2015年2月28日土曜日

片方だけ望むのが常だがそうはいかない


悲喜・賢愚・苦楽・善悪・美醜・天地・明暗・正負etc.etc.数え上げれば切が有りませんが、対になるものがあってこそ双方が認識されます。

自分に都合の良い方ばかりを望みますが、それが叶わぬことが苦しみの基ともなります。

 

本来セットのものだから、合せて受け止めなくてはならないのだけれど、そこが凡愚の悲しさ、とても悟りの境地には行きつけませぬ。

でも、交互に現れるものでありますから、捉われないでいることが良いのです。

 

喉元過ぎれば熱さ忘れる?

 

2015年2月27日金曜日

成功して会いに来てくれた元部下


昨晩は、嬉しいことがありました。

 

私が会社を退任したとき、大切に育てていた部下が、その後すぐに退職したと聞いた。

電話番号も変えてしまったらしく、連絡が出来ぬまま、どうしているかと気にしつつ5年余が過ぎていました。

突然電話がかかってきて、私の住まいの近くに仕事で行くことになったので、会いたいという。

とにかく顔を見たいと思い、打ち合わせ時間より早く、待ち合わせ場所に出かけました。

 

会社を立ち上げ、仕事も順調でこなしきれないほどであると明るく元気な顔で聞かされ、もう本当に嬉しかった。

大事に思っていた人が、昔を忘れずにいてくれたことも、嬉しいことでした。

 

2015年2月26日木曜日

書いてあればそれは起こらないか?


日本のプロ市民団体か何かが、憲法9条をノーベル平和賞に、という署名活動を始めたというニュースが前に有ったけれど、最近「アルかニダ」国が、嫌がらせの為か自国の国益の為かわかりませんが、同様の活動を始めたらしい。

 

最近、つくづく考えてしまうのです。平和であることは難しい。

口先だけで「平和平和」と唱えているだけでは、如何とも為しがたいのではないのかと。

 

日本には、憲法9条があるから、戦後70年近く戦争をしないですんだという。果たしてそうなのか?

そうであって欲しいが、では、日本国刑法に殺人罪や窃盗についての規定があるが、書いてあればそれらは起こらないか?

そんなことは現実にはありません。だから起こったときにどうするか、ということが諸法規にあらかじめ規定されています。

 

戦争が好きな人はいないでしょうし、それが起こりにくくすることは大事ですが、戦争というのは1国だけではできません。少なくとも戦う相手国があります。我が国だけがしないと言っていても、攻められたらどうするのか?

こういうと「じゃあどこの国が攻めてくるんだ?」という人がいます。そんなこと返事が出来ないに決まっていることを見越してそういうから、あざとい。

万一に備えるというのが安全保障です。

 

戦争というものを、この70年近くせずにすんでいたのは、幸いにして戦争をしかけられなかったということ(それに近いことはありましたが)の結果のようにも思えます。

そのときどきに憲法解釈で凌いできたけれど、何十年も変えないで対処するのはどだい無理なのだが、どうしたら良いのかが難しい。

 

 

 

2015年2月25日水曜日

主題はゼロ戦ではない?「風立ちぬ」


TVで「風立ちぬ」を見ました。

情景や風物が丁寧に描きこまれていました。

 

不思議に思うのは、誰にでも意見があるのはその通りだから良いとして、何かを論ずるときに決めつけてしまってものを言う人たちです。

全部良いものも全部悪いものもこの世にはないと思うからです。

 

「永遠の0」を嘘っぱちなどと、決めつけるのも好きではありません。「風立ちぬ」があり得ないものを繋げた物語であっても、話しとして聞く分にはそれでも可とするのと一緒です。

教条主義に陥ってしまっていたり、プロパガンダに利用されたりしていたら、そこから抜け出す自由を自ら制限しているに等しいと思うからです。

 

ゼロ戦は、速度と旋回性能を両立させた画期的な技術を盛り込んだものだと聞いております。

20ミリ機銃という矛は優れていたけれど、盾は割愛したのだとも。

日本人らしいといえば日本人らしくて好きです。

 

紀元2600年。神話がある国というのは、心が豊かです。

 

2015年2月24日火曜日

信じられないとわざわざ宣伝するのが解らない


木を曲げる技術がなかったので、荷車や水車は作れなかったし、同様に水を汲む桶も作れなかったので、重い陶磁器の瓶に水を入れ、頭の上に乗せて運んだのが歴史の事実です。

頭に物を乗せて運ぶのは恥だと思っているらしく、前のオリンピックのときからやめた。

 

