丁寧に洗剤で擦ってみても落ちません。

どんな仕事にも、やり方やコツというものがあります。

例えば、皮脂汚れを落とすには、石鹸を20度前後のお湯で溶かして使うなど・・・

 そのほか身の回りには、不浄を除かなくてはならない水回りとか、トイレとか風呂場とかの他にもいろんなケガレがあります。

2012年12月26日水曜日

いろは48文字のパターン


正月といえば、いろはカルタ、双六、羽根つき、コマ回し等が昔の遊びでした。

 

小学校に入学してすぐに、あかさたな であったか、いろはにほへと であったかで平仮名を習いました。

中学のときであったか高校時代であったか、いろは48文字を別のパターンで見た時、その口調のよさ、一字もダブらず文章にすることのできた先人に驚愕したことを思い出します。

日本人の言葉に対する感覚というのは、素晴らしいと感じたのでした。

 

 「鳥鳴く声す、夢覚ませ。見よ明けわたる、東を。空色映えて、沖つ辺に、帆船群れゐぬ、靄の内」

 

「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて浅き夢みじ 酔ひもせず」

 

 このほかにも有るらしいのだが、浅学にして知りません。

2012年12月25日火曜日

欲しいものを手に入れるのに


物が集まる所というのがある。

何もないところには、何も集まらないようです。

人のいないところには、人は集まらない。

お金のないところに、お金は集まらない。

 

類は類をもって集まるというのは、あまり良い意味で使われませんが、集まるためには元になるものがあるように思います。

 

明治維新をなした傑物たちもそうですが、時代と場所によって優秀なものが集まってきます。

お金だって、幸せだって、基になるものが先ず必要なのでしょう。

 

どうすれば集まるか?

素直に「好きだ」と言ってみると良いようです。

欲しくっても、なかなかそれを素直に認めて口に出すことができないうちは、望むものが集まっては来ないようです。

良い器・良い道具というのは


旅に出かけると、その地その地の工芸品を目にしたり触れたりする機会が増えます。

あまりの美しさに、ついつい欲しくなって買い求めてしまったものが沢山あります。

洋食器のヘレンドなども、それです。

 

食器棚に飾って楽しんでいたのですが、当たり前といえば当たり前なのですが、器というものは本来使われることが目的でつくられた筈。

高額であったから普段づかいには勿体ないということで飾っておくだけではなお勿体ない。

そこで、コーヒーカップもプレートも、ポットもどんどん使うようにしました。

 

良いものというのは、美しいばかりではなくて使い勝手がよいのです。

手にもったときのバランス、口への当たり具合、料理のうつり映えなど、使う人の幸せを考えに考えた上で作られていると感じられるのです。

使えば使うほど馴染み、愛着がわいてきます。

良いものは、使うと心を豊かにします。

 

日本の陶器や漆器も、職人さんが手作りしている道具類も、買い求めてきて使ってみると、実に心地よい。

使う人の身になって作られていることが伝わってくるのです。
そんな風に、心のこもった物は大事にされるし、後世まで残っていくものなのだと思うのです。

2012年12月24日月曜日

言葉だけでは表せないものを


神社仏閣に初詣をする時期が近づきました。

仏閣に詣でると、仏像が安置されていて、皆それぞれ願い事の筋によって拝観することになります。

仏像が表しているのは、なんなのでしょう。

 

日本語のように玄妙なニュアンスを表すのに優れた言語をもってしても、その仏像が伝えんとする真理を、言葉だけで表現するのは難しいのだと思われます。

 

想像し、理解するのには、形があるものを介しての方が易しい。

そこを縁(よすが)にして、意識を膨らませ、真理に至るようにさせようとしたのが、仏師に制作を依頼した高僧たちの真意であった筈だと思うのです。

ですから、仏像そのものを拝むのではないのだと思っています。

 

そもそも人間は、宇宙の一部であり、しかもまた宇宙そのものなのでもありましょう。

しからば、気づかないでいるだけで、神そのものを自分の内なる世界に全て包含していることになります。

 

自分がそのレベルに至っていなければ、そこにシンクロすることは難しい。

次の機会をまつことにし、手を合わせただけで帰ってくることが、私には多いのです。

でも、浮かべている表情や、結んでいる印、全体から伝わる雰囲気が、有難いなあと感じることもまた多いのです。

小さくても、一歩一歩進んでいけているように思えます。

2012年12月23日日曜日

きちんとした服装するだけで扱われ方が違う


 オーソドックスなブラウス姿や、ワンピース姿の若い女性を見るとほっとする。

それだけで品性も感じるし、ああ、いいとこの御嬢さんなんだなと思える。

 

 ヨーロッパなどを旅行しているときに思うのだが、だらしない服装ではなくキチンとした身なりでレストランなどに入ると、最初から通される席が違うし、扱いも丁寧な対応となります。

