2016年8月31日水曜日

他人を追い詰めることがあるかも知れないのに

不思議に思うのだけれど、何かの重大事件が起こると、自分の知りえた事実が報道の範囲内のことであっても、訳知り顔に「こうあるべきだ」とコメントする人が大勢でてくる。
自分のことを棚に上げてということは全くないのだろうか?
残虐犯罪や破廉恥な犯罪を肯定する気持ちはさらさらないが、よってたかってのリンチにも等しいやりようには、どうしても違和感を覚えてしまうのです。
他人に要求できるほど自分が完全無欠ではないということもあるが、個々の意見はさておき、第一義的には法の裁きに従うべきなのだと思うのです。

死刑反対論者ではないから、個人的にはそれが適用されても良いと考えるような犯罪であっても、実際の裁判では死刑の判決が下されるような犯罪でもないものでも、家族もろとも追い詰める人たちというのは、家族は自決せよと迫ってでもいるのだろうか?
生きる道すら残さないようなことをするということは、そうなる。
法定刑というのは、納得がいかない事案であっても、人間が作り上げてきた知恵なのかも知れない。

納得がいかないといえば、犯人が外国人であったと判明すると、途端に報道のトーンが下がる例も多いように感じられる。実名報道もされることがないように思う。
国民の知る権利というのは、報道の自由と一致していないとしたら、恐ろしいことでもある。
冷静、公平であることは難しい。

2016年8月30日火曜日

植民地支配したことを謝罪した国というのはあるのだろうか?

万里の長城の中が中国だったはずが、満州もモンゴルもチベット・ウィグルもブータンその他も陸地への侵略は現実になされた。
今度は海への侵略ということなのだろうか?
領土・領海というものに対して、どのくらいの時期まで遡って権利を主張するのが適当なのかは解らないが、それらは現実的には戦争による帰結であったようにも思える。
植民地支配されていたけれど独立できた国もあるが、併合されたまま同一国となっている地域は残っているようです。
旧植民地国に謝罪と賠償を行った事例っていうのはあるのだろうか?浅学にして思い浮かばないが、それがなされることはなさそうに思う。国というものは、基本的にはそういうことをしない。
アメリカ………フィリピンその他の植民地を持っていたし、ベトナム戦争もしたが、謝罪したことは一度もない。
イギリス……インドやアジア諸国、香港を植民地にしていたが、謝罪したことは一度もない。
アヘン戦争などという酷いのもある。
フランス……ベトナム・アルジェリアを植民地にしてたが謝罪したことは一度もない。
オランダ……インドネシアを植民地にしてたが謝罪したことは一度もない。
ポルトガル……マカオを何世紀にも渡り植民地にしてたが謝罪したことは一度もない。
ドイツ………ナチの虐殺行為は認めたが、侵略を謝罪したことは一度もない。
ロシア………東欧諸国を戦後も弾圧し続けてたが、民主化後謝罪したことは一度もない。
スペイン……フィリピンを何世紀にも渡り植民地にしてたが謝罪したことは一度もない。
中国………世界各地で昔も今も侵略と虐殺を続けてるが謝罪したことは一度もない。
日本…………全ての戦禍国に何度も謝罪している。ついでに賠償までしている。
韓国などは、条約による併合であったと思うが、いかなる事情下にあったにせよ国の約束であったにも拘らず、そんな条約は無効であると主張する。
まあ、理性的に折衝できる程度まで民度が育たないうちは、拘らないでいる方が良いように思う。
そうは言っても厄介なのは、国を挙げて反日教育を刷り込んだであろうから、いつになったら冷静な判断力が育つのやらが判らない国が2国もあるということであろう。


2016年8月29日月曜日

あえて合致させなくても良さそうに思える歴史認識

歴史認識ということをよくいう人がいる。
8月になると、特に多い。

資料というものがいかに沢山残っていようとも、歴史としての結果に至る過程で、どのような判断がなされたかは複雑にからみあったことや偶発的なこともあっただろうから、どう認識するのが正解ということにはなりにくい。
国と国との関係ということになれば、さらにその解釈や認識が違っても不思議はない。
それが合致するならば、戦争など起こすことなく話し合いで済んだ。

