2013年1月31日木曜日

体罰


体罰についての問題が次々に問題化されています。

アメとムチ。教育というものは、ある種の強制でありますが、どこまでが許容範囲で、どのように行うのが理想的なのかは、確立されていない。

体罰がいいか悪いかということだけを捉えれば、ない方がいいに決まっている。

 

ただ、議論の仕方を聞いていると、これでこの先無くなるとは思えない。

 

最も無責任だと思える意見は「言えばわかるのだから・・・」というものだと思えてならない。

スポーツに限らず、「言えばわかる」というのであれば、世の中に犯罪は起こらない、ということになる。泥棒も交通違反も暴行事件も皆無になる筈。

でも、それらには強烈な罰則が科せられても尚、無くなりはしない。

 

「解る」と、「できる」「しない」は、別のものなのだと思う。

 

ルールを互いが守るということは、全体のバランスが取れたルール作りと、如何にしてそれを順守するシステムを構築し徹底していくかということであろうから、簡単には行くまいが、人類の知恵を絞らねばならないことであることは確かです。

 

問題が起こったとき、その一部分だけを取り上げて、耳触りのいい事だけを言い合うのではなく、全体像を検討しなくてはならないのだと思うが、人類誕生以来の歴史を積み重ねてなお、未だに解決できていない大命題なのです。

2013年1月28日月曜日

願い事を叶えるには


願いごとと言うのは、自分の事についてします。
どんなに大事な人のことであっても、他人の人生を左右するかも知れないような願いは避けた方が良いようです。


例えば、他人の病気が治りますように、というような願いは、余計なお世話となることもあるといわれるからです。

そんなことはない、と言うかもしれませんが、病気の状態が好きな人がいるというのです。

本人が気づいて、そこから抜け出す覚悟をしない限り、いかんともなしがたいというのです。


自分の願いを叶えるためには、自分の本質である潜在意識に、届かせ覚え込ませなくてはならないのだといわれますが、これがなかなか難しい。
絶対かなうと信じて、力まないで楽しく過ごし、願い事が既に叶っている状態を、できるかぎり鮮明にイメージしすることを繰り返すと良いそうです。

自分のことなんだから、決して諦めない。

脳波がアルファ波になっている状態で潜在意識に情報を繰り返しインプットすると、潜在意識は顕在意識と区別がつかなくなり、情報を本当の事だと誤解して本当に実現していくようになってしまう、というのが潜在意識の力だといわれています。

潜在意識は、自分と他人の区別がつかないともいいますから、他人や動植物などに親切にしたり、物を大切に扱うなどして陰徳を積むと結果は早く表れやすいと言います。
良い波動をつくりだすと、良い結果が自ずから現れる。

この世はすべて波動の世界らしいですから・・・

2013年1月27日日曜日

風樹の嘆


 招待されて雪の降り積もった岩手の温泉に浸かり、帰宅した連休最終日の夕刻、母が誕生日を待って一つ年をふやし98歳で旅立ったとの電話をもらったのが一昨年のこと。

 

 長く世話になった嫂に「お母さん(お母さんとは、兄嫁のことをいつからかそう呼ぶようになっていた。)、そろそろお迎えがきそうだから、一緒に行きましょうよ。」

と言うのに対して

「一緒に行くのははまだ、堪忍してね。」と言っていると笑っていたのがその半年くらい前の話であった。

孫達がお母さんと呼んでいたのが、いつのころからか母までが嫂をお母さんだと思い込んでそう呼んでいた。

 

 樹欲静而風不止    樹静かならんと欲すれども風やまず

 子欲養而親不待    子養わんと欲すれども親待たず

 

韓詩外伝にある、孝行をしたい時分に親はなし。というお話しだが、省みて親孝行らしいことはしないままであったが、まだもう2~3年は生きると思ってました。

2013年1月26日土曜日

役割分担が、幼い家族にもありました


私が育ったころは戦後まもなくで、どこの家も子供が多く、さして裕福ではないのが普通でした。

家族がお互いを思いやり、助け合って仲良く暮らしているのが、周りにも暖かく伝わってくるような時代でした。

 

小さな子供でも、家でできる仕事を分担して、それをすることに疑問も違和感も不満もなく、喜んで手伝っていたものです。

 

庭先を掃く・風呂の水汲みをする・ヤギやウサギの餌になる草を土手で刈り取ってくる・夜になったら雨戸を閉めるなどなど、できることは言われなくても進んでやりました。

そんなところから、思いやりの気持ちや絆が深まったのだと思います。

 

