2016年2月29日月曜日

「紙を好く」って?

天下の公共放送なのだから、ぜひお願いしたい。
朝、TVで、紙漉きの場面を説明していたのですが、何十回にもわたって紙を「好く」というのには閉口しました。
「漉く」は「空く」「透く」「梳く」などと同じ発音であって、「好く」とは違う。

続いての櫛を柘植で作っている職人さんの仕事に関連して、「髪を結う」というのがありましたが、「結う」は「言う」などと同じで、「有」や「勇」とは違うが、こちらは何回も読み間違えはなかったようでした。

でも、もう少し勉強してね!
長年にわたり技を磨いてきた職人さんたちを撮ったのを放映するのだから、彼らだって必ず見るに違いない。
その時に、変な言葉遣いを聞いたら、悲しい気持ちになると思う。

とやかく言えることではないのは勿論だが

他所の国のことだから、とやかくは言えないし、いう心算もないが、わが国にとって最重要国である米国の大統領予備選挙の報道を聞いて、多少は心配になる。

トランプ氏とルーズベルト元大統領のイメージが重なるように思えるからです。
言動を聞いていて、日本に対するイメージが固定してしまっているように感じてしまうのです。

太平洋戦争の原因の一つは、私の個人的な見解ですが、ルーズベルト大統領の日本嫌いがあったのではと思えてならないこともあります。
思い込んでしまっているものを変えるのは、難しい。

国際的に協調していくには、相互が真に理解し合うことが重要であるし、またそのための努力が必要なのですが、一体どのような方策があるのやら。
どこの国とも争わず、平和なお付き合いができるように望んでやみません。


朝から泣かされてしまいました

たまたまTVを点けたら、「フランダースの犬」の最終回を放映していました。

この物語は、いつ観てもいつ読んでも、思わず泣けてしまう。
あながち年を取って涙もろくなったせいというわけではないと思うのだけれど、今回も涙が溢れてしかたがありませんでした。

人間の善意というものは、取り返しがつかなくなってからでないと起こらないものなのだろうか?伝えるすべがなくなってからでは遅すぎるのだが、、それでも、性が善であることに立ち返るのが救いです。

2016年2月28日日曜日

汗をかく仕事を尊いと思える感覚

我が国は古来より、身分の上下を問わず、働くことに喜びをおぼえる国であったのだと思う。
天皇陛下だって、田植えをなさる。

諸外国においては、労働は原罪を償うための苦役なのだという、宗教上からかどうかわからぬが、そんな考え方もあるようだし、隣の国では、体を使った仕事をするのは下層階級なのだとする意識が根強いとも聞く。

士農工商の身分制度があった時代でも、河川工事などは、武士も百姓もなく共に泥まみれになり、汗を流して働いた。
イラクの復旧工事に携わった自衛官たちも、共に現地の人たちと汗を流して働いたのだという。
他国は指揮官が命令するだけであったから、時間が来れば、仕事が途中でも放り出して帰ってしまうのに、日本が管轄したところでは、厳しい暑さの中で、時間外になってでも一所懸命に働いたのだと聞く。
自衛隊が帰国することになったとき、大人も子供も合わせ大勢が集まって「帰らないでくれ!」というデモまであったのだとか。
意気に感じるというか、信頼関係というかは、そういうところから始まる。
台湾のダム建設のときも同様であったから、工事に一身を捧げた日本人の記念像があるという。
何をするにしても、そこに喜びを見いだせたら、人は共感するのだと思う。

2016年2月27日土曜日

左からの文字列の文章に慣れてしまったが

現在は、日本語の文章というのも左から右に向かって書く。ことに横書きの文章ともなれば、殆ど全てそうだと言っても良い。
縦書きの文章のみが、右から左に向かって書かれる。

右から左に向かって書かれるのは、日本語とヘブライ語とアラビア語だったのだとか。
何故に今頃そんなことを言うのかというと、戦前の新聞を読むときに、変に読みにくいからです。
戦時中の(それは今風にいうと偏ったないようだったのだといわれますが)新聞記事を読んでいて不思議な感覚を覚えることがあります。

日本は確かに東南アジア諸国に出征して戦ったのは事実ですが、それは戦後独立を果たすに至ったアジアの国々と戦ったのではなく、植民地支配をしていて、そこを領土としていた西洋列強と戦ったのだったと思えるのです。
戦争を美化したり、正当化しようというのではありませんが、歴史というのは多角的な側面をみないと、解らないことが多すぎると感じてしまうのです。