建国時に反日を唱えて成立した国は、政権の正統性を揺るがしかねないから、国体でも変わらない限り、永劫に認識が合致することなどなさそうにも思える。

認識というのは、誰にとって都合が良いかということにも重なる。
ヤルタ会談などという米英ソで戦後の分け前を勝手に決めたことだって、自由主義国と共産国の異様な談合であったし、米英ソが互いに権益を求めて侵略を狙った中国が、狙われていたにも拘らず有色人種で唯一、白人国と組んで戦ったというのも異様である。
戦争となれば何でもありということである。
戦後の枠組みを否定することはできないにしても、それがすべて正しかったのだとするかどうかには、議論があってもよかろう。
蒸し返して覆そうというのでなければ、非常理は非常理なことであったとして受け入れるのも歴史である。

歴史というのは、もはや取り戻すことができないのだから、学問的に事実関係を冷静に研究して、将来に役立つようにするものなのだと考えるのだが、厄介なのが、ここにイデオロギー問題を持ち込み、どこの国の人か判らないような解釈の主張をして、権力闘争の具にする人たちがいることである。人類の将来のためにというのではなさそうである。
全てが良かったことも全てが悪かったことも歴史にはあるまい。

歴史認識の摺り合わせというのは、双方が理性的かつ冷静でなくては叶わぬ。
100年や200年でそれができるとも思えない。理想を現実化するのには、先が長い。

2016年8月28日日曜日

厄介なことには違いないが

SLBM:潜水艦発射弾道ミサイル( submarine- launched ballistic missile, )は、射程に限らず潜水艦から発射する弾道ミサイル を指す。現用兵器は全て核弾頭を装備するから厄介である。
北朝鮮がこれの発射をし500キロメートル飛んだということは、一定の脅威であることにちがいはないにしても、直ちに危険というにはあたらないように感じる。
軍事兵器のことが詳しいわけではないが、潜水艦というのは潜行したままで隠密裏に移動できる技術がなければ、軍港を出港するやいなや直ちに捕捉され、戦時であれば即座に撃沈される。
艦としての静粛性や、乗務員の練度が伴わなければ戦略上ものの役には立たないのだと思う。

C国ご自慢の空母「遼寧」は、カジノにすると言って買い付け、多少改装はしたらしいが、戦闘機の離陸に必要なカタパルトがあるとは聞かない。
それよりも何よりも、発艦した戦闘機が着艦できるだけの搭乗員技術があるのかどうかが疑わしい。空母こそまさに、総合的兵器といえよう。
近代戦というのは、兵器の質と運用能力が兼ね備わっていなくては、数量だけではものがいえないのではなかろうか?

脅威を煽って危険度を広く知らしめることは必要だと思うが、それに倍する質と練度を高めて危機に備えることが効率的なのだと思う。
他国が追随できない先進技術が我が国には数多く蓄積されているようで心強い。

2016年8月27日土曜日

連座制は残っている?

『連座制』という刑罰制度が、江戸時代以前にありました。
旧弊に過ぎぬということで、段々に否定されてはきましたが、現実には色濃く残っている部分もあります。

連座制というのは、重大犯罪に対しては、罪が容疑者だけでなく、家族、親族、地域社会などの関係者にまで及ぶ制度です。
中国では、『罪は九族に及ぶ』といわれ、権力闘争に勝つと、反対派に対して、『一族郎党に至るまで根絶やし』といわれるほどの刑罰を与えてきました。
その伝統は、中国の東隣の朝鮮でも同じようなものですし、我が国においてもあったようです。

現代においても、世間の耳目を集めるような残虐犯罪や破廉恥な犯罪は、マスコミと称する人たちが加害者被害者に拘らず、法制度ではないといえども、その関係者や知人に至るまで追いかけまわし、洗いざらい調べだして報道するきらいがあるように思います。
家族としては、他人事と言って済ませられないことはその通りだとしても、実質的な社会的制裁となり、法を犯した本人よりも重い結果となるようにも見えます。
さほど事実関係を知りもしないであろうコメンテーターの、上から目線の言辞も並ぶ。

犯罪が許されないものであるのは当然であるし、親や家族の責任ということもあるかも知れないが、彼らがどこまでが責められてしかるべきなのかがはっきり解らない。
近年、個を大切にして、仮令教育や躾上のことであったも、親の関わりを極力排除しようという風潮を煽ってきたのではないのか?
整合性をいかにしてつけるというのだろうか?

