2016年9月30日金曜日

賛否両論バランスがよくないと実態がわからない

報道というのは公平であらねばならないというのは当然のこと。
関連して、マスコミは少数意見の尊重ということも主張する。

ネットで読んだだけだから真偽のほどは定かではないが、かなり信憑性がありそうに思える。

住民であるその人が村道を車で走っていたら、突然数人に行く手を阻まれ、かなり高圧的に引き返せと要求されたのだという。
検問をする権限を有している人たちではなく、県外から来ているプロ市民らしき人が多かったのだという。
村道と言えば、生活道路である。ありようをいえば、その検問は違法行為であるが、警察はそれらを取り締まらないらしい。
県警の最高指導者は知事であるから、知事の指示がなければ動けないということであろう。

その人は、そんな検問をされることに怒りを覚え、同調者と図って自警団を組むことを考えなくてはならないと書いてもいた。

いまどき、法治国家である日本において、自警団までつくって争わねばならないほどの状態になっているのだろうか?

報道というのは、反対意見や反対行動を取り上げはするが、賛成者の意見を取り上げることはあまりない。ニュースにしにくいということもあるだろうが、それだけではなさそうに感じる。

もっと丁寧な実態を報じるようにしてくれないと、実態が解りにくいことが多すぎる。
地域住民ではない県外の人が騒いでいることの方が多く、中には日本人ではない人も混じっているかに取り沙汰されもする。そんなことはなくて欲しいと思うが・・・

2016年9月29日木曜日

反日は恐れの裏返しなのか?

日本には、聖徳太子の昔から「和をもって尊しとなす」が定着している
「和」の本当の意味は、自己に正直に生きるということであり、自分を裏切らないということです。
不平不満があれば、正直に表現してぶつけ合うこと。言いたいことも言わないというではない。その中でお互い歩み寄り(妥協ではない)理解していくことが「和」である
和の禾偏は穀物の意。旁の口は、同じ釜の飯を食うということであるから、仲良くするということになる。

広く会議を起こし、万機公論に決すべし。
明治天皇が天地神明に誓約する形式で慶応4314日(186846日)に 出した五箇条の御誓文である。
突然そんなことを言ったところで浸透するはずはないが、下地というのは古くからあった。
一揆という言葉があるが、揆とは気持ちのこと。
受益者が集まって徹底的に議論を尽くし、全員の気持ちが揃ったときに起こした行動だったらしい。暴力的な側面ばかりを習ったが、かなり整然としたものだったらしい。

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。
福沢諭吉の書いた「学問ノスシメ」は余りにも有名である。購読数は300万部であったというから、当時の日本の人口が3000万人であったというから、10人に一人が読んだことになる。
当事の日本の識字率は70パーセント以上であったと言われ、いわゆる先進国と比べても圧倒的に優っていた。隣国などは数パーセントしか文字が読めなかった時代のことである。

それにも増して、森羅万象の悉くに神性を見出して敬うという世界に類例を見ない美徳が根底に流れていた。
公のためであれば一身を顧みないという他国にはない精神構造も培われていた。

東洋において唯一植民地支配をされなかったばかりでなく、理屈もあげて西欧列強と戦った日本は、小面憎くはあっても精強だったから、さぞ恐ろしい存在であったろう。
そういう意味で中国や韓国に反日が起こるのは解らなくはないし、戦った相手国である米国にも用心したい気持ちがあって不思議はない。
7年に及ぶ占領政策下で、自虐史観が行きわたってしまったとはいえ、施政権が返還された後は日本人自らの責任である。
反日的日本人というのは、意識しているかしていないかは別にして、その意を受けているように思えなくもない。
戦前を全否定することで意識を保とうとしても、無理がありすぎるのではないだろうか。
若者たちが普段目にしている日本人の性質が、何年かで急に変わる筈もないのに、過去に悪の限りを尽くしたのだと教わったことに疑問をもつようになり、調べてみたら事実は大分違うのではないのかと気づき始めた。

