2016年7月31日日曜日

心という字が含まれる恋と愛

恋という字はヤッコラヤノヤ、分解すればノーチヨサン、いとしいとしという心、というのを、昔のコンパでは歌った時代に育ちました。
今の若い人たちには判らないと思いますが、恋の旧漢字は「戀」と書きました。

先輩が言うのに、下心があるうちが恋で、真ん中に来ると愛なのだと・・・
因みに、いまの中国で使われる愛という漢字は略字体となってしまっていて、心という字が無いのだという。
その先輩、「玄関で、はきものを脱いで。」というのに読点の位置を変えると、「玄関で履物を脱いで」が、「玄関では、着物を脱いで」となるから気を付けるようにとのことでした。

2016年7月30日土曜日

マンダラゲとも呼ばれるチョウセンアサガオ

浅草の国際通り添いの歩道に、チョウセンアサガオの大きな株があって、蕾を沢山つけていました。



花が咲くと、こんな感じです。



マンダラゲとも呼ばれ、熱帯アジア原産のナス科の一年草ですが、ワルナスビと同様に毒草です。
江戸時代,薬用として栽培され,華岡青洲による日本初の乳癌手術の際,麻酔に使われたことでも知られています。

2016年7月29日金曜日

幼少期の子供は母親と一緒が良いと思うが

働く女性の権利と機会均等ということはよく言われるが、能力とその意思があればそうあって然るべきであるとは思う。
しかしながら、専業主婦(この言い方が良いかどうかは別として)が軽んぜられるような風潮には疑問を覚える。

私見かもしれないが、女性が家庭を守り子弟を細やかな愛情を注ぎながら育てるということは、立派な仕事だと思うからです。
少なくとも子供が小学校を卒業して手が離れるまでは、ともに過ごした方が良いと思える。
夫婦が共に働かなくては収入の上から苦しいとしたら、旦那の収入がそれを賄える社会構造をまず目指すことを考えるのが先なのではなかろうか?

家庭にいることで母親に余暇時間がもしできたなら、そこで趣味や技能を身に着けることもできよう。
少なくとも、専業を軽んずるような意見は違うのではないのか?
子供が目を離しても大丈夫だという段階になってから、働くという選択があっても良いのだと思うのです。

中小企業では、育児休暇をとる女性社員がいたとき、その間を欠員のままで済ませる余裕はない。
そういうところを補うのに、訓練され能力を備えた人を派遣できる組織を作り、そこに再就職の場を設ければ、待機児童の問題も解決できるのではないだろうか?
幼少期の子供は、母親と少しでも長い時間を過ごすのが良いに決まっていると思うのだが、こういうことを言う人はまだいないようです。


2016年7月28日木曜日

自然からの音が雑音としか聞こえないとは

暑い日差しの中で、キリギリスが鳴いているかと思えば、日が落ちての暗闇の中でコオロギも鳴くようになっていています。
日本人は、虫の声を風流だとして愛でますが、外国人にとってのそれは、雑音以外の何物でもないといわれているようです。

日本人の耳は、自然の風物の中の情景から、擬音として表現する言葉が数多く、それを不思議だとも思わない言語を駆使しています。

「しんしん」とは〔夜がふけていく様子〕 夜はしんしんと更けていった、とか〔寒さが身にしみる様子〕 寒さがしんしんと身に染みる、とか〔雪が降り積もる様子〕夜の闇の中、雪がしんしんとあたりに降り積もった、とかのように使われて、情景は勿論だが音として耳に聞こえている感覚も体感として理解できる。
同様に、燦々も、光が降り注ぐ光景を目でも耳でも感じ取る感性が備わっている。
外国人であっても、子供の頃から日本で育つと、そうなるらしい。

精神や心の働きが、それらを育ててきたように思うのです。

2016年7月27日水曜日

良い結果が得られる前段階には

嫌なことが起こったとき、思わしくない結果になったとき、不本意なことと気が滅入るときetc.etc.「ついていないな~、どうしていつもこうなんだろう?」と思い悩んでしまうのは普通の考え方だと思います。