知る権利と報道の自由を振りかざしたとしても、おのずから限度や節度というものがあって然るべしだと思うが、さらに言えば同様の事件でも大騒ぎするのもあればスルーしてしまうのもあるとしたら、基準をどこにおくかということも考えねばなるまい。

ことほどさように、犯罪を起こさないように教育するとともに、起こせばどのような影響がでるかも教えていくことが求められてもいるように思う。


平和に収まっていることを願ってついた「太」の字

大まかに言って、ユーラシア大陸とアメリカ大陸の西側の間の海を、パシフィック (Pacific). 太平洋と呼び、アメリカ大陸の東側とユーラシア大陸の間の海を、アトランティック(Atlantic)・、大西洋と呼ぶ。

「大西洋」は「 西の大洋=西の広い海」の意味で単純に「大」ですが、「太平洋」の「太」は「泰平・太平 =世の中が静かで平和に収まっていること」の意味から「太」となっています。
普段気にもしないで使っている字ですが、書き分ける必要がありそうです。

その他の大洋は、インド洋などがありますが、南シナ海は近年きな臭い。

2016年8月26日金曜日

レンゲショウマの花は美しい

レンゲショウマの花を知っている人は少ないが、見たら忘れられない花となります。
ですから、ネットで開花情報を確認して、夏の奥多摩の御岳山に出かけるのには、登山とは別の楽しみです。
そろそろ花の時季です。ファイルを整理していたら写真が出てきましたので抜粋してみました。
ケーブルカー御岳山駅より徒歩5分の富士峰園地北斜面に、約5万株のレンゲショウマが群生しており、淡い紫色の可憐な花があたり一面に咲いているのは、幻想的ですらあります。
レンゲショウマの群生地としては、日本一といわれております。
写真をyoutubeにしてみました。お天気があまり良くない日のものですが・・・


ギリギリまで努力した選手たちは美しかった

オリンピックが終わって、気分的にちょっとした空白ができてしまっています。
素晴らしかった。

逆さに振っても華字も出ないほどに極限状態まで努力を重ねた参加選手たちの姿は美しい。
望んだ結果が得られた選手も、それが叶わなかった選手もいるが、国の代表としての責任感の重さを、周りへの感謝の言葉として述べていることに尊さを感じさせられる。
流された国歌「君が代」を共に歌っていることも、ひととなりがうかがえてよかった。
一流たりえる人たちというのは心構えが違う。

インタビューする側も、それに見合う問いかけをして欲しいものだと思えてならなかった。
感動というのは、与えるものでも与えられるものでもなく、齎されるものなのだと思う。
それを感じ取れる域にこちらサイドも育っていることが大事なのだと感じた。

2016年8月25日木曜日

平等を目指して歴史はもめた

歴史というのは大まかな流れというのがあるようです。
人類が生まれ、同族が共同で生活をするようになると、長老と呼ばれる指導者の下でかたまる。
それはいずれ王と呼ばれる権力組織に結びつき、悲しいことだが結果的に民を虐げるということにもつながる。
人は生まれながらに平等であるから、圧迫が限度を超えると、ストレスのエネルギーは爆発する。

古くは、神の下の平等を唱えたムハンマドであり、下っては、王家・貴族の支配から脱却しようとしたフランス革命による人権宣言であった。
このとき立ち上がった市民は、徒手空拳、みずからの命をものともせず戦ったのであり、戦争だの平和だの言っていられない状況下にあったのだと思う。

続きがある。
フランスがそういう国になったとき、フランスの周りの国には王家が存在していた。
その権益が影響を受けることは排除しなければならないということになるのは当然の流れであり、対仏同盟が形成されフランスは包囲網の中におかれることになる。
権益を侵す恐れのあるものは、よってたかって叩き潰そうということになるのは不思議でも何でもない。
ナポレオンが出てくる原因でもあった。

その後、ヨーロッパ諸国は先を争ってアジアに武力で進出し、そこで平和に暮らしていた国々を故なく植民地として支配した。有色人種はそのように扱っても痛痒は感じなかった。

