2016年3月31日木曜日

努力できる幸運に気づくことはあった

「教育格差」ということが問題視される。
家庭の経済格差が、子どもの学力格差・教育格差を生んでいるという。
2013年度の全国学力テストの結果を分析すると、世帯収入の多寡で学力テストの正答率に約20%の開きが生じていました。世帯収入の低い家庭(子どもにかけられる学校外教育費の少ない家庭)の子どもほど、学力テストの正答率が低いことがわかります。家庭の経済格差が学力格差を生んでいるというのだが、親の経済格差や家庭環境がげんいんだとする側面はあるにしても、果たして原因はそれだけなのだろうか?

我々の育った昭和30年代は、今どころの比ではなく多くの人が貧しかった。学校にお弁当を持ってこられない人だって沢山いた。
しかしながら、それでも勉強したい人は大学まで自分の努力で進学したし、手に職をつけたいと決心した人は、それを果たしたのだと思う。
かくいう私も、時に食べられない日はあったにしても大学を卒業し、事業を起こして多少なりとも人様のお役に立てる仕事をしたと思っている。

「薫陶する。」今は失われてしまった言葉であるが、昔の先生は学業で良い点数をとることだけではなく、人として何が大切であり、何に努力すべきかを、身をもって教えてくれたように思う。
試験の成績は悪くても、努力する生徒は励ましたし、長所を見つけ出して伸ばそうともしてくれた。生徒もそれに応えようとする信頼関係があった。

今の時代、「自分はこうしたいんだ。」という希望を述べる子供というのはいても、「こうする」とか「こうできる」という子供は少なくて、全て周りがお膳立てしてくれるのを待っているように思えてならない。
この延長線上にあるのは、そうできなかったのは、誰かの所為ということに結びつく。
環境の整備は政治的にも大事であろうが、生きた教育をするということが先ず求められるのではないのか?
尊敬される先生と、それに応えていこうとする生徒を、どうやって作りだしていくかということを後回しにすると、一番大事な筈の「努力できる幸運」というのは身に付かない。
本人が真剣に望むものは、自らも努力して達成していく能力を持っていると信じている。

2016年3月30日水曜日

真実を知ったときにどうなるのだろう?

本気で信じ込んでいるらしいから、学校教育というのは恐ろしい。

ネットサーフィンをしていると、韓国人留学生が、諸外国の学生仲間に、日本は悪逆の限りを尽くした酷い国なのに、反省もしていないのだと主張することが多いのだというが、日本以外の学生たちから、「もっと自国の正しい歴史を知った方が良い。」と窘められて腹が立ったというスレッドをよく目にする。

曰く、日本人は韓国人(朝鮮人)を奴隷として家畜以下に扱い、簒奪の限りをつくしたのだと言って、その例をあげるのだという。
それらの例を見ると、日本が条約により併合する前の李王朝時代に、かの国の両班と称する連中がやったことそのものなのがわかる。

自らの国の支配層がやった悪行を、日本に擦り付けているとしか思えない。
両班のしてきた悪行を禁止し、近代化を図るためにインフラを整備し、学校を沢山建てて、文盲率の高かったのを教育したというのを、全く知らないらしい。

日本以外のどこの国が、植民地支配している国に、教育やインフラ整備をしたことがあるのか?ということを、諸外国の学生たちは日本人以上に良く知っているから、日本人が言わなくても簡単に論破されてしまうらしい。

そうなると、日本人は贔屓されているのだと言って、腹を立てて書き込みをするということになるのだという流れになっているらしい。

数年前までの日本人の多くは、韓国と仲良くやっていこうとしていたと思えるのだが、ここにきて逆転してしまったのは、嫌われよう嫌われようとする動きが多かったせいではないのか?
真実の歴史というなら、自国以外の資料にも目を通して見れば解ること。
学校で教わったことだけを信じて、日本憎しで行動している彼らが、真実を知ったとき、恐ろしい自己破壊が起こりそうで、心配になる。

2016年3月29日火曜日

願いが聞き届けられる人というのは

大抵の願い事を叶えることのできる人というのはいます。

 何らかの願い事があって、神社仏閣に詣でるのはよくあることですが、なかなかその願いの筋が聞き届けられることはないようです。
 そんな人は、この世的な日常生活においても、誰かにものを頼んでも聞いてもらえないことが多いようです。

 人は他人にものを頼まれても、親身になってそれをやってあげたいと思える相手と、そうではない相手がいます。
 その差は一体なんなのでしょう。

 明らかに言えるのは、その相手が好きかどうかということであり、好きでもない相手に助力しようとすることは殆どありません。
 好かれるということが大事なのですが、好かれる人というのは、相手が喜ぶことを必ずどこかでやっています。