しかし、本当にそうなのでしょうか?
思い方とか感じ方というのが他にあるように思うのです。
「これはいつかは判らないけれど、必ず良い結果として戻ってくる予兆だ。」と思うようにするのです。
お気楽、ノー天気なこととは違います。
そうすることで、その先の結果が違ってくるのは事実のようです。
人は、思い方で幸せを呼び込めるというのが真理です。
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私が書いた小説  (購読無料)
幕末から現代に生まれ変わって、超常現象を介して話しが進むシリーズ。第五部進行中。
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2016年7月26日火曜日

「容認できない」と「許さない」は違うと思うが・・・

個人として、相手を「許さない」とか「許せない」とか言うのなら解るのだが、違和感を覚えてしまう「許さない」という使い方があります。
例えば「政権を許さない」「原発を許さない」「基地を許さない」とか言う表現です。
反対だということはあって当然だし、それを理解できなくて批判するという意味ではありません。

現に在るものは、それに賛成する人があったから存在しているということであって、それらを自分または自分たちだけが許可者だとでもいうかのように、上から目線で決めつけているような、個人または団体の物言いに違和感を覚えるのです。

適当だと思える言葉として思い浮かぶのは、「私は(私たちは)容認できない。」ということなのだと思うのですが・・・

2016年7月25日月曜日

何を言っても書いても逮捕されないのに

幼稚園・道路・葬祭場・発電所などなど、生活にとって必要な施設というのはこの他にも数多い。
ところが、いざこれらを作るとなると、必ず反対運動というのが起こる。
無理してそれを通そうとすれば「民主的ではない。」ということを言うのが常。
誰もが賛成するものはないが、公共の福祉ということとの兼ね合いをどう考えたらよいのだろうか?
地域密着型で、自分に利害が及ぶとなればわからなくもない。
しかし不思議に思うのが、ジャーナリストを標榜する一部の人たち。
彼らは、自分の意見と違うものをすべて、民主的ではないと決めつけるきらいがあるように思えてならない。基本的には何でも反対で、歩み寄りの姿勢を見せることはまずない。
自分の意見が通らなかったり批判されると、とどのつまりは言論の自由を持ち出す。
圧力がかかったと口を開けばいうが、果たしてそうなのだろうか?

何を言ってもやっても、逮捕されたり拘留されたりすることはないから、自由気ままに言いたい放題で、場合によれば偏向しているように見えるが、それをもってジャーナリストだと思い込んでいるとしたら、それは違うと思う。
挙句の果ては選挙結果も認められないというけれど、多くの人の意見をを軽んじていないだろうか?

2016年7月24日日曜日

海が近くにある鹿島神宮

何十年ぶりかで鹿島神宮に行って参りました。
3.11の大震災の折に倒れてしまったという御影石の大鳥居は、杜の中の大木を使って建て替えられていました。
昔、ちょいちょい行っていたときには気づかなかった「サザレ石」が参道からちょっと入ったところにあって、その大きさは今までに見た中で一番大きなものでした。
石は、段々成長して巌となり、そこに苔がむすまでの長きにわたって繁栄するように・・・というのが日本の国歌です。

神宮から少し車で走れば、そこは海。下津(おりつ)と平井の海岸は、海水浴客で賑わっておりました。
暫くこの地を訪ねないでいる間に、大きな道が開け、平井海岸には風力発電用の風車が立ち並んでいました。

鹿島神宮の祭神、タケミカズチの尊が白い鹿にまたがり、奈良の春日大社に行って、そこの祭神としても祀られた。
奈良の鹿は放し飼いにされていて人を怖がらない。外人観光客はそれが不思議なのだという。
鹿を見たら射ちたくなるのだとか。


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2016年7月23日土曜日

町中で盛り上げていた伝統の夏祭り

佐原の大祭夏祭りが開催されているというので、17日に行って来ました。本宿八坂神社の祇園祭りです。 佐原囃子にのせて10台 の絢爛豪華な大人形の山車が小江戸佐原の町並みを曳き回されて、その賑わいが見事でした。




