2017年5月31日水曜日

破廉恥罪は冤罪だと証明されても

電車に乗ったところ、前に立っていた友人同士らしい若者二人の一人が、両手をあげて網棚に掴まっていました。
もう一人が「どうしたんだ?」と聞くと「いろいろ面倒なことがあるからさ。」と答えた。
「そうか、お前の親父さん痴漢の疑いをかけられて大変だったもんな。」と了解していた。
今は警察関係の人も用心して、両手をあげて乗るようにしているらしい。

痴漢などという破廉恥な行為は、厳しく排除されるべきであろうが、疑いを持たれた全てが痴漢行為を働いたとも思えない。
しかし、女性の主張を一方的あるいは全面的に採用するらしいから、反証することは難しいのだという。
中には冤罪もありえよう。
しかし、捕まったら最後、殆どの場合一生を棒に振ることになるのだという。
線路を走って逃げるというのは、こういうことにもありそうに思える。

難しいかも知れないが、法的安定性を確保するには、双方の主張を検証できるような方法を取ることが望ましいと思う。
名誉毀損罪は、公然と事実を摘示して、他人の名誉を毀損する犯罪です(刑法230条)。 保護法益は個人の外部的名誉です。 誣告罪(ぶこくざい)は、他人に刑罰または懲戒の処分を受け させる目的で、虚偽の申告をする犯罪です(旧刑法172条)。この誣告を仲間と組んでする女性がいるやに聞くと、嫌な気分になる。これはいかになんでも卑劣過ぎる。誣告罪の厳正な適用をなさないと、法的な公平を欠く。

痴漢・強姦は破廉恥であるが、それが無実であったときは、仮令証明されたとしても、もはや取り返しがつかなくなっているであろうからである。

童話「星の降る夜」

まだ、学校で教えてもらっていない小さかった子供のころ、夜になると暗くなるのが
不思議でした。
空がぐるっと回って、暗い方の世界にいくのだと思っていました。

夜になると、空一面に星が出ます。
むかしの人は、明るい側の光が、空にあいた穴から、こぼれ出るのだと思っていました。
皆さんは、ドウダンツツジというのをご存知でしょうか?
漢字では、満天星と書きます。白い花がちりばめられたように咲く姿が、空一杯に広
がる星と似ていると感じたのです。
それと同じように、星が一杯にでている夜を、星の降る夜といいあらわします。
どちらも、素晴らしい感じ方だと思いませんか?
星が沢山出た夜には、お父さんお母さんと一緒に、空を眺めて見るのも良いことです。

星の降る夜には、草むらから虫の鳴き声が聞こえてきます。
スズムシだとか、マツムシだとか、ウマオイだとかと聞き分けて、静かな夜を楽しむ
ことができます。
ところが、虫が鳴いているのを声として聞くことができるのは、世界でも日本人とポ
リネシア人だけなのだそうです。
他の国の人達には、あの美しい虫の音が、雑音としかきこえないのだそうです。
もったいないことですよね。
でも、外国人でも、日本で生まれて日本で育つと、虫の声が聞きわけられるようにな
るのだそうです。
不思議ですよね。
自然と親しみ、自然を大事にしていることでやしなわれる感性なのかも知れません。
むかしの人たちの中には、自然の神様たちとお話しができた人もいたのだといいます。

2017年5月30日火曜日

童話「猿の尻笑い」

お山のサルが、他の猿のお尻が赤いと言って、ばかにして笑いました。
周りにいたおさるさんたちも、それにつられて、お互いのお尻を指さして、赤い赤い
といって笑いころげました。
自分のお尻だって赤いのだけれど、自分のお尻は見られないので、自分だって同じな
のだと気が付かないのです。
このことから、「猿の尻笑い」ということばができました。
「自分のことを棚にあげて」という言い方をすることもあります。

同じようなものに、「目くそ鼻くそを笑う」とか「50歩100歩」というのがあります。
これは、たいして違いがないのにという意味になります。
「人の振り見て我が振り直せ」ということであります。
人に文句ばかりいっているうちは、自分のことがわからないのです。
自分のことを自分がわかるというのは、とても難しいことですが、立派な大人になる
ためには、大事なことです。