 神様や仏様でも同じことです。お賽銭の多寡では決してないと思えるのです。
 神様も仏様も、清浄であることを望みます。墓石クリーニングをやるのは、喜ばれることの一つの方法です。
 水洗いくらいでは落ちないよごれは、人が衣類の洗濯を水洗いくらいでは満足できないのと同じことだと思うのです。

いずれにせよ、相手が望んでいるものを、自分からも提供しようという姿勢があるかないかだということだと思います。


2016年3月28日月曜日

名人が作ったイースターエッグ

イースター(復活祭)において、兎は沢山子供を生むことから、豊かな生命の象徴とされているのだという。イースターエッグを生んだのはうさぎである、という伝承もあるという。

息子がチェコに留学中、親しくしていたイースターエッグ造りの名人おばあちゃんから、沢山の作品を頂いた。
友人や知り合いで欲しいという人に分けてあげたが、まだ数個残っている。
今年もピアノの上に飾りました。





2016年3月27日日曜日

ザルツに行ったら登るとよい山

ホーエンザルツブルグ城のあるザルツブルグの旧市街に入るときに渡るザルツアッハ川の上流に、大きくて目立つ山が見えます。
映画「サウンド・オブ・ミュージック」のロケで使われた「ウンタースベルク」という山です。
ベルグというのは山のことですから、ウンタース山と言った方が良いかもしれません。
頂上付近あでリフトで登れるし、夏であれば、探すと何株かのエーデルワイスも見ることができます。

昔、途中にある氷の洞窟を見ながら歩いて降りたことがありますが、なめたらいけません。
想像以上に山は巨大で、5時間位かかりました。



降りたところはオーストリア側ではなくて、ドイツ側でした。
疲れていたので近くにあったスパに入って、夜おそくなってからザルツに戻ったのですが、良い思い出となっています。

2016年3月26日土曜日

放射性元素を他の物質に変えてしまうという発想

必要に迫られれば、それを何とかしてきたのが人類の知恵であるが、放射能も除去できるようになれば素晴らしい。
ネット上にいろんな記事がありました。

1.百数十時間で元素変換

3月下旬、米ボストンのマサチューセッツ工科大学の講義室。
世界から集まった100人以上の研究者を前に、三菱重工・先進技術研究センターの岩村康弘インテリジェンスグループ長は「元素変換はマイクロ(100万分の1)グラム単位で確認できた」と報告した。
多数の質問を受け、同社の実験を説明する理論の提案も数多く発表されたという。

三菱重工の横浜市の先進技術研究センター。
700
を超える幅広い製品群を擁する
同社の次世代研究を一手に引き受ける秘密基地だ。
研究棟の1階の約3分の1を占めるクリーンルームで研究者が白衣に身を包み、約25ミリ四方の薄膜の金属板を装置にセットする。
超高温や超高圧をかけることなく、数日で内部で元素が変わり、新たな元素が生まれてくる。

セシウムはプラセオジウムに、
ストロンチウムはモリブデン、
カルシウムはチタン、
タングステンは白金に変わることを確認した。
特殊な薄膜に重水素を透過させる独自技術は、日本での特許に続き2013年、欧州でも特許を取得した。

同社は、セシウムの場合、
パラジウム多層膜の内部で4個の重水素が1個のセシウムの原子核に十分近づき、
陽子4個と中性子4個が加わりプラセオジウムになったとの仮説を立てている。
ただ、
詳しいメカニズムや理論は分かっていない。

2.光合成細菌(光合成を行う真正細菌の総称)の中でも活性が優れている「ロドバクター・スフェロイド」を利用した次世代の放射能除去技術を、広島国際学院大学の佐々木健教授が発見したとのことです。
あくまでも、基礎実験などで効果が認められただけなので、大量生産に備えた研究開発は遥か先の話になります。

この除去技術は簡単に言ってしまうと、光合成細菌が持っている「重金属イオン吸着能力」を使って、放射能などの物質を集めて除去する技術です。私も詳しいことはよく分からないのですが、広島国際学院大学に設置されている「バイオ放射能研究所」で行われた実験調査によると、光合成細菌をビーズ状に丸めて固め、放射能に汚染されたヘドロの中に入れると、3日間で最大90%の放射性物質を除去することが出来たようです。

光合成細菌は環境にも優しいため、大量に生産することが出来るようになれば、東日本の放射能問題を解決するための手段となるでしょう。
ただ、この技術に取り組んでいる佐々木健教授はさまざまな悪状況がつづいており、実際に福島などで使用する段階に持っていくのが非常に難しいようです。


2016年3月25日金曜日

いつも忙しくしているのでは幸せになれない?