一基引くのに何十人も必要だと思うのですが、町中から集まって仲良く祭りを盛り上げていることに感心しました。
今は、祭りの伝統を引き継ぐのが難しい時代。
街並みも昔の面影を色濃く残し、こういうものが大勢の観光客を集められるのだとも思えて、いろいろ考えさせられました。

2016年7月22日金曜日

江戸時代には既に識字率が世界一だった

ネットというのは有り難い。その気になって探せば何でも出てくる。

江戸時代の日本は、庶民の就学率、識字率はともに世界一だったのだという。
嘉永年間(1850年頃)の江戸の就学率は7086パーセントで、裏長屋に住む子供でも手習いへ行かない子供は男女とも殆どいなかったという。
日本橋、赤坂、本郷などの地域では、男子よりも女子の修学数の方が多かったという記録もあるのだとか。
寺子屋は義務教育ではない。寺子屋制度は、庶民自身の主体的な熱意で自然発生した世界的にも稀有なものだった。
当時の日本は、重要なことは役所や国がやるべきだなどという発想はなく、自分にとって重要であるならば、自分たちで自治的に運営するのが当たり前という感覚を持っていた。
これに対し世界の諸国ではどうだったかというと、1837年当時のイギリスの大工業都市での就学率は、わずか2025パーセントだった。
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世紀中頃の、イギリス最盛期のヴィクトリア時代でさえ、ロンドンの下層階級の識字率は10パーセント程度だったという。
フランスでは1794年に初等教育の授業料が無料となったが、1016歳の就学率はわずか1.4パーセントにすぎなかった。<『大江戸ボランティア事情』(石川英輔・田中優子著、講談社)より>
江戸時代の幕末期では、武士階級はほぼ100パーセントが読み書きができたと考えられている。
町人ら庶民層でみた場合も、男子で4954パーセント、女子では1921パーセントという推定値が出されている。
ついでに言うと、日韓併合時の韓国は、識字率が10パーセントくらいだったのだという。
「情けは他人の為ならず」というのは、本来は自分のところに徳として返ってくるものだという意味だが、K国に限って言えば誤用で使われる意味の「その人の為にならない」ということなのかも知れない。誤った歴史教育が徹底しすぎているようです。
対日貿易が大幅赤字の分、韓国が日本からの輸入を止めたら日本が困るのだと本気で信じている人が多いという。
何を言ってるんだか解っているのだろうか?
日本から輸入しているのは、韓国の輸出に必要な重要部品であったり、工作機械であったり、技術やノウハウであり、それを止めたら一発で国の基幹産業が成り立たなくなるということが理解できないということなのに・・・

2016年7月21日木曜日

英語の案内が聞き取りきれない

山手線に乗っていて、聞くともなく聞いている英語のアナウンス。
こんなくらいは聞き取れなくてはとは思いつつ、けっこう判らないままでいます。

This is Yamanote Line trains bound for 行先×2. (この電車は~方面行き)

The next station is 駅名. (次の駅は~)

The doors on the right(またはleft side will open. (お出口は左(右)側が開きます)

Plaese change here for (the)line (for~方面).(「~線は、ここでお乗換え下さい」

Watch your step when you leave the train.(電車から離れるときは、足元に気をつけて下さい)

2016年7月16日土曜日

ブータン王国は世界一幸せな国だといわれていたが

南シナ海における中国の横暴は、ニュースに取り上げられているけれど、マスコミが殆ど報道しない問題というのは他にもある。
例えばブータン。

311の東日本大震災の後に、国王・王妃が来日され、日本国民に哀悼の意を表わして下さいましたことでも知られる親日国。
世界一幸せな国といわれてもいるが、現実はかなり厳しい。

ヒマラヤ山脈の南、中国とインドに挟まれた九州ほどの国土に約76万人が暮らす王国であるが、中国(チベット自治区)と接するブータン北西部の領土に中国の人民解放軍がじわじわと侵入し、国土の約20%がすでに不法占拠され、領土を実効支配されているらしい。
家を作り、施設を構築し、道路も敷いてとやりたい放題だが、ブータンは小国であり、軍隊はあるといっても、とてものこと中国人民解放軍に対抗できるわけがない。

実質的に不法占拠された中国領になってしまったことによる以前との差は、約8,000平方キロ。兵庫県とほぼ同じ広さである。

核兵器を持つ大国だからといって野放しにしておいて良い筈がないが、こういう国が周辺諸国のどこにその矛先を向けるかということに無関心でいるわけにはいかないが、これも報道しない自由のうちにはいるのだろうか?