第一次世界大戦後のパリ講和条約において、連合国側の一員であった日本は、一次大戦よりも前にロシアの侵略を排撃できた経験もあって、「国家平等の原則」「人種差別撤廃」を提言した。
有色人種として初めて白人に勝利することができた日本は、一人自国のことのみを考えるのではなく、広くアジア・アフリカ諸国のことも考えていたということである。
それらの国にとっては希望の星であったに違いないが、植民地を持っている国々にとって、日本は癪に障る目障りな国となった。

フランス革命後の動きと同じく、正しい理屈であっても権益を侵す恐れのあることを主張する国は、寄ってたかって叩き潰す必要があるとするのが自然の流れであったろう。

差別を無くし、平等を唱えるときは、血が流れるということかも知れない。
そうであるならなおのこと、これから先の世界各国においては、力を誇示して覇権を目指す国があることなどということは、否定されねばならない。
未だに帝国主義的な国というのがある。

2016年8月24日水曜日

こんな植民地支配なんてあるか?

植民地というものについては、本来の定義づけというのはある。
しかし、西洋諸国がアジアにおいてなしたように、住民を奴隷同然に扱い、そこに住む優秀な人材は両手首を切り落としたというような非道な支配をした国もあれば、ともに将来栄えていこうとしたものとは、同列に一括りの呼び方をするのは馴染まないように思う。

異論はあるだろうが、選挙権も被選挙権もあり、官職にもつくことができたり、教育の機会均等があったことが歴史的事実を持つものをも、同じ範疇で語ることは無理があり過ぎる。

Youtubeに三橋貴明氏の語っているものがあって、解りやすかった。


2016年8月19日金曜日

他国に宗教観についてとやかくいわれても

法学部に在学していた頃には勉強したように思うが、政教分離というのはどういうことなのかと明確に理解できないでいます。

ウィキペディアによれば、
政教分離原則(せいきょうぶんりげんそく)とは、国家([政府])と[宗教]の分離の原則をいう。ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し、広義には「君主」や「国家」を指す。
国家により、日本などに見られる国家による一切の宗教的活動を禁止する厳格な分離(分離型)や、国家が平等に宗教を扱えばよいとする英国などに見られる緩やかな分離(融合型)などに分かれる。
信教の自由の制度的保障として捉えられる。
となっていて、解ったような解らないような気持が残る。

信仰者や宗教団体が政治参加することは違憲ではないのかといった疑問を投げかける人がいまだにいる。いわゆる「政教分離」問題であるが、世界では宗教的思想をもつ 政党は一般的なように思えます。
最近では、極端な宗教教義を前面に立てた国?を名乗る組織も表れている。

我が国がいまさら国家神道を蒸し返すなどということは考えられないが、宗教というものは税法その他で多かれ少なかれ庇護されていることは事実であろう。

心の問題は、長い伝統に基づき文化の域に達していることであるから、他国の文化に文句をいってみたところで始まらない。
我が国は、霊魂を安んじることで平和と安寧を願い、幸せを求めてきたのだと思う。

2016年8月18日木曜日

国債について国民一人当たりの借金という表現に違和感を持ってしまうのだが

財務省は10日、国債と借入金などの残高を合計した「国の借金」が6月末時点で10534676億円になったと発表した。
3月末時点から41015億円の増加で、不足する税収分を賄う国債の発行額が増えた。

こういう発表があると必ず、メディアは大変だ大変だということで、「人口推計(12699万人)を基に単純計算すると、国民1人当たりの借金は約830万円になる。」というニュースを流す。

国債の発行残高がそうだということは解るが、そんな単純なことで良いのか?といつも違和感を覚える。どうにも解らないからです。
どうしても増税したいということからだけ言っているようにも聞こえてしまう。

例えば、個人の家庭であっても企業であっても、大抵は借入金というのが有るのが普通です。
しかし、借入金は有ってもそれに見合う資産というものがあって、株主総会などにおいて、貸借対照表上にそれは明確に発表される。

国の借金ということはわかっても、資産というものがどれ位あるのかが伏せられていたのでは、額が大きいことだけを知らされても判断しにくい。
しかも、国民一人当たりの借金といわれても、日本の国債の殆どは日本人が購入しているのであり、国民は債権者であって債務者と呼ぶには相応しくないように思ってしまうのです。
日本はG国のように、国債の大半が外国人所有というのとは全く違うのであるから、同列に比べてみるわけにもいくまい。G国と違い、通貨の発行権もある。
日本の借金が巨大で不安な国だというのに通貨が値上がりすることも、どういうことなのか納得できる説明がない。
信用不安のある国の通貨が、なぜ買われることになるのだろう?