次に、織物の布を染める技術がないことや、染料が高くて買えないことから、歴史資料としての写真に明確であるように、乳だしチョゴリを纏った女性の衣類は白い無地のものだったことは、諸外国が以前から知るところです。市街地の軒並みも、藁ぶきの汚くて粗末な小屋が映っている写真しかない。たった100年程前のことです。

 

夜、暇になってTVのチャンネルを捻ると、そこらじゅうで時代物の番組をやっている。色鮮やかできらびやかな衣装を着ているが、そんなものは無かったというのは上記の通りです。

時代考証なんてことはしないのだろうか?そんなのは、どうせ作り事だから構わないということなのか?

 

まあそれは夢物語だからどうでも良いとして、口を開けば「信じて下さい。」という言葉がどの番組にも出てきて、それでありながら必ず騙し騙され、裏切り裏切られ、恨みつらみを際限もなく続ける映画物語のオンパレードを、文化だといって世界に広めている意味が解らない。

 

信じられない性状をもった国だと、自らわざわざ宣伝しているようなものだと思うのだが、誰も変だと思わないのだろうか?どうでも良いが、わかりません。

 

 

2015年2月23日月曜日

リショウバンラインのことがニュース解説では出ないが


竹島の日に関して、彼の国では大騒ぎしているらしいが、誰が何と言おうと、日本固有の領土であることに変わりはない。

はっきりさせたいなら、国際司法裁判の場に出てきて決着をつければよいだけのこと。

 

ことの起こりは李承晩ラインからなのだから、マスコミもそこらのことからニュースにした方がよいのだが、昔と違って触れたがらないのは何故なのだろう。

 

1952(昭和27)1月、敗戦により軍を持てなくなった日本の隙をついて、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」なるもの行った。

いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定し、同ラインの内側の広大な水域への漁業管轄権を一方的に主張するとともに、そのライン内に竹島を取り込んでしまったのである。戦争に勝って占領したのではないからあざとい。

以降、日本の漁船が不当不法に拿捕され、漁民が抑留されたというラジオニュースが何回流れたことか・・・

戦後の苦しい時代を生きた人は、誰でも知っていることである。

 

 

2015年2月22日日曜日

無宗教だと思い込まされているが


日本人は無宗教だと、まるで責めるようにいうひとがいる。

外国人が言うならまだしも、有識者だと言われているような人も、さもそれが悪い事だとでも言わんばかりに、そう言う。

そうなんだろうか?

 

「宗」とは、「もと」の意。宗家とか総本山とかいうのも、大本がそこだということ。

ところが、この宗に教という字が加わるとややこしくなる。

宗教というのは、広めるためには教義をつくる。そして大抵の場合、他の宗教を悪魔だということにして敵対視する。

そもそもが、人として幸せになるための考え方や身の処し方の基本となるものだった筈なのにです。

 

日本人は、神道にしろ仏教にしろキリスト教にしろ、そこに極端な差別をつけず、決して粗末に扱うということなぞなくそれぞれ敬う。芯のところで大いなる存在に畏れ畏まることが自然にできるということは、宗教というよりももはや文化の域に達しているのだと思う。

 

八百万の神々が住みつき、愛してやまない国なのだと自負して良いのだと思うのです。

宗教は何か?と聞かれても、答えようのないくらい日常に融けこんでいるものが日本人にはあるのですから。

 

 

2015年2月21日土曜日

万夫(ばんぷ)をVAMPだと勘違いしていては解らない歌


仰げば尊し我が師の恩、なんて言っても、今の子は解らないらしい。

扇げば戸落とし和菓子の本、なんてことになるらしい。

箱根の山は天下の険、じゃなくって神奈川県か静岡県なんだとか。

 

函谷關も 物ならず。 函谷關(かんこくかん=中国長安の都を守るため険しい谷合に 設けた関所)のように 、一夫(=一人の男・一人の兵)が關に当るや(関所を守れば) 萬夫(=万の兵)でもも開くなし(打ち破れない)くらい険しい山であるという歌なのだが・・・。

驚くことに、万夫(ばんぷ)をVAMP(妖婦)だと勘違いして、淫乱な歌だと思っている人もいるらしい。

 

昔ならこんな位の事は、小学生でも解っていたことだけれど、国語力は違った方に行ってしまった。

 

 

 