そもそもが暴力革命を目指していたのに、なぜか戦争反対を唱えていた左翼政党といえど、自衛戦争ならできるという。
しかし憲法を厳守するなら、そんなことはできない。
「国の交戦権は、これを認めない」と書いてあるのである。

今後の日本が自分の方から戦争を起こすなどということは考えられない。
この条項を削除することで、日本は侵略されたら戦いますよ、と宣言するだけで大きな抑止力を持てるのだと思うが、議論にすらなるまい。



2016年9月28日水曜日

簡単にはいかないだろうが

ハーグ陸戦条約というのがある。1889年に、オランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「陸戦条約ノ法規慣例ニ関スル」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のことで、1907年第2回万国平和会議で改定され今日に至る。
交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降伏・休戦・などが規定されているが、現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多いのだという。
日本は、1911年(明治44年)批准、1912年(明治45年)1月13日に「陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約」として公布された。
ハーグ陸戦条約付属書第43条には
「占領者は、占領地の現行法律を尊重して、その国(占領地)の公共の秩序と生活を回復確保しなければならない。」と規定されている。
即ち、戦勝国といえども、敗戦国の法律に手を入れてはならないということである。
米国のバイデン議員が公の場所で、日本国憲法は米国が作ったと言った報道があったが、押し付けられた憲法であることを疑う日本人は殆どいまい。
日本人は、敗戦したことで、戦勝国の言うことに従うことをやむを得ないとし、条約を盾に拒否することをしなかった。
それはそれで良いとして、よりよい憲法を作ろうという議論は尽くしてもよい時期になってきているのではなかろうか。
護憲派の人たちが憲法問題に反対するのは、9条のみのように感じる。これを守っていれば平和でいられると信じ込んでいるらしいが、憲法を守ってさえいれば国が護れるというのは、順序が逆のようにも思える。
しかしながら、他はともかく、前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」というところは考えた方が良いのではなかろうか。
もめごとの大元は、ここにあるように感じる。
国連が平和のために有効に機能しているとは思えないのが世界の現状であると思う。

静かに神社仏閣に詣でるのが日本の文化だと思う

神社を参拝することは多いのだが、そういえば、ここ数年、靖国神社には行っていない。

靖国神社に参拝するのは右翼で、先の戦争を正当化しようとしているのだと主張する人がいるが、本当にそうなのだろうか?
靖国で会おうと約束しあって国に殉じた人たちを弔うのがそんなに悪いことなのだろうか?
そう尋ねると、A級戦犯を合祀しているから怪しからんということにしたり、中国や韓国が嫌がっているんだからやめておいた方がいいんだ、という言い方に変える。
今、靖国に参拝する人たちが、再び戦争を起こそうと思っていることは皆無であろうし、平和に暮らせていることを感謝し、霊安からんと願って詣でる人が殆どなのではなかろうか?

戦後の歴代首相も参拝したと思うが、社会主義思想の刷り込みに行き詰ったA新聞のK記者が、中国様にご注進ご注進とばかりに持ち込んで、それが外交カードとして使えることにしてしまったことが、こうまでややこしくしてしまった原因のように思える。
それをいつまででもしようとするのは、特亜3国だけのように思えてならない。
アジア諸国というのは3か国だけではない。

日本人が墓や神社に詣でるときは、穏やかな気持ちで、ただただ祈る。復讐を誓ったり荒ぶる気持ちでお参りすることなどない国民性なのだと思う。
難しい問題にしてしまったのは、日本人自身のように感じる。

たまたま見つけたものだが、かなり納得がいく内容に思えました。
互いの国の文化が理解しあわれることはまずない。それが政治利用されるということになれば猶更であろう。
もうそろそろ、静かにお参りするということにしても良いのではないのかと思う。


