2016年10月31日月曜日

文化文明は発展させてこその価値

他国の文化を 何でも「我が国発祥」と主張する国がある。
日本の武道(侍・剣道・柔道・日本刀・忍者)、茶道、花見(ソメイヨシノは改良主だから自生地はない)、四大文明、キリスト生誕地、漢字、などなど何でもそうだという。
殆どが妄想であって、根拠も証拠もない。
笑い飛ばされて終わりだし、大して腹も立たない。

仮に発祥がそうであったとしても、どうしてそれを今に至るも発展進化させることができなかったのか、ということが問題なのではないのか?
有益なものを生活に役立てることができなかったら意味がない。

我が国は、外国から渡ってきたものは誰がいつ頃齎したものだということを隠しはしないし、中国料理・フランス料理、イタリア料理などのように頭にどこのものかわかる表示をする。
文字だって漢字と言うし、シナそば・挑戦漬け・インドカレーの如くである。

日本に渡ってきた文化文明は、有益だと思えば基礎から研究するし、いままでにもあったものと融合させて独自にもっと優れたものとして活用できるように努力する。

寒冷地には不向きだった米も品種改良して収穫が可能になるようにしたから、併合時に朝鮮半島の米作が大増産されるようになった。
最近では「ネリカ米」と呼ばれる乾燥に強い品種を作り出し、アフリカ諸国の食糧問題に貢献している。
ことほど左様に、それらは近代産業に関連すること全てに渡っている。骨身を惜しまず地道に努力し続ける。

起源説など唱えている暇があったら、躊躇いもなく先の方に目を向ける。
パクルことしかできないような情けないことをしないのが、民族の誇りでもある。

2016年10月30日日曜日

抹茶を出されたときに戸惑う茶碗の正面

抹茶を供されたときに、その素養がないので作法上戸惑うことが多い。
茶碗の正面を避けて、3口半くらいで喫するのだというくらいしか知らない。
あくまで参考ですが、茶碗の正面というのは以下のようにして探る。

茶碗に絵がある場合は、絵のところ。
全体に絵がある場合は、一番華やかな絵のところ。
絵がない場合は、釉薬の筋がたっぷりと流れているところ。
古い著名な茶碗は、茶碗を正面に置いたとき、底の陶印が左に来るそうなのでそれに習っている陶芸作家は現在も多いといいます。

正面が見つからないときは、窯変やシミ、傷の繕いなどのあるところと言われます。

上記のルールで正面がわかったとして、そこが飲み口の可能性もありますが、違う場合もあるのが、ちょっと面倒です。亭主に素直に聞いてみるのも良いと思います。

茶席に招かれてしまったら、付け焼刃でもひととおりの作法は事前に調べて、大恥だけはかかないで済むようにした方が良いと思います。
折角の美味しいお茶が、飲んだ気もしないのでは残念です。

2016年10月29日土曜日

日本は世界で6番目の広さを有する

以外に知っている人は少ないが、日本の島の数は、6,852島です。
本土5島、離島6,847島(北方領土を含む)。この数は海上保安庁の調査により、海岸線の長さが100メートル以上の島を数えたものです。
島の数は「島の定義」によって変わるので、例えば海岸線の長さが100メートル未満のものを含めるとその数はもっと多くなります。
小さな島国だと思っているが、領土領海ということで見ると、実は大きい。
日本の領土面積は約38km²で、世界第61位ですが、領海とEEZを合わせると世界第6位の面積を誇る国家です。 
これは、海洋資源の開発が加速することにより、さらなる発展を望むことができる伸びしろを持っているくにだということになります。

日本は、アメリカ・イギリスと並ぶ海洋国家であり、大陸国家とは違う特質を持っている。
戦前は空母艦隊を擁し、その練度は凄まじいものであった。
空母があっても艦載機の離発着ができなければ、何の役にも立たない。
スクラップ寸前で会った空母をカジノにすると嘘を言って購入し、多少の改良を加えたくらいでは、恐るるに足らずと見くびられるゆえんはそういうところにある。
海洋国家として発展するには、経験と積み上げられたノウハウがひつようなのであり、短期間にそれが成し遂げられるということにはならない。

戦争をしようというのではない。
資源小国と言われてきたが、膨大な資源を開発入手できるのだから、そちらにシフトすることを考えれば、将来が豊かな国づくりができる。
メタンハイドレード・マンガン団塊・レアメタル・・・無尽蔵にありそうだ。

2016年10月28日金曜日

困難な時になると現れる民度

9月が過ぎて、10月も終盤を迎えた。

今年も大型の颱風が各地に繰り返し甚大な被害を齎したが、どんなに壊滅的な状況下からでも必ず立ち上がれる国だと信じている。
日本人に生まれて本当に良かったと、心の底から思っている。