忙しくしていないと気が済まないという人がいますが、いつも忙しくしているのでは、幸せになれないのだという。
人間は、何もしないことの重要性を本能的に低く見積もっていると、神経科学的に証明されているらしいのです。
(「Scientific American」の最近の記事では、そのように報告されています。)
 多くの精神的に重要なプロセスには、日中の休憩や息抜きが必要だと昔から言われています。
休憩をすることで、脳に注意力ややる気が蓄えられ、生産性や創造性が促されます。毎日最高レベルのパフォーマンスをするためにも、単に記憶を安定させるためにも、休息は不可欠です。
つまり、常に忙しくしているのは体力的にばかりでなく脳に良くない上に、不幸になるということです。中長期的に見て生産性が下がるのは言うまでもありません。
ちょっとひと息つくために机を離れられないほど忙しい人は、自分に優しくしていないのと同じだということだというから、罪悪感を感じることなく、時々は休憩をとったほうが良いということになりそうです。

2016年3月24日木曜日

気に入っている味噌汁の飲み方

酵素は48C以上の熱で死滅しはじめます。
「酵素が死滅しても良い食材と酵素を生かす食材をしっかりと分類」し、それによって食材の組み合わせを変えたりすることが大切である。これを意識して作った料理とそうでない料理の健康に対する貢献度を比べれば、天と地ほどの差になる。
という記事を読みました。
これは、みそ汁だって同じこと。みそ汁は発酵食品で、穀物(主に大豆)に麹を加えて発酵して作られる「味噌」を美味しく食べるために考え出された料理で、酵素がたっぷり含まれています。
昔の人たちは、みそ汁が人の健康にどのくらい有益なのかを理解していたわけではないでしょうが、経験的に味噌が健康に役立つことを理解していたのでみそ汁を毎日飲んでいたのだと思います。

この記事を読んで以来、味噌汁は、味噌を一緒に煮てしまうのではなく、味噌は適量を小皿に別に取り置き、汁を飲むときに少しづつ箸でとって、口の中で混ぜて飲むようにしているのだが、これがなかなか美味しい。
汁が冷めたら混ぜても良いのだが、味噌も汁もそのまま別々に摂っても最後まで楽しめて、気にいっています。


2016年3月23日水曜日

いつも違和感を覚えてしまう世論調査結果

世論調査というものには、いつも胡散臭さを感じさせられています。
今までに聞かれたことはありませんから、実際の調査がどのようなものであるのか判らないにしても、質問の仕方によっても、誰に聞くのかによっても、答えや結果は明らかに違ってくる。
初めに答えありきのようなものになっているのではとの疑いすらもちます。
TVなどの街頭インタビューで聞く場面を見ていても、かなり偏った意見のみを集めて報道しているように見えます。

質問内容を明示し、いつ・どこで・どんな人を対象に・何人に聞いたかというのは、最小限提示しなくてはならないのだと思います。

最近の例でいえば、安保法案のとき、目的をすり替えて「戦争法案」とのレッテルを貼り、反対のみを誘導するような報道をしたのもそうでした。
憲法は大事ですが、憲法学者が国民の生命財産を守ってくれるわけでもないのに、金科玉条のように、その観点からのみ意見を述べるのも、狭さが際立っていたように感じました。

重要案件は、イエスかノウか、白か黒か、あるいは四者択一問題のようなものではあるまい。
総合的に考えることなしには決められない。
ネット上の意見は、それぞれ的を射た理由ものべ、報道とは違うものが多かったように感じています。


2016年3月22日火曜日

文化文明を取りいれられたのは新造語のおかげ

明治時代、外国の文化や科学を取り入れるために、それまでになかった概念や言葉を翻訳する為に、先人たちが知恵を絞って新造語を作りだしてくれた。
そのお蔭をもって、外国語教育によらず日本語で理解できるようになったことが、日本国の発展にどれだけ寄与したことか。有難いことです。

福沢諭吉や同志の「明六社」の人々が訳した新造語は、少し列挙するだけでも、このようなものが有ります。
演説,会社,科学,化学,汽船,義務,教育(開発),経営,健康,憲法(国憲),権利(権理),個人,社会,自由,情交,商社,人民,哲学,討論,版権,民主主義,簿記(貸方・借方),
この他にも沢山あります。

これらの熟語は中国でも逆輸入して使っているのだという。
因みに、これらがなければ「中華人民共和国」という国名さえ作れなかった。
韓国にも同様に伝わったが、日本憎しのあまり、日本語由来の言語は使うなということで、それらをあげつらって廃止しようと血眼になっているらしいが、そんなことをすれば言語表現がままならなくなって、発展の阻害要因になるに決まっているから、愚かとしか言いようがない。