2016年9月27日火曜日

「参考になりました」という言葉は気を付けた方がよい

スケートの羽生結弦さんが、「できなかったらできるまでやる」「できるようになったら完璧にできるようになるまでやる」「完璧にできるようになったら何度でも完璧にできるようになるまでやる」と仰っているのを聞いて、若いのにその域に達していることに感銘を受けます。

これが、その仕事でお金を貰うプロということになると、まだその先があるようです。
携わっている仕事を素人が見たとき、自分でもできそうに思わせるくらい、いとも簡単にやっているように見え、しかもその姿が楽しんでやっているように見えねば駄目なのだと思っているらしいのです。
その裏にある厳しい修練が、垣間見えるようではまだまだなのだという。

その仕事に興味を覚えたり、現に携わっていてより極めたいと思っていて、そのプロに教えを乞うと、意外に真髄と思えることをさわりの部分とはいえ教えることがあるという。
ただ、口で言ってもすぐに理解できるとまでは期待していない。

教えを受けた側が、絶対に言ってはならない言葉というのがある。
それは「参考になりました。」という言葉である。
そういう人を弟子にとることはないし、二度と教えることはないという。
真剣にとらえる人は、まず言われた通りやることから始める。
参考にするというくらいでは、自分の殻を打ち破って先に進もうとする覚悟はないのだ、と見極められて、その先の教えを受けることができなくなるということです。
言葉一つでも、真剣に捉える人でないと、道を究めることは難しいということになる。

sannkou

2016年9月26日月曜日

沖縄だけが騒がれるが

戦闘機が墜落事故を起こしたのだという。
基地は沖縄だけにあるかのように思っている人が多いようだが、日本には北海道から沖縄まで、全国各地に130か所の米軍基地(1024平方キロメートル)がある。そのうち米軍専用基地は81か所で、他は自衛隊との共用です。

日本の主な米軍基地は、三沢空軍基地(青森県三沢市)、横田空軍基地(東京都福生市など)、横須賀海軍基地(神奈川県横須賀市)、岩国海兵隊基地(山口県岩国市)、佐世保海軍基地(長崎県佐世保市)と沖縄の米軍基地群があります。
また基地以外に、訓練空域、訓練水域が米軍に提供されています(公海、公空を含む)。面積は、九州よりも広大なものです。
これらの米軍基地は、それぞれが軍事的に一体となって展開されています。在日米海兵隊は、地上部隊が沖縄に、航空部隊が岩国に、艦船部隊が佐世保に配備されている。

沖縄は、第二次世界大戦のときに甚大な被害を蒙ったこともあり、基地反対を叫ぶ人が多くなるのは、歴史的に考えれば当然なのかも知れない。
そもそも軍事基地というのは地政学的に見て重要地点に設置されているのでなければ意味が薄くなる。
そういうものが無くても良いという世界が望ましいのは勿論だが、現実的ではあるまい。
国を守るためには、日本独自の軍備を整えるから、他国の軍は不要であるとするならそれも一つの主張であろうが、そんな気を持って反対しているわけではあるまい。

そこに現に在住している人たちの中には、日常的に感じている外国からの危険を取り除くのに、基地はやむを得ないと思っている人もいるに違いないのだが、そういう声はとりあげられない。
受益者の合議というより、その地には関係のない他県人が騒いでいるようにも見えるから、合議の形成、即ち一揆(気持ちを一つにするというのが本来の意味)となりにくい障りとなっていないだろうか?

