2013年6月30日日曜日

運を強くするために


今は、運の強い人が勝ち残れる時代です。
それなりに努力しているのに、今ひとつうまくいかないなら、やるべきことがいくつかあります。

こんなところから運が開けるキッカケとなる可能性があります。
まず自分ができることは、小さなことでも残さず全部やってみることです。
気づきというのは、誰にも等しくやってきます。
それは、やればできることばかりの筈です。
気づいたことをやることが、魂の磨きということです。
この世に生まれてきた大きな目的は、魂を磨くということであり
それが幸せに繋がることになります。
小さなことでも素直にやっていると、大きなことも自然にできるようになるのです。

心残りというのがないでしょうか?
ああしてあげればよかった、こうしてあげればよかった。
思っているだけでは、どんなことでも伝わりません。
言葉にしたり、形にしたり、行動にしたりしないと伝わらないのは、、
どんな場面であっても同じです。

墓の汚れが不運の根源となっていないでしょうか?
綺麗になると気持ちがいい。ご先祖様だって、きっと気持ちがいい。
ですから、気持ちが良くなることが先ず大切だと、信じて疑いません。

修行の行き届いたご先祖さまがいて、子孫の手助けをしたいと願っているのに
それに気づく方法を、多くの人が知らずにいるのは勿体無いことです。
曇っていては通じないのです。

そうか、墓石をきれいにすればいいんだということで、いつもより少し丁寧にやってみるという人がいますが、
それだけでは結果は大して変わりません。
何事においてもそうですが、望む結果を得る為には最後のもう一歩、詰めのところに潜んでいる
芯のところにに到達することが肝要なのです。
スムーズに事が運ぶ方法を選ぶのが智恵というものです。

気づいた人だけが次のステージに進むことができ、
そこでの気づきが必ず又あって、
更に次のステージに進むことができるものなのです。

ツイテイル人の家の墓石は、なぜか綺麗だとお気づきになりませんか?
あとは、次の一歩を踏み出せるかどうかです。
何もしなければ何も変わらないというのが真理です。
成功した人は誰も共通して先祖を大事にしています。
なかなかそれに気づけないでいるのが普通なのですが・・・

2013年6月29日土曜日

光と影はセットなのに


光と影はセットのもの。

そもそもが万物は、陰と陽、プラスとマイナスがセットで成り立っています。そんなことは頭では解っているのに、いろんな事象に出会うと、悩み事が起こります。

 

 ついていない、うまくいかない、悲しい、つらい・・・

 どうしてあの人は美しいのに私は醜いのだろう、どうしてあの人はお金持ちなのに私は貧しいのだろう・・・きりがなくそれらは自らを苛むのです。

 

 これらは、他人と比べるからそう思うのかもしれません。自分にだっていいところは一杯あるし楽しいこと嬉しいことも沢山あるのにです。

 そんな風に思い返して、自らを励ましてみても、なかなか納得できないものです。

 

 こんなとき、こんな厭なことがあったのだから、これに匹敵するいいことが必ず有る筈だと信じて、一時的でもよいから、今トラワレている思いを解放してみるのが良いようです。

 

 トラワレから抜け出てみると軽やかです。

 うまく行っているときの状態というのは、トラワレというものがないことに気づきます。

2013年6月28日金曜日

散歩コースの公園に咲いていた月見草と薊


はるかに海の見える丘 月の雫を吸うて咲く・・・と歌われる月見草が、近所の公園に咲きました。

 


ツキミソウと呼んでいる花は、通常黄色の花を咲かせるものですが、マツヨイグサ(待宵草)のことで、夕方に一日花を咲かせるアカバナ科マツヨイグサ属に分類されています。原産地は、アメリカなのだそうです。

本当のツキミソウは、シロバナヨルザキツキミソウというメキシコ原産の白い花を咲かせます。

 

朝の散歩中に、同じ公園の草むらに咲いていたアザミです。

 


アザミというキク科の植物は、とにかく種類が多くて、北半球に約300種類が分布しているのだとか。

毎年花を咲かせるものと、花が咲いた後に枯れるものがあります。

日本では約50種類が自生しているといいます。

 