そんなの自分の仕事じゃないと、自分の都合ばかりを主張し、自分はまわりから何をやってもらっても当たり前だとしていたら、感謝するという言葉すらなくなってしまいそうです。

指示されたこと、マニュアルがあるものしか出来ないとしたら、言われたことの半分も完遂できないのだと思います。

2013年1月25日金曜日

肝臓を鍛える


ものは言いようです。

 

酒を飲んじゃあいけないと言われると

酒ではなくて般若湯だとか、ビールだだとか、麦のジュースだ等という人は、よくいる。

しかし、極めつけの強者がいました。「肝臓を、甘やかしちゃあいかん。」

 

同期会の新年会があって、湯河原に一泊でいってきました。

70歳を超えても、よく飲みよく食べる。
こうして健康で顔を合わせることができることに、みんなで感謝しました。

本物を見るように心がける


本物を見ることで、本物が解る目が養われる。

今は見かけなくなってしまったが、昔は質屋というのがありました。

質屋さんが子供を後継者として育てるためには、常に本物に触れさせるようにしていた。

骨董屋さん然り、料理人然りで、まがい物しか知らなくては見極める感性は育たない。

 

グッチが、子供たちに本物で良質な皮革を玩具のようにして遊ばせているのは有名です。

 

数学が嫌いだった子を、一流の数学者について習わせるようにしたところ、たちまち数学が好きになったという話も聞きました。

音楽も絵画も、本物に触れる機会を持った子が、大きく育つのだというのも、身近で目にしています。

2013年1月24日木曜日

最大のパワーストーン


持っていると幸運を招いたり、健康になったり、願いが叶うといわれるパワーストーンと呼ばれる貴石は、数多くの種類があります。

ただ、効果あらしめる扱い方には、どのパワーストーンにもいろんな秘法があるらしく、簡単にはいかないようです。

 

でも、最大のパワーストーンだと思われるのは、墓石かもしれません。

ご先祖さまのものだから、自ずから気心は通じて、わかりやすそうです。

自分で心を込めて磨くのが一番良いのだということであるが、洗剤やタワシで擦っただけではこびり付いてしまった汚れは落ちないから、綺麗にできない。

「絶対お徳 自分でもできる墓石クリーニング」というページがあります。

リンクURLを書くことは控えますが、気になる方は検索すればすぐに見つかります。

 

そんなこと言ったって、ということって、世の中には沢山あります。

雲にそびゆる高千穂の


 雲に聳ゆる高千穂の たかねおろしに くさもきも

(古い歌だから、今は年寄りしか知らないが・・・)

 

 祝詞で奏上される、「つくし ひむかの たちばなの」の辺りから出発する神社めぐりの話題がもちあがった。

 高千穂神社は九州宮崎、遠い。

 

 伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ・・・って言いますが、伊勢神宮のそばに猿田彦神社というのがあります。

神話に出てくる天照大神の岩戸隠れのとき、初代ストリップ踊り(アマテラスさまは、ストリップを見たかったのではなく、なにを賑やかに騒いでいるのかと思った。)で名を馳せたアメノウズメノミコトと結婚されたカミサマである猿田彦の尊は、知る人ぞ知る道先案内のカミサマでもありますが、一説に佐多岬を治めていた神様とも言われます。

                          

 そのむかし、猿田彦神社に詣でたおり、昇殿参拝するまで控え室で待機していたとき、

 ふるさとの なまりなつかし ていしゃばの・・・状態みたいに、なつかしい言葉を喋る一団がいました。
尋ねてみると、私の出身地である信州の飯田から来られた方達でありました。

2013年1月23日水曜日

さんえん(3円・三遠)


 割れた眼鏡は見えんから3円だという古道具屋の話しでもありませんし、三河遠江の三遠という地理歴史の話しでもありません。

 

 馬に因んだお話しです。

 日光東照宮の神馬をつなぐ神厩舎の長押(なげし)は、皆様ご存じのミザル・イワザル・キカザルの三猿が彫られてあることで有名でございます。

 で、なんで猿なのかっていうと、馬の守り神は猿ということになっているからなんだそうです。

 

 来年午年の皆様、申年の人を大切にするときっとよいことがありますよ。

 

 ところで、日本では三エンということになっていますが、他国では四エンとなっているようです。水で薄めた酒で酔えんから4円なんてことではござりませぬ。

 

 論語に曰く、非礼勿視 勿聴 勿言 勿動(礼にあらざるものをみるなかれ きくなかれ いうなかれ おこなうなかれ)なんてのがあるから、それが影響しているのか結構多くの国に猿の彫り物や置物があるらしい。

 さるものは ひびにうとし・・・なんですと?意味が違うって?