先の大戦で焦土と化した国を、世界有数の国として復興してしまったり、神戸大震災・東日本大震災を始めとする大地震やその後の大地震、颱風に伴う大水害や土砂崩れ、いずれも乗り越えてしまう。

東日本大災害のあと、災害で身ひとつになり明日をも知れない境遇となっていた人が「私たちは、人の幸せを妬むほど落ちぶれてはいない。楽しむことができるのなら、花見でも何でも遠慮なく自由にやって下さい。私たちは私たちで必ず復帰します。」といっていたニュースは、忘れもしない。

あの大地震のとき、私は中目黒駅手前の高架線上に止まったままの車中に、40分間閉じ込められていた。
ようやく動いた電車は中目黒駅で、乗客は全てそこで降ろされた。
中目黒から渋谷を抜け、新宿を通り練馬まで歩くことを余儀なくされ、10時間くらいかけて自宅にたどり着いたのだが、感動的な経験をさせてもらった。

歩いている人たちは見ず知らずの間柄であったにも拘らず、互いに助け合い励ましあったし、沿道に並ぶ商店や家々の人たちが表に出て、お茶や食料の接待をし、トイレも提供してくれた。

いずれの場合にも、余りニュースとして取り上げられることは無かったが、自衛隊の献身的な働きを見ていた人は多く、感動的な話も後に沢山伝わってきた。
彼らは、海外の援助活動に行った時も、「自衛隊は日本に帰国しないでくれ」という信じられないようなデモがあったり、自衛隊に一発でも銃弾を撃ち込んだら我々の敵と見なすと言ってくれたりと、日本では報道されない信頼を得ている。

そういうことも、なぜか意図的にと思えるほど報道されることが少なくて、彼らは日陰の存在にとどまっている。
せめて身分の保証がされても良いのではないかと思うし、尊敬や感謝の対象となって然るべしだと思うが、国会でそれを口にしたら非難の対象となってしまうのは何故なのだろう。

どんな困難のなかにあっても自発的にルールを守り、整然と助け合う民度を持ち続けている大多数の静かなるマジョリティーは、物事を見誤ることはないであろうし、信ずるに足りる。
重ねていうが、日本に生まれてよかった。


2016年10月26日水曜日

法治国家だから法が整備されなければ身動きがとれまい

自衛隊が合憲か違憲かということを憲法学者に聞けば、殆どが意見だと答える。
そんなことは学者に聞くまでもなく、条文を読めば小学生だってそう答える。

しかし、学者は条文に照らしてそう言うに決まっているが、それでは国防をどうするのか?ということを考えているわけではあるまい。そんなことにまで責任は持たない。

憲法9条があったから平和でいられたなどという脳内お花畑状態では、この先が担保される保証などどこにもあるまい。

自衛隊その他の軍備を全て廃止するという国民的な合意が得られるのならそれでも良いが、それで安心が得られるなどということを本気で信じている人など皆無なのではないのか?

それで侵略されたら、自分だけは何とかなると思っているとでもいうのだろうか。
自分は反日的に日本の軍備に反対してきた立場だから、侵略者側に大目に見てもらえると思ったら大間違いで、そういう者たちほど邪魔な存在はない。真っ先に排除されるのだということは、普通の判断力があればすぐ解ることである。

近隣に厄介な国が3つもあるのが現実であり、話し合いで解決できると本気で信じている人などそう言っている人を初めとして殆どいないのではないのか。

実情に合わせて法を整備して行くというのが、正常な国家なのであると思う。
憲法の話になると、すぐにでも戦争が起こるようなことを言ったり、すぐに徴兵制に結びつくなどと言って不安を煽り、議論の端緒に付くことさえ妨害しようとする人たちがいるが、少しでも知識がある人達なら、徴兵制がいかに効率の悪いものであるかを理解しているから、そんな事態にはなるまいに・・・
平和を維持することを考えようとすることから目を逸らせる手段としては、あざとい。

よりよいものになるように皆で議論を尽くせば良いではないかと思う。
最後は国民投票で決まるのである。日本国民が愚かであるとは思えない。


2016年10月25日火曜日

一面だけとらえた解説では通用しなくなってきた

機関誌であるなら何を書いても勝手だが、一般の新聞などの報道は公平さを求められる。
旗幟を鮮明にして、どういう傾向の内容であるか宣言したほうがよさそうな新聞もあるが、簡単にそうはいくまい。
そこで、自分に都合が良いようにつぎはぎした記事というのが時々生まれる。
しかし、賢明な読者からは「リテラ記事」とすぐに見透かされる。見くびってはいけません。