2015年2月20日金曜日

花一輪を心に秘めて


梅一輪 一輪ごとの暖かさ

 


 我々が育った昭和30年代は、決して物質的には豊かでなかったけれど、心の豊かさは確かにあったように思えるのです。

 庇いあい助け合い、我がことのみでなくまわりを思いやることがたくまずしてできたし、芯のところに優しさがあった。

 誰もがそうであったので、貧しいことが恥ではなかったから、変な隠し事はせず、正直でいられた。

 

 苛めは沢山あったし経験もしたが、陰湿なものではなかったし、乗り越えられないというほどのものでもなく、困って相談したとしたら、先生や大人に解決する力があった。

大人や先生に力がなくなってしまったのは、どうしてなのだろう?

 

 子供の権利ばかりが主張され過ぎて、養育に臆病になりすぎていないだろうか。

 戦後、否定したのか無視したのか目を逸らしてしまったのか知らぬが、永く培われてきた精神的文化が、いつの間にか損なわれてきているように思えるのです。

 

 一昨年2週間ほどかけて、留学先から帰国することになった倅がお世話になったところを、お礼を兼ねて訪ねて廻った。

行く先々の知人や、生活の必要上からできた八百屋・肉屋・花屋・チョコレート屋さんなどなど、いかに日本人である息子が信頼関係を得て大事にされていたかがわかりました。

 

 彼が言うのに、「あの人はいい人だから会うといいよ。」と紹介された相手は、実に日本人的な発想をする人たちばかりだったと。

彼らが認めるいい人というのがそうだったのだと、今にして理解できるという。

 そうして交流が広がったことの基本には、先人たちのお蔭があって、日本人は外国人に好かれている、ということがあるのだと感じます。

 

 私は、公を伴わない権利主張や、言い負かす技術としか思えないディベートや、最近目にすることが多い他人の所為にしてしまうような責任逃れは好きではない。

 

 経済的効率のみを追い求めれば、職人技や文化などが育たないとも思っている。

損得が判断のための第一順位では悲しすぎる。

 

 成人し世に出てからは、厳しい実業の世界で生きてきたけれど、花が咲いているのを見ればそれを愛で、いつでも花一輪を心に秘めていようとしてきた。

 

 

2015年2月19日木曜日

面倒な「のに」の霊


 “とちる”とか“ドジを踏む”ことってのは、誰にでもある。ワザワザ遠くから出張って行った“ノニ”ということにでもなると、穏やかではいられません。」

 

 この“ノニ”っていうのは、心に与える影響力が大きいから、精神衛生上宥め方をうまくやらないとあとあとまで残るので油断がなりません。

 

 私が団体の会長ということになって、大先輩方のお世話役ということになって、某大手旅行会社に依頼して企画した国内旅行がありました。

 途中で地方の有名美術館を訪ね、教養を高めようというスケジュールになっていました。

 

 ところが行ってみたらそこは休館日。

 おいおい折角来た“ノニ”そりゃ~ねえずらよ。会長の面目まるっつぶれ。

 

 しかしながら、そこは酸いも甘いも噛み分けた海千山千おっと失礼、経験豊富なお歴々、旅行会社の所為にすることなく不手際を詫びる私に、「いいよいいよ、そういうことあるよ。また来ればいいよ。」と口々に言ってくれて、他の楽しみを見つけたのでした。

 1日がかりでないと行けない所だから、又といっても簡単ではない“ノニ”。

 

 そんなことの後でも、上野に会社のある私をして月曜日に上野美術館の前まで行き、門が閉まっているんでスゴスゴ帰るということがあります。

 

 でも“ノニ”と言う風には思わないようにしています。きっと何か気づかせようという力が働いたんだと・・・。そしてホントに何かに気づくのであります。

 

 

2015年2月18日水曜日

お化粧しても化けの皮が剥がれてしまうのでは残念


美人は人柄も良い、というか、人柄が良いのはそれが滲み出て美人になる。

そんなわけで、お化粧をしたり美容整形をしたりで、自分を良く見せようとするのだが・・・

 

教養を高めるなど、まともな努力をするなら別だが、簡単にお里が知れてしまうようなことは避けたほうがよい。

 

育ちの悪さが簡単に露呈してしまうことの第一は汚い言葉・乱暴なことば遣い。

 

どんなに気をつけていても、話し言葉は、どうしても自然にその人の本性が出てしまう。

そんな言葉づかいが格好良いと勘違いしてでもいるのだろうか?