米国が戦争をしたいのなら、自国の基地から出撃して他国からそれをするのは怪しからんという言い方にすり替える人もいるが、同盟関係というのはそういうことを包含せざるを得まい。
戦争反対ということで基地もなくそうという考え方をとる人が多いのは確かであろうが、中国様韓国様北朝鮮様が嫌がるから、それをなくそうと運動している人もまた多いように感じる。

平和を維持するためには、軍事的バランスがまだまだ必要な世界情勢なのだと思う。
基地や原発など、近くに迷惑な施設があるのは誰しも好まないが、どうすれば良いのかという知恵は簡単には浮かんでこない。日本だけで考えられない、ということもある。

2016年9月25日日曜日

思惑にはまらないことも大事

正当な選挙により樹立されたのではない国の政府、例えば易姓革命・軍事クーデター・棚ぼた式独立などは、前政権の徹底的な否定から始まるのは仕方ない。
これに齟齬を来すと、お決まりは教育とプロパガンダにより外に目を逸らす手段をとる。
その時に恰好な相手として日本を使っているように感じられてならない。
そういうことを理解した上でニュースというものを読まないと、判断を間違う。

どこの国も同じ基準でものを考えるのだと考えて、悪口を言われるのは日本側だけに落ち度があるのではないのか?と思い込んでしまう正直な人を一喜一憂させ、昔なら外患罪に問われても仕方のないような報道の仕方をすることがあっても、チェックされることも罪に問われることもない。
そういう自由な国に住んでいるのだから、賢くあらねばなるまい。

よその国で勝手に騒いでいることをいちいち報道してくれなくても良いと思うことがある。
何らかの思惑があって、自分たちの主張の方向にリードしたい勢力というのがあるみたいに感じられ、いったいどこの国の人が尻馬に乗ってしている報道なのかと疑ってしまうようなものもある。

読んで不快だと感じたら、それはきっと正しい判断なのだと思う。
強く出られれば引くというのが日本人だと見透かされているのかも知れない。

2016年9月24日土曜日

高齢者が大事にされないということは

100歳以上の高齢者が全国に6万1568人いることが厚生労働省の調査で分かっ た。前年から2748人増え初めて6万人を超えたのだという。
敬老の日には銀杯がわたされたのだというが、銀杯を貰って喜んだ人が多かったのだとは思えない。
それに代わるものというのはないのだろうか?
そうは言っても、銀杯をなくしたら、それはそれで銀杯業者が困るであろうが・・・

誰が何と言おうが、現在高齢者と呼ばれている人たちが寝食を忘れて働いてくれたお陰があって、今の日本があることは疑いようもない。
それなのに、今のお年寄りたちの遇され方というのはどうなのだろうか?尊敬されることも大事にされることも滅多になくて、場合によれば邪魔者扱いされているように感じることも多い。
若い人は若い人なりにたいへんなのだとしても、こんな世の中のままで良いのだろうか?

先祖や年寄や親、ひいては他人を大切にしない人が、人から大切にされないのは自明の理。
そういうことを教えなかった先生も、ないがしろにされるようになった。
「我が師の恩」と自信をもって教えられなかったツケかも知れぬ。
いったいいつからこんな世の中に変わってきてしまったのだろう?
権利ばかりを主張し、汗もかかずに手っ取り早く金を稼ぐことを追い求め、さしたる努力もしないで簡単に諦め、社会のせいにして不満だけを抱えて底辺に蹲る。

食うや食わずの時代には、泣き言をいう前に必死になって働いた。のし上がろうと、自分の居場所と決めた場所で懸命に努力した。
そういう人たちが成功を収めたのではないだろうか?
気が付いたら、ないがしろにされる場所に立っていた。
あれをしてくれなかった、これをしてくれなかったと責められるばかりではやりきれまい。
どこでボタンを掛け違えたのだろう?
精一杯頑張ってきたのである。

世の中、豊かになってくると自分が努力することを忘れる。努力をしたことのない人が、努力した人のことを理解できるわけがない。
「家貧しくして孝子出ず」という格言は、ある意味で本当なのかも知れない。
他人と比べる前に自分なのだ、ということに立ち返らないと、先が開けてこないように思うのだが・・・

2016年9月23日金曜日

牛や鹿は良いが鯨は可哀想?