チロルの山に登ったときに、登山道わきに咲いていたのも美しかった。
 


 

2013年6月27日木曜日

当たり前だと思っていると間違う


自分が考えて当たり前だと思っていることというのは、本当にそうなのかどうか考えてみる必要がありそうです。

 

 自分が自分でやることに当たり前ということはあっても、人様がやってくれることややってもらうことに「当たり前」ということはない。

 他人が自分に何かをしてくれるということは、よっぽどのこと。それこそ、やってくれなくて当たり前なのです。

 他人がやってくれないことに文句を言ったり、不満に思ったりするのは、筋違いなのだと思うのです。

 

 人様がやってくれることは、どんなに小さなことであっても、ただただ「ありがたい」と思えるようになると、大きな「ツキ」という形のものに繋がってくるようです。

 何をしてやっても、感謝もしなければ気付きもしないというのでは、神様だってソッポを向いてしまうに決まっています。

 

 最初にやってくる微かなヒントとも言える神様からの啓示に素直にしたがって行動するようになると、「ありがたい」と思えることが続くようになります。

 

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幸せになりたいと何時も言っていながら、自分では何もしないのでは、今の状況が変わるわけがありません。それなのに、やらないで不満ばかり抱えているのはつまらない。

やると良いと頭ではわかっても、やらない理由を見つける名人でいては、何も変わらないし、よい展開もならない。

 

でも、なにをやればいいのかが分からないから、何もしないでいるのが普通のことです。

 

しかし、できることは有ります。何でもそうですが、やってみると今まで見えなかったものが見え、解らなかったことが解ってくるものです。早くやれば良かったと、やった人は言います。

 先ずは、お掃除。墓石クリーニングまでやればなお良いようです。

2013年6月26日水曜日

思い込み・思い癖にとらわれ過ぎると


成功を願いながら現段階でまだ成功していない人は、気づかなければならないことがありそうです。
それは、頑張っているのにそれがうまくいっていないとしたら、それは「うまくいかない方法なのではないか?」と思ってみるということです。

即ち、自分の思い癖というのは誰にもありますが、それに拘りすぎて抜け出せない状況を作り出していないだろうか?と自らのやりかたを振り返ってみるということであります。

 

自分を信じないでは何事もできないのは真実であるにしても、うまくいっていないのだとしたら、ちょっと省みることも必要です。

自分を否定しなければならないことが出てくるかもしれないし、自省するというのは難しいことではありますが、小さなことに捉われているからだということもあり得るのです。


もしも、「成功しない考え方」を基に物を判断しているのかも知れないのだと気づいたとしたら、「成功している人の考え方」というのを学ぶ良い機会になると思うのです。

 

信念は大事ですが、拘るほどの価値があるのかどうか冷静になって考えて、リセットするのに憚ることはないのだと思います。

やり方を選ぶのは、誰でもなくて自分です。
目的は、成功するということなのですから・・・

2013年6月25日火曜日

何をもって成功とするか


『成功する人』と『成功しない人』の差は、「考え方」にあるのだと思います。人は生まれ持った才能に、さほどの大きな開きはないと思います。
しかし、成功という結果が出る人と、それが出ない人の差は、厳然として分かれて現れます。
それは、一体何故なのでしょうか?

成功する人は『成功する考え方』を持っていますし、成功しない人は『成功しない考え方』を持つからだと思うのです。

根本的な違いは、これだけなのだと感じます。

 

ただ、何をもって成功と考えるかによっての違いはあります。

 

私の場合でいえば、会社を立ち上げ3社の社長をしました。ある意味での成功といえるのかも知れません。

目的は自分の財を築くことではなかったので、経済的に今が裕福かといえば少し違いますが、中高年の人の働く場所を作るということでは成功したのだと思っています。

今は、後継者に全て託したので、現業について一切口出しはしないようにして慎ましく暮らしている毎日です。

 

何十年も会社をやってくる間にはいろいろありました。

自分もいろんな困難を乗り越えてきましたが、誰もが感じるその時々の悩みというのを理解できますので、そんな苦しみから抜け出るヒントなどを話したり書いたりして、今までの経験が誰かの役に立ってくれたらいいなと思っています。