消費税を上げれば景気が低迷して、結果的に税収が落ちるといわれているのに、消費税をあげることが必要なのだと説明しきれる人もいないように思える。
大変だ大変だ、世界が黙っていないと騒ぐだけのように聞こえる。

税金というものを国民が納得理解できるものを、理解できる言葉を使って説明してほしい。

2016年8月17日水曜日

当事の若者が何を願ったのか

高校時代に同期であった友人が、戦争末期、人間魚雷「回天」で敵艦に突撃した学徒出陣の若者が、当時としては珍しい録音盤に残した遺書のような2分40秒にわたる音源を、自分では聞き取り切れないからと送ってきました。

 参考までに、私が聞き取れた部分は次のようになっています。聞き違いもあるかと思います。という彼の注釈付きでした。

「父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして長い間育んでくれた町よ、学校よ。さようなら。本当にありがとう。こんな我儘な者を、よくまあ本当にありがとう。
 僕はもっともっといつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。愉快に勉強し、みんなにうんとご恩返しをしなくてはならないんだ。

春は春風が都の空に踊り、みんなと川辺に遊んだっけ。夏は氏神様のお祭りだ。神楽囃子があふれてる。昔は懐かしいよ。秋になればお月見だと言ってあの崖下にススキを取りに行ったね。あそこで転んだのは誰だったかしら。雪の日はみんな大喜びで外に出て雪合戦だ。昔は懐かしいなあ。

こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。喧嘩したり争ったりしても、心の中ではいつも手を握り合っていた。

しかし、僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。日本人。日本人。自分の血の中には、3000年の間受け継がれてきた先祖の息吹きが脈打っているんだ。鎧兜に身を固め(以下不明)のために討ち死にしたもののふ(以下不明)と同じような血が流れているんだ。

(以下不明)の詔が下された十二月八日のあの瞬間から、我々は、我々青年は、余生の日々を祖国に捧げる(以下不明)
人生二十年。余生に費やされるべき精力のすべてを、この決戦にささげよう。完璧実行せよ。親父もおじいさんもひいおじいさんも企てしすべてを乗り越えて、行くぞ、やるぞ、(以下不明)し人々よ、(以下不明)の守りに大東亜の(以下不明)に健闘せられよ。

また幼き者へ。我らの屍を乗り越え、(以下不明)日章旗を翻して前進せよ。(以下不明)永遠(とわ)に栄あれ、祖国日本。我ら今ぞ征かん。南の海に、北の島に、すべてを投げ打って戦わん。大東亜の民が呼んでいる。十億の民が希望の瞳で招いている。

みんなさようなら。元気で征きます」

音源を再生してみたが、私にもこれ以上は聞きとれなかった。
それで、以下のように返信しました。

録音が良くないのか、確かに聞き取れません。
しかしながら、当時の若者たちが何を大切に思い何を願ったかは伝わってきます。

終戦記念日を迎え、いろいろ考えてしまいました。
戦争が良いか悪いかということだけで論ずれば、良いという人は皆無でしょう。

学校では、近現代史というのを授業では学ばなかった。時間が足りないというのが理由であったが、この時期のことに触れると何か不都合なことが浮かび上がってきてしまうからなのではないかと、今にして感じます。
時間が足りないのなら、古代史は考古学に譲って、そこを省けばよい。
「日本は悪いことをしたのだ。」ということのみを刷り込まれた。

それに続けて所感を述べたのですが、長文になるため省略しますが、要は、喧伝されたことのみを無見識に信じるのは如何かと思う。良い悪いの問題ではなく、事実関係というものを時代背景も含め、検証しないまま軽々に口にすべきではない重みがある時代であったのではないか?という内容のものです。
機会があったら、アップすることがあるかも知れませんが・・・

胡散臭いというのはどんな匂いなのか判らないが

怪しげな話を「胡散臭い話」という表現をするが、胡散っていうのは何なのか知らずにつかっている。

胡散というのは、香辛料の一種であり、16世紀のペルシャで広く使われていたのだという。口にすると軽いトランス状態を引き起こす特殊な成分を含んでいたのだと言われるが、その当時はどんな料理にも必ず胡散が使用されていたらしい。
トランス状態を楽しみながら食事をしたということは、危険にも思えるが、酒に酔う感覚と同じ程度であったらしい。