人道主義って何なのだろうと思ってしまうことがある。

万物に神性を感じ取ってそれを敬うことに慣れている日本人は素直だから、世界中の人間が皆同じように人道的だと思い込んでいるようだが、それほど簡単ではなさそうである。

人間はそもそも他の命を奪って食べることで生きる。
しかし牛や羊は食べても良いが、馬や犬は決して食べないし、鯨や海豚を捕獲するのはもっての外だという人たちの意見である。かわいそうなのだという。
それに反するものを文化として認める度量はない。ただ従えという。

南アメリカや東南アジア・アフリカを植民地支配した時の現地人は人間であったが、彼らに対しバイキングの血がなしたのかどうか知らないが、数々の残虐行為は、全く忘れ去ってしまったというのであろうか?

同一宗教同一民族間では人道的に振る舞えても、DNAに染み付いた考え方は、忘れているように見えて、今でも折に触れて顔を出すようにも思える。
それでも、過去は無いものとしてでも人道的であろうとすることは、しないより良いに決まっている。

ただ、価値観が全く同じだと思って付き合うと、理解できないことがあるのだということは知っていた方が良いように感じる。
価値観は多様なのである。思い込んでしまっていることに違いはあるのが普通なのである。

2016年9月22日木曜日

難民を何とかしなくてはとは言っても

ヨーロッパ諸国では、難民の受け入れに反対する勢力が拡大しているのだという。
難民が出る遠因を抱えてもいるから、難民の受け入れをせざるを得ないということもあるだろうが、テロリストも入ってくるというのでは、人道的にとは言っても簡単にはいくまい。
それまでの環境がガラリと変わってしまうのを避けたいというのも、自然に起きる感情である。

「郷に入っては郷に従え」という思想はないだろうし、「お世話になるのだから」ということで配慮ができるほどの民度が育っている国からの流入だとも思えないから、争いの種を内在させてしまうこともあるだろう。
宗教も違えば文化も全く違うし、歴史も価値観も異なるのである。異文化・異民族とは争ってきたのだから、短期間に融合するということは期待できない。
難民が発生しないようにすることには、国際的にも協調関係が築けてはいなさそうだから、混乱はまだまだ続きそうである。

日本は金だけ出して難民の受け入れをしないという批判があるようだが、そんなことはあるまい。確かに今現に増え続ける難民に対してはそうかも知れないが、日本が抱えた外国人は相当の人数にのぼる。
彼らが日本の社会に溶け込んで仲良く暮らしていこうとする意識もあるように思えないことも多い。国内で反日的行動をする人たちも多いから、経験的に慎重にならざるを得ないのだと感じる。
考え方を変えるというのは、双方ともに難しいのではなかろうか。

トイレに行きたくなる時間が変わった

70歳を過ぎた同窓生の集まりがあると、健康問題が話題になることが多い。
若いころは、夜トイレに行くことなど全くなくて、朝までぐっすり眠れたものだが、夜中に尿意を催して起きることが増える。歳だから仕方ないのかも知れない。
物知りがいて、教えてくれました。
人間は歳をとるにしたがって、内臓機能の低下や膀胱の萎縮などが起こり、誰でも頻尿の傾向が現れ始めるのだという。
排尿は脳でコントロールされているから、脳からの指令に従って、腎臓、膀胱、尿管といった泌尿器がしっかり機能することで正常に排尿ができているのだという。
膀胱に100200mlくらい尿がたまると、「そろそろトイレに行きたいな」という感覚が生じ、さらに尿がたまってくると、「トイレに行きたい」という気持ちが強まる。
そこで、トイレに入ってから自分の意志で尿を出すことになるのだが、そこまでは我慢できていて、漏らすなどということは滅多にない。
尿は勢いよく途切れずに出て、30秒以内におおよそ200300ミリリットルの尿を出してスッキリします。
若いころは、このような生理作用は日中の起きている時に行われ、普通は睡眠中にはその働きは抑えられている。

