2013年10月31日木曜日

小説「夏風越の」番外編  秘剣「寸のび」


 小伝馬町に構えられた佐々木一角の道場で

は、今日も賑やかな打ち合いの音が、武者窓

から外にあふれ出ていた。

 一角は、他流試合を拒まない。流派という

ものも掲げていない。入門者も、武士ばかり

ではないから、弟子の身形も揃っていない。

何故に他流試合を拒まないかというのも、腕

に絶対の自信を持っているからというわけで

はない。仮に、試合に負けて看板を外された

としても、一向に痛痒を感じる風には見えな

い。で、弱いのかというと、それが中々強く

て今までに殆ど負けたことがない。拘らない

伸びやかさを持っているということらしい。

 隼人は、ぶらりと佐々木道場を訪ねること

がある。そこで竹刀を持つことはなく、門人

の稽古を眺めたり、一角と僅かに言葉を交わ

すくらいのことであるが、楽しいのである。

 ある日、珍しく「頼もう!」と旅の武士が

一手の稽古を申し込んで来た。太平に慣れた

時代には、久しくなかったことである。

 手順に従って先ず門弟が相手をしたが、苦

も無く5人ほどが打ち負かされ、師範格の一

之瀬が相手をすることになった。

 佐倉何某と名乗る武士は、そこで初めて慎

重に間合いを取って対峙した。道場主の一角

は、まるで試合の帰趨など意に介してもいな

いように見える。佐倉何某は、見切りの名人

と見てとれたが、ただそれだけのこと。弟子

の一之瀬に任せて座り直しすらしなかった。

 佐倉は、間合いを詰めることができない。

詰めるどころか尺余も引いた。汗が滴り落ち

る。微動だにしない一之瀬の竹刀先が頭上に

のしかかってくるように思えて我慢の限界を

超えた。状況の打開をはかるに何らかの手段

も思い浮かばなかったが、身を捨ててこそと

ばかりに一気に間合いを詰めて打ち込んだ。

凄まじい速さでの一撃といえた。

 しかるに届かなかったのである。そればか

りか、後から動いた一之瀬の緩やかに見える

竹刀の動きを躱しも受けもできず、面を強か

に打たれていたのである。

 一之瀬の動きは見きれていたと、佐倉は思

った。剣の速さでは負けていない。

「参った。」と言えばよいものを、真剣なれば

決して負けはしないと、引き時を誤った。

 我の強さは、自らを省みる余裕をなくすの

が常である。

 「真剣にて今一手!」と、思わず叫んでし

まった。

 「やめておかれよ。」と佐々木が声をかけた

が、穏便にことを納めようとすること即ち一

之瀬の負けを見越しての言葉のように思え、

佐倉は言を曲げなかった。

 場所を城下の柏原に移し、真剣での試合が

なされることになり、行きがかり上隼人が見

届け人として立ち会うことになった。

 佐倉は、寸毫の見切りに絶対的自信をもっ

ていた。剣の速さは道場での立会で、自分が

勝っているとの判断がある。負ける気づかい

はまったくない。

 自分の間合いを作りさえすればよい。

 一礼して抜き合わせると、そうした。

 しかし、瞬きをする間もなく、一之瀬の切

っ先は佐倉の首元に伸び、寸止めされた。

 「そこまで!」隼人が声をかけた。

 ゆっくりと伸びてくる剣先を確実に目に捉

えていたにもかかわらず、佐倉は身動きもで
きなかたことに、呆然と立ち尽くしていた。

西王母


曽我蕭白の日本画を、TVの番組で見ました。凄い迫力でした。

日本画といえば、花鳥風月か山水が主な題材かと思っていましたが、仏画もあるのだと認識を新たにしました。

洋画には、神話・宗教について知らないと解らない絵が沢山ありますが、日本画であっても同様なのだと思います。

 

屏風絵だという絵の中に、西王母が描かれていました。

 

昔の物語を読んでいると出てくるものに、「蓬莱山」と「崑崙山」があります。

双方とも仙境と呼ばれるところです。

仙境と言われる場所は二つあり、東の蓬莱山と西の崑崙山です。

この二つの山には、不老不死の薬があるのだと信じられていました。

蓬莱山の主が、西王母ということになります。

 

西王母は、玉皇大帝(ぎょっこうたいてい)という最高位の神様の夫人でもあり、長寿の神様です。

3000年に一度しかならないという「蟠桃」が、長寿の秘薬ということであり、孫悟空が荒しに行ったのが、これです。

2013年10月30日水曜日

日本画「雪山童子」を見て


曽我蕭白の日本画に、雪山童子があります。釈迦の前世と言われていますが、女性と見紛うようなかなり不思議な絵です。

雪童子(ゆきわらし)ではありませんから、何者を描いたのか知識が必要となります。

説話というのは、こうです。

遠い遠い昔、雪山に若い修行僧がいて、人々はその修行僧を雪山童子と呼んで尊敬してたのだといいます。

あるとき帝釈天が、その雪山童子の修行の程を試さんとして、悪魔の姿に身を変え雪山童子の前に立ち「諸行(しょぎょう)無常(むじょう)是生(ぜしょう)滅法(めっぽう)」と唱えたのだそうです。