2016年7月15日金曜日

写っている画像は前方後円墳としか見えないというが

日本には、約16万基もの古墳が全国に点在しているのだとか。
そんなに沢山あるのだとは知らなかった。

嘘かホントか知らないが、火星には日本の前方後円墳にそっくりなものがあるのだという。
自然に出来上がったものだとはとても思えないというから不思議なことです。

山でもあり丘でもあり

山と丘はどう違う?

山とは、周囲よりも高く盛り上がった地形のことで、傾斜した地形からなるもののことである。陸上にあるものを山といい、海中にあるものは海山、人工的に作られたものは築山とよぶ。

これに対して丘とは、小高くなった土地のことを表し、山よりも低く、傾斜もなだらかな土地のことをさす。丘と山の境界はあいまいである。
比較的小規模な山が丘と呼ばれたり、時に小山と呼ばれることもある。
多数の丘が連続する地形を丘陵(きゅうりょう)という。

反対の感情を煽るだけでは話し合いはできまい

聞いていていつも不思議に思うのだが、「話し合いで」と大声で主張する自称インテリは、反対反対と連呼し、何をとちくるったのか「許さない」とのプラカードを掲げることはあっても話し合いに応じる気配を見せたことがない。
「自分たちの主張を飲め。それができないのは反民主的だ。」と感情的な行動ばかりしているように見える。自分たちが正義だとでも思いあがっているのだろうか?

例えば、憲法改正が戦争に直結するような論調もおかしい。
なんで、感情的に煽ることばかりで話し合いの席に着かないのだろう?
自分たちが作った草案を提示して、日本の行く末についてより良いすり合わせをしようとしないのでは、現実の世界情勢に対する認識に問題ありとしか思えない。
最終的には国民がはんだんできる材料を納得できる形に纏め上げるのが国会議員なのではないのか?それとも国民を馬鹿にしているということなのか?

昔と違って、国民の教育レバルは高い。殆どの人が大学にもいっている。
マスコミが如何に扇動しようとしても、情報の入手先は多様で、自分の判断ができる人が多くなっている。
今回の選挙結果が、如実にそれを表している。躍起になって煽り立てても若者たちは惑わされなかった。
それを謙虚に認めない頑迷さでは、これからの国際社会で名誉ある地歩を固めることはできまい。
自分の思う通りにならなければならないとしたら、話し合いなど到底無理だと、多くの人が見切りをつけ始めているのだと思うが・・・

2016年7月14日木曜日

国際法を守らないと居直られても打つ手なしとは

南シナ海について、国際司法裁判所の裁定がくだったというが、C国はその判断に従う気はさらさらないようである。
国連の常任理事国が、あからさまに法を守らないと言い張っていたのでは、国連の意義が失われる。
放置すれば人工島は益々要塞化するだろうし、近隣諸国の漁業は軍船に護られたC国の目に余る漁船の横暴にまかせたままになりかねない。
更には、この先のシーレーンの安全確保も危惧される。

居直った者勝ちということでは、裁判の意味がないと思うのだが、このまま手を拱いているしかないとしたら、世界の平和はどうなるのだろう?

話し合いで何とかなると、普段から公言している人たちは、こういう時に何も動こうとはしないし、声もあげない。言行の一致しない人たちをどう信じろというのか。
国連の力というのも、余りあてにならないということなのか?