 

 外見は大事ですし、それが全人格すら向上させるようにも思います。

 

 ザルツブルグで、ハプスブルグ家の後裔であり旧侯爵家の御曹司とコーヒーを飲みに入ったお店では、客が貴族家の流れをくむ人だと知る由もないのに、ウエイターが下にも置かぬという態度で接してきました。

普段の服装が雰囲気までつくっているのだと気づかされました。

2012年12月22日土曜日

日本人が元気になれる話


日本の技術だということで、聞いただけで元気と勇気が出ました。

 

原発に伴う放射能の危険や、石油石炭などの化石燃料の資源枯渇を心配しないでも、海水中に含まれる1800兆トンともいわれるほぼ無尽蔵な物質マグネシウムを、エネルギーとして使うことが可能なのだという論を知りました。

 

「マグネシウム・エネルギー社会の到来」という、東京工業大学大学院の「矢部 隆教授」の提唱が、本田財団レポートがあります。

 
矢部 孝で検索すると、すぐ出てきます。

火力発電所の設備を転用できるし、電気自動車はマグネシウムのブロックを購入して積み込めば

動かすことができるようになるというからスゴイ。

こういうことを、国を挙げて取り組むことができたら、日本といわず世界の未来は明るいものになると思うのです。

紺屋の白袴というのでなくて


 当社は、ビルのメンテナンスをその業務としておりますが、お客様のおトイレの清掃はやっても自社のおトイレの清掃は、(お金にならないというせいばかりではありませんが)どうしても後回しになります。

 そこで社長の私が、毎日というわけにはいきませんが、お掃除をすることにしています。

しばらくの期間続けているうちに、庭に咲いていたからとか、歩いてくる途中の土手に咲いていたからとか言って、パートのオバチャンが花を摘んできて、それを小さな空き瓶に挿して、トイレの棚に飾ってくれるようになりました。

 

 そのように、触発されて動いてくれる人が増えていくことも嬉しいことではありますが、どういうわけかトイレ清掃をしているときにいろいろなアイデアが浮かんだり気づくことが多かったりするので結構気に入ってしまって、「ここは私がお掃除するから、誰も手をださなくっていいよ。」なんてことにしてしまっています。

 

 本音を言えば、たまには誰かがやってくれるといいなと思うこともありますが・・・。

 厠のお掃除をすることだけで悟りをひらいた仏弟子が居たということでありますから、そのうちに私もその境地に届くかもしれません。

2012年12月21日金曜日

胡桃(クルミ)を食べるにつき思うこと


 中華の西域を胡と呼び、胡の瓜だから胡瓜(きゅうり)と言ったというのは何かで前に触れました。

 

今回は、胡の桃と書くクルミ。

しかしこの桃、孫悟空が天界を荒らしたときに食べたという長寿の桃や、おばあさんが川へ洗濯に行ったときドンブラコと流れてきたのを拾い上げたという桃のように果肉を食べるのではありません。

 

梅でいうところの天神さま、核をたべます。

どうしてこれが桃なのか納得しがたいのですが、旨いことにはnut食うしているのであります。

 

 

迷信なのかどうか

先人の生活の智恵ともいうべきことがらを、科学的な説明がないからといって迷信ときめつけてしまってよいのかどうか。

 

例えば、庭や屋敷内に植えてはならないとされる木があります。

 

敢えて名前はあげませんが・・・

その木は湿気を呼ぶものであったり、大量の落ち葉が屋根に積もってしまう種類のものであったりします。

 

湿気は家人の病気を呼ぶ原因となろうし、落ち葉は屋根を傷める元となります。これこれだからとの前置きをすればよいものを、昔の人はそんな説明をしていません。

 

 

四神相応の地というのがあります。神社仏閣や城などは、建てるときそういう場所を選びました。

北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎というのだが、「そんなことをいったって。」となんのことだかわからないから拒否反応をおこすのが最近の若者。

 

北が小高い丘や山で、南が開けた平や湖ということになれば、日当たりが良くて水はけも良いにきまっている。西に広いみちがあって東に川があれば、住むためにこんなよいところはない。

 

だからそういうところに建てた昔の建物は、今も尚しっかり残っているということになります。

水浸しになって酷い目に会うようなところは、最初から避けたということになるのです。

 

それと別にも、何だかわからないけれど人智を超えて働く偉大な力があることを、誰もが感じているに違いないのだけれど、気づかないふりをしたり無視していたりするが、畏まって謙虚になることができるのも人間の美徳のひとつであると思うのです。