2016年2月26日金曜日

白い眼ではものは見えないのに

「白い目で見る」という言葉があります。悪意をもって見たり、批難するときの表現です。
しかし、白い眼って何なのでしょう?
白目をむくっていうのは、次に続く言葉は倒れるというのが普通ですから、気絶するときは眼球がひっくり返るものらしいから判る。

しかし、物は黒目の部分を使わないと見えないのだから、白目で見るとはソッポを向くということなのでありましょう。
使い方や、その意味は解るのだが、どうしてそう言うのかは判らない言葉というのは多い。

2016年2月25日木曜日

木管楽器と金管楽器の分け方

金属製なのに、木管楽器として分類されるものがあります。
サクソフォンは木管楽器です。フルートも木管楽器です。ピアノは打楽器です。
と言うと、あまり楽器に詳しくない人々は一様に「何故?」と聞きます。
ピアノが打楽器だということは理解しやすいようですが、管楽器ということになると「だって金属でできてるんでしょ? 金管楽器じゃないの?」という具合にです。
でも、管楽器は材質ではなく「リップ・リード(唇の振動)」によって鳴らす管楽器が金管楽器、それ以外が木管楽器と分類されるため、金属製の木管楽器という区別なのです。
金管楽器は唇自体を振動させて音を出します。底に穴の開いたカップのような形をしたマウスピースに唇を当て、唇を震わせることで発生した音を吹き入れることで、音階を出します。


2016年2月24日水曜日

原材料と部品が重要なのだと理解できなければ

2月22日は、ネコの日だというので、それに関連する番組が多かったように思います。
ネコは好きですから、それにとやかくいう心算はありませんが、「竹島の日」であることも、もっと取り上げて良かったのではないかと感じました。

竹島の日の式典を日本がやったのは、怪しからんと言って、K国が騒いでいるらしい。
国内だけでなく、式典会場まで抗議する集団がやってきて暴れたとのこと。
日本人が韓国に行って同様なことをしようとしたら、入国すら拒否されるだろうから、日本は平和な国というよりない。

彼の国では、報復措置として「日本からの輸入を全てストップせよ。そうすれば、対日貿易の差額赤字分は日本が得ているのだから、それが無くなったら日本の方が困るだろう。」と、頭に血が上って本気で主張している人がかなりいるらしい。
見境がつかなくなると、冷静な判断ができなくなるにしても、度が過ぎる。
日本から輸入している物は、K国が杖とも柱とも頼む輸出製品の基幹部品だったり、工業製品を作る為の工作機械だったり、日本が保証しているからできる原油であることを全く知らないのだろうか?
そんなことをしたら、自国の経済活動は一発で潰えるだろうとは考えられないらしい。
しかも日本が対韓国の輸出入に占めるGDP費は、僅かなのだから、大した影響にはならないとも知らないらしい。

そもそも、対外赤字というのがどうしてできるのかといえば、必要なものを買うからであり、日本だって、対サウジアラビアで考えれば大幅な輸入超過である。
必要だから買って、それをより付加価値の高いものにして利用するのだという単純なことさえ理解できないということか?

そもそも、竹島は、歴史上も国際法上も日本固有の領土である。日本と戦争して奪い取ったのではなく、戦後のドサクサに紛れて漁民を殺し勝手に占拠した島の筈。
もし、違うというなら、ハーグの国際裁判所で決着をつければいいのに、そんなことをしたら負けるに決まっているから逃げ回って、感情的に国をあげて大声で叫ぶだけ。
自国領土を守る為なら、日本は個別的自衛権を発動することだって不可能ではない筈だが、戦争を嫌う日本がそうすることはないだろうと多寡をくくっているのであれば、いずれ苦しい結末を迎えるだろうに。無理を通せば道理が引っ込むわけではない。

2016年2月23日火曜日

罵詈雑言とはいえ

核実験とミサイル実験を国際的な反対を押し切ってやって以来、韓国と北朝鮮の鬩ぎ合いが激しいようです。
同族憎悪というのは、抑えが効かなくなることがあるから、対岸の火事としているわけにはいかなくなるかもしれないが、それにしても、北朝鮮の労働党新聞による個人攻撃記事に並ぶ罵詈雑言の酷さの数々は、読んでいて思わず笑ってしまう。
曰く、「毒蛇」「殺人悪魔」「耄碌した老婆」「尾のない狂った雌犬」。
よくもまあ、次々と思いつくものと感心してしまう。
まあ、休戦中とはいえ、戦争中の両国だから仕方ないにしても、品性のかけらも感じさせない。
言い争いであればこちらは関係ないから、とりあえず両国お互い様でやっていてね。


2016年2月22日月曜日

どうして「~かも」って言うんだろう?