気を付けてみていると、日本語には、同じことを言うのにもいろいろな表現があります。

言葉を覚えていくには、似ているものを集めて勉強するとおもしろいのです。

2017年5月29日月曜日

自律神経を整えてくれる周波数

人に影響を与える周波数というのがある。
528ヘルツの周波数は、自律神経を整えてくれ、不眠、イライラ、便秘、肌あれなど、自律神経が乱れることで起こる心身の不調を改善してくれると言われています。
気になるところが「DNAの修復」。528ヘルツの周波数を聴くことによって、破壊されたDNA細胞を修復する効果があるらしく、老化防止やがんにも効果が期待できると言われています。
神の領域に触れることができる周波数であると言う人もいます。
因みに、日本語の周波数は125~1500ヘルツ、英語のそれは750~12000ヘルツだと言われている。
しかし、日本人がよく言葉で表現する虫の声を例に挙げてみると、
虫の声は以下のような周波数帯にあるようです。
スズムシの鳴き声:約4,000Hz   
コオロギの鳴き声:約5,000Hz
キリギリスの鳴き声:約9,500Hz
セミの鳴き声:ピークは約4,0005,000Hz

日本語の言葉として聞き取れる周波数帯と比較しても、あまりにも高い周波数となっていると思われますが、日本人には確かに聞こえる音である。外人には全く聞こえないか、あるいは雑音としか聞こえないのだという。

読み聞かせ童話「価値のあるビリ」

マミちゃんは、ピカピカの一年生となって、幼稚園の時からの仲良しであるサキコちゃん
と同じ小学校に入学しました。
いつも一緒に学校に通っていました。
マミちゃんは、まだ小さくて運動は苦手でした。
夏休みがすぎるとすぐに、運動会がありました。
「かけっこ」の競技があって、5人づつにわかれて競争で走るのです。
順番をまっている間、マミちゃんは、しんぞうがどきどきしてたまりませんでした。
「よ~いどん」いっせいに走り出しました。
マミちゃんはいっしょけんめいに走ったのですが、ビリになってしまいました。
なかよしのサキコちゃんは一番でした。
自分はビリでしたが、おともだちが一番だったことがうれしかったので、家に帰るとゴー
ルテープを切るサキコちゃんの絵をかいて、次の日に渡してあげました。
走るのはにがてでしたが、お絵かきは一番じょうずでした。
サキコちゃんは「ありがとう」といって、とてもよろこびました。

二年生のときの運動会も、マミちゃんはビリでした。
三年生の夏休みは、いっしょけんめい走ることを練習して、早く走れるようになっていま
した。
「よ~いどん」いっせいに走りだしました。
夏休み中いっしょけんめい練習したマミちゃんは、一番さきを走っていました。
ところがなのです。半分くらい走ったとき、ヨチヨチ歩きの子が、お母さんが目をはな
したすきに、コースに入ってきてしまったのです。
よけようとしたマミちゃんは、大きくころんでしまいました。
ほかのお友達たちは、よこをかけぬけていきました。
大きくすりむいてしまった膝小僧はとてもいたかったのですが、マミちゃんはたちあがると、
最後まで走りました。
ビリになってしまいましたが、運動場にいたみんなが、拍手してくれました。
サキコちゃんがまっさきにかけよってきて、抱きしめてくれました。
「かけっこはビリになっちゃったけど、マミちゃんはお絵かきはいつも一番じゃない。」と
いって、なぐさめてくれました。

大人になったマミちゃんは、絵のコンクールで賞をとれる立派な画家になりました。
サキコちゃんは、陸上競技の選手になって、大きな大会で金メダルをとりました。
お祝いに駆けつけたマミちゃんに、サキコちゃんがいいました。
「私がここまでなれたのは、マミちゃんのおかげよ。あなたが小学校の一年生のときに描
いてくれた絵は、額に入れていつもそばに飾ってあるの。苦しいときにはいつも、その絵
が、私を励ましてくれたの。」

生涯を初等教育に捧げた東井義雄氏が「一番より尊いビリだってある。」と仰っています。
氏は、師範学校でマラソン部に属し、4年間ビリを独占していたそうですが、「俺はビリか
ら逃れることはできなくても、日本一のビリにはなれる筈だ。ビリが恥ずかしいことでは
ない。怠けることの方が恥ずかしい。」と言っていたのだいいます。

「ビリであることで卑屈になったり、心まで貧しくなったりしなければ、困っている人や弱
い人の気持ちが理解できる。全てのことにビリであることはないから、一番の分野でビリ
の味がわかる動きができる。不遇のときは、力を蓄えている時期だと信じる方が強く生き

られる。」と、常に口にしていたのだといいます。

2017年5月28日日曜日

日本には縄文時代の文化があった

日本は、ギネスブックにも載っているように、最長の継続的歴史を持つ。
皇紀でいえば2600年を越す。
しかし、もっと言ったなら、1万年から2万年の縄文文化をその前段階に持っている国である。
社会文化がそれほど長く続いた国は、世界にないのだという。

狩猟採集を基礎として、自然との協調を図りながらそれを為しえたというのが凄いのだという。
農耕をすれば、開発による自然破壊を伴うと、彼らは知っていたらしいことにも驚く。