リテラシー(英: literacy)とは、原義では「読解記述力」を指し、転じて現代では「( 何らかのカタチで表現されたものを)適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」 という意味に使われるようになった。

読む・聞くだけで、自分の意見を述べる場所がなかった多くの人たちが、ネットというツールを得た。
それによって自分の意見を発表するようになったが、元記事の意に反する書き込みを「ネトウヨ」と決めつけ、躍起になって封じ込めようとしたが、読む側にしてみれば多様な意見を目にするわけだから、まともな意見であればどちらが良いかは理解する。
思考能力が高まって、取捨選択することができるようになってきているということである。

左翼でも右翼でもまともなことをいうのならよいが、レッテル貼りをして封じ込めようとするのには無理な時代になったということか。
ミスリードは難しい。

2016年10月24日月曜日

素人目にも判ることがある

軍事の専門家でもなければ経済問題に詳しいわけでもない普通の人間であるが、一般人でも想像できることはある。あながち的外れでもあるまい。
普段そんなことを口にする人はいないが、おおかたの人は同じように感覚的にわかっていると思った方が良い。

尖閣の接続水域に中国の公船が侵入してくるとの報道をよく見る。
「公船」などというのは漢字変換もしない変な熟語だが、紛らわしい表現でごまかすのは何故なのだろう?
民間の船ではなくて、中国政府の船であり、当然武装しているということを知らせたくないということなのか?
接続水域というなら、すぐその先は領海ということであるから、武装した船が侵入するということになれば、領海侵犯ということであり、軍事衝突が起こっても不思議はない。
彼らは、日本国の憲法をよく研究しているらしく、日本は「国の交戦権」が認められていないから挑発しても反撃しないうちに、領土紛争があるという事態を作り出したいということなのか?

しかし、領海侵犯したら自衛権は発動するだろうし、自衛艦が出てきたら中国の戦艦類は数時間で壊滅させられてしまうということは知っているようでもある。
勝つためには核を使わねばならなくなるだろうが、もしそんなことをしたら中国は終わりだということも、同じようによく解かっているらしい。
世界中から孤立してしまったら、国が成り立たない。

GDPがとかなんとか言ってはいるが、その実態は国民の内9割は食うや食わずの状態であり、
緒戦で艦船が全滅するような敗北を喫したら、海外で爆買いできているのは5パーセントにも満たない階層であるから、その他の階層の不満が一気に噴出する。
軍隊を維持するどころか、周辺で虐げられていた国も動くに違いないからお手上げになる。
それでなくても中国軍は、昔から、朝鮮を攻めたとき以外で勝ったためしはあるまい。日本に勝ったなどといってはいるが、日本はアメリカに負けたのであって、中国軍には国・共双方含め一度だって負けていない。

もっと恐ろしいことには、米国などでも公然の秘密となっているように、「日本は一晩で核兵器を開発してしまう能力を持っている。」ということも分析できているに違いない。
搬送手段としてのロケットはあるし、誘導装置も優秀であるから、反撃されたら目も当てられない。
日本は法治国家であるから何とかなっているが、いざ戦争になったら、相手としては恐い。
自衛隊を認めていないのは、数人の議員しかいない社民党だけだから、一気に法改正などできてしまう。
経済的に行き詰まっていることは最早隠しおおせもしないのだから、仲良くする方法を考えたらどうなのかと思ってしまう。
日本人は、仲良くしようとしたら本当にそれに応える国なのだと思うが・・・

2016年10月23日日曜日

牛を抗弁にしても的外れになる捕鯨

日本人は人がいいのか、自分が考えていることは相手もそうだと思っている。
「話せば解る。」というわけである。
しかし、諸外国相手だとそうはいかない。基本的には自分の思っていることに相手を従わせようというのが先に立つからである。

アメリカのシーシェパードとは話し合いがついたらしいが、オーストリアのシーシェパードは、そんなことには制限されないと言っている。
豚は食べないとする国もあれば牛は食べないとする国もあるように、彼らは鯨は食べるものではないとしている。
日本も、調査捕鯨などと曖昧なことを言っているから付け込まれる。食料の確保だと言えば良いのにと思う。
現実問題として、韓国は多分日本より沢山の鯨を捕っていると思うが、彼らの船団が襲われることはない。なぜなら韓国船に近づくと、彼らは銃を向けるからである。
ノルウェーの捕鯨船の場合だと、つかまると海に放り込まれるのだという。冷たい北極海に投げ出されたら命にかかわるから、そんな危険なところには近づかない。
穏やかに対応することで、もうひと押しすれば言うことを聞かせられると思われているのかも知れない。
もっとも、妨害のための資金を提供しているスポンサーがいるようだから、彼らの思惑もあるだろうが・・・