「どうも」という挨拶代わりの言葉があります。かなり便利です。
状況で、その後に「有難う」がきたり「すいません」が省略されていることは、すぐ解る。

しかし「~かも」、例えば何かを食べて「これ美味しいかも~」というのは、聞いていて気持ちの納まりが悪い。
旨いか不味いか等は本人の主観なのだから、自分が感じた通りに言えば良いのに、何で~かも~などとボカサなければならないんだろう?

「かわい~い」というのは、もはや大っぴらに使われるが、「可愛らしい」「小さい」を表すだけではなくて、「シャレてる」「美しい」「欲しい」「見事だ」などをひっくるめて、語彙の不足をカバーしているようにしか聞こえないと、幼さしか感じられない。

美しい言葉を選んで的確に話す人をみると、それだけで教養の高さと育ちの良さを感じる。
言葉で全人格を見られていることに、もっと意識を払ってもよいのではないだろうか。

2016年2月21日日曜日

人間とヒト

人間が生まれて、成長することを「ひとなる」と言います。
人は二足歩行を始めた結果、胎内で十分に成長した子を出産することが難しくなった。
出産時に産道を通り抜けるには、大きさの関係上、脳が収まる頭が十分に発達しない状態のまま、子は生まれ出る。
誕生後に、感情を司るために重要な脳の部分である前頭葉が発達して、ヒトとなる。
だから、乳幼児の間は、感情を自律できないから、ムズカルということが多々ある。
「ひと」となるには、様々な経験や、教育というものが必要となる。

身体だけは大きくなってもDNA上の欠陥があって、そうなれないヒトモドキというのがいるらしいけれど・・・


2016年2月20日土曜日

東洋人でしたが

道を歩いていたら、屈強な若者5人ほどに取り囲まれました。
雰囲気的に悪意があるようには見えなかったから、身構えることもしませんでした。

一人が「この近くに銀行はありますか?」と尋ねてきたので、「この先に見える信号を渡ってすぐの右側にあります。」と教えてあげたところ、にっこり笑って丁寧にお辞儀をし「ありがとう。」と礼をいわれました。
日本人だとばかり思っていたが、他の連れに説明している言葉を聞くと、外国人の観光客のようでした。
それぞれに礼儀正しくお辞儀をして去っていきましたが、お辞儀というのはいい。
日本に来て学んだマナーらしいが、身に付けば、それは美しい。

2016年2月19日金曜日

芸術におけるアマチュアとプロ

展覧会に出かけたら、審査員を務めた画家が、出品作の前で話していました。

画というのは、デッサンがきちんとできることは、基本の基本であって、その先に自分の捉えた情感なり心象なり伝えたいと思うものをどう表すかということです。
ピアニストがピアノを弾くとき、楽譜に書かれた音符を弾くことだけで、感動が得られる音楽とはならないのと同じで、奥に何を秘めていて、それをどのように表現するかということだから、それができる段階に至った人がプロなのだと思うと、説明していました。

芸術というものを、そこまで突き詰める人は少ない。
しかし受け取る側も、評論家の意見に引きずられるだけでなく、素人ながらも自分の感性でわかる人だっている。
専門家の解説を聞くことは、勿論大事な学びにはなるが、自分の感性だって信じて良い。
理屈ではなくて、良いものはいい。魂に届いてくるものを感じ取ることは、他人がどうこうできるものではないし、真贋を見極める力は、気づいて磨けば誰の中にもあるのだと思う。
他人に引きずられていると、それはできないことは確かです。
自分ではない人がいっているのは、あくまでその人の意見であって、自分には自分なりの感じ方があって、それが普通なのですから。