縄文土器の技術も優れていて、火炎土器の模様の意味と模様の対照性も研究対象となっているというが、土偶も世界的な研究者の興味を惹くところだという。

十数年前、旅行で三内丸山遺跡を訪ねたときには、まだそんなに深く考えなかったが、産地が限られていた翡翠や黒曜石が、道もなかったであろうその時代に、どのように流通していたのかということを不思議に思ったことだけが、記憶に残っている。


縄文人のDNAが、日本人の中にどのように残っているのかも興味深い。

読み聞かせ童話「シュリハンドクと茗荷(みょうが)」

「みょうが」という野菜があります。
親ミョウガが春に芽を出したときの茎の白い部分をミョガタケと呼び、夏になって
根元から出てくるピンク色のものを普通にミョウガと呼んで、2回食べられます。

 昔の人は、ミョウガを食べると物忘れするようになるから、子供には食べさせるなと
言いました。
ほんとうは、そんなことはありませんが、野菜の匂いが強いので、子供は苦手かもしれ
ません。
どうして、ミョウガを食べると物忘れするといわれたのでしょうか。

ミョウガはシュリハンドクというお坊さんのお墓から生えてきた植物だからだというの
です。
ミョウガというのを漢字で書くと、「茗荷」となります。
字の通り、名前を荷う(になう)ということからだというのです。
シュリハンドクは、自分の名前すら覚えられなくて、背中に名前を書いてもらっていた
というくらい、物覚えが悪かったのです。

シュリハンドクは、お釈迦さんの弟子でした。
朝聞いたことを夕方には忘れているなんていう程度のもものではなくて、自分の名前ま
でわすれてしまうのでした。
皆から馬鹿にされるし、自分が情けなくて、お釈迦様に相談しました。
お釈迦様は、「大丈夫じゃ。」と言って1本の箒を渡され、「これで綺麗にしなさい。」と
教えたのだといいます。
シュリハンドクは、来る日もくる日も、何十年もの間、ただひたすらお掃除に励みました。

ある日お釈迦様が、そこを通るときに「随分綺麗になったね。だけどまだ1箇所綺麗で
はないところがあるよ。」とおっしゃったのだそうです。
それがどこなのかわからないまま、さらに数年掃除を続けていたあるとき、はたと気が
つきました。「汚れていたのは自分の心だった。」と。悟りです。

お掃除を長くしただけで、むずかしいといわれる悟りを開いたのです。

2017年5月27日土曜日

読み聞かせ童話「縄文土器とカエル」

今から1万5千年も昔のことになります。
日本には縄文時代と呼ばれる時代があって、開けた文化がありました。
人々が集まって住んでいた跡(あと)からは、貝塚がでてきたり、穴を掘って住んでい
た住居の跡がでてきたりします。
皆さんもご存知の、縄文土器というのも沢山出てきます。
その土器の表面には、縄の模様がくっきりと刻まれています。
なぜそのような模様をつけたのかを、一所懸命研究している学者さんも多いのです。
いろんな説があります。
縄の形からすぐに思い浮かぶのは蛇です。
蛇は何回も脱皮を繰り返し、そのたびに大きくなるので、蛇は死なないのだと信じられて、
いました。
ですから、土器の中に入れるものが長持ちするようにと願って、器の表面に蛇の模様を
つけたのではないだろうか、というのです。
蛇は、不思議な力があるのだと思われていたようです。

縄文土器のなかには蛙が描かれたものがあります。
蛙は神話のなかでは死の世界に近いところに住むいきものだとされていたようです。
縄文土器に描かれた蛙の背中には女性の姿が描かれていたり、赤ちゃんの顔が描かれて
いたりします。これは死の世界から命が生まれることを現わしているというのです。
縄文の人は、生と死を別のものとは考えずに、一続きのものと考えていたのではないか
いうことになります。
縄文時代中期の集落は、広場を中心にして周りを住居が取り巻いている形をしているこ
とが多いのですが、その広場には死者の遺体が埋葬されていました。
みんなの生活の場の中心に、墓地があったのです。
生の中心に死があり、死の中心に生があるというふうに思っていたのかもしれません。

カエルが描かれたのは、ヘビに対するのと同じように、生き物への感じ方が有ったのだ
とおもわれます。
カエルも、オタマジャクシから育って足が生え、シッポがなくなってカエルに変身します。
蛇もカエルも、決して気持ちの良いいきものではないのですが、どちらも姿を変えてい
くことで敬われていたようです。