2013年1月21日月曜日

外人と話すと・・・アイジンノモトって何?


こちらが日本人だとわかると、実に嬉しそうに近寄ってきて、日本語を知っているという。

コニチワ(こんにちは、ではない。)

サヨナラ

ニーハオ・・・それは、違うってば。

 

そんなくらいでも、会話を持とうとすることを見習わなければと、日本語しか知らないこちらは思うのです。

好きだという「アイジンノモト」というのが何か解るまでには、時間を要しました。

まさか愛人の元のわけはないし・・・

味の素のことだと解って大笑いしました。

 

こちらだって、解らない発音があります。

バクシーンて言うからback scene のことかと思ったら、Vaccine(ワクチン)

のことでした。

昔、ハワイでレンタカーを借りようとしたとき、書類を出してきてイニショーと言われた時も、何だか解らなくて困りました。

指さした欄がサイン欄だったので、イニシアルを記入しろということだったのですが・・・

 

遅まきながら、少しは話せるようになりたいと思っているところです。

中・高・大とやってきたことは、殆ど身についていません。

鳥のお礼は


庭木の枝に餌台を設えて、毎日餌をのせています。

雀・ホオジロ・メジロ・などが次々に順番をつくってやってくるのですが、そこにヒヨドリが来ると、体の小さい鳥たちは逃げ去ってしまいます。

 

鳥に文句を言ってもはじまりませんが、餌台に糞をして帰ります。餌をもらってのお礼がソレか、第一自分たちだって不潔じゃないか、とずっと思っていました。

でも、ちょっと気が付いてそう思うようにしたら、腹は立たなくなりました。

こんなに沢山の餌をならせてくれてありがとう。また次も沢山の実を成らせてください、という肥料としての糞を落として行くのだと・・・

 

まだ雪が沢山残っているから、鳥たちも餌を得るのは大変です。

2013年1月20日日曜日

憚るということ


 新年会に行っても、未だ復興が進まない東日本大震災の被害者のことを思うと、手放しでおめでとうはいい合えない。

 昨晩、会合があって集まった社長たちは、それぞれの会社やその社員及び関係者、大事なお得意様の被害状況の把握と対応に、自分のことをさておいてやらなくてはならないことがまだ沢山あるからです。 

 それでも中の一人がポツリと言いました。

仙台に嫁いだ姪に、あのとき数日過ぎてようやく連絡がとれた。電話が通じている所まで一山歩いて越えて心配ないと連絡してきたが、様子を聞いてみれば心配ないどころの状況ではなかったのだと。

 

限られた場所と本人に直接であれば、「本当によかった。」と心から言えますが、大勢の前でそれを言うのは、関係者が助からなかった人もいるから憚られる。

 

TVの取材報道を見ていて思うのだが、疲れきった被災者にマイクを向けて「今のお気持ちは?」だとか「今、何が欲しいですか?」などと無遠慮にほざいている人が中にはいるが、憚るということが意識のなかにないのだろうか?

頑張っている人に「頑張って下さい。」と、かける言葉が励ましになるとでも思っているのだろうか?

スタジオでこうだああだと文句ばかり言っているコメンテーターが中にはいるが、励まし元気づけることが使命感に突き動かされて働いている人たちにとってどんなに力になるか、ということに思いが至らないのだろうか?

憚るということは、相手に何をしてあげるのが一番よいのかということにも繋がる。
腹立たしいことが多いから、ニュースはもっぱら文字情報に切り替えたという友人もいる。

2013年1月19日土曜日

語彙力は大事です


 美しい日本語は、言を待つまでもなく大切であるということに否やはありません。

 言葉を磨くということも、大切なことです。

思考は、言葉を通じてなされますし、思考は潜在意識に刻まれて実体化するといわれているからです。

 そうだとすると、望みを叶える前には、もう少し語彙力をつけることも必要なのではないでしょうか。

 

最近の若い人の話を聞いていると、すげ~、おいし~い、かわい~い、~なんだし~・・・ なんて変に引っ張った言葉や、きもい、うざい なんていう創作形容詞の飛び交いが殆どで、ほかの単語が聞こえてこないことが多いようです。。