諸行無常とは、ご存じの通り、一切の物事は常に移り変わり止む時が無いという意味であり、是生滅法とは万物はみな必ず亡びるという事であります。

ところが、この悪魔の唱えた「諸行無常、是生滅法」の言葉を聞いた雪山童子は、その深遠な言葉に驚嘆し、悪魔に「今唱えた言葉の続きはありませんか。」と尋ねたのだそうです。

悪魔は「いやそれに続いてあと二句ある。」と答えたといいます。

感じ入ってしまっている雪山童子は、どうしてもその後の語句を聞きたくて、是非教えてくれるように悪魔に頼み込みました。

それに対し、悪魔は言いました。

「この尊い教えはわしが長い修行の末到達し得た悟りであるから、簡単には教えられぬ。わしは修行が過ぎて今食べるものがなく、今まさに餓死しようとしている。もしわしがお前を今食べる事が出来れば、お前の血と肉でわしはこの先永遠にいき続ける事が出来ようというもの。この後の歌を聞きたいというのなら、替りにお前の血と肉をわしに捧げることができるか?。」

雪山童子は、即座に「解りました。私の肉体を貴方に捧げることをお約束致します。どうか続きの語句をご教示下さい。」と答えました。

「では教えてやろう。それは生滅(しょうめつ)滅己(めつい) 寂滅(じゃくめつ)為楽(いらく)である。」

生滅滅己とは生滅すなわち生き死になどの煩悩を自分の心から滅すれば、寂滅為楽、すなわち涅槃に入り、安らかになり悟りを開く事ができるという事であります。

雪山童子はその言葉を聞くや歓喜した。

「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」と何度も口ずさむと、この言葉を山中の木々の幹といわず、石といわず書き連ねました

「これで思い残す事はありません。後世の人はこれを読んで、きっと悟りを開くことが出来ることでしょう。さあ、何時にても私を食べて下さい。」

すると、たちどころに、悪魔は本来の帝釈天の姿に戻り、こう言いました。

「貴方はゆくゆく必ず仏になって、衆生を救うことができるであろう。私は貴方の影となり貴方を守護しましょう。」と言い終えると、天に昇って行きました。

 

完全な悟りを得ると仏と一体となり、もはや輪廻転生から逃れる事が出来る。

しかし、悟りが完全でないと仏になる事は出来ず、如来、あるいは菩薩となって再び輪廻転生を繰り返さなくてはならない。

観音や菩薩といえども修行中の身であり、仏となるべく次の修行が必要とされるが、時代が進み後世になると、如来信仰、菩薩信仰が強くなり、如来はすでに真実を悟り仏となることが出来るにも拘わらず、衆生を救済するために、あえて仏となることなく、菩薩として現世に戻り、人々を救う為に奇跡を起こす働きをするのだと考えられるようになりました。

食べられる木の実、ガンコウランとクロマメノキ


秋に山に行くと、食べられる木の実があって楽しい。

ガンコウラン(岩高蘭)も、その一つです。
 

花は5-6月、高山に咲くが他の植物に混ざり目立たない。

秋には、径6-10mmの黒い球形の果実ができ、食べることができる。採取してジャムなどにする。

果実はビタミンやミネラルなどの栄養素が豊富で、山鳥のえさともなっている

 

ガンコウランはジュース作りに適しており、ブルーベリー、クマコケモモ、クロマメノキといった果実と合わせても美味しいジュースが出来る。

青紫色の実は材料に混ぜるとその綺麗な色が着くので、菓子作りに使われるが、生のまま菓子の彩りとして飾るのもよい。

 

この時季に採れる果実に、クロマメノキ(アサマブドウ)というのもあります。春咲く花は可憐で美しい。

秋になると黒い実を 付けることからクロマメノキという名前が付くコケモモ と同じツツジ科の低木です。

クロマメノキの実も、食べることができます。

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2013年10月27日日曜日

小言幸兵衛ではないけれど


 ふわふわと、ただ酔っていた。

それでも意味は通じるけれど、

 かわいい女の子が、記憶を消されて・・・という場面でのナレーションなのだから、

 ふわふわと、漂っていた。ということでないと、意味がわからないシーン。

 

厚く焼いた石の上に、木の葉に包んだ・・・

熱く焼いた石の上で蒸し焼きして食べた。ということに違いないんだけれど。

 

休日だというのに、不精を決め込んでTVをみてると、アラばっかり見えてよくない。

 

いずれも、こども向きの番組なだけに、プロだったらしっかりせいっ!といいたくなる。

お遊びで言葉をあやつっているわけではない立場のひとは、将来にわたる影響にも心しなくてはなるまいと思うのです。

 

 小言幸兵衛ではありませんけれどネ。

2013年10月24日木曜日

醜い家鴨の子と似て


見るだに毒々しい毛虫なのだけれど、触っても害はないのだという。

スミレの葉を食べて育ちます。ツマグロヒョウモン蝶の幼虫です。

鉢植えにして育てている何鉢かのスミレは丸坊主にされてしまいますが、春になればちゃんと新しい芽を吹き、花も咲かせますから、虫を駆除することなく、自然に任せています。

 

この毛虫から美しい蝶になって羽ばたいていくのですから、最初の見た目が悪いからと言って粗略にはできません。

醜く見えても、如何に美しく成長するかということかということなのだと思うのです。
醜いアヒルの子が育って、美しい白鳥になるのと同じです。

 

幼虫

 

成虫(写真は借り物です)

 


 

2013年10月19日土曜日

「めしい」は差別用語なのか?