段々に心臓や腎臓の機能が衰えてくると、全身の活動量が多い昼間には他の生理が優先され、必要な量の尿を作ることができなくなってしまい、その分、体が休んでいる夜間にも尿が作られるようになるのだという。
なるほどね~。


2016年9月21日水曜日

ぜひお奨めしたいピアノコンサート

クラシックピアノのコンサートというと、ある程度の理解がないと、行っても大抵は面白くない。
ピアニストが出てきて、しかつめらしい顔をして、自分の好きな曲を弾いて、1曲ごとに舞台から下がる。
プログラムも、どうしてその選曲になっているのかの繋がりがなく、テクニックをひけらかしているだけのような演奏者もいたりなんかして、とにかくとっつきにくいから、なんかのお付き合いで聴きに行ったとしても、次はもういいや、ということになりかねない。

しかし、毎年楽しみにして、年1回の公演が待ち遠しいコンサートがあります。
20年近くの長い間、ザルツブルグからチェコに住んで研鑽を重ねた演奏は、説得力があります。

「ちょっと物知りになれるピアノコンサート」と銘打っての公演は、今回で6回目となる。
演奏の前後には、関連しての楽しい話があり、解りやすい解説もあるから、嬉しい。
ピアノというのは、こういう音だったのかと改めて感じさせてくれる粒の揃った済んだ音で快い音楽を聴かせてくれる。
来場した人たちが「クラシックってこんなに良いものだったのか。」と、帰り際に満足げな顔をしているのが、毎年の光景です。
とにかく音が素晴らしいし、変な顔つきや動作をすることなく素直に弾くのが好もしい。
パンフレットが届いたので、皆様にも是非お勧めしたいので紹介します。




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神様は沢山いた方が良い

全く共通点がない逆の考え方だというなら仕方ないが、世の中にそんなものは滅多にない。

確かに、対立するものがあるのまで否定はしない。
自由主義と共産主義。
保守とリベラル。
右翼と左翼etc.etc.

しかし、対立が一神教同士となると、決して相手を受け入れないということが多い。
布教活動をする段階では、他宗教を悪魔だとするよりなかったかも知れないが、人間の幸福を望むところから出ていることに違いはあるまい。
それなのに争いが起こり、死人まででることになれば、弱い側がテロに走り、それに報復すれば、あとは際限もなくつぶしあいということになる。
多様性というか中間点というか、折り合いをつける知恵で共存できるのだという考えに至るのには知恵がいりそうですが、歴史上のいきさつもあるから、簡単にはいかない。

我が国は、八百万と呼ばれるくらい沢山の神々がいるが、昔ならともかく、今は信ずる神が原因で直接的に力をもって争うことはまずない。
和をもって尊しとなす知恵により、いつの間にか同化してしまう。

今後の世界の平和をリードできるのは、日本なのではなかろうか。

2016年9月20日火曜日

話の腰を折り合う番組?

昔はよく見ていた番組であったが、最近は殆どチャンネルを合わせることがなくなったのがあります。
先日何気なくちょっとだけ目にしたが、すぐにチャンネルを変えてしまいました。

司会者が特定の思考を持っていて、発言者が意見を述べている最中に遠慮することもなく割って入るのはまず当たり前で、それは自分の意見と反する話の腰を折るのが目的のように感じる。
集まった人たちも、自分の信条に固執して、大声で捲し立てるのが恒常的情景であり、他の意見を取り入れて考えるというような姿勢は殆どない。

ガス抜きの為に参加しているのではないかと疑いを持たせるような場になっているように、どうしても見えてしまうのです。
互いに良いところを認め合い取り入れて、よりよい方向付けや方策に纏めようということよりも、相手を言い負かすことに汲々として、ますます対立を深めかねないありさまを見せられるのでは、「なるほど、そういう考え方もあるのか。」と勉強するよりも前に不快感をもってしまい、番組終了後の後味が悪いから、結局は見なくなってしまったのだと思う。