若い人たちの感性は優れているのだから、表現力を磨かないと勿体無いと思うのです。もっと国語を勉強しましょうネ。

 

なかには、モロ哲学っぽい議論をしているむきもあって、聞いていて感心することもありますが、言葉遊びに留まってしまっては、これもまた勿体無いことえす。

 

誰も見ていなくても、身につけたことが実社会で世の為になるというのは素晴らしいことなんだと思うのです。

言葉を取り戻すのは今のうちなんじゃないでしょうか。

乱れが続けばそれが定着してしまいます。言葉は一種の波動ですから、玄妙なところで精神や肉体に影響を及ぼすかも知れません。

心豊かに


妻がマドレーヌとビクトリアケーキを焼きました。

 

こんな時は、いい器でとっておきの紅茶を飲むということになります。

身の回りで使うものは、可能な限り本物を使う方が良い。今日は、ヘレンドを使うことにしました。

職人が心を込めて作った物には、エネルギーがこもっています。

そういうエネルギーは、周りまで浄化して、幸せな雰囲気で辺りを満たします。

 

普段は間に合わせのものでも仕方ないと思いますが、時には本物に触れることが大事です。良いものは、圧倒的な説得力があって、心を豊かにします。

 
外はまだ消え残った雪が沢山あって、吹き抜ける風も寒いけれど、美味しいものを食べると元気が出ます。

2013年1月18日金曜日

戒名はなぜつける?


そんなものはいらないと言う人が増えてきているようですが。

 

坊さんに言わせると、人は死ぬと三途の川を渡り、閻魔大王の前に引き据えられる。

そこで生前の善悪を問われることになるのだが、俗名のままであると洗い浚い今までの行いが照魔鏡に映し出されてしまうので、間違いなく地獄行きということになる。

 

ところが、戒名での経歴は真っ新で綺麗なままだから、極楽行きということになるのだと言うのです。

 

実際がどうなのかということを経験した人はいませんし、証拠を示して証明されるわけではありませんので、疑えば疑うことができることになります。

 

しかしながら、科学的に根拠がないことをすべて否定できるかというと、そうもいきません。

 

今までに経験したことにより鮮明にイメージされてしまったことは、実体化する可能性だってあり得るからです。

 

占いもそうですが、最初に人の不安を煽って、自分の言うがままに繰ろうとするのが透けて見えるような人の言うことは信じられなくても、信頼に足る人もいます。

 

要は、善根や徳ををキチンと積めば、よいということなのでしょうが・・・

愛とは何なのだろうか


言葉が持つ音というのがあるが、同じ音でも意味が違うようでいて通じていることもあるように思えます。

そんな言葉の持つ音のエネルギーを感じてか、スルメは擦るのが嫌だからアタリメと言ったり、

梨は無しに通ずるからということでアリノミなどと言い換えたりもします。

 

そうしてみると、愛とは何なのだろうか?

日本における愛とは、昔はカナシと読んでいました。

今の愛に近い概念は、「慈悲」。慈悲は愛よりも広く深い意味のようですが・・・

青は藍より出でて藍より青し。愛より出でるものは何なのだろうか?

 

吾意、自分の思い。Iは、自分。我意と音感も意味も近い。

阿意、阿呆な思い。

哀、悲しみ。

 

天の意は、天意(てんい)と読むけれど、天を「あ」と読めば、天の意思も「あい」なのかも知れません。

言葉の持つエネルギーは多分物質化するから、意識して使わなくてはならない。
初めに言葉ありき・・・キリスト教徒ではありませんが、言葉が世界を作っているように思うことがあります。

せつぶんそう


山野にひっそり咲く節分草をみつけました。

生憎カメラをもっていなかったので、心のカメラに収めました。

この写真は、園芸種。近所の花屋さんで買ってきました。それなりにいいけど、自然のものはさらに心に浸みてくるものがあるように思います。

 

 がらっと話しは代わりますし、ジャンルも全く違うのですが、

エディタ・グルベローバ アストラッド・ジルベルト カレン・カーペンターの歌い方がすきです。野に咲いていた自然の花を見てなぜか思い浮かびました。

2013年1月17日木曜日

「いただきます」という言葉


 人は、植物のものであれ動物のものであれ、他の生き物の命を食さない限り自分の生をつなぐことができない。

「いただきます」というのは、あなたの命を私の命として頂きますという感謝の挨拶の言葉なのだという。

なんの疑問も持たず、ご飯のときには手を合わせ「いただきます」と言ってたべ、食べ終わると「ごちそうさまでした」と自然にやっていましたが、そういう意味があるのだと知ると、食べ物は大切にしなければならないと思う。