ところが、胡散を大量に摂取すると深い催眠状態に陥るという厄介な性質が判ったことにより、胡散を悪用する輩が後を絶たず、17世紀初頭には深刻な社会問題に発展していた。
その為、胡散の臭いがする者は即ち悪人と判断されるようになり、胡散は香辛料としての商品価値をも失うに至った。
胡散の製造はおろか、原料となる植物さえ栽培されることがなくなり、現代では種子そのものまでもが絶えてしまったのだという。
だから、それがどんな匂いなのか判らないが、まことしやかに話をしても、眉に唾をつけて聞くような疑わしい気配を感じると、胡散臭いと言われて相手にされないことになる。

2016年8月16日火曜日

100歳前後の人をアラハンと呼ぶらしい

昔の映画で、鞍馬天狗の主人公を演じた嵐寛寿郎という人気役者がいました。
大抵の人は、縮めて「あらかん」と呼んでいました。

「あらかん」というと、当時の信心深い年寄たちは間違えることもあった。
阿羅漢 (あらかん)というのはサンスクリット語から出た言葉で、仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のことをいう。羅漢様。

最近は、アラフォー(アラウンド フォーティー)などと40歳前後のことを指すことがあるが、「アラハン」という人も出てきた。
アラウンド ハンドレッド、100歳前後の人を指していうらしい。

2016年8月15日月曜日

スパイ容疑で逮捕されたというが?

ネット上のニュースによると、2016730日、中国を訪問中の日中交流団体の幹部が中国当局によって拘束されたことが分かったのだという。日本人の拘束は昨年5月以降5人目で、いずれも「スパイ容疑」とされるが、中国当局は拘束などの詳細な理由は一切明らかにしないままだという。
日本メディアによると、新たに拘束されたのは50代の男性で、東京に本部がある日中交流団体の理事長を務めているのだという。
日本人が中国の何をスパイしているのだろう?不思議としか思えない。
反中的な人が捕まるということは聞いたことがないし、友好的な人を捕まえていてはどうにもならないだろうに、人質状態にして何かのカードに使おうと思っているのだとしたら、逆効果だと思うのだが・・・
それとも、何か騒ぎ立てられることを作り上げて目先をそらさないと、国内的に持たないという事情でもあるのだろうか?

これに関連して、あらぬ想像をしてしまいました。
左翼の人がよくいう、「自衛隊は違憲だから廃止すべきだ」という主張がある。
自国民の為にそういっているのではなく、何らかの勢力に阿っているのか、それとも言わされているのかと感じてしまうのは穿ち過ぎなのであろうか?
誰がどうやって国を守れというのだろう?
奴隷になるのは真っ平ご免なのではないのか?

しかし、自衛のための軍備は国際法上認められているし、日本のいかなる政党も、渋々ながらでも自衛隊を容認しているのではなかっただろうか?
その存在を否定したら、選挙において当選できないであろうことは解っているみたいである。

自衛のための軍隊というのは、左翼も右翼もなく必要と思っているに違いないのに、左翼と言われる人たちはなぜか反対を唱える。
どうやって国を守るかということは、埒外のこととしているようだが、そう主張する目的は何なのだろう?

昔、共産主義国の持つ原爆はきれいな原爆で、自由主義国の持つ原爆は汚い原爆だという珍妙な言辞を弄する人がいた。
現実は、共産主義国の方が軍備の増強に熱心であり、その軍事力を背景に、近隣で無茶をする国があるように見えるのだが・・・

そういう国に肩入れして、気に入られるようなことを言っていれば、いざというとき自分だけは大丈夫だとでも思っているのだろうか?
テロに理解を示す人がテロリストに狙われ、親しくしようと長年努力してきた人がスパイだとして捕まるというのが現実だとしたら、考え方は変わるのだろうか?