2016年10月22日土曜日

鉄器ができてから

動物は、衣は自前の毛皮があるから、食・住が確保できれば、基本的に生きていけるし子孫も残せる。食も必要以上に貪り蓄えるということはない。

ところが、人間はそうはいかない。
精神活動をするためには富が必要となるし、持つものの多寡で力関係が生じ、沢山持つことで他を支配できるから、富を蓄えることに貪欲になりがちになる。

人類は大まかに言って農耕民族と狩猟民族というのに、先祖は分れる。
どちらも初期の頃は、その日の食べ物を得られれば、それで良しとしていたに違いない。用心のために多少の蓄えをしたとしても、たかが知れている。

農耕といっても、採取時代から間もなくは石器に頼るしかなかっただろうから、耕作面積は知れていて、生産量が多かったとは思えない。
しかし、鉄器ができるようになってからは違う。耕地面積を増やすことで圧倒的に生産量はあがった筈だし、富の蓄積ということもできるようになった。
そうなると、農作業に従事する者ばかりではなく、分業化が始まり、思索に時間を使ったり、道具を工夫することから芸術に発展させたり、武器を作ったり、精神的支柱としての宗教も生まれてきて不思議はない。

厄介なのは狩猟民族である。
獲物が取れなければ、農耕民族を襲って蓄えを奪うのが手っ取り早い。狩猟をすることで、戦いには慣れていた。
しかしここにも、奪うことを正当化する理屈は必要となったと思われる。
白色人種の神は、有色人種を人ではないと決めつけることで、殺しても構わない、奪っても構わない、虐げても構わないという理屈を構築した。
まさか神がそんなことをするわけがないから、神の名を騙る権力者がそれを唱え、従うのが都合の良い人たちがそれに従った。
大雑把にこう考えてみると、歴史というのは解りやすい。

植民地主義というものの遠因は、簡単に奪えるというところにありそうに思える。
平和に暮らしていて武力とは縁遠かった有色人種の国々は、格好の餌食であった。
そこに住んでいるのは人ではないとする口実も用意されていたから、悪いことだとも思わないですんだ。

ここに、一人異を唱える国が現れ、これが思いのほか強かった。
折角築いてきた権益を侵しかねない主張が憎くもあり、これを皆殺しにするよりないとして包囲網を敷いて戦ったのである。
そして勝つには勝ってあたりを見渡してみたら、時すでに人としての自覚をもって立ち上がる国々が多くなっていて、植民地政策から退かざるをえなくなっていた。
人を人として認識しないということは無理がくる。
理性があって、何が善であるかを感じとれる人たちだって多かったはずだから、植民地がなくなったのは歴史の趨勢であろう。
しかし、長きにわたって血に染み付いた、あるいはDNAに刻み込まれた人種差別の概念が、そう簡単に消えることはないだろうから、未だに紛争の種となる。

2016年10月21日金曜日

絶対悪にする必要があったということなのだろうか

こんな人たちが「人道に反した罪」により処刑された?
今まで習ってきたことと真逆ではないのか?
ある記事を目にして愕然とする思いにとらわれた。どうこうなるわけではないが、知るくらいは知っていた方が良い。

(少し、長いかも知れませんが・・・)
ユダヤ人が東條英機を「英雄」と称えるポイントが二つあるのだという。

その1は、1937年、ナチスの暴挙を世界に喧伝するためにハルビンで開催された極東ユダヤ人大会。ハルビン特務機関長だった樋口季一郎らが大会に出席したことに対し、当時、同盟国であったドイツが抗議したが、その抗議を東條が握りつぶしたこと。
その2は、ナチスの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に入国させたことに対するドイツ外務省の抗議を、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴したこと。

平和条約が発効した後、その当然の流れとして東京裁判の「判決の効力」がなくなってしまうという「結果」を招来しないために、裁判の受諾が行われた。つまり、あくまでも本来なら失われてしまう筈の「判決の効力」を維持するために、この規定は設けられたのであり、同条の趣旨はまさにこれに留まる、といった認識だといえる。
ジャッジメントであり、ジャッジメンツ(関連事項全て)ではなかったと言えそうである。