我が国は、中国から渡来した漢字の表意と、平仮名の表音を駆使して、こまかなニュアンスまで表現できるようになっていることは、実に有難いことです。
表音文字だけではこうはいかない。


2016年3月21日月曜日

遣唐使は儲かったがリスクも大きかった

日本には、神として祀られている人が沢山いる。
菅原道真 平将門は、祟りを鎮めるために神として祀られたということになっているが、果たしてそうなのだろうか?
例えば菅原道真公であるが、神社の名前は天満宮。祟りが天に満ちるように等と言う名前にするだろうか。

菅原道真といえば、遣唐使の廃止をしたという功績がある。
当時、遣唐使にともなう交易の利益は莫大で、400倍の差益があったという。
遣唐船が無事に戻ってくる確率は4分の一。それでも利益は100倍になる。
これを藤原氏が独占していた。
それはいいとして、船が戻るときに中国人も一緒にやってくる。それによって、わが国に今までなかったような犯罪が多発した。

彼の国には、人肉を食べるという風習があり、孔子の時代には「自国(中国内の国)の人間でなければ人間でない」という考え方があって、戦争に勝利した時、他国の人間を奴隷として輸入し加工し食べていたようです。
世界には、カニバリズムと呼ばれる人肉を食べる風習があるというから、他の地域になくはなかったとはいえ、中国人はあきらかに人肉を食べることを楽しんできた。
人肉食、人相食、夫食婦、婦食夫、易子而食(親がお互いに子供を交換して食べる)こういう記録が中国の史書の随所に見いだされる。あの春秋戦国の覇王桓公は子供の丸蒸しを料理として賞味した。宋代には人肉料理のメニューさえある。そのころ食肉用の人間は「両脚羊」と呼ばれていた。

こういう犯罪が持ち込まれることは民の嘆きであったから、「おおみたから」である人民の願いを聞いてということと、派遣時に失われる優秀な人材というリスクも回避するべく、朝廷の多くの公家たちの反対を押し切って、遣唐使を廃止したのである。
当然、利益をあげる道を断たれた公家たちの恨みを買い、冤罪を仕立てられ大宰府に流されて、そこで死んだ。
道真の死後、京都には疫病が流行し、関係した公家たちも次々に命を落としたのだというし、天変地異も続いたことから、菅原道真の霊を慰めねばならないということになった。

そんな思惑とはかけ離れて、祀られた神社は学問の神様として多くの人民から尊敬され支持されたから、今に至るも神社は多くの参拝者で賑わいをみせている。


2016年3月20日日曜日

演奏者は何を伝えたいと思っているのか?

クラシック音楽は好きで、よく聴きます。
聴くのは好きだが、見るのは余り好きではない。

あくまで個人的な感想ですが、大抵の演奏者は大仰な身振り手振りを混じえ、甚だしくは醜く顔を歪めて弾くのを自分で良しとしているように見えるからです。自我が余りに露骨に見える。
そんなことでは決して美しい音楽となっているように思えない。
画像を見ないで聴いてみればわかります。

どうして自分を見せよう見せようとするのだろうか?自我の塊をみせられているようで、画像を見ているうちに興ざめしてしまうのです。
芸術というのは、自我を越えないと良さを伝えられないものの筈です。
そんな身振りや変な表情をする前に、音の粒を揃えたり、美しい音を紡ぎだすことの方に意識を向けるに謙虚であろうとして初めて、感動を伝えられるのだと思うのです。

良いものというのは、何でもそうですが、そこに美しいと感じるものを持っていると信じています。

2016年3月19日土曜日

今年は鶯の鳴き始めが遅かったが

毎年1月になると、近くの森から鶯の鳴き声が聞こえてきたものなのだが、今年はその鳴き声が聞こえてこないかった。
練馬区とはいえ都会ではあるから、流石に住めなくなったのかと諦めていましたが、3月に入った朝早く、たどたどしいながら鳴き始めました。
2週間を過ぎた今は、かなり上手に鳴いて、楽しませてくれます。

ウグイスカクラという名前の、スイカズラ科の落葉樹があります。(写真はネット上からの借り物です)