それが通用する付き合いでは、先がしれている。

どんなにおしゃれやメイクに気を使っていても、言葉遣いで周りからは判断されていることが多い。逆に言葉遣いが丁寧なだけで、育ちが良さそうと思われてもいる。

本人が思っている以上に好感度が落ちてしまいますので、普段から乱暴な言葉遣いをしないように気をつけましょう。

 

第二は、人によって態度を変えない

 

本人は意外にも気付かずにやっていることが多いが、こうした態度は周りの人から見ると、すぐに人柄がバレてしまいます。見ないようで見ているものです。
人との付き合い方は、普段から誰に対しても平等にする。これが結果的には、誰からも好かれる秘訣となるのです。

第三は、姿勢

 

姿勢が良いだけで、育ちも良く見えますし、見ていても気持ちが良い。

座るとすぐに脚を組む人がいますが、格好良いと思っていたらとんでもない勘違いで、他人に迷惑をかけて平気な人なのだと思われています。

姿勢が良いだけでスタイルも良く見えますし、内臓などの消化器官の働きも良くなったり、血流も活発になるなど健康面でもプラスなことばかりです。

 

印象が良くなれば、ますます美人になれ、運も向上するというから、ちょっと気を付けてみると良い。

 

 

2015年2月17日火曜日

神様だって人を見ている


願い事が叶う人、或いは叶いやすい人というのはいます。

 

 何らかの願い事があって、神社仏閣に詣でるのはよくあることですが、なかなかその願いの筋が聞き届けられることはないのが普通のようです。

 そんな人は、この世的な日常生活においても同じで、誰かにものを頼んでも、聞いてもらえないことが多いようです。

 

 人は他人にものを頼まれても、親身になってそれをやってあげたいと思える相手と、そうではない相手がいます。

 その差は一体なんなのでしょう。

 明らかに言えるのは、その相手が好きかどうかということであり、好きでもない相手に親身になって助力しようとすることは殆どありません。

 

 好かれるということが大事なのですが、好かれる人というのは、相手が喜ぶことを必ずどこかでやっています。

相手に対して、自分のことだけやってくれなどという虫のいい要求はしません。仮令ちいさなことでも、自分ができることはやっています。

 神様や仏様に対してでも同じことです。お賽銭の多寡では決してないと思えるのです。

 

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傍から見て、さして一所懸命ではなさそうに見えるのに、やることなすこと巧くいってしまう人というのが確かに居ます。

努力は大事ですが、物事が成功するとき、自分の力だけではないものが働いていることを否定できる人はいないと思います。いわゆる運といわれるものの加護のことです。

 

自分は才能・能力はあるし努力も人一倍して頑張っているのに、望む成果が得られていないとしたら、何故そんな境遇のままなのでしょう?

自分一人だけではなんともならないものが現にあるのに気付かないか、気づいてもそのように動かないからではないでしょうか。

人知を超える力に触れるための方法を探ってみるのが良いと思うのです。

 

 

2015年2月16日月曜日

今頃になって気が付いた鬼の嫌いなもの


節分を過ぎて、仲間内の新年会をしました。

「君の所は、相変わらず節句の行事をしているのか?」と聞かれたから「さすがに今時は本格的にとはいかないが、五節句は取り敢えず形だけでもするようにしている。」と応えました。

 

蟹柊と紙に書いて門口に貼るのは、節分のときによくやりましたし、柊の枝に鰯の頭を串刺しにしたものを止めるというのもありました。

蟹も柊も棘が魔除けになるということなのだと思いますが、鰯はその臭いが強いので、魔が嫌がって入ってこないということなのでしょうか。

鰯の頭も信心から、というのは、ここからきている。

 

トベラというのは、臭いがきつい植物だとは聞き及びますが、これを節分に使うというのはやったことがありません。

 

そんなわけで、豆撒きだけをしました。

少し暖かくなったら、今度は雛飾りです。

 

 

2015年2月15日日曜日

確率で単純に考えても不思議なのに


隣近所とは仲良くしたいと思っても、そうできないことばかりをする相手というものはいるものです。

いろいろ条件を出してくるが、結論として我が国とは仲良くしたくないらしい。

スワップ協定の延長はないらしい。本当に困らないのだろうか?

 

K国が、小中高校生への慰安婦教育を強化するのだという。何を目指したいのだろう?