「乗り越えられないような困難を、神様はお与えにならない。」
ここでいう神様というのは、なにか目に見えない偉大な存在という意味です。

2013年6月24日月曜日

成功の大本となるもの


成功法則と言われるものは沢山あるけれど、成功法則の元になることというのは、なんなのだろう?
考えてみるに、『人に好かれること』というのが芯になっていることは疑いない。

となると、人に好かれるためには、どうあらねばならないか、ということになります。

周りを見渡すと、素直である人、誠実である人、一所懸命である人、自分に近づいてくる人、というのが好かれていることに気づきます。
その他、色々な好かれるタイプはあると思いますが、基本的に「人に好かれている」ことが、「成功」ということに結びついているように思います。

自分だけではできないことも、好かれていれば望外の助力・協力・援助が得られるからです。運の神様だって、きっと同じです。

世の中は、理屈だけで成り立っているわけではなく、どちらかといえば人の感情で成り立っていることが多いから、好きか嫌いかというのが決めてだから、「あんないい加減な人が。」というのが好かれていることが多い。

そういう人は、理屈抜きで人を気持ちよくさせる何かがあるのです。

「人は、感情が納得しなければ動かない。」

人は、感情で動くということを理解すれば、「味方になってくれなくても敵を作るということは避ける」。

そのような言動が大事だということになりそうです。

2013年6月23日日曜日

ヘビイチゴで虫刺されの薬を作りました


ヘビイチゴ(蛇苺、)は、バラ科キジムシロ属の多年草ですが、実が食用にならずヘビが食べるイチゴ

で、毒があると聞かされていましたが、別段毒があるということではない。

名前が名前だから、食べるのには勇気がいるということだけでなく、食べても美味しいわけではありません。

ヘビがいそうな所に生育するからとか、イチゴを食べに来る小動物をヘビが狙うことからとかいうことでついた名前だといいます。

春に黄色い小さな花をつけ、やがて赤い実を一杯つけているのを目にしたことのある人は多いと思います。普通のイチゴのようにランナーを伸ばし、群生しているのが普通です。

その場所を覚えていれば、毎年そこに生えてくるので、強い草であることは確かです。
 


 

食べはしなくても、ヘビイチゴには有益な使い方があります。虫刺されの特効薬になります。

 

 山なんぞで虫に刺されたとき、へびいちごを焼酎に浸した液をつけると効くと聞いたので、山道で摘んだものを強い度数の焼酎で小さな壜に漬け込みました。

 

 このところの暑さで大汗をかいたせいか、どうやら汗疹ができたらしく痒くてしかたがなかった。

そこで、虫さされの痒みに効くんだったらこれにも効くだろうと思い、綿棒の先にチョイとつけたのをひと塗りしてみました。

 するとどうでありましょう。できてすぐに治療したせいなんだか、本当に効能があるんだか、一発で治ってしまいました。

 

 こんなことなら、もっと沢山摘んで、沢山作っておけばよかったと思うけれど、先には立たないのが後悔というもの。来年は沢山つくることにします。

 なんですと?鬼が笑うって?

人は、なかなか新たな行動ができない


今までと違ったことを始めれば、批判されるかもしれない。
人から笑われるかもしれないし、親に失望されるかもしれないし、今までに培った自分の全ての信用をを失うことになるかもしれませんから、躊躇うことはあって不思議ありません。。