2016年3月18日金曜日

3.11の震災時に9歳の少年が

3・11の大震災のこともあって、ネットをサーフィンしていた時に読んだ感動的な記事です。

概略はこうです。
どういう経緯でそうなったのかはわかりませんが、ベトナムから日本に帰化して警察官になった人が、福島原発の近くに治安活動の為に派遣されていたときのことだという。
その警察官は、治安は全く心配がいらないので、食糧配布などで忙しく働いている人たちの手助けをしていたらしい。
食糧を配っている場所の最後尾に、短パンTシャツ姿の少年が並んでいた。
近寄って話を聞いたところ、9歳だというその少年は体育の時間に津波が押し寄せた。自分を心配して迎えに来てくれた父親の車が津波に押し流されるのを窓から見ているしかなかった。
家は海の近くだったから、母も妹もどうなったかわからないと言いつつ寒さに耐えていた。
その警察官は、自分の着ていたコートを脱いで少年の肩にかけてやり、持っていた食糧パックを手渡したという。
喜んで食べてくれるかと思ったが、その少年はその食料を配布所の箱のところに持っていき、そこに入れて戻ってきた。
「何故か?」と尋ねると「僕よりももっと空腹な人がいるかもしれない。」と答えた。
家族を失ったかも知れない不安、寒さ、空腹に耐えながら、9歳の少年にして他人への配慮を優先することに感動し、自分一人の胸にしまっておけず、ベトナムの友人にそれを話した。
その友人も感動して、ベトナムの新聞記者にそれを話したところ、新聞の記事になった。
それを読んだ人々から、決して裕福ではないのに寄付金が沢山集まったのだという。

2016年3月17日木曜日

ものを言うのに用心しなくてはならなくなった?

教育というのは、有る部分で強制の側面をもつこよに疑いは差し挟めない。殊に躾けであれば尚更である。
子供が嫌がることはさせないとか、自主性に任せるとかだけでは、社会に適応できる人格は育たないし、最悪の場合は反社会的な考えや行動をとるような大人にだってなりかねない。
コンファタブルなものだけで世の中は成り立っていない。

個人の判断というのは、人間のみに許されているのかも知れないが、一定のルール内である筈であり、何でもかんでも自由とはなるまい。
個人的な好みや主義に異を唱えるつもりはないし、本人がそうだと思っていることを変えようとは思わないが、大威張りで公言されると違和感を覚えることもある。
生物学的に考えるときの「種の保存」ということは、考慮の外に全く追いやってしまって良いとは思えない。
確かに、結婚しないことも子供を作らないことも自由かも知れないが、時に神の領域を侵しているのではないかと畏まってみることも必要なのではないだろうか?

どこかの校長が「女性は子供を二人以上産め」というようなことを言ったとかで、寄ってたかって責め立てているようであるが、いつどこでどんな言い方でいったかは別にして、子供のことをタブー視するような方向付けがされ、それを口にしてはならないとしてしまうのは、決して良いとは思えない。
最近、何か物をいうのに用心しなくてはならなくなったことが多いのではなかろうか。


2016年3月16日水曜日

いつまでプロパガンダを続けるのだろう?

不可逆的に決着をみたというが、実情はそうではなくて、民間?レベルや国連で、まだまだ収まりがついていないようです。

慰安婦の強制連行については、どんなに調べても証拠になるものは見つからないという。
騒ぐために彼らが頼みとしているのは、閣議決定もされていない官房長官の談話と、旧慰安婦の証言だけのように思える。
裁判における証言が証拠として採用されるのは、裏打ちの調査が事実と合致するか、証人の証言が信憑性を持っているかどうかにかかるが、言うたびに内容がコロコロ変わったり、ジープで移動したり、クリスマスパーティーがあったり、年齢を計算すると10歳にも満たないときに慰安婦になったりしてしまうなど、証言を信ずるには難しい。

広島・長崎への原爆投下や、東京大空襲など、非戦闘員を大量に殺戮したことを逸らせる狙いもあってか、日本が悪者であったとする証拠を集めるために、膨大な予算と時間をかけて作った資料のなかにも、強制の事実を示すような記載はないという。

米国では、終戦時に保護した慰安婦からの聞き取り調査などをしたけっかの公文書があり、そこには普通の売春婦であったと記されているというが、その重要部分の上に故意に写真を貼り付けて事実を捏造しているプロパガンダ冊子
https://www.youtube.com/watch?v=2C-_ec1Tj-4 なども外国にばら撒いているらしい。

こうしてみると、いまだに尾を引く事態をつくったA新聞とF辯護士、河野談話の罪は重い。
国会での証人喚問はあってしかるべしだと思う。
まあまあということで曖昧にやっていると、ケリはつかない。


2016年3月15日火曜日

大氷河トレッキング

日本には氷河というものがないので、正確にイメージするのが難しいかも知れません。
氷河とは、雪からできた氷が流動しているものです。寒冷な極地や高山では、降った雪が夏の間にとけきらずに翌年に持ち越され、その上に翌年の雪が降りつもります。
夏などにこの氷河をトレッキングすると、クレバスの間を轟轟と音を立てながら水が流れているのがわかります。
岩や砂が混じった巨大な重量を持つこの堆積物が少しずつ移動するときに岩肌を削って、4千メートル級のアルプスの山々ができたというから凄い。