2016年9月17日土曜日

少数意見をどこまで汲み取るか

立憲主義と簡単に口にするが、意外に解っていないで言っている人の方が多いのではなかろうか。
弱者救済、少数意見の尊重という意味合いで使われることが多すぎるようにも思える。
確かに、国あるいは政府の権力は個々の国民より圧倒的に強いから、それを恣意的に行使されないようにする制限というのは必要である。
従って「立憲主義」とは、第一義的には、「為政者が憲法を守る」ということであるが、現代の立憲主義には、それ以上の意味が含まれているようである。
人の考え方というのは多様であるから、その異なる世界観を抱く者同士が、互いに自らの世界観を相手側に強制しようとすることで対立は深まる。完全な合意が得られることはない。お互いの異なる世界観を許容しあいながらながら、自らの自由を享受するということにならなければ、いつまでだっても対立状態は収束しない。得てして合理的思考ではなく、感情的な主張の対峙になりかねない。
それではいつまで議論しても合意は得られないということになる。
国民の大多数が特定の世界観、宗教観を可としても、それを押し付けてはならないし、極端な世界観を国民に強要することがあってはならないが、普通に考えて、非武装中立や無抵抗主義は、近代的な立憲主義に反しているのではなかろうか。
それを押し通せば、大多数の国民の方が実害を蒙ることになりかねない。思想信条は自由であるとしても、それらは少数意見であり、立憲主義の名のもとに特定の世界観を強要するような類の議論に思われて仕方ない。
法治ということは大切であろうが、全てを包括して救済できるような法というのはあり得ないから、緊急時においては、国民の生命財産を守るために、フリーハンドの権力が使われることがあり得るのだという国民的合意が許容されていない立憲主義というのは、かえって危うかろうと思う。
理想は理想として、現実的な世界というのはまだまだ厳しい。

2016年9月16日金曜日

アフリカに象がいなくなってしまうかも

日本のニュースでは、まずお目にかからないが、ネットではいろいろ出てくる。
こういう犯罪行為に加担する乃至は助長する勢力というのは絶えない。
象牙の密輸組織の軍事化が進み、密猟者たちは毎年数万頭ものアフリカゾウを虐殺。
その量は過去20年間で最も多い。こうした違法象牙の約7割が中国に密輸されているという。

戦乱の広がるアフリカでは、象牙は貴重な軍事資金となる。悪名高いウガンダの反政府武装勢力・神の抵抗軍やソマリアのアル・シャバブ、スーダン・ダルフールのジャンジャウィードなどの軍事組織がアフリカゾウを大量に殺し、象牙を換金して武器を手に入れる。
こうした軍事組織と犯罪組織が手を組み、現地政府の役人を買収するなどして密輸を成功させている。

中国人にとって象牙は憧れの対象だった。経済発展により多くの中国人が象牙を購入できるようになると、象牙の価格は急騰。北京市内では1ポンド(約450g1000ドル(約78000円)で売られている。富裕層が好む象牙製品はネット上でも販売されており、箸やしおり、コップや櫛、指輪など多種多様。
「アルミ箔で包んでおけばX線検査を通過できる」と悪知恵をつけるサイトもある程だという。
中国がアフリカに経済援助ということで進出している裏には、こういう弊害もあるようですが、下手をすれば象は絶滅してしまう。

以前、ケニアやナイジェリア一帯で150人以上の中国人が象牙の密輸容疑で逮捕された。
現地には道路建設などで多くの中国人が働いており、これが密猟に拍車を掛ける結果となっているらしい。中国には需要があるからだということになる。


2016年9月15日木曜日

普通に考えることをしないと

普通に考えたら、それが合理的な解釈だと思えることから、目を逸らされてしまっていないだろうか?