2016年2月18日木曜日

全員が賛成ではないことを決めるとき

何か重大な法案を決するときになると、デモというのがよく起こる。
反対のデモはあっても、賛成のデモは滅多にない。
その法案に反対する人たちが必ず口にするのが「国民の声を聞け!」という言葉。
違和感を覚えるのは「私たちの声をきけ!」ではなく「国民の声をきけ!」という言葉です。
さもさも自分たちの意見が、国民大多数の意思だとばかりに言いたてているように聞こえるからかも知れない。故意にかどうかしらないが、そのデモも一つの意見なのだという認識はないらしい。
そもそも、いろんな意見があるのだから、それを主張するのは悪いことではない。それを、否定することは勿論できない。
しかし人は、多様なのであるから、他の意見を持つ人がいることを軽く見て、大声を上げることで他を抑え込むことができると思っているとしたら、共感は得られまいし、賛同者を増やすこともできまい。
もう一つ気になるのが、法案が多数決で決すると「こんなのは民主主義ではない」と言う人が必ずいること。決まったら守るというのがルールではないのか?
もとより、全会一致で決まるのが良いにきまっているが、人は道徳的にも知識的にも価値観的にも、全員が連帯できるほどに成熟しているわけではない。
確かに、多数決が民主主義であるとは言い難いにしても、どこかで決めなくてはならないとき、どうやって決めるかといえば、最後は多数決に拠るより他、今の知恵にはないのではないのか。
それが限界といえるかも知れない。
であるからこそ、決めるための手続きを予め定め、それに遵うということにしているのが現状である。
そのために考慮するのは、
多数の人が参加して決定すること
参加者に十分な量・精度の情報が与えられること
議論の上、全体に最適であり、個人の被害が最小化される案が作られること
参加者が十分理解納得の上、合意ができること
などなどであろう。
多数決というのは、抜けば必ず誰か傷を負うことになる伝家の宝刀であることは、その通りであるにしても、そこに見えざる神の手が働くことを願うしかない。
全知全能の神が政治を行うわけでも、またその預言者がそうするわけでも、全幅の信頼をおかれるような徳の高い救世主が導くわけでもないから、不備は残念ながらありうる。
即ち、致し方がないことに、誰であっても、利益に与かることもあれば被害を蒙る可能性があることを秘めている。
全員にとって良いものというのは、なかなか無い。

2016年2月17日水曜日

何をもって植民地というか?

K国では、日本が右傾化して軍備を強化し、またK国を植民地化しようとしているから、警戒しなくてはならないと、本気で思っている人が多数いるらしい。
過去に、頼まれて併合はしたが、植民地にしたことなどないというのが、日本人の大方の認識のように感じる。
日本人の大多数は、頼まれたってK国を支配するのなんて御免だ、関わりたくないと思っているというのに、不思議なことに思える。
教育の為せる業というのだろうか?
植民地化して、何が奪えるというのだろうか?殊に戦前併合時の状態で、何を奪ったというのだろうか?与えたものの方が多かったのではないのか?

植民地化されるということがどんなことだったのか、ネットで調べてみました。
住民が抵抗ができないで、奴隷化されるのは勿論、人扱いはされない悲惨な状態になる。
英国が最も多くの植民地を獲得していた時代は、19世紀末から20世紀初頭にかけてであり、第一次大戦直前(1914)には、その総面積は3350k(世界の陸地総面積の22%)で、支配下の総人口は4億人(当時の世界人口18億の20%以上)いたという推計があるという。
インドにおいて、英国政府は英国内の木綿業を優先させることもあって、インドが安い木綿を作りにくくさせるために、インドの木綿の作り手たちを何万人も集めて、その手首を切り落とした。
インドの木綿工はそのまま仕事ができなくなって餓死した、というのがある。
ベンガルからインド洋まで、何百万人分という白骨が並んだと伝えられている。

ほかの欧米人たちの非道さは、似たようなものであった。
インドネシア人は、家畜よりひどい存在として扱われていた。
奴隷同然の現地人に対し、鞭打ち・平手打ちは当たり前、粗相をした女性を裸にして、オランダ人農場主がベルトで鞭打ち、さらに裂けた傷口や局部にトウガラシ粉をすりこんで、木の杭に縛りつけて見せしめにした。
刑務所で過酷な労役を課せられていた囚人が、オランダ人の農場より食べ物がいいからと、出所を拒んだという位の扱いがされていた。