 

国を挙げて躍起になって探しても、強制連行を証明するものは出てこない。逆に、それを禁止していたものは出てくる。

つまり、史実は違うのではないのか?という研究をしないまま、子供たちに教育で恨みを刷り込むことをするのは、何をしたいのかがわからない。

売春を生業にしている不幸があったことを否定しているのではなく、国による強制性はなかった、といっているだけである。

 

単純に考えても解らないことがある。

当時2000万人ほどの人口しかなかった朝鮮半島で、20万人もの若い女性を、日本の官憲が無理矢理連行して戦地に送り込み、性奴隷(意味不明=高給を得ていたというし、辞める自由があったという。)にしたというのだが、家族や知人友人がその10倍いたとして、直接間接の関係者が合わせて220万人。

さらに接触した軍人、民間人を加えると一体何百万人が目撃していた事になるのか?
人の口に戸は立てられないというが、それが戦後40年も発覚せずにいたというのは、一体どうやれば、そんな超絶的な秘匿が出来たというのだろう?

そのことで、過去にも暴動などが起こったということも聞かない。

 

男たちも、女性が連れ去られるのを「黙って見ているだけの腰抜けばかりだった」とでもいうことなのか?激しやすい国民性と、余りにかけはなれているように思える。
一寸考えても、あり得ない道理(=彼らが好んで使う言葉)だと、簡単に分かるのではないかと思うのだが?

教科書にまでということは、ものを言える雰囲気がないのかも知れない。

他国の教科書に口を挟む心算は毛頭ないが、後で事実は違うのだと知れたら、どう収拾するというのだろうか?

 

 

2015年2月14日土曜日

反論できないことを言えば善人か?


表面的善人というのがいる。

正義の味方面をして、自分の一方的思惑を通すための綺麗ごとをいう。

 

表立って反論できないことを先ず旗印にしてものを言うから、手がつけられないのだが、大抵は本心が違っているから、いつの間にか巧妙に論点をずらした方向に話をもっていく。

そんな内心が最初から透けて見えるから、いかに声高に叫んでも、多くの人からの賛同は得られない。

テロ殺人事件でもそうだった。理不尽な要求をする相手に合わせろと言わんばかりのことを言っているに等しいのではないかと思ってしまう人たちが、責任ある人たちにも多かった。

効果的な対案を提示するのなら別だが、ただ文句をいうのでは・・・。

 

世の中綺麗ごとだけでは上手くいかない。口に出してはならないことも抱えて、なんとか良い方策をとろうとみな苦慮しているのです。

一見、論戦では負けているようにみられるが、多くの情報と対応策のバランスをいかにとろうかと考えている人たちの方が深みがあって信頼できる。

それを言っちゃあお終いよ、ということを我慢するのは大変だと思う。

 

 

2015年2月13日金曜日

絶対的自由があるとでも思ってるのか


パスポートを取り上げられたと言って、文句をいっている人がいるのだとか。

 

勘違いしてもらっては困る。報道の自由も表現の自由も、絶対的自由ではない。

私権は公共の福祉に従うのである。権利と義務はセットであるのだから、自分の側の都合ばかりいうのは不見識の誹りを免れられまい。

 

どう考えてみても命にかかわる危険が明白に存在し、もしそうなったとき、国が知らぬ顔をすることはできない現実を、いかに考えるのか。

多くの人や国に迷惑をかけても構わない、というほどの自由というのは一体あるのか?

許容範囲を超えるのではないだろうか。

 

2015年2月12日木曜日

自分を大事にしないと運はむかない


 ツキがある人・ない人は、もって生まれた運命なのか、それとも神の気まぐれなのか?

 運を味方にできるのはどんな人なのかは、興味のあるところです。

 

脳には個性があり、人によって使い方が違いがあります。

「運がいい」とされる人たちには、それぞれに行動パターンや、脳の使い方があるという。

 

人間の脳には、持って生まれた特徴があるという。セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質の量には個人差があり、さらにそれらの分解の度合いによっても、脳の個性が異なってくる。

例えば、セロトニンの分泌量が多い人は安心感が強く、少ない人は不安を感じやすいという。

自分の脳の特徴を自覚できれば、ある程度行動をコントロールすることはできるが、生まれつきの脳の個性をがらりと変えることは不可能だが脳の使い方を変えることで、運のいい脳にしていくことはできるのだとか。

 

運・不運は誰の身にも公平に起きていることです。

しかし、運のいい人は、単に恵まれているのではなく、運をキャッチするのがうまい。

同時に、不運を防ぐような行動や考え方をしているのだという。

自分を大事にしているということが共通項なのだとか。