2012年12月20日木曜日

影と陰


 陽射しが斜めになって、影も長くなるけれど、少しでも陽だまりの暖かさを求める季節となりました。
 ところで、影というのはシャドウの意味で使われることが多いけれど、もともとは光のこと。
 そうでないと、月影・星影・灯影というのがなんのことかわからなくなります。

 光の当たらないところは、陰といいます。陰と言えば、日本にはとても素晴らしい言葉があります。
「お陰さまで。」
 なんていい響きなのでしょう。


 世の中、自分の力だけでなんでもも成り立っているのではない。大きくは神仏などの偉大なものの陰で庇護を受けていることに気づき、謙虚にそれを受け止めたとき、或いはまわりの多くの人達の協力があることを認識したときなどに感謝の言葉として口にされます。

 ちかごろ、自分のことばかりになってしまって、この世が対になっていることを考えない人が多くなってしまいました。

権利の主張のうらには義務の履行というものが付いてくる。
 陰陽・善悪・正負、あげればキリなくセットの言葉がでてきます。


 人智を超えた偉大なる力や、誰に伝えたらいいのかわからないときの感謝を表すとき、「お陰さまで。」と自然に口にできたら、素晴らしいこと。

 ある夏の日、向日葵畑に大きな熊ン蜂が飛び回っておりました。

刺されるのではと恐れる人達が、キャーキャーとまるで害虫扱いをして追い払っておりました。追ったほうが危ない。
 花に止まった姿を見ると、足に沢山の花粉を付けていました。このお陰で花は受粉でき実を結ぶことができるというのに・・・

2012年12月19日水曜日

浅草寺で羽子板市が開かれています


浅草の浅草寺で、今日まで羽子板市が開かれています。

女児の初正月の縁起物として飾られます。

起源は古くて、文化・文政年間(1804~1829)頃から起こったといいますが、羽子板で追羽根をつくのは、邪気を跳ね(羽)返すということなのだそうです。

 

追羽根の芯にあたるところの黒い実は、無患子(むくろじ)と呼ばれ、患うことなく丈夫に育つことを願う意味が込められています。

 

住まいの近所に神社があって、そこの無患樹の木から、種子が風に煽られて地面に散り敷いています。

この実の周りの種皮を破ると、中から黒くて固い実がでてきます。これを追羽根の芯に使います。

 

種皮は、水と一緒に揉むと、石鹸のように泡立ちます。

子供の頃、これを使って手を洗ったりしたものでした。

2012年12月18日火曜日

巳という字に似た字の読み方


来年は、巳年です。

ところで、非常によく似た文字に「己」「己」「已」があります。

 

巳(み)は上に、己(おのれ)己(つちのと)下に付き、半ば開ければ已(すでに)已(や)む已(のみ)

 

こんな風にして覚えた漢字というのが他にもあったように思います。

 

戀、恋の旧字体。いとしいとしという心・・・等

2012年12月17日月曜日

真っ赤なお鼻のトナカイさんは


もうすぐクリスマス。

日本では、どこの国のお祭りでも抵抗なく受け入れて定着させてしまうようです。

「トナカイ」、漢字で書くと「馴鹿」、英語なら「a reindeer」。

では、トナカイって何語なのかということなのですが、アイヌ語なのだそうです。発音は少し違うみたいですが・・・

許せないけれど許すということ


長い年月、サービス業に携わってきました。

良くて当たり前の世界では、ちょっとしたミスや行き違いでも、厳しく追及されることがあります。

 

立場が上だと思い込んでいるお相手様からは、時に理不尽とさえ思える言葉を浴びせられることだって少なくありません。

そこまで言ったら、ご自分の人間性まで自分で貶めてしまうであろうことまで言われることもありました。

 

自分も相手も気づつけてしまうような荒い波動を持つ言葉というのは、結局自分に返ってきてしまうのだということに気づいている人は少ないのです。

 

どんなことが原因であれ、怒りというものには誰もが捉われてしまい、歯止めをかけたり忘れたりすることが難しいものです。

 

でも、怒りの波動というのは潜在意識を気づつけ、因果の法則に則り、自分のところに悪い結果として齎されることが多いので、気を付けなければなりません。

 

一方、酷い言葉を浴びたり酷い扱いを受けたサイドなのですが、相当精神が傷み、そこから抜け出すことはなかなか困難なことになります。

しかし、それに囚われていると、それもまた因果の法則に従って結果がよくありません。

潜在意識は、自分と他人を分けないからです。

 

こんなときどうしたら良いのか、ということになるのですが、「許す」のです。

「許せないけれど許す」と、口に出して言ってみるのです。

もっと言えば、とても難しいことかも知れませんが、自分に酷いことをした相手の幸せを祈ってあげるのです。

 

そんなノー天気で人の良いことはできない、というのが普通ですが、無理してでもそうしてみると、気持ちが解放されます。

 