米国はフィリピン人に「スペインの植民地支配を終わらせてやる」と言ってマニラに進出したが、その実は、スペインに取って代わって植民地にしただけであった。
話が違うと抵抗するフィリピン人を、米軍は徹底的に殺しまくった。
米上院公聴会では、殺した島民数を20万人と報告しているが、多分そんなもんではあるまい。

帝国主義が悪いことだとして認知されたのは、第二次大戦が終わってからに過ぎない。
それでもなお、往生際悪くイギリスやフランスは、第二次大戦後もしばらく、何とか植民地を維持しようと足掻いた。

岡倉天心「ヨーロッパの繁栄はアジアの屈辱である」

悪の権化とされている日本陸軍の「軍政要領」には、占領と軍政は暫定的であると書いてあった。
1941年11月20日大本営政府連絡会議決定の『南方占領地行政実施要領』には「占領地ニ対シテハ差シ当タリ軍政ヲ実施シ」とある。
日本国及び占領地の行政及び日本軍は、なかなか冷静かつ理性的で、国際的にも恥ずかしくない手続きを踏んで戦争を進めていたのである。
しかしながら、戦後の常識としては、ひたすら日本は領土欲に燃えて侵略のための侵略をしたことになっている。アジア各国を独立させることは日本の考えの中に初めからあったことは、隠し覆われてしまっている。

日本が東南アジアの占領地域を帝国の一部であると主張したことなど、一度もない(日本の占領は、戦争中の一定期間の「防衛」手段、予防占領であったにすぎない)ということを知る人は皆無に等しくなっているが、そうでなかったとしたら、戦後独立を果たした東南アジア諸国のリーダーたちの言うことに整合性がもてないことになる。

お断りしておくが、先の大戦を正当化しようとしているのではない。
いろいろ読んでいると、いろんな事実関係が解ってくるということを申し上げている。
国の存亡を賭けて戦ったが、負けてしまったことは事実だし、結果的に良かったことだって沢山ある。
このところ、歴史問題に興味をもち、いろいろ読んでみたが、悪い悪いばかりではなく、世界の歴史に良いきっかけを与えたことだってあるのだということは、知り得てよかったと思う。


2016年2月16日火曜日

俳句や短歌のような具合にはいかないが

ミソヒトモジとか俳句というのには、ほとほと感心してしまいます。

言葉は大事だが、言葉だけで自分が伝えたいことを表現するには、足りないところがどうしてもある。
ブログやツイッターを書いていると、一定の文字数の中に真意を表現することはでききらないと思えるのです。
書いた記事がどうとらえられるか?ということには、一抹の不安を覚える。
悪意から出ていないということだけでも伝われば良いと願うばかりである。

今までにツイッターで呟いたことの一部を纏めてみました。
読み返してみると、少ない文字数で意を尽くすことは難しいと感じます。
Twitter過去ログ1



2016年2月15日月曜日

日本では年間1800万トンもの食料を捨てている?

世界規模でみるとき、食糧難・水不足・環境汚染が叫ばれる。
人は、一回自分が手に入れたものを手放そうとはしないし、そればかりではなく必要以上に貯めこもうとするのはどうしてなのだろうか?
それが一概に悪いとばかりは言い切きれないが、世界の知恵を集めても、なかなかバランスを取ることができるようになるには至らない。
飢餓が原因で1日に45万人(1年間に1500万人以上)の人が亡くなっており(FAOより)、そのうち7割以上が子どもたちだという。
「飢餓」になるのは、食糧が十分につくられていないからではない。
穀物は年間 24億トン生産されているというが、これは世界中の人が生きていくのに必要な量のおよそ2倍になる。
24億トン (年間穀物生産量) ÷ 71億人 (世界の人口)= 338kg 1人当たり)と、単純には計算できりが、1人当たり1年間の標準量は 180kgだというから、そうなる。
それでも食べ物の不足している人がいるのは、どうしてなのか?
穀物は人間が食べるだけではなく、先進国では穀物の 6割(約4億トン)が、ウシ、ブタ、ニワトリなどの家畜の餌になっています。
それが悪いとは言わないが、牛肉1キロ作るために穀物11キロ、豚肉1キロ作るために穀物7キロ、鶏肉1キロ作るために穀物4キロを消費するというから、結果として、世界の 2割足らずの先進国にすむ私たちが世界の穀物の半分以上消費しているということになるのだと聞くと、考えさせられてしまう。