2016年7月13日水曜日

頼み事とお礼の言葉はセット

人にものを頼んだり、相談事をもちかける人はいても不思議はない。
それらをされた側でも、誠実に応えるかどうかは人によって違っても不思議はない。
ただ、相談事や頼み事をよくされる人というのは、総じて誠実な人が多い。

頼みごとや相談をした人でも、結果の報告やお礼をきちんとできるのなら信頼関係が強まり次もあるが、頼むときだけは調子よくて、後は知らんふりという人もいる。
多少なりとも手間暇をかけさせたり真剣に対応してくれた人に対しては、それでは済まない。
それが度重なれば、それは誰に対しても同じであろうから、行く行くは誰からも相手にされない結果を招くことになる。
それも自分が一番困ったときに起こる。

人からの信頼を得る為には、外してはならないことがあるのだから、軽い気持ちで過ごしていると、それは自分に返ってくる結果となる。
簡単なことほど注意して対応を間違えないようにするのが良い。

日本刀が世界から称賛されるからといって

世界から称賛される日本刀というのは、切れ味が凄いということもさることながら、形状がまた素晴らしくて、美術品の域に達している。

信じ難いほどの切れ味を持ちながら、折れずに曲がらない。
切れ味を増そうとすれば、硬くするよりないから折れやすくなり、折れにくくすれば曲がりやすくなるという、「鉄の本性」を、両方兼ね備えているのが日本刀であり、その性能を持ちながらのものとしては軽くて扱いやすい。

古くは、日本の刃物であった剣というのは直刀であったが、世界に比類なき日本刀の原型が現れたのは、今から900年近く前の平安時代末期であり、続く鎌倉時代には一つの頂点を迎えたといわれている。
以来、日本刀はそれぞれの時代の刀工によってその技術は綿々と伝え続けられ、その上に様々な工夫も付け加えられたが、古刀と呼ばれるものを超えたとの評価は無いようです。

日本刀に特徴的なのは、反りと鎬造(しのぎづくり)。
刃を弧状に反らし、さらに強度を損なわないように肉をそぎ落とした日本刀は、軽くて振り回しやすい。

日本刀の素材である玉鋼(たまはがね)は、良質の砂鉄を木炭でフイゴを使って低温還元する日本古来のたたら製鉄法によって、日本刀用の鋼に精製される。
炭素以外の不純物、とりわけ脆さなどの要因となる硫黄やリンを殆ど含まない、極めて純度の高い鋼となる。
この玉鋼に古い鉄などを混ぜ、鍛えて地鉄として作刀にあたる。

刃文は刀身に描かれる模様であるが、美的な目的で描かれているというわけではない。
刃の部分が強く焼入れされた状態となっており、焼きの入っていない地鉄の部分との境界部分が刃文として現れる。
焼き入れにより反りが生じる過程で、刃の部分には強い圧縮応力が蓄えられることになる。

日本刀の文化は、日帝時代に奪われたのだなどと、無知蒙昧としか言いようのないことをいう人がいるようだが、愚かというも哀れである。
どうして何にでも起源説を唱えたがるのだろうか?

2016年7月12日火曜日

備えというのは事前にしておくものだと思うが

戦争は避けたいと思うのは、誰でも同じだと思う。
そのやりかたが違うのは、ひとそれぞれの考え方があっても不思議ではない。
要は、どれが現実に即しているかということになる。

普通に考えて、殴っても殴り返すことができない相手と、普段自分から手を出すことはしないけれど、殴ったら自分も手ひどく反撃されるであろうと解っている相手とを比べたとき、どちらが平穏でいられるかは明らかである。

備えをすることが右翼で、聞く耳持たない相手と話し合いでなんとかなると思っているのが平和主義者だとしたら、その区分けの仕方はおかしい。

話し合いで何とかなると公言している人たちが、尖閣を犯す気まんまんの相手と話し合いをしたということはあるまい。
相手のあることは、自分が思っていることとは違っていて当たり前なのが常識ではないのか。
如何にして危険を避けるかということについては、「何でも反対」というのではなく、対案を提示して議論を尽くす姿勢を見せるべきであろう。

ベトナムで漁船がC国の公船に体当たりされて沈没し、乗組員を救助しようとするのさえ妨害されたという事件があったという。こんな相手とどう話し合うというのか?
手を出しにくくしておくのは自衛上大事なことである。

選挙を終え、憲法改正が話題にあがってくるのだと思うが、憲法改正即ち戦争とレッテルを貼り、短絡的感情的に叫んだり煽ったりして議論からも遠ざけようとするのではなく、対案を提示してよりよいものへとすり合わせていく努力をつくさないのでは、何のために選ばれて議員になったのかわからない。