しかしながら、成功するには他人を動かす前にまず、自分が動かなければならないことが大前提なのに、行動する勇気がでません。

大した手間や費用を要しない簡単なことであってもそうです。

何かを始めるときというのは、簡単にできることから先ず始めるというのが鉄則ですが、それすら手をつけようとしません。

成功を目指し何かを始め、それを長く続けても結果が出なかった人なんていうのは聞いたことありません。もし居たとしたら、それは到達目標が低かったということになります。

目標は思いっきり高望みしたって、自分のことなんですから許されることです。

ただ、やるのを先延ばしにすることで成功しない人なら、周りにいくらでも沢山いますが、そこそこの満足でよしとしているのであれば、いわゆる成功をおさめるのは難しい。

賢い人だと自分で思っているひとは、大抵がやらない理由づけの名人です。

真の失敗は行動しないこと。
ああしておけば良かったこうしておけば良かったと後悔するよりは、やって自分が納得する方が、結果を受け入れやすいということは確かです。

2013年6月22日土曜日

一足早く、季節の銘菓「水無月」を


家内は、ケーキを作るのが好きで、時間があると台所にこもりケーキを焼いています。

洋菓子を作る方が多いのですが、昨日は6月に因んだ和菓子を作りました。京の銘菓と言われている水無月です。

水無月(みなづき)というのは、6月のことを指すと、古文で習いました。

630日は「水無月」を食べる日ということになっているのだそうです。

1年のちょうど折り返しにあたるその日に、この半年の罪や穢れを祓い、残り半年の無病息災を祈願する神事「夏越祓(なごしのはらえ)」というのがありますが、
この「夏越祓」に用いられるのが、6月の和菓子の代表ともいうべき「水無月」です。

水無月は白の外郎生地(ういろうきじ)に甘く煮た小豆(甘納豆)をのせ、三角形に包丁で切り分けられた菓子ですが、それぞれに意味がこめられています。

上部にある小豆は悪魔払いの意味があり、台となる三角の形は、暑気を払う氷を表しているといわれています。

ですから、縁起物の食べ物ということになります。

 

ピアノの練習を終えた倅と、PCで疲れた私への一服に、濃い抹茶を点てたのと一緒に、一足早い水無月が饗されました。

外は、ツユの晴れ間から急に天気が変わって、雨が激しく降っています。

ノコギリソウの花が咲きました


野原や土手に生えていて、雑草扱いされるから、草刈りされて無残な姿でいた刈り残しを一株、鉢に植えていました。

1年目は花を持たなかったのですが、2年目の今年、花を咲かせました。

 


さほど綺麗な花とはいえませんが、草が元気に育っているときの緑が、見ていて楽しい。

ノコギリソウは、葉が鋸(のこぎり)のような形状をしていることから命名された。古くから自生している花であるが、明治時代ヨーロッパから園芸種として渡来した西洋ノコギリソウも野生化していて、むしろこちらの方が見る機会は多いようです。
日本に自生するノコギリソウの葉は切れ込みが浅く、厚くて固いのに対し、西洋ノコギリソウの葉は2-3回羽状複葉に細裂し、軟らかいので区別が付けられるけれど、日本のノコギリソウの葉のほうが、ノコギリのイメージに近い。
日本のノコギリソウは、白一色で、西洋ノコギリソウには白・赤・黄色と色とりどりの花を咲かせます。

2013年6月21日金曜日

アザミのように見えるがタムラソウ


タムラソウは、アザミに似ているるが、トゲがない。見分け方のポイントは、葉の形です。葉の切れ込み方に特徴があります。

アザミ属でなく、タムラソウ属に分類されています。この花の仲間のなかでも最も美しい花のひとつです。

 


アザミは誰でも知っていると思いますが、フジアザミの花は大きい。

 


他にも、似ていても違うものに、タンポポとタンポポモドキ等々があります。

2013年6月20日木曜日

やらない理由づけの名人になっていないか?