また、我が国の食糧自給率は、26パーセントといわれる通り、大半を輸入に頼っている。
その量たるや凄まじく、年間 5500万トンもの食糧を輸入しているというのに、1800万トンも捨ててしまっているといいます。
食糧の廃棄率では世界一の消費大国アメリカを上回り、廃棄量は世界の食料援助総量470万トン(WFP)をはるかに上回り、3000万人分(途上国の5000万人分)の年間食料に匹敵する。
しかも、日本の食品廃棄の実に半分以上にあたる1000万トンが、家庭から捨てられているのだという。
この家庭からでる残飯の総額は、日本全体で金額換算すると年間11兆円
(旧科学技術庁「資源調査会第123回報告」より)
これは日本の農水産業の生産額とほぼ同額であり、さらにその処理費用で、2兆円が使われているのだというから、何かが間違っているようにも思えてしまう。
「食べ物を無駄にしないように!」と教えられて育った我々の意識と余りにかけ離れた実態には、
「本当なのだろうか」と驚きを隠せないが、1軒1軒の廃棄量はたとえ少なくとも、集まればそういう結果になるということなのだろうか。
こんなことをしていると罰があたる。世界には飢え死にしている人が現にいるのだから。
食い物の恨みは恐ろしい。

人口は、日本では減少傾向にあるとはいえ、世界の人口は増え続けている。
2011年版「世界人口白書」によると、世界人口が70億人に到達したと推計されるが、18世紀の産業革命以降に世界人口の増加ペースが早くなってきたということが統計上みてとれる。
20世紀に、人類は人口爆発と呼ばれる人類史上最大の人口増加を経験した。
国連の推定では、19世紀におよそ16億人だった世界人口は20世紀半ばの1950年におよそ25億人となり、20世紀末にはおよそ60億人にまで急増、特に第二次世界大戦後の増加が著しい。
いうなれば、現在の中国の総人口と推定される人数が、19世紀の世界の総人数だったということになる。
以下は国連などにおける大凡の人口推定および推計値である
2011 70億人
1998 60億人
1987 50億人
1974 40億人
1961 30億人
1927 20億人
1802 10億人

近年、後進国を中心に、治療法がわからなくて致死率の高い新たな伝染病が蔓延したり、戦争が起こったりするのは、人口減少を目論む謀略があるからなのだというまことしやかな噂がでるのも、薄気味が悪い。

そんなことをしたら、それこそ神様の罰があたる。

黙っていても日本人だとすぐ判るらしい

海外旅行をするようになって、西洋人を見た時に、米国人・英国人・仏国人・独逸人・伊太利人などが、確実ではないにしても何となく見分けられるようになった。
外国で会う東洋人でも、言葉を聞けば中国人か韓国人は分る。
でも、外国人が同じ顔つきであろう東洋人を見て、こちらが日本人かどうかがどうして分るのかが不思議でした。
しかしながら、身なり・マナーを見れば、殆ど区別がつくのだという。
食事の前後に何かお呪いを唱える。(多分、頂きますとか、ご馳走様でしたとか言っている言葉。)
買い物をして支払いをするとき、客である側の日本人が「有難う」という。
何かにつけ、すぐにお辞儀をする。(礼儀正しい)
それらを見ると、尋ねなくても確信できるという。

レストランなどに行った時、こちらが日本人だと分ると、店員がにこやかな顔になって良い席に案内してくれることが多いが、嬉しいことです。
先人たちが、今までに積み重ねてきた言動が、評価されているということに違いない。
日本人に成りすまして、良い待遇を得ようと目論んでも、それは殆ど見破られるらしい。
身に付いた行いというものは、そういうものなのだと思う。

2016年2月14日日曜日

早く収拾しないと先が開けないと思うのだが

「不可逆的に」という外交上は滅多に使われない(約束しても信用ならないというのと同義語)文言を使っての同意後も、まだ相変わらず騒いでいるらしい。
収拾をつけることもできないモンスターを、反日教育で国内に育ててしまったということなのだろうか?
「強制連行の証拠は山ほどある。」と言っていたが、未だにそんなものは一つも提示されないし、唯一の証拠だという生き証人の証言も、時系列で並べると、同じ証人の言っていることが、その時その時でコロコロ変わっている。