我々が習ったのは、東条は極悪非道で日本を戦争に巻き込み、卑怯にも自決にも失敗した。
しかし彼はピストル自殺を図り、大量出血で放っておけば死ぬところを、体の半分以上の血を輸血して無理やり命を永らえさせられた。
そのまま死なせるのが、武士道であり騎士道であるかとも思うが、そんなものの持ち合わせはなかった。
それ以後の扱いは、知られている通りである。
戦争は、いつなる時代であってもそうであったが、勝者に都合よく書かれる。
日本人は、約束には従うから、平和条約を受け入れたからには、不満はあってもそうした。
それでも、事実関係だけは残したい、正当な主張はしたいと思った人たちはいたようだが、大新聞と知識人と呼ばれる人たちが広義に解釈するジャッジメンツのもと封じ込めてきた。
手のひら返しに躍起になったのは、戦争を煽り立てたのは、大新聞だったのではなかったのか?
調べてみると、戦争に反対したのは山本五十六のみでなく、軍部は彼我の実力差をよく知っていて、戦争は避けたかった様子がそこかしこに見てとれる。

ユダヤ関連の経緯を調べてみると、
昭和13年(1938年)2月、ナチス・ドイツの迫害から逃れた大量のユダヤ人難民の第一陣がシベリア鉄道に揺られて満州国の最北端の満州里駅に近いソ連側にあるオトポールに到着した。
その数は2万人にまで膨れ上がるも、ソ連は難民の受け入れを拒否。
難民は満州国へ入国することを強く望んだが、満州国も拒否した。
極東ハルビン・ユダヤ人協会の幹部らは、関東軍の特務機関長の樋口季一郎少将と会い、ユダヤ難民を救うように懇請した。
樋口はユダヤ人難民を救おうと決断、そして満州国外交部に働きかけ、満鉄総裁の松岡洋右とも折衝し、難民を特別列車でハルビンまで受け入れることを認めさせた。
樋口は関東軍の参謀長だった東條英機中将に「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱いものいじめをすることは正しいと思われますか」といって説得。
東條英機は筋さえ通れば、話のわかる人だった。
ドイツ外務省は日本政府に対して大量のユダヤ人難民を満州国へ入れたことに対して、強硬な抗議を行い、この抗議は東京から新京の関東軍司令部にすぐ伝えられた。
東條英機は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」として一蹴した。

「ユダヤ人対策要綱」の制定に際して板垣征四郎陸軍大臣に働きかけ、板垣陸相は「我国は八紘一宇の国である。ユダヤ人だからといって、特定の民族を差別することはできない」と述べた。

ユダヤ人映画監督スピルバーグがユダヤ人を救った男の実話を描いた「シンドラーのリスト」。トケイヤー氏は言います。シンドラーの行為はロハで使える工員を集めて金儲けするという私欲から発したもの。人道的な精神からユダヤ人を救った日本人と根本が違うと。

エルサレムの中心地に「ゴールデンブック(黄金の本)」なるものが展示されている。
ユダヤ民族に貢献した人、ユダヤ人に救いの手を差し伸べた人達を顕彰するためにだとされる。
この「ゴールデンブック」には二人の日本帝国陸軍軍人、樋口季一郎中将と安江仙弘大佐の名が刻まれています。
特務機関の幹部として、ハルビンのユダヤ民族協会を通してユダヤ人社会との交流があった樋口、安江。一方、東條はユダヤ人と親交を結ぶ機会がなかった。
それゆえ東條は「ゴールデンブック」入りができなかった。
しかし、もしユダヤ民族協会との交流があれば、「ゴールデンブック」入りは勿論のこと、東京裁判の判決に対し世界中のユダヤ人から助命嘆願書がマッカーサーのもとに寄せられたことだろう。ラビ・トケイヤー氏はそう記しているのだという。


2016年10月20日木曜日

「もったいない」が世界に

「もったいない」という意識は、いつの頃から情勢されてきたのだろう?
日本が発展してきたことの大元に、これがあるように感じてしまう。

古くは遣隋使・遣唐使の時代、近くは維新後の西洋文明の取り入れと、他国から多くを学んだが、そのいずれの時代でも、やみくもなんでもかんでも取り入れたのではなく、確実に取捨選択をしている。しかも、文物を単に模倣したりパクって終わりではない。
必ずそこに工夫改善が加わり、当初に入ってきたものより良いものにして馴染ませてしまう。
鉄砲しかり、時計しかり、文字・思想・宗教しかりであろう。

入ってくるものが少なければ、大事にするし、壊れれば修理して使うということだから、そこで工夫や改善がなされ、その延長線上にはより良いものを創造してしまう技術に結びつく。

日本列島の特性として、地震・颱風などの天災が多いが、それら自然の力を捻じ伏せるという方向には意識が向かわず、それらと共生しようとしたことからも、工夫改善はなされたし、皆で協力してことにあたろうとしたことも、与って大きい。