真に国の行く末を憂え、現実的に独立した国家としての平和を維持していくのには、どうすべきなのか?思いは尽きない。

歴史には良い悪いではないという事実があると思うが

終戦記念日ということで、平和の有り難さというものを噛みしめているところだが、どういうわけか、我が国においては、近現代史というのを学校で学ぶことは殆どない。
資料として残っているものは沢山あって、研究はしやすいだろうに、この部分に触れられると不都合なことでもあるのか、それをいうと騒ぎ立てる人が出てくる。
全て日本が悪かったのだということにしておきたいらしい。

善悪はともかく、歴史としての事実関係は知った方が良いと思うのだが・・・

戦争と平和ということを、先の大戦の前に比べることはなかったように思うし、世界の列強が起こした戦争というのは、植民地として支配する領土を獲るためであった。
負ければ奴隷としての境遇を強いられ、優秀な人材は両手首を切り落とされるということがあったのが、歴史の事実であろう。
被征服地の女児は強姦によって混血児を意思に反して産まざるを得ず、生まれた子は征服者の体制維持に組み込まれたのではなかったのか?
支配されることを潔しとせず、敵わぬまでも誇り高く戦った民族は滅びた例もあるやに聞く。

敵将であったマッカーサーが議会で、日本の戦いは安全保障上のものであったと証言しているのだというが、それを知る人は我が国に殆どいないのではなかろうか。

人としての平等ということについては、1789年のフランス革命により、人間と市民の権利の宣言、即ち人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三 権分立、所有権の神聖などにより、人としての平等ということが確立されていく流れというものが生まれた。

国としての平等ということになると、1919年のパリ講和会議において、日本が世界で最初に人種的差別撤廃提案をし、国としての差別をなくそうとしたが、アメリカの反対で否決された。
思惑はともかくとして、大東亜共栄圏宣言というのも、その流れの中にあったように感じる。

人種または国による差別が撤廃の方向に向かうのは、第二次世界大戦後に植民地というものが無くなるまで、大きく扱われることはなかった。

植民地支配を何百年にもわたってした国が、謝罪や賠償をしたということがあるかどうかは、寡聞にして知らない。歴史の流れというのは、そんなものなのかも知れない。

平和が良い。そうするためにはどうするのが良いのかということになる。

2016年8月14日日曜日

むりやりにでも紛争を起こしたいということは

沖縄県石垣市に所属する日本の領土である尖閣諸島の領海或いは排他的経済水域に中国の公船(かなり曖昧な表現をしているが、警察機構をもった船)の護衛のもと、中国漁船が大挙して押しかけていることは、さすがにニュースになるようになった。

石垣の漁民が漁をできないことは大問題であるが、それのみにとどまらない。

海上保安庁によれば、尖閣周辺では9日昼にも、海警局の搭載艇が中国漁船に横付けし、数人が漁船に乗り移った。移乗は同日夜にも見られた。中国側として海域の「管轄権」行使を誇示する狙いがあるのは確実だ。

「管轄権」を行使するということは即ち実効支配をしているぞ、という実績を積み上げようとしていることに他ならない。

他国の領土でそんなこと(警察権を行使)をする狙いというのは、何とか紛争に持ち込み、新たな領土問題があるのだと言いたいがためなのだと思える。
中国の領土だと主張するのは、自分たちが沖縄返還前後に大量に発刊した人民日報の記事から見ても無理筋だと承知しているからに他ならない。

だから挑発を続けて、自衛隊を引っ張り出したいのだということである。
紛争の口実を作り出したいということなのだとしても、強引すぎよう。

巷間噂になっている3000兆円にも上るという不良債権が表面化すれば、日本が過去に200兆円で失われた20年という困難を過ごしたどころの比ではない。
国内がまとまらないときは、そこから目を逸らせるために、外に敵を作り出すという常套手段を使おうということなのか?

南シナ海にしても東シナ海にしても、強硬手段をとらねばならないほどに経済問題や権力闘争が厳しくなってきているということなのであろうが、仮に局地戦に引き込めたとしても、自衛隊は想像以上に強いから、もし中国が負ければ国内の体制は持たなくて、分裂か内戦に結びつく恐れだってあるだろうに、もう引っ込みがつかなくなっているということなのか?