 

学校の給食の時間に、先生が生徒たちに「いただきます」と言うようにしどうしたところ、「そういう宗教儀式はしないようにしてくれ」と文句を言ってくる親が、最近はいるのだとか。

感謝の気持ちをあらわすのは、宗教とは違うことだと思うのだけれど・・・

 

 我々が育った昔には、食べ物を粗末にすると罰が当たるとか、お米はお百姓さんが88度の手間をかけて育てたものなのだから、こぼしたり食べ残してはいけませんと言われたものでした。

 日本がナマゴミとして捨てている食べ残しの食糧が、食糧難で餓死している国の数千万人の命を救えるのだと聞くと、勿体ないなと思えてならない。

2013年1月16日水曜日

「それ、聞いた」という言葉を安易に使っていると


何かを話しかけられたとき、「それ前に聞いた」とか「それ知っている」と言下に遮って、後を聞かない人というのがいる。

 

確かに同じことを何度も聞かされるのや、知っていることを教えてもらっても、煩わしいことであることは事実であろう。

 でも、これをいつも言っている人のところには、段々に情報が入って来ないようになる。

「もう話したことがあるかも知れない」「どうせこんなことは知っているだろうから」と、周りの人は思うようになるからです。

 そうしているうちに、大事なことも知らされなくなってしまう。

 そうなったときに言うのが「それ聞いてない。」とか「なんで報告しないんだ。」という言葉。

 そんなことはないのです。自分が聞こうとしなかったのです。

何度聞いても、少しずつその話に関連する情報はつけくわわりもあって詳しくなるのだから、疎かにしないということが大切です。

 

 もうひとつ大事なことがある。

年寄りが何度も同じ話をしてくるのを「それは前に聞いた。」「何度も聞いた。」というように対応していると、段々話しかけてくることが減って行き、話をすることがなくなって黙り込んでしまうようになる。

それがボケにも繋がってしまうという。   

面倒くさがらず聞いてあげるのも大事なことのようです。

2013年1月15日火曜日

「かも~」って、自分はどこにあるの?


外で食事をしていると、聞こえてくる言葉があります。

 

「これ、美味しいかも~」実に不思議な表現だと思うのです。

誰かが食べているのを見てとか、料理の写真を見てとかではなく、自分がいま現実に食べているものについて言っているのです。

 

食べ物が美味しいかどうかは、食べた本人の好みなのですから、美味しいか不味いかは、本人が決めること。

なんで「かも~」っていう曖昧な言い方をするんでしょうね?

 

断定的な言い方を避ける方が良い場合もありますが、なんでもかんでも他人の目や口を気にしなくてはならないほど、自分に自信がないのか?って思ってしまうのです。

 

こういう曖昧な言い方をする人たちが謙虚なのかというとそうでもなくて、実に頑固で自分の主張以外受け入れないことは枚挙に暇がないほど経験しています。

頑固さと曖昧、どうにも解りにくいが、根拠になる基盤に自信が持てていないことが共通しているように見えます。

平安の貴族に倣って蘇(そ)を食べました


春日大社は、春日山原始林を背景に奈良公園内にある神社で、世界遺産「古都奈良の 文化財」。

 

奈良時代に平城京の守護と国民の繁栄を祈願する為に創建され藤原 氏の氏神を祀る。

主祭神であるタケミカヅチノミコトが鹿に乗って来たと言い伝わるから、鹿が大事にされています。

参拝の後は、奈良のホテルに泊まったのですが、翌朝に出た茶がゆに添えて蘇(そ)が、膳に乗っていました。

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 「蘇」は、牛乳をゆっくりと煮詰めたチーズの仲間で、中央アジアからはるかシルクロードを通って、飛鳥の都に伝わったものなのだという。。
当時は高貴な人だけが口にすることができたという超高級食料で、貴婦人の美容と不老長寿に効果があるとされていたのだそうです。

蘇と醍醐は、違うものなのだろうか?