江戸時代にしてすでに識字率が7割をこえていたともいわれ、これはその時代の世界に例をみない教育水準であった。取捨選択できる能力は、こんなところにもありそうである。
「もったいない」と教育を重視していたのは、どんなことから始まったのだろうと思う。

我が事のみを考えないとする長い歴史は、気が付けばノーベル賞などで評価される下地を醸成していたのだとも感じる。


2016年10月19日水曜日

南より北のほうが心配なのではないのか

私も含め、多くの日本人が隣国とは仲良くしようと思っていたのではないのか?
捻じ曲げた教育を長く続けてきた結果なのかどうか知らないが、先方の都合で、関係修復はますます困難な状況下にある。
わざわざ嫌われるようにしているみたいに、次々クレームをつけてくるから疲れる。

チョッパリだのサルだのとの蔑称は日本相手に限ってのことではなく、世界各国すべてに付いているのだというから、気にしなくてもとは思っても、快くはない。

他を悪しざまにいうことでしか自分の精神性を保てない国民性らしいから仕方ないとしても、嫌われることを次から次へと敢えてするようなことは、如何なものかと思う。
他国と仲良くしていくにはどうしたら良いかと考える理性はないのだろうか?
「震災おめでとうございます」などと言い放つようでは、人間として終わっている。

ネットの記事をサーフィンしていると、思わず笑ってしまうものがある。
本気でそう思い込んでいるとしたら、どこの誰の与太話やプロパガンダに乗せられたのか知らないが、蒙昧としか言いようがない。
冷静な判断能力が育つ環境が最早ないのだとしたら、先は暗い。

日本は、我が国の再植民地化を目論んで軍備を増強している。
(頼まれたって、そんな面倒な国の統治なんぞ御免蒙るというのが、日本人の本音。)

放射能汚染で早く東京は滅びろ!
(放射能汚染の程度で言ったら、彼らが知らされていないだけで、ソウルの方が酷いのではないのか?)

北と統一したら強国になれる。
(北の方に統一されたら、恐怖政治の下になら纏まることができるかも知れないが、同朋を一番忌み嫌っているのが南の人たちであり、経済発展の遅れている北を吸収して耐えられるほどの国力があるとは思えない。)

日本人は狡賢い。
(そっくりそのままお返ししたい。自分が自分がと言うばかりで約束も守れないし、人に迷惑をかけても平気だという民度なのではないのか?他人を陥れるための知恵が王朝時代から身に沁みついているように見える)

仲間内だけで言っているのなら良いが、身の程知らずにもネット上で公言して憚らないということから、それらを目にした日本の若者たちが嫌うようになったのだと思われる。
年配者は、それでもまだ、かの国が徹底的に嫌いだとしてはいない。

不思議に思うのだが、日本人はそんなに嫌われているなら旅行先に選ぶのはやめようとなっているのに、不倶戴天の敵だとしている日本への旅行者が増えているというのは何故なのだろう?住み着いてしまって帰らない人も多い。

お互い、嫌われるより好かれるようにしあった方が良いと思うが、国を挙げての教育の結果だとしたら間違っている。


2016年10月18日火曜日

考えてみれば休戦中の国同士だった

ムスダンの発射が失敗したというが、安心はできまい。確実に成功しているものも保持していることは疑いなさそうである。
北朝鮮が核とミサイルの開発をしたことで、韓国は休戦状態が破られたときの安全保障をどうするかについて効果的な対策はなさそうである。
反米を唱え反日を唱えてきている間に何とかしたわけではなく、自国だけではなんともならない。

日本の国会では、日本の安保法制に絶対反対を主張していたO議員が、こと韓国に対しては守るべきだと必死になって食い下がっていたが、憲法の制限があってそれはできないと答弁され、憤懣やるかたない形相を見せていた。日本は駄目だが韓国は守れとでもいうのだろうか。

詳しく調べたわけではないのでわからないが、違和感を覚えるのが朝鮮戦争の休戦協定である。

米国が太平洋戦争直後、韓国を防衛ラインの外に置いたことを勘違いした北朝鮮の金日成が、これ幸いと南進を始めたことに端を発したのだったと思うが、韓国軍は追いまくられた。
そこで国連軍が組織され、米軍が戦争に加わることになったということだろうが、北朝鮮と韓国は、いうなればソ連と米国の代理戦争だったと教わったように思う。

国連の安保理事会は、ソ連と中国(蒋介石)の反対があれば、国連軍を派遣することはできなかった筈だというの、何故国連軍が組織できたのか、というのがまず不思議なことの第一。

米国軍の後押しで戦線を押し返しはしても、そこに何故か中国共産党が加わった。
韓国人は中国人には敵わないと長い歴史の中で刷り込まれているから、見るも無残に逃げ散ったというから、実際に戦ったのは自由主義側の米国と、共産主義側の中国だったというのが、今までの私の認識だった。
ソ連は、どこに消えていたのだろう?米ソはなあなあだったのか?