侵犯を繰り返し、挑発を続けても、日本が強硬策をとらないであろうことが頼みの綱渡りの策ということに思える。自国内ではアピールできる。

江沢民以来の徹底した反日政策で内政から目をそらせようとしてきたツケなのかも知れないが、迷惑な話と言わざるを得ない。
日本には反日的日本人というのがいて、日本の国益が侵されても対抗手段をとるにもまとまりがつかない。
反日をすることは、平和に結びつかない。

2016年8月13日土曜日

約束を守るということは困難も多いが

日本は、緩衝地としての特殊な条件下にあったタイを除き、東洋で唯一、植民地として外国からの支配を受けなかった国である。

開国して近代化を図ったころ、いかに不平等だとはいえ、条約としての「約束」を守ったから、植民地を作ろうとしていた列強諸国といえど、文句のつけようがなかった。

国としての纏まりがあったこと、国民の教育水準が圧倒的に高かったこと、武士階級があったことによる武力も無視できなかったこと等々、いろんな理由はあったにしても、当時から、「約束」を守るということについては、国民の誰もに共通している民度の高さがあった。

近代国家において、約束とは契約ということであり、社会生活の根幹をなす。
いかに捻じ曲げた理由をつけようと、これを守らなければ、国際的な信用は得られない。
二国間のことにとどまらず、世界はそういうところを見ている。
ウイーン条約も守らない、基本合意も守らないというのは、結局は国益を損ねる。
まあ、そんなことを心配してやることはないか?とも思いつつ、隣国として残念なこととではある。

目先の損得や感情にとらわれて、過去にばかり拘っていると、価値観を共有できない国と世界の主要国から認定されて、いずれは孤立の憂き目を見ることになる。
自分たちが根拠もなく正しいと盲目的に信じ込んでいるだけでは、発展できまい。
教育レベルをあげるということは、事実関係を認識できる能力を高めるということでもある。

2016年8月12日金曜日

力による支配を押し通そうというのだろうか?

南シナ海については、ハーグの裁定が出たが、中国はそれに従う気は全くないようです。
むちゃくちゃなことを言って、国際社会に向かって居直っているかに見えます。
裁定を認めたら、独裁政権が持たないということか?

埋め立てた人工島は、明らかに軍事施設を作っていると見えるのだが、それ以前の問題として、法的根拠のない領土的主張に対しての裁定結果を否定するということは、「法治」ということを認めないということであり、実力による支配を強行するということになるということだということだと思うのだが・・・
価値観はそれで行くということで、世界に向かってそこまで居直っていて良いのか?

国連は、南シナ海についても日本海についても、何の動きもできない。
こんなところを頼りに、「話し合いで・・・」と言っていると、既成事実が構築されてしまって、後からでは余計ややこしくなる。
世界の平和は遠い。

2016年8月11日木曜日

約束という概念が希薄な相手国であっても

日韓における12・28の慰安婦合意は「韓国が財団を設立し、日本政府が資金を拠出する」というもので、韓国は慰安婦 像の撤去、日本は財団設立の為の10億円の拠出金提供である。
「最終的かつ不可逆的に」解決したということになったと承知しているが、どうも日本側が金を出すことだけで終わり?になりそうな雲行きである。

未だに諸外国に慰安婦像?なるものを建てつづけることをやめようとしないが、国としては何もできない無力な政府ということらしい。
土台最初から、慰安婦像の撤去なぞできる筈がないと思っていた。
無いものをあると強弁して建てたものなのだから、そういうことになるのは最初からわかっていること。かの国が約束を守るわけがない。
そもそも「約束」というのは日本が教えたがいねんであり、かの国にそれが昔からあったとは思えない。

腹立たしくても、日本側は約束を守るであろうが・・・
次は何を言ってくるのやら・・・

そもそもウィーン条約を守れない国として諸外国から冷笑されていることに対して対処できないばかりか、公道への違法設置物を国として撤去することもできない弱体政府だということをいつまで晒し続けるというのだろうか?

反日政策をやりすぎて、像の撤去なぞできないということは、日本としては想定内だったのかも知れない。
米軍は韓国を経験上信用していないので、陸軍は韓国内に置いているが、空軍・海軍は、信用できる日本に置くしかないとしてきた。
北の動きが不穏(かなり危険な様相をみせているらしい。)だということで、じれたアメリカが韓国に日韓合意を強制したということなのだと思われる。
合意以来、朴大統領の反日行動は表立ってはできなくなっている。

日本の援護なしに国が護れる筈がないのだと、冷静に考えれば解りそうなものだが、国内にそれが理解できない人が沢山居すぎてどうしようもないということなのか。
哀れというも愚かということになってしまったのは、事実を教えてこなかった結果なのではないのだろうか?