騒いでいるうちに、都合の悪い「ライダイハン」だの朝鮮戦争時の「洋行主」だのが表沙汰になってきてしまった。
その一方で、強制連行はなかったことを推定させる証拠は次々出てくる。

日本や世界には、捨てられていない資料が沢山あるから、本気になって探せばいくらでも出てきそうである。
こうしてみると、A新聞と一部弁護士の責任は重い。それ以前は、ここ数年ほどの仲の悪さではなかったように思う。
早く決着をつけた方が、お互いの将来の為だと思う。

2016年2月13日土曜日

懐かしい農具

昔なつかしい農具に箕(み)といって、穀物や豆類を皮が混じったままの状態で入れ,両手で揺り動かしながら風であおって、皮やぬかなどをふるいわけるものがありました。篩い分けが終わった物を集めるのが笊(ざる)。

箕笊言わざるは着飾るにひとし(見ざる 言わざる 聞かざる)




2016年2月12日金曜日

日本語とヘブライ語は違うと思うのだが

日本国国家である「君が代」の歌詞は、古今和歌集にあるものが原典だと謂れている。
1番しか歌われないが、1881(明治14)年に発行された『小学唱歌集(初篇)』の中に記載されている「君が代」の歌詞は、2番まである。
(1)
君が代は/千代に八千代に/さざれ石の/巌となりて/苔のむすまで/動き無く/常磐(ときわ)かきはに/限りもあらじ
(2)
君が代は/千尋の底の/さざれ石の/鵜()のゐる磯と/あらはるるまで/限りなき/御代(みよ)の栄(さかえ)を/ほぎたてまつる

国歌について、いろいろ言う人はいるが、私は好きです。

ところで、出来すぎだとは思うが、ヘブライ語解釈の『君が代』というのが、信じるわけではないが、あるのだとか。
日本のカタカナとヘブライ語の文字は大層似ているのだという。
【日本語】  【ヘブライ語】   【訳】
君が代は   クム・ガ・ヨワ    立ち上がり神を讃えよ
千代に    チヨニ        シオン※の民 ※イスラエルの歴史的地名・形容詞
八千代に   ヤ・チヨニ      神の選民
さざれ石の  ササレー・イシィノ  喜べ残された民よ 救われよ
巌となりて  イワオト・ナリタ   神の印(預言)は成就した
苔のむすまで コ(ル)カノ・ムーシュマッテ 全地に語れ
訳だけだと少し分かりにくいので、歌詞風にするなら
「立ち上がり神を讃えよ 神に選ばれしイスラエルの民よ 喜べ残された人々 救われよ 神
の預言は成就した これを全地に知らしめよ」といった感じに訳せるらしい。

こんなに意味の通じる訳ができるのを見つけた人というのは、どんな人なんだろう?


やったもん勝ちの問題が多過ぎないか?

長期にわたって、世界から経済封鎖されている状態になっている北朝鮮が、多額な投資が必要とされる核開発と、衛星ロケットだと言ってはいるが、ミサイルだと疑われるものの開発をやってのけたということをみると、経済制裁というのは騒いでいる割には尻抜けだったということなのか?
資機材も資金も補充が効くシステムがあるということになるのだろうか?

まあ、あまり追い詰めて暴発されるのは危険すぎるし、国が崩壊して難民がでるのも困るし、戦略的に直接対峙しないですむ緩衝帯が必要ということもあるのか、わからないことが多い。

「やったもん勝ち」という国際問題が多発しても、有効な対抗手段がないというのが歯痒い。
自衛策を講じるしかないということになるが、それは互いにエスカレートするに決まっている。

イランの経済制裁が解かれるということで、その潤沢な資金をもって、北朝鮮の武器が購入されることになる可能性は高かろうから、拉致被害者の問題解決も先延ばしになりそうだし、お花畑の中にいるような気楽なことばかりいっていられなくなった。