簡単に改正とまではいかないに決まっているが、触れてはならないものというのでは偏狭に過ぎると思う。決めるのは国民なのだから、議論はした方が良い。

2016年7月11日月曜日

大人の署名を集められないからといって

選挙前には不適当な話題かと思い控えていましたが・・・

冷静に考えてみると、現代世界においては、独裁国家か狂信的指導者が統治する国以外に、国際的ルールを無視して戦争を起こすなどということは考えにくい。

たまたまネットサーフィンをしていて目にしたのだが、戦後の日本においては各党が憲法草案というのを提示したのだという。
今は引っ込めているらしいが、K党の草案というのは凄まじい。(国会図書館にはあるという)
本質は、今もかわっていないのではないかと思われる。

下校途中の小学生を呼び止めて「お父さんお母さんが戦争で死んだらどうする?」と言って署名活動をしたのだとか。
通報を受けて学校職員と父兄が駆けつけてやめさせたらしいが、年端もいかぬ子供たちは泣きながら帰宅したとかで、心には深い傷を負ったに違いない。

大人の署名を集められないからと言って、子供にそれを求めることは如何かと思うが、ニュースにはならなかったと思う。ネットでは、かなり問題視されたというが・・・。


2016年7月10日日曜日

調和的情趣「もののあわれ」

何の説明もなしに「もののあはれ」を理解できるのが日本人だという。

平安時代の王朝文学を知る上で重要な 文学的・美的理念の一つであることには違いないが、折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁である。

本居宣長は、「もののあわれ」について、もっと深い考察をしている。
 簡単に言えば「 ものごとの本質、その本質を感じる心」
外界としての「もの」と感情としての「あわれ」とが一致する所に生じた,調和的な 情趣の世界をとらえていう。

「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」
この情景・情感が黙って共有できる素養が、日本人にはあるのだと思える。

2016年7月9日土曜日

民度の高さはどこからくる?

「他人様に迷惑をかけないようにしなさい。」
「誰が見ていなくても、お天道様はお見透しだからね。」
「我慢しなさい。」
古来からこの三つが、親の教えの基本にあったように思います。
世界が称賛する日本人の民度の高さは、これらが長く培われてきたことに起因しているのではなかろうか?

近年、こういうことを言える大人が少なくなってきて、自分の思い通りにならないものは全て「誰それが悪い」「社会が悪い」「国が悪い」と、自分以外に責任を転嫁することが多くなってきているように思えてならない。

個性を重視するのは、「自分勝手なことをする」ということと同義ではないのだが、勘違いさせるようなことを教え込んでいるきらいがないとはいえまい。
人が見ていなければ、或いは誰がやったか判らなければ、破廉恥なことでも平気でやる。
そんなことでは、内なる神性は育たないから、結局自分がどこかで手ひどい損をする結果を招く。
平たく言えば、ブーメランということになる。

共通のルールを守っていてもなお溢れんばかりに輝き出るのが、個性なのだと思う。


2016年7月8日金曜日

東日本と西日本は、どこで分ける?

何となく解っているようで解らない分け方に、東日本と西日本というのがあります。
具体的に、東日本はどこからどこまでで、西日本はどこからどこまでか?ということ。

どうやら一律ではなく、いろいろな分け方があります。
中部地方(甲信越、北陸、東海)のどこで分けるか、東西どちらにも含めないか等によって違いが出てきます。

国土交通省 気象庁 (全般気象情報などに用いる地域名)
・ 北日本 ……… 北海道、東北
・ 東日本 ……… 関東甲信、北陸、東海
・ 西日本 ……… 近畿、中国、四国、九州北部、九州南部
・ 沖縄・奄美 … 鹿児島県奄美、沖縄

国土交通省 航空局
・ 東京航空局(東日本)… 北海道、東北、関東、甲信越、静岡
・ 大阪航空局(西日本)… 北陸、東海、近畿、中国、四国、九州、沖縄

電気通信(旧 日本電信電話公社)
NTT東日本 …… 北海道、東北、関東(山梨含む)、信越
NTT西日本 …… 北陸、東海(静岡含む)、近畿、中国、四国、九州・沖縄