人というものは、絶対に行動しないものなです。特に新しいことや知らないことに取り組むということになれば尚更です。
やれば簡単なことであってもです。

それなりに、今やっていることだけでも忙しいということもあるでしょうが、新しいことを始めるとなると面倒なことが多いのです。

ましてや、他人が自分の為に何か行動してくれるなんてことは、滅多にないことはまずないことというのは解りきったことです。

よほど自分にとって有益か、利益があるか、なんらかの恩義を感じているかくらいのときでしょう。

人が成功できない理由はこれです。決断を先送りにしてしまい、結局何もやりません。
やらない理由はいくらでもあります。それぞれ尤もらしい理由です。

何事であれ、始めるためには勇気がいるのです。
人は変化を望まない。特に不満がなければ、現状維持でいることを選びます。

だから、現状以上の成功はできないということになります。

ますます繁盛


 古い語呂合わせに2升5合というのがあります。それは分解すれば升升半升だから、益々繁盛っていうことになるという他愛ないもの。

 ある仲間内のページの書き込みで、タイミングよく500番になったときの話題にあわせて、反セン(半千)と評した人がいたのです。

 いくさは、誰もが嫌いなもののはずなのに、それが絶えないのも不幸な事実です。

 昔、あるひとが言った言葉で、なるほどと思ったことがあります。

 「世の中は、悪い人が居ないとおさまらない。」というのです。本当の悪人ということではなくて、「私が悪うございました。」と譲歩する人がいてこそ、「いやいや、私のほうも言いすぎました。」となって漸く折り合いがつくと言うのです。(日本の美徳かも知れませんが、外国相手に通用するのかどうかは疑問です。Sorryといったが最後、傘にかかって賠償まで求めるというのが恒らしいから。それでも、相手を慮る日本のやりかたのほうが好きです。人らしいです。)

 現状をみるに、百人居たら百通りの正義があって、どこまでも自分の側の主張のみを絶対視すれば、最後の一人まで行くよりない。世界に一人だけ残って、何が楽しいんだろうね。

 神を説き、愛を叫ぶなら、それぞれに内なる神を抱く自分以外の人をないがしろにはできない筈なのに、いつからか損得とか面子とか主義とかが優先されて、人類数万年の知恵は軽くなってしまったようです。

 主張するのあまり"いただきます"という言葉すら、「学校の給食時には相応しくない宗教儀式である。」とクレームがついたというけれど、宗教でもなんでもなくて、人間は生きるためにやむを得ず他の生き物である動植物を口にせざるを得ないことを慎んで、「あなたの命を私の中で生かさせていただきます。」というのが、そもそもの意味なのだと教えられたことがあります。
 そんなことには触れもみで、ってことばかりじゃ寂しいかも・・・。

2013年6月19日水曜日

鎌でご飯を炊くって?


「鎌でご飯を炊く」などとTVでナレーションが流れたのには驚いた。

鎌ではなくて釜でしょうに。

もっとも、最近は釜など見かけないから、鍋との違いなんか判らない人も多くなったのかもしれません。

 

釜は、むかし財産でした。

いろは歌留多に、「月夜に釜を抜かれる」というのがありました。

 

「抜かれる」は、盗まれるという意味。
明るい月夜だから盗まれる心配はないだろうと思っていたら、大事な釜を盗まれてしまうことから、ひどく油断する、不注意極まりないことの喩えとされる。

2013年6月18日火曜日

語彙力を高めて


 美しい日本語は、言を待つまでもなく大切であるということに否やはありません。

 言葉を磨くということも、大切なことです。思考は、言葉を通じてなされますし、思考は潜在意識に刻まれて実体化するといわれてもいるからです。

 そうだとすると、望みを叶える前には、もう少し語彙力をつけることも必要なのではないでしょうか。

最近の若い人の話を聞いていると、すげ~、おいし~い、かわい~い、~なんだし~ なんて変に引っ張った言葉や、きもい、うざい なんていう創作形容詞の飛び交いが殆どで、ほかの単語が聞こえてきません。

若い人の感性は優れているのだから、表現力を磨かないと勿体無いと思うのです。もっと国語を勉強しましょうネ。

なかには、モロ哲学っぽい議論をしているむきもあって、聞いていて感心することもありますが、それが言葉遊びに留まってしまっては、これもまた勿体無いことだと思うのです。

誰も見ていなくても、身につけたことが実社会で世の為になるというのは、素晴らしいことなんだと思うのです。

言葉を取り戻すのは今のうちなんじゃないでしょうか。乱れが続けばそれが定着してしまいます。言葉は一種の波動ですから、玄妙なところで精神や肉体に影響を及ぼすかも知れません。

美しい言葉は、幸せをも運んでくるでしょう。人間は太古の昔から、音楽にしろ芸術にしろ、つまるところ美を求めてきたことは、それが幸せに結びつくことを解っていてのことではないでしょうか。