実際、休戦協定に署名したのは、国連軍を代表して米陸軍中将ウイリアム・ハリソンJr.と、中国人民解放軍大将 南日。李承晩は絶対反対を唱えたらしいが、当事者ともなっていない。
これが不思議の第二。

何とも変な構図ではないのか?
現在の韓国は、戦争中の北朝鮮を抜きにして、日本を敵国視している国民が多いと聞いているが、何を考えているのやら。
日本は絶対に韓国となぞと戦争しない。頼まれたって御免だと思っている。

プロレタリアを標榜しながら人民を搾取しすぎて問題を抱えすぎてしまったのか、北朝鮮と中国の対外強硬姿勢には、何かに追い詰められて必死になっているのではないかとの嫌な予感がしてならない。
間に挟まれている韓国は、足の引っ張り合いでまとまらないようだし・・・


言論の自由が侵されているようには思えないが

政権を再奪取され、続く選挙でも大敗を喫した民主党(民進党)は、政権担当時の体たらくで信頼を失って選挙にも負けたのだという見かたもあるが、マスメディアの報道に惑わされなくなった人たちが冷静に物事をみるようになったということかも知れない。

どう見たって不都合なことが多い隣国大事とばかりに、日本よりそちらの方を重要視する報道には、もうミスリードされない人たちが増えたということにマスコミは気づいた方が良い。
偏向報道に躍起になって、どう理屈付けしてみても、ウンザリしてソッポを向かれているように見える。
偏向を指摘され分が悪くなると、言論の自由を侵されて委縮すると抗弁するが、自粛ムードなぞ全く垣間見えることもなく、言いたい放題であることに変わりは見られない。
物言わぬ大多数は、そう感じ取っている。

リベラルを名乗れば知識人を気取れた時代は過ぎて、彼らは国境廃止主義者なのではないかと、なんとなく疑念を持つ人が増えたのかも知れない。
先般の選挙で負けたのは、政党もそうだがマスコミであるようにも感じる。
バランス感覚が優れている人が育っている国だからではないだろうか。

2016年10月17日月曜日

掘り起こしてみても始まらないが

現実の歴史というのは、いかに隠蔽糊塗しようとしても、いずれ表れてくる。
日本が隠蔽しているとして責め立ててみても、大した証拠はでてこないが、逆の物ならいくらでも出てきそうである。
そんなことを言うのは国粋主義だと言われたらは心外であるが、敗戦したが故に伏せられてしまっている事実は、かなり沢山なものでると思われる。

400年にわたる植民地支配に敢然と立ち向かい、人種差別撤廃やら五族協和やらを唱える日本は、列強にとってさぞ憎かったであろう。
日本に差別がなかったとは言わないが、人間を獣扱いし、殺して構わないという思想はなかった。

歴史上皆殺しの対象となったのは、ユダヤ人と日本人。嘘ではなく本当の話である。
日本人がそんなことになっていたとは知らない人が殆どであろうが、実際はそうであったようだ。

有色人種としてただ1国、価値観を異とする白人世界と戦ったのである。
それをする日本は、アジア・アフリカ諸国の希望の星であった。(唯一白人側についたC 国というのもあったが・・・)

戦争というのは、ありようをいえば相手を殺すこと。
しかし、それにもルールはある。太平洋戦争のの実情は、相手国の方が残虐であったことが枚挙にいとまなく出てくる。
なぜなら、黄色人種である日本人は人ではないから、何をしても神に許されると信じ込んでいたため、隠すこともしないで野放しにしていた資料が出てきてしまうからである。

「ねずみとり業者」とか「狩猟許可証」とかのステッカーを貼った軍服を着用し、「唯一良いジャップは死んだジャップ。」と公言して、アメリカインディアンを狩ったときを再現した。
頭蓋骨を置物に、人骨をペーパーナイフに、頭皮を剥いで飾り物にし、郷里への土産にした。
そういう写真が残っているのに処分もしないでいる。

それでも、日本人はそんなものを掘り出してきて、謝罪しろだの賠償しろなどとは言わずにきた。
戦争に負けたということはそういうものだとして潔かった。
おしむらくは、日本人が日本人を悪しざまに言って憚らないことが、普通に通ってしまうことである。日本人でありながら、事実無根のことまで捏造する勢力すらある。