2016年3月14日月曜日

自然界にある有用菌から発酵液を作って活用しています

ネットで見つけて、いろいろ試しています。
一番効果的に「発酵液」をつくることができたのは、高校時代の友人が自ら栽培して収穫したという「古代米」です。お米の色は、黒紫色をしています。
これは凄い。

ネットの記事の一部です。
玄米や野菜には、人間に良い働きをしてくれる、有用菌群がビッシリくっ付いてます。
その「ミニマムヒーローズ」を、ペットボトルの中で激増させます。
米のとぎ汁の液体中には、そのヒーローたち(乳酸菌・麹菌・光合成菌・酵母菌)が、剥がされて流され、溶け込んでいます。
さらに、とぎ汁には、コメから出るデンプンなどの栄養も入っています。

とぎ汁を取る一番の目的は、ヒーローたちの捕獲なので、出来る限り、新鮮で・無農薬な米を使います。
田んぼからやって来たばっかりのお米には、ビッシリとヒーローがついてます。
だから、獲れたて、自然栽培の玄米が一番です。
(普通栽培より特別栽培、それより有機栽培、一番は自然栽培米。)
(さらに、去年産よりは、今年産を。)

玄米が一番ですが、ヒーローたちは籾の内側にも隠れてるので、精米すると出て来ます。

これからできた液は、PH3.5.
雑菌を滅っしたり、使い方によってガンにも効果があるらしいのです。

2016年3月13日日曜日

国を愛することが右翼だとは思わない

一口に言われていることが多くて、使われ方が本質をついた表現とはとても思えないのが、右翼と左翼という言葉です。
そもそもが、フランス革命後の議会での議席が、革新派は左側に保守派が右側に並べられたのが始まりだといわれます。
いずれにしても愛国心から出ているように思う。
日本では、国を愛するというと、どういうわけか右翼だと言われかねないが、国を愛せないということは問題なのではないだろうか?

普段、イメージとして感じていることなので、そんなことを言うのは怪しからんと怒る人がいるかも知れないですが、左翼右翼どちらも、頭に「反日」という冠詞をつけた方がよさそうに思えてしまうことが多い。

日本で言う左翼というのは、ヘルメットを被りマスクで顔を隠して暴力的なデモをし、共産主義革命を目指すために、日本の国力を削ごうとしているように見えてしまう。

右翼と言うと、戦闘服に身を包み、こちらも暴力的な臭いをぷんぷん漂わせる怖い集団に見える。
彼らが、国旗・国歌を大事にし、靖国神社を遥拝し、天皇陛下を敬う姿を見せると、それらをすることが危険なことなのではないかと、一般国民が疑いを抱くようにするための行動に見えなくもない。

そんなことはあるまいが、左翼と右翼を同時に繰っている勢力が背後にあるのだとしたら、恐ろしいことである。


2016年3月12日土曜日

一番厳しい結果責任

全体像というものを掴まないと、公正公平な評価はできないのだと思う。

戦前戦中の日本が良かったとは言わないし、今が悪いとも思いません。
先人たちのお蔭をもって、今は平和で豊かに暮らせていることに感謝しています。

考えてみると、一番厳しい形で結果責任を問われるのは、戦争なのではなかろうか。殊に負ければそれは厳しくなる。
仕方ないこととはいえ、外交も戦後教育も、重すぎる荷物を背負わされているように感じられてならない。
全てにわたり日本が悪かった。殊に、一部指導者と軍人が槍玉にあげられ、それにより彼らが悪かったのであり一般国民も被害者であったと、一括りで真実から目を逸らされていることが多々あるように思われる。
それを匡だそうとするには抵抗が大きすぎるとして口を噤んではいるが、忸怩たるものがあると思っている人たちも多いのではなかろうか。
ましてや一部知識人?が「戦いで死んだのは犬死だった」などと言い放つとき、「そうではない。どの口がそんなことを言わせるというのか。人間性のかけらも感じさせない冷酷さ以外の何物でもない。」と思っているようにも見える。
国の為、ふるさとの為、愛する家族の為、将来の発展のためと信じ、誇り高く戦い散って行った人たちに向かって、かりそめにでも言える言葉か。

TVなどで、戦友たちが集まった場面の報道がある。
その存在或いはあり方にいろんな意見は有るが、彼らは「靖国神社で会おう」と誓い合い共に戦ったのだと涙ながらに語る。正々堂々、潔く戦ったのだと。
生き延びてしまった分、残された者の務めとして、復興の為に命がけで一所懸命だったと口にしあう。
涙なしには見続けられない。感謝の気持ちで一杯になる。