例えば、薩英戦争。
学校では、圧倒的な戦力差を考えずに戦った愚かな戦争であったと習った。
しかし負けたにも拘らず、一気に植民地支配されるということには進まなかった。
大砲の攻撃により緒戦の勝利を確信し、頃合いを見計らって上陸した英国兵は、傷つき息も絶え絶えな薩摩武士が、鋭利な切れ味を持つ日本刀を振って戦う姿に驚愕した。
日本60余州の一つの大名家に過ぎないところでこれである。
日本全国を相手にしたらとても敵わないと判断したというのが、合理的解釈であろう。
東南諸国相手に侵略を試みて、日本だけは侮れないと考えても不思議はない。
そう思わせた結果が有ったら、愚かと決めつけることはできまい。
上陸してみたら、辺境の野蛮国と侮っていた日本の教育や文化はも発展していて、武士の戦う姿勢は凄まじいと認識を新たにしたのではなかったのか?。
明治維新を経て何年もしないうちに、世界の列強となれた下地がすでにあったということである。

同時代の中国は、アヘン戦争などという無茶苦茶な戦争を余儀なくされ、植民地というほどには至らなかったにしても、重要地点である領土を割譲せざるを得なかった。
大航海時代の荒波にもまれ、あっけなく滅亡したインカ帝国という例もある。
たった200人の塀で征服したスペイン人らが驚嘆した文化を持っていた国であっても、国を守る武力と意思が届かなかったということになる。

抑止力ということが良く言われる。これこそ、単純に考えた方が解りやすい。
国を守るには、武力と教育と資金が必要なのはいうまでもないが、それだけでは済まない。
殴っても殴り返される恐れが無いままのそれらは、いうなれば張り子の虎であって、宝の持ち腐れ状態にあるというのが、日本なのではないのか。
国の交戦権はこれを認めないとする日本国憲法を、日本人以上によく知っている諸外国は、小笠原の領海であれ石垣の漁民の漁場である尖閣も、恐れ気もなく侵犯する。
日本は力を持ってはいるが、何をしても反撃されることはないと知っているからである。

集団的自衛権も結構だが、難しいことを並べ立てている前に「日本の国境を侵したら、今後はきちんと反撃しますぞ。」と意思表示し、自衛隊が動けるように法整備するのが最大の抑止力なのではないのかと思う。
国の交戦権というのは、国際法上認められている権利であることは明白なのである。
自衛隊が強いということは世界の常識であるから、実際に戦闘をすることなしに抑止力として十分機能するはずだと思う。
侵されることが無ければ、戦う必要はない。平和でいられるということになる。

2016年9月14日水曜日

今から待ち遠しいピアノコンサート

クラシックピアノのコンサートというと、ある程度の理解がないと、行っても大抵は面白くない。
ピアニストが出てきて、しかつめらしい顔をして、自分の好きな曲を弾いて、1曲ごとに舞台から下がる。
プログラムも、どうしてその選曲になっているのかの繋がりがなく、テクニックをひけらかしているだけのような演奏者もいたりなんかして、とにかくとっつきにくいから、なんかのお付き合いで聴きに行ったとしても、次はもういいや、ということになりかねない。

しかし、毎年楽しみにして、年1回の公演が待ち遠しいコンサートがあります。
20年近くの長い間、ザルツブルグからチェコに住んで研鑽を重ねた演奏は、説得力があります。

「ちょっと物知りになれるピアノコンサート」と銘打っての公演は、今回で6回目となる。
演奏の前には、関連しての楽しい話があり、解りやすい解説もあるから、嬉しい。
ピアノというのは、こういう音だったのかと改めて感じさせてくれる粒の揃った済んだ音で快い音楽を聴かせてくれる。
来場した人たちが「クラシックってこんなに良いものだったのか。」と、帰り際に満足げな顔をしているのが、毎年の光景です。
とにかく音が素晴らしい。
パンフレットが届いたので、皆様にも是非お勧めしたいので紹介します。



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