しかし黙して語らなかった先祖たちの振る舞いをみていて、日本軍が喧伝されるほど悪者だったとは信じられない人たちが大勢いる。
恨みを晴らそうというのではない。真実を知ることで精神が救済され、誇りを取り戻せると思っているからに違いない。

戦争の結果どうなったかと言えば、米国が期待した中国での権益は皆無であったし、日本が理想として掲げた通り、結果的にアジアの植民地が独立するのを防ぐことはできなかった。

もっと困ったことは、実は日本が共産主義勢力の防波堤だったことに気づいたことであり、自らがその矢面に立たねばならなくなったことであろう。
朝鮮戦争・ベトナム戦争、それに続く東西冷戦などなど。
未だに世界各国で収まらない紛争の遠因は、そんなところにもあるのかもしれない。
でも彼らは、自らが正義であると頑なに信じて疑いもしない。

どれが良くてどれが悪いかは簡単には決められないが、勝ったから・負けたからではなく、事実関係が詳らかになっていくのには、まだまだ長い歴史の時間が必要なのであろう。


2016年10月16日日曜日

少ない情報量だけではコメントできないと思うのだが

多様性を認めるということは大事なことだとは思う。
多様性を認めるということで、能力があって経済・技術・産業・芸能・思想などで頭角を現し恵まれた環境を実現できた人たちというのは多いであろう。
しかし、多様性ということを口実にして、必要以上に騒ぐ人もいて、彼らの話題は取り上げられるから目立つであろうが、大多数は普通の生活を真面目に過ごしている人たちであり、流れが一定限度を超えると疎外感をもってしまい、不平不満の代弁者を求める。
素人目で見ての感じだからあまりあてにできる意見ではないが、アメリカの大統領選を見ていてそれを感じる。
どう見たって不利な状況に見えるトランプ氏が、まだ30パーセントを越えるの指示を得ているという。
過激ではあるが解りやすいことを言っていることを、熱心に支持している層があるということである。
韓国の大統領だって、支持率は30パーセントを切っているというのにである。

支持している層が何を以てそうしているのかをニュースとして扱わないから判らないが、重大な要件が潜んでいるかも知れない。
多様性の反対のことを置き去りにすると、取り残されたと感じている層による突出した事態に至ることだってありそうに思える。

2016年10月15日土曜日

日本の永住権には国による差があるのか?

永住権とは、外国人が在留期間を制限されることなく滞在国に永住できる権利のこと。
出入国管理及び難民認定法第22条では永住許可と呼ばれ、これは在留資格を有する外国人が永住者への在留資格の変更を希望する場合に、法務大臣が与える許可を指す。
滞在国で永住権を持つ外国人や永住許可を受けた外国人を永住者と呼ぶ。
永住者が享受できる権利は、その国の国民における権利とは全く同じにはならず、ある程度制限されたものになる。
制限される内容は、選挙権、被選挙権、、軍、警察、役所など公的機関への就職、土地の所有、パスポートの取得などにおいて一定の制限を受けるといったものである。
他に、一定期間を超えてその国から離れると、永住権が剥奪あるいは消滅する事になっている国も存在する。

その他に特別永住権というのがあって、これの扱いを問題視することがある。
朝鮮半島・台湾から戦前・戦中に日本に移住し、サンフランシスコ講和条約に基づき、日本国籍を失った人々に対して、平成3年(1991)に与えられた資格である。
「特別永住権」は、入管特例法によるもので、他の外国人と異なり、在留資格に制限がなく、母国は勿論、日本での経済活動も全く自由である。
また、5年以内であれば、母国と日本の間を自由に往来することもできる。再入国審査も楽にできる。
その上、内乱罪・外患罪など、日本の国益を害する重大な犯罪を犯さない限り、国外に退去強制させられることがない。
日本のこれは、世界的に類例がないほど、恵まれた地位である。
不思議なことにこの特権は、子孫にいたるまで無期限に与えられている。
出入国管理及び難民認定法の第22条2項に、「特別永住者の配偶者又は子である場合においては、次の各号に適合することを要しない。
一 素行が善良であること。
二 独立の生計を営むに足りる資産又は技能を有すること」と定められている。
つまり、犯罪歴があり、生活能力のない者であっても、日本に永住し続けられる事を法律が保証しているということである。
日本の国籍は血統主義であり、出生地主義をとっていないから、帰化して日本国籍をとり、
仲良く暮らしていくことを考えたほうがよさそうに思うが、何故かそれをしない人が多い。
特権としてなんらかの利益を享受しているからだと、それを指摘されもする。

権利は天与のものであり、当たり前のこととして感謝することもないし、果たさねばならない義務については自らが言及もしないから、特権ではないのかとしていろいろ言われるが、彼らが意に介しているとは見えない。