 いくら私が食いしん坊だからって、飯飯(めしいい)なのではありません。

「めしい」っていうのは、今風に言うと「目が不自由な人」ということにんるのかも知れませんが、差別語じゃないと思うんだけれど、漢字変換しません。

 言葉狩りが過ぎると、普通名詞であっても使えなくなり不自由に感じます。

 

 昨日の夕方、突然視界がぼやけて、書類の文字がところどころしか見えなくなってしまいました。逆の言い方をすれば、ところどころは見えるということです。

 よく働いたからな~。

なんですと?ウソだろうって?いや、それがホントのはなし。

 社員が、「車でお宅まで送りましょうか。」と心配してくれたが、「だいじょうぶだいじょうぶ。」といって、鉄の車が沢山ついてるのに乗り、手探りで家に帰ってきました。

 すこし目を休めたら、字が見えるようになったから、懲りずにPCに向かったところです。

 眼鏡の度数が合わなくなったきたのかも知れません。
 そういえば、歯の次に悪くなるのが目なんだとか。奥歯が欠けてしまって歯医者に通っています。

2013年10月18日金曜日

「それ聞いた」「それ知っている」とばかり言っていると


何かを話しかけられたとき、「それ前に聞いた」とか「それ知っている」と言下に遮って、後を聞かない人というのがいます。

 

確かに同じことを何度も聞かされるのや、知っていることを教えてもらっても、煩わしいことであることは事実でありましょう。

 でも、これをいつも言っている人のところには、段々に情報が入って来ないようになるのです。

「もう話したことがあるかも知れない」「どうせこんなことは知っているだろうから」と、周りの人は思うようになってしまうからです。

 そうしているうちに、大事なことも知らされなくなってしまうということです。

 そうなったときに言うのが「それ聞いてない。」とか「なんで報告しないんだ。」という言葉。

 そんなことはないのです。自分が聞こうとしなかったことの積み重ねの結果なのです。

聞く耳を持たないというのは、こういうケースだってあるということです。

たとえ何度聞いたとしても、少しずつその話に関連する情報はつけくわわりもあって詳しくなるのだから、疎かにしないということが大切です。

 

 もうひとつ大事なことがあります。

年寄りが何度も同じ話をしてくるのを「それは前に聞いた。」「何度も聞いた。」というように面倒くさがっていい加減に対応していると、段々話しかけてくることが減って行き、話をすることがなくなって黙り込んでしまうようになるのです。

それがボケにも繋がってしまうキッカケになることが多いのだといいます。   

面倒くさがらず聞いてあげるのも大事なことです。

2013年10月17日木曜日

お客様は神様というけれど


近頃、品のない神様が増えたんじゃなかろうか?

大したご利益(買い物)もないのに、お賽銭(商品やサービス)にクレームをつけて、口汚く罵る。

 

「お客様は、神様です。」なんて言って、何でもありにしてしまったから、好き勝手をするのが神様だと勘違いして、人の徳性すらなくしてしまって罰だけを当てる変な神様がたくさん出てきてしまった。

 商品やサービスを提供する側が、お客さまを大事にしようとするのは解る。

 しかし、客の側が自分は神様だと思いあがるのは品が悪すぎるように思う。そんな神様はいない。

 

神様と敬われ、願えばご利益までも下さるのが、逆方向に行ってしまったら、それは神様でも人でもない「呉れ恵魔阿」となってしまう。

2013年10月16日水曜日

ついついしがちな重複表現を避ける


スポーツニュースなどを聞いていると、「得点を取って・・・」などというアナウンスがあって、たいそう気になります。

 点を取るから得点なのであるから、「得点して」とか「点を入れて」とか「点を得て或いは点をとって」ということでないと、表現が重複する。

 

小学校の4年生だったとき、先生が言葉は重ならないようにしないと据わりの悪い表現になる。

例えば、

古の昔の武士の侍が、馬から落ちて落馬した

こういうのは変でしょう? 言葉の使い方に気を付けて、文章にしたり話したりしましょうネ。と言ったのを今も覚えています。

 

似たようなのは沢山ありますが、間違って使っていると気づかないうちに、人から眉を顰められているかも知れません。

元旦の朝

縁談ばなし

挙式を挙げる
満座の席で

炎天下の下

過信しすぎる
一番最後

被害を蒙る(被る)

秘密裏のうちに
不快感を感じる

 

どこが変なのか、ちょっと考えれば解ることですから、口癖にはならないようにしましょう。