解放されて軽やかになると、その後が自分にとって良くなるようです。

傷ついた心のままでいるのは、耐えられないことなのですから・・・

言葉で伝えるのが苦手


人のいるところには、言葉があります。

言葉は、思いを伝える手段として優れているのですが、使い方が最初から上手い人ばかりではありません。

自分の思っていることが、そのまま伝わるようになるまでには、誰もが人知れず悩み、考え、工夫して、自分に合った話し方を身に着けます。

「わかってくれてもいいのに」とか「お察し下され」とかいうのは、殆ど絶対にと言っていいくらい、相手に伝わることはないでしょう。

言葉は、大事なのです。

 

口下手だからというので、手紙にするのもあるでしょう。

確かに胸を打つ文章というのはあります。

しかし、口に出して言葉として伝えるとき、声の調子、スピード、声音、柔らかさ、真剣さの度合い、含まれる愛情や思いやり、伴う身振りや表情や相槌等々、文字に勝ることが多いのも事実です。

 

言葉は即ち神なりき。言葉の持つ波動エネルギーは、物質をも構成しているのかもしれないのです。

 

簡単な挨拶や感謝の言葉から始めると良いかもしれません。

「ありがとう」なんて良い響きでしょう。

2012年12月14日金曜日

雪の世界に浸りたくなって


雪の冬山は、危険だといわれても、出かけて遭難したというニュースをよく聞きます。

冬山のベテランといわれている人たちでも遭難することがあるのだから、確かに危険と隣り合わせなのも事実でしょう。

それでも行きたくなる気持ちというのは、わかる気がします。

一面の銀世界と静寂に覆われて、頼みにするのは自分の気力と体力。成し遂げたときの満足感と達成感にはたまらないものがあるのだと思います。

 

雪山登山まではどうも、というときに雪の世界を満喫するのに、日光の光徳牧場や上高地の河童橋あたりが素晴らしい。防寒対策を十分することは当然です。

 

信州の諏訪市と伊那市の境にある守屋山は、標高1650メートル。

杖突峠には守屋山の登山口があり、そこは著名 な花の百名山。 代表的な花は座禅草で、4~5月に咲きます。

 

 5~6年ほど前になりましょうか。アイゼンを鳴らして、雪の守屋山に登ったのは・・・

蘇我氏との戦いに敗れて逃れた物部守屋の一族が祀ったという祠の少し先あたりの雪景色です。

 

冬山は危ないとよく言われますが、装備をきちんと整え、危険だと思ったら途中から引き返す勇気を持っていれば大丈夫です。

この山は、さして高くもないし冬でも登りやすい。
真っ白な雪の中の静寂というのは、感動ものです。

2012年12月13日木曜日

旅人が或る町にたどり着くと


長い旅を続けた末、或る町に辿り着くと、町の入口に仙人のような格好の老人がいました。

旅を続けたきた若者が、その老人に尋ねました。

「この町は、どんな町ですか?」

すると老人が「ここに来る前の町は、どんなだったかね?」と尋ね返したのだとか。

「前の町は、皆意地悪で、自分勝手で、それは酷い町でした。」と若者が答えると、「この町も、それと全く同じじゃよ。」と、老人が言いました。

 

次にまた、旅の途中の若者がやった来て、同じ質問をしました。

「前の町は、皆親切で思いやり深く、住んでいてとても良い町でした。」と、答えると、老人は、「ここもそれと全く同じじゃよ。」と答えたのだそうです。

 

人は得てして、原因の一端が自分にあるのだとは考えないで、悪いのは全部周りの所為にしがちです。

「あいつは、どうも虫が好かない。嫌いだ。」と思って接すれば、相手も敏感にそれを察知して、それに輪をかけたような反応をします。

他人に親切な人は、周りの人も皆親切で優しいし、頼みごとだって聞いてくれることが多い。

2012年12月12日水曜日

クリスマスイルミネーションを


 昨年の12月の午後、思いたって足利フラワーパークに行ってきました。

クリシマスイルミネーションが綺麗だと聞いたからでありました。

 

 東京から車で2時間たらずの距離だから、4時頃には入園できるようにして出かけました。

4時半には、夜間の客との入れ替えがあるらしく、その頃になると車は渋滞があるようですから、少し前に着くようにするのがお奨めです。

ここは、四季折々の花が綺麗ですが、春に咲く藤の花が特に有名です。

 

 今年ももうクリスマスの飾りがされている時季だから、ぜひ行ってみたい。

 明るいうちに、アメジストセージやスミレ、バラなどの花を楽しみ、暗くなってからはクリスマスイルミネーションを楽しむというのが宜しいかと思います。

 
 美しいものは、足を使ってみるのが良い。生け花も美しいが、自然のままは尚よい。