まあ、感覚的にわかれば済むことがおおいのだけれど・・・

2016年7月7日木曜日

人生の達人が言うと

義母は生まれついての江戸っ子だが、若いときは上品な言葉遣いをしていた。
90歳を過ぎて地が出てきたのか、べらんめえ口調が増えてきた。

2か月ほど前に脳内出血をして倒れ、緊急入院をした。
かかりつけの主治医が日頃から見ていて「体力があるから手術しましょう。そうでなければこのままお見送りするケースかも知れませんが、大丈夫でしょう。」と言って下さり、手術は成功した。
リハビリ施設に入所して元気になるにつれ「早く死にてえよ。」と口癖のように言うようになった。
この間も見舞いに行ったら、丁度食事中であったのだが、元気な声で死にてえと言ったのに対し、
入院仲間で親しくなったお婆さんが「あなた何をいってるのよ。美味しいご飯を食べてからでなきゃもったいないじゃないの。それに、これから自由に生きられる年になっているんだから、楽しくすごさなくっちゃ。」と声をかけた。

お説教調ではなく、しみじみと伝わる話し方に、人生の達人の雰囲気があって、いたく感じ入りました。

2016年7月6日水曜日

客なのに「有難う」というからわかる

外国のお店で旅行者が買い物をしたとき、日本人だということはすぐ分るのだという。
東洋人の中で、特に変わった顔をしているからではない。
マナーが良いことは確かであろうが、それだけではなく、支払いを終えて品物を受け取るとき、日本人は必ず「有難う」というから判るのだという。
日本人以外に、客の側が有難うということはないらしい。

そう言われてみれば、国内で買い物をするときでも、確かにそうしている。
客面して偉そうに品物を受け取るのではなく、自然に「有難う」と言っている。
店側も客側も、有難うと言い合える何かを、互いに交わしているということになる。

2016年7月5日火曜日

この先も感情的な修復は難しそう

我々の年代以前の人たちは、戦後間もなくの学校教育で、日本は諸外国に謝罪しなくてはならないのだと教わってきた。

仲良くしていくのには我慢してでも譲らねばならないということで、謂れなきことについても、ずっと謝罪を繰り返してきたと思う。

ちかし、K国は、どこまで行ってもも許す気は毛頭ないらしい。
それをしたら彼らの長く培ってきたアイデンティティが壊れてしまう域にあるように思える。
中華の属国として小中華を標榜するも、C国から苛烈な支配・制限を受けたから、その矛先は自国民に向かい、その民たちの鬱憤は日本を蛮国と蔑むことで紛らわしたということかも知れない。
よく用いられる、自分より下があるのだということで、現実逃避により精神的バランスを図る極めて稚拙な策であったのだと思う。
ところが、文化文明はかなり以前から日本の方が進んでいたことは紛れもあるまい。

手を変え品を変えいろいろ主張してくるが、どう値引きして考えてみても、K国の現在の発展は、日本の資本と技術援助のお陰だと思わざるをえない。

日本が植民地支配することで、すべてを奪ったと言いたいらしいが、どこの国に選挙権も被選挙権も与えられていた植民地というのが存在したというのだろうか?
清朝末期のころの李氏朝鮮の惨状は、諸外国の冒険家の撮った写真などでも明らかなように、およそ文明国とはいえず、糞尿にまみれたと表現された通りだったのではないだろうか。

戦時下であったから、酷いことを全くしなかったとまでは言わないが、併合時代に、教育も社会資本も底上げされた事実は変えようもあるまい。日本より諸外国がそれを指摘している。

我々の年代まではまだ良いとして、これから先を担う若者たちは、自分で事実関係を調べて本当のところはどうだったのか、ということを知ってしまったから、これまでの理不尽な要求に不快感を持ってしまっているし、かの国はかの国で刷り込み教育が徹底しすぎてしまっているから、これから先を仲良くやっていくのはかなり難しいのではなかろうか。