物事には原因というものがあって起こる。「起」の部分を検証しないで「果」の部分だけを問題にするのでは、全体像は掴めないし、浮かばれない思いをいつまでも残すのではなかろうか?
冷静に考えてみるとき、そこに行きつく流れというものを無視はできない。

開戦に至るまで、それを避けるために陛下をはじめ、その立場にある人たちが並々ならない努力をしたことは、伏せられたままである。
30倍の国力を持つ米国と戦うことの無謀を、指導者たちは十分に理解していたことが窺える。
それでも、やむを得ないとして決断に至った経緯を無視して、後世の者が軽々に論ぜられない。

座して滅びるのを待つのか、敵わぬまでも戦って、後世の為に民族の誇りを伝え残すのか?
植民地支配をされることがどんなに過酷なことか知りえたことも、明治維新を成し遂げた原動力である。そういう世界であった。
日本も植民地支配をしたかのように言う人もいるが、植民地が当時どのようなものであったのか解って言っているとは思えない。
統治した国に学校を沢山作り、教育を施した一事だけをもってしても、全く違う。
国連で人種差別の撤廃を提案した最初の国なのである。五族協和を目指したのでもある。

西洋列強は、東南アジアの植民地を継続確保するためには、東洋で唯一の独立国である日本が、目障りであったに違いない。
ヒトラーは、ユダヤ人の殲滅を謀ったというのは知られているが、ルーズベルトも日本に対しては、そういう認識に近かったのではないだろうか。
ABCDライン(アメリカ・イギリス・チャイナ・オランダ)による経済封鎖は、日本に野垂れ死にを強いるに等しかった。
極め付けが、ハルノート。それはもはや宣戦布告というに近かったのだと思われる。

敗戦後の東京裁判は、国内法によってではなく、事後法ともいえる、それまで世界のどこにもなかった法によって裁かれた。
後に、その裁判の時の判事も検事も、それを指導したマッカーサーも、あの裁判に否定的な言葉を残している現実は重い。

勝者の論理に従いA級戦犯とされた結果も、受け入れた以上、我が国は守らざるを得ないが、一身に背負って残してくれた国を、誇り高く繁栄させていく重大な責任が、我々に残る。
経緯を段々に知るにつけ、そう思わざるを得ないことが多々ある。


2016年3月11日金曜日

乃木将軍は敵将の名誉を重んじた

遇し方というのはあるのではないだろうか。死力を尽くし合ったのであれば尚更である。
このところ、いろいろ調べていて、その感慨が深い。

有色人種でありながら、世界唯一の独立国であった日本が、国の存亡を賭けて戦った日露戦争というのは、割とよく知られている。世界が驚嘆し、アジア諸国のみならずその勝利を喜んだ国もあった。
戦力差にあまりにも開きがあり、日本が勝つとは予想されなかった。
動員できる兵力は、日本陸軍、100万人。ロシア陸軍、200万人
日本海軍、23万トン、戦艦6隻
ロシア海軍、51万トン、戦艦15

東郷平八郎元帥率いる連合艦隊は、日本海海戦でバルチック艦隊をほぼ壊滅させた。
陸上戦では、203高地の激戦で
勝利を収めた乃木将軍は、水師営(清の北洋艦隊隊員の駐屯地)で、ロシア軍の総指揮官ステッセルと会見した。
この時、アメリカ人がその模様を映画に撮りたいとして乃木将軍に願い出たが、「武士道の精神からいって、ステッセル将軍の恥が後世に残るような写真は撮らせてはならない」として断ったという。
その後、再度外国の記者団が写真撮影の申し入れをすると、乃木将軍はそれではと、ステッセル将軍たちに帯剣を許し、「我らが友人となって同列に並んだところを一枚だけ許そう」と答えたという。敗れた側の大将が、勝利者の大将の前で剣を帯びることは、世界の慣例としては許されていなかった。
外国の記者たちは、その寛大さと日本の武士道精神の美しさに息をのみ感動した。

敗れたロシアのステッセル将軍は、責任を取らされ、ロシア皇帝より銃殺刑を宣告された。
日本が裁いたのではない。ロシアの国内法による。
伝え聞いた乃木は、すぐにロシア皇帝に手紙を送り、ステッセル将軍が旅順で死力を尽くして祖国ロシアのために戦ったことを切々と訴え、処刑のとりやめを願い出た。
結果、ロシア皇帝の心は動き、処刑は中止され、シベリア流刑に罪が減ぜられた。
残されたステッセルの家族のために、乃木は自分が死ぬまで生活費を送り続けたという。
(乃木は、明治天皇の崩御にともない、夫人と共に殉死した。)

大勝をおさめたとはいえ賠償は少なかったが、もはや戦争を継続できる国力は残っていず、多くの国民の不満を買った。
勝ちはしたが、国民が浮かれたのは想像に難くないし、後々の歴史に多大な影響を及ぼした。