2013年6月17日月曜日

一円硬貨のデザインとなっているオガタマ


 一円を笑う者は、一円に泣く。「お金は大事にしなくてはいけません。」と小さい時に教わりました。

 よ~く考えよう お金は大事だよ

 よ~く考えなくてもそうなので、大事にしてるんだけど・・・

 

一円玉のデザインはオガタマの木なんだそうです。

神社で巫女さんがお神楽を奉納するとき手に持ってシャンシャンと鳴らす鈴の原型になったのが、オガタマの小枝なのだいいます。

高天原のアマノイワトの前で踊りをしたアメノウズメノミコトさまも、これを打ち振るって舞ったのだといいます。

モクレン科のこの木を初めて知ったのは、むかし参拝に行った熊野速玉大社の境内で神主さんに聞いたのが最初です。次には、高千穂神社だったように思います。方々にあるらしいんですが、目にする機会が少ないようです。

 

お金は、なにをやるにも基本となり大切なのに、これを得ることにある種の後ろめたさをもっている人が多いようです。

沢山持って、世のため人のため、幸せになるような使い方をすればよいのだと思います。貯めこむことだけが目的となってしまっては、そこに淀みができてしまい、それではお金がお掃除の対象となってしまいます。

こつこつと、しかし大きく貯めて大きく使うことは、神様の意にというのか宇宙の意思にというのかに、叶うことなのだと思います。

パワーストーンの持つ能力の回復


あなたがパワーストーンとして持っている天然石や宝石は、その石が本来持っている能力を十分に発揮しているでしょうか?

本来その石が持っているとされる能力は、段々に衰えてしまっていることが有るのだと言われます。

採掘されているとき・加工されているとき・流通の過程で人の手を通るとき・店頭に置かれているとき・自分が身につけているとき等々に、いろいろなマイナスエネルギーや良くない想念が憑依してしまうからだそうです。
要するに、知らず知らずのうちに汚れてしまうということです。

願いが叶わないとき・金運があがらないとき・仕事運がわるいとき・・・
そんなときは、自分の持っている石の手入れが必要なのかもしれないのです。

前にも書いたと思いますが、汚れや穢れを払うのは先ず自分の体、次にパワーストーン、そしてご先祖の墓石ということでありましょう。

2013年6月16日日曜日

やさしい花色のアジサイ

雨がやんで、薄日が差し込む庭に、優しく咲いています。
派手な大きさでも色でもないけれど、好きです。

究極のお掃除 墓石クリーニングをする意義


 人の考えることには多様性があって、汚れても苔むしても古い感じになったほうが好いと仰る方もいます。

 しかしその一方で、ご先祖様がどういう謂れの方であったとか、前世がどうであったとかに興味を持たれる方も沢山いらっしゃいます。

 だとしたら、墓石は放置して墓碑銘も読めなくなってしまうより、長くきれいに保つほうがよいと思うのです。

 大切なものは、手入れして大事にするというのが、美徳の一つです。

 

 さて、神社仏閣に詣でてお賽銭を上げ、お願い事をした経験というのは誰もがお持ちだと思います。

 でも、考えてみて下さい。一般社会において偉い人に直接会って何かをお願いできることというのは、まず無いのではないでしょうか。必ずといっていいほど紹介者や取次ぎの方が間に入ると思います。

 自分のために親身になってそのお役を担ってくれるのは、一体誰なのでしょう。

 育ってくる過程で、お祖父さんお祖母さんが孫の為なら自分のことはさておいて何でもしてくれたという記憶をお持ちの方は多いのでは・・・

 そのまたご先祖様ということになれば、子孫を可愛く思わない筈がありません。

 私は、頼まれればご先祖様がその取次ぎ役を喜んでして下さるのだと思っています。

 願い事は、画像になるくらいはっきりイメージした形で、ご先祖様を通じてするのがよいように思えてならないのです。

 

 何かを決心して始めようとするときは、まずまわりを整理整頓し、お掃除をしてからではありませんか?

 世の中、ただではまず何も動きません。ご先祖様だって同じことだと思います。誠意を示す為にも、お願い事の前に或いは今までの感謝を込めて、墓石クリーニングをすると良いと思うのです。