 

醍醐味とは、もとは牛乳を精製してバターを作るときの最終段階の味だという。

要するにバターの味を意味する仏教用語で、そこから、最高級の味、さらには芸術作品や趣味やスポーツを行うさいの最高のおもしろさ、楽しさを言い表す言葉として一般的使われる。

我が国では、家畜を主とした4足動物などの肉食が禁じられ、牛乳さえも飲まれないようになったので、もとの意味は忘れられ、もっぱら後者の意味で用いられるようになっている。

ヨナグモリなら趣もあるが


 *晦と書くのだそうです。*(ヨナ)の字は雨冠に狸に似た字を書いてありましたが、指定漢字内になくて非表示となってしまいます。

 

 こんな字は初めて知りました。黄砂で煙ってる様子を表す言葉です。

今年はもう、花粉と黄砂を避けるため、厳重にマスクで身を固めた人が多くなった。

 ヨナの字は音で読むと"バイ"なんだって。

はなぐもり もうこからくる つちぐもり・・・くもりにもいろいろあります。

 

北京では、霧だと言い張っていたのが、どうもそうではないらしい。外出もままならない状態というほどひどいらしい。

2013年1月14日月曜日

神社で正式参拝をすると


初詣に行くとき、できる限り神様の近くでお参りしたいと考えるのは、普通のことです。ご利益のあるなしにかかわらず、そうしたくなります。

 

そこで、昇殿して神職に祝詞(のりと)を神前に奏上して頂くわけですが、この「ノリト」というのは、普通に読めば祝辞(しゅくじ)です。

 

言祝がれているノリトを聞いていると、良いことばかりを連ねて、鍛えられた声で奏上しています。

神様は、目出度くて良い言葉がお好きなようです。厭な言葉は、神様だってお嫌いなのだと思うのです。

 

普段の生活の中で、他人から好かれ望みどおりの協力や援助を受けている人たちが口にしていることは、快く感じられる言葉であり、決して人の悪口を言っていないことに気づくのです。
神主さんがあげるノリトは、解りにくい言葉だからとあなた任せにしないで、耳を澄ませてよく聞いていると、いろんなことが伝わってきます。

挨拶もしあわなくなった先には


挨拶を辞書で引くと、

挨拶の「挨」は押す、「拶」は迫る意で、本来、禅家で門下の僧に押し問答して、その悟りの深浅を試すこと。と出ています。

「あい」には、心を開く、「さつ」には、その心に近づくという意味もあるのだとか。

 

「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」

こんな基本的で簡単な挨拶をすることは、人間関係では当たり前のことだと思うのですが、それがそうでもないらしいのです。

 

会社や近所や知り合いなど、基盤を同じにしているところはまだしも、面識があっても生活に関わりがないとなると、すれ違っても知らん顔で通り過ぎるということが珍しくもなくなりました。

「知らない人から声をかけられても、相手をしては駄目よ。」と言って育てられた、安心できない社会が現実としてあるから仕方ないのかもしれませんが、他人から信用される第一歩は、挨拶ができるかどうかだという現実も一方にあることを思うと、人としての広がりを安全に保てる社会をどうしたら良いものかと考えてしまうのです。

 

私の住むマンションでは、エントランスや駐車場で顔を合わせても、殆どの人たちは挨拶を交わしません。私の方から挨拶しても、何人かを除いて、不思議そうな顔をしてソッポを向く人さえいます。

殺伐とした世の中は、こんなところから始まるのかも知れません。

ニベという接着剤があった頃


 カンチガイといってしまっては「にべもない」というような使い方がされるニベ。

 

 ところで、ニベもないというのは愛想もないとか世辞もないとかの意味に使われますが、ニベとはそもそもは鯉やウナギの浮き袋から作るニベ膠(にかわ)のことで、粘着力の強い接着剤であります。

 

 東日本大震災の頃から、地域や家族親族・友人知人などが寄り添って、お互いを思いやり、協力して助け合う感動的な姿を、枚挙にいとまなく目にするようになりました。

 

 戦後、個人主義や物質文明にに馴らされ、自分以外とのかかわりを避けて当たり前の風潮に流されてしまったのかと思っていたら、子供も若い人も大人も年よりも、実はたとえ初めて会った人に対してでも、気遣いができる人たちであったのだと思い知らされます。

 こんなにいい人たちが集まった国だった!のだと・・・

 ニベより強いのが人の心。血は水よりも濃いなどということを遥かに超える。

 

 子供のころは、工作のとき瞬間接着剤なんてのがなかったので、強く貼りつけたいときには押し糊やニカワを使ったものでした。

 そして、それよりも強いつながりが、良いワルイは別にして世間に色濃くあったことを思い出します。