第二次世界大戦時のイギリス植民地シンガポールは、ここにも日英に圧倒的戦力差があった戦いであったにも拘わらず、あっという間にシンガパールは陥落した。
司令官パーシバル中将は、13000人の兵士と共に降伏した。知らせを聞いたイギリスの首相チャーチルは、「イギリス史上最悪の災害と降伏」と言ったそうである。

敗軍の将パーシバルは捕虜収容所へと送られ、日本の敗戦後に釈放された。
当時、フィリピン防衛の司令官を務めていたかつての敵将・山下奉文が米軍に降伏調印する際、パーシバルはなぜか米軍に呼ばれ降伏調印式に立ち会わされた。
これは敗将山下のみならず、パーシバルにとっても屈辱だったに違いない。

戦後、祖国へ帰ったパーシバルは戦いぶりを非難され続けたが、彼はそれに自己弁護もせず、回顧録にも言い訳めいたことは書かないまま、1966年に78歳でひっそりと生涯を終えたのだという。
英国には引退した将官に「ナイト」の称号を与える伝統があるにも関わらず、敗れたとはいえ勇敢であった筈の彼にはそれさえも与えられなかった。


2016年3月10日木曜日

日本の天皇制にまで口を出してくるとは

国連の「人権委」(国連女子差別撤廃委員会)というのは、一体どんな組織なのだろう?

一応は、徳望が高く、かつ、この条約が対象とする分野において十分な能力を有する専門家で構成する。委員は、締約国の国民の中から締約国により選出されるものとし、個人の資格で職務を遂行する。その選出に当たっては、委員の配分が地理的に衡平に行われること並びに異なる文明形態及び主要な法体系が代表されることを考慮に入れる。ということになってはいるが、識見ということについては、一方的な勧告を見ると、甚だ問題含みであるように感じさせられる。

日本の2700余年の世界最古の歴史を持つ皇室の皇位継承問題に口出ししたり、既に不可逆的な合意を得ている二国間の問題にまで口を挟み、民法上の問題や教科書の内容にまで内政干渉するような注文を付けられる権限があるのだろうか?
何様だと思っているんだと言いたい。
思いつきでとまでは言わないが、考えの及ばない者が軽々しく口にできる問題ではあるまい。
何かを言いたいのなら、きちんと事実関係を調べ、公平でなくては叶わぬはずである。
日本の外務省も、政府も、今までのような弱腰で事なかれ主義ではなく、そろそろきちんと対応すべきであろう。
国際社会は、受け入れ難いものについては強く反論しないと、了承していると勘違いされる。

そもそも、委員の発言には、責任を持つということでの勤務評定のようなものはあるのだろうか?
日本叩きなら大丈夫そうだということで、事実誤認のままでやっているように思えてならない。


国連分担金の順位と、 分担率及び 分担金額(米ドル) (百万未満四捨五入)は以下の通りである。日本は拒否権を持つ常任理事国でもないし、どっかの国のように滞納もしていない。
 1, アメリカ合衆国 22.000パーセント   62,120万ドル
 2, 日本  10.833パーセント   27,650万ドル
 3, ドイツ  7.141パーセント   18,220万ドル
 4, フランス  5.593パーセント   14,270万ドル
 5, 英国   5.179パーセント   13,220 万ドル

これでいて、日本はいつも故ない変な勧告とやらをされることもあって、怒っている国民は多い。


2016年3月9日水曜日

過程の努力も評価されると良いのだが

結果至上主義というのがあります。
確かに、結果を目的通りに出せなければ価値がないということはあるでしょう。
例えば、ビジネス、受験、極めつけは戦争などがそうです。
だからといって、そのためには何をしても良いのだということにはならない。
自ずから人間としての範はある。

どんなに頑張っても、定められた結果を出せないのであれば評価に値しないということになれば、努力する意欲というものはなくなる。
物事には起承転結がある。まず何をなさんと志したのか。それをどのように行動に移しどのように励んだかということを抜きにしてしまうと、結果を得る為によからぬ方法をとることを考える人だってあらわれる。
人間生まれてから死ぬまで限られた時間のうち、9割以上が「過程」にあたる部分だと思う。

結果が出せないならその人が努力をどんなにしても評価しない、頑張る過程で流した血や汗や涙は無意味だと切って捨てるのは、余りに非人道的ではなかろうか?
しかしながら、過程段階を評価することがあるのは、小学生低学年くらいまでで、実社会に出ると通用しないのが現実であろう。
全体像をとらえて評価する術というのは、いまのところなさそうです。

スポーツなどに於いては、結果が出なかったとしても、戦っている姿が感動を与えるということはありますが・・・