どうしたら良いのか、他人任せではなく、皆が真剣に考えねばならない。
相手が相手であるときに、平和を維持していくのは簡単ではない。

2016年2月11日木曜日

国民の祝日「建国記念の日」

海外旅行をする時に必要だから、というくらいにしか思っていない人が多いが、日本のパスポートの威力は、通関するときによくわかります。
殆どノーチェックに近いくらいでスタンプを押してくれます。
国がしっかりしていればこそです。
国が衰えたり滅びたりすれば、難民たちの悲惨さをみれば、想像できないことではないのに、国を愛するということを口にすると、右翼だと決めつけられるのは、日本位ではなかろうか。

雲にそびゆる高千穂の 高根おろしに草も木も・・・
今日は、建国記念日あらため「建国記念の日」。
一応、神武天皇が即位した日、ということになっている。
わざわざ記念のというように「の」を入れなくてはならなかったことにも、屈折したものが入っているように感じるが、祝日とはなっています。


スピリチュアルなところを抜きにしては解らない文化

神仏儒を融合させるには、根幹にスピリチュアルなものの共通理解がなくては叶わなかったことは、普通に考えが及ぶことである。物よりも先に精神があった。
その上に出来上がったのが、世界が称賛する武士道。
己を滅し、天下国家の為に働くことができる高潔な精神性を持っていたから、有色人種でありながら一目おかれる存在であった。
それらはいま、戦後教育によって否定されてしまったようにみえる。

戦後、日本人の精神的支柱を外すことに躍起であったようにさえ見える。
武道というものの「道」というのは遠く追いやられスポーツ化したが、勝ち負けの世界ではない、それは精神の修行の場であり、修身ということでもあった。

身を修めることが、あらゆる学問に優先されたことでもあったが、それを言うと反撃されるらしい教育風潮というのは、果たして良いのやら悪いのやら・・・
昔のものが全て良かったなどというつもりはないが、良かったものだって沢山有った筈だと思う。
我々が忘れてしまったそれらを、外国人から逆に教えられるというのも不思議な感じを覚える。

2016年2月10日水曜日

日本は無宗教なのではなく融合してしまったのでは?

古くは神道・仏教、その後に儒教までを融和させた文化を作り上げてしまった日本は、今やキリスト教の行事も日常に取り込んでしまって違和感を感じさせない。
他宗教をそのままの状態で取り込んでいるいるのではないのは確かだが、結果的に和やかにしてはいることに疑いはもてない。

こんなことができているのは、日本を置いて他の国にはあるまい。
他教を信ずる者は、悪魔であり、不倶戴天の敵だとしていたら、そんなことはできない。
良い所を認め合うことで、「和」を育んできた我が国のみが、ゆくゆくはあらゆる宗教を同調させてしまう潜在力をもっているのではなかろうか。

霊的な幅があるということなのか、元々は一つなのだとDNAレベルで知っている民族なのか判らないが、日本が立ち上がらなければ解決できない時に差し掛かっているようにも思える。
衆生を救済する弥勒の世を、ハルマゲドンなどというもの無しに在れませるのは、わが国なのかも知れないと、秘かに感じている。


2016年2月9日火曜日

フンを踏まないようにするためにできたハイヒール

ハイヒールは格好いいし、日傘はオシャレだ。
しかし、ハイヒールというのは、道路に散乱している糞などの汚物を踏まないためにでき、日傘は、頭上から落ちてくる汚物を避けるためのものであったと聞くと、隔世の感がある。
そういえば、隣国の首都の100年前という写真に、道路に散乱するそれを示す為に、わざわざ丸印が沢山つけてあるのを見たことがあります。
何に丸印がつけてあるのかという説明に、人糞だと書かれていて仰天した。

我が国の江戸時代、江戸は当時の世界に類を見ない100万都市であったという。
古着・古紙・蜜柑の皮はいうに及ばず、人糞に至るまで全て回収され再利用されたから、街並みは清潔であったという。
あらゆる物の中に神性を感じ、「勿体ない」として大事にしたところから、貧しいこともあったにしろ、「もったいない」と物を大事にする国民性は育ったのかも知れない。

近年、日本を訪れる外国人観光客が、口を揃えていうことの一つに、日本の公共施設にはゴミ一つ落ちていなくて清潔だというのがある。
普段生活していて、褒められるほど清潔だとも思わないでいたが、一人一人の道徳意識は、誇りに思っていいのかも知れない。
全員がそうしているとは限らないが、「人様に迷惑をかけない」ということを、幼少期から教えられて育った人が多ければ、そうなる。民度というのは一朝一夕に高まるわけではない。