カエルという生き物は、水(霊の世界の象徴)と陸(現実の世界の象徴)二つの世界で
生きることができることから、きっと「福神」や「守り神」だとしたのかも知れません。
ですから、カエルには、財運がつくという嬉しい意味も持たれるようになりました。
後の世では、カエルの夢を見るのも縁起がよいとされるようになっていきました。
カエルという言葉は、「変える」「帰る」「孵る」「買える」と同じひびきをもった言葉に
通じあいます。
日本語には、同じひびきを持った言葉は、意味があることが多いのです。

大きくなったら、「古事記(こじき)」を読んでみると良いかもしれません。
想像力がふくらみます。
カエルも出てきます。かえる(ひきがえる) です。
小さい神(スクナヒコ)が誰であるか、案山子(くえびこ)なら知っているだろうと教
えてくれました。
カエルの事をタニグクと呼びました。
「たにぐくのさ渡る極み」という表現で出てきます。国内いたる所くまなくという意味
です。谷をくぐるからという説もあります。
この谷は、太陽の出てくる穴、陽谷のことだと推定する人もいます。
ヒキガエルは、日招き(ひまねき)ガエルだといいます。
古代の人は、カエルに神秘性を感じていたようです。中国では、月の中にヒキガエルが
いるとされてます。毎日、形を変える月には、変態するカエルがふさわしいとしたのか

もしれません。西洋にも似たお話があるそうです。

男が川なら

如かず
イケズじゃなくって、シカズでございます。

アラブの諺に「男が川なら女は水たまり」ってのがありまして、仲間みんなでああじゃないかこうじゃないかとやりましたが、意味の結論はでませんでした。

諺っていえば、 “鵠”ってのは一体なんだってことなんだけど、「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや(えんじゃく いずくんぞ こうこくのこころざしをしらんや=ツバメやスズメのような小さな鳥が、大きな鳥の志なぞ解らない)」なんてのもあるから、でかい鳥だってことはおわかりかと・・・

大体が、漢字で書く鳥の名は難しい。
子規がホトトギスで、啄木はキツツキ、閑古鳥が郭公だってのは、どっかに前に書いた。

話しを戻して鵠(コク コウ グイ)。
これは白鳥の古名ってことになっています。
ついでのついで。鴻ってのは鴻巣なんて地名もあるから知ってるようでいて、実は知らない。
大雁、ヒシクイの別名なんだという。昔習った筈なんだけど覚えてなかった。

 ついでのついでのついで。じゃあ「水馬」ってのは何だ?ってのが宿題。
 鳥の話しをしてたけど、これは鳥じゃぁない。まあ空は飛ぶけどネ。
 最近みかけなくなった。(答:水溜りに来る昆虫アメンボ)


2017年5月26日金曜日

童話「若い旅人とお爺さん」

むかし若い旅人がいました。
長い道を歩きつづけて、ようやくひとつの村にたどりつきました。
村の入り口に、ひとりのお爺さんが石の上に腰かけてひなたぼっこをしていました。
つかれきっていた若い旅人が、ぶっきらぼうなくちぶりで、お爺さんにたずねました。
「おじいさん、この村はどんな村ですか?」
おじいさんは、その若者にたずねかえしました。
「この前の村は、どんな村じゃったね?」
わかものがこたえました。
「この前の村は、やって欲しいことを何もやってくれないイジワルなむらでした。」
するとおじいさんは、「この村もまったく同じじゃよ。」といいました。

しばらくすると、ちがう若者がやってきました。
「おじいさん、こんにちは。この村はどんな村ですか?」と同じしつもんをしました。
おじいさんは、まえと同じように「この前の村は、どんな村じゃったね?」とききました。
「はい、おじいさん。ここにくる前の村はみなさん親切で、とてもきもちよく過ごすこ
とができました。」というと、
おじいさんは「おお、そうかね。この村も全くおなじじゃよ。」と、うれしそうにこたえ
ました。
なぜなのでしょう?「イジワル」と「親切」ではぜんぜんちがうのです。

じつはこのおじいさんは「気づきの神様」だったのです。
ものごとは、自分で気づくようにならなければなりません。人が教えてはくれません。
自分勝手なことを人にやってもらおうとしても、人はてだすけはしてくれません。
でも、自分ができることはなんでもして、人の役にたとうとおもって何かをやると、そ
の行いの大変さというのがわかるようになります。
それがわかると、人のやってくれることに、感謝のきもちを持つことができるようにな
ります。おたがいさま、という気持ちです。
気持ちがつうじあうと、信頼しあっておたがいが親切にできるようになります。
まず、わかるということからはじまります。

なかよくできるようになると、しあわせになれるのです。

子供は残酷?

幼い子供というのは、時にとても酷いことを言っているように聞こえるときがあります。

お祖母ちゃんと幼い孫娘が連れ立ってお出かけをしているときの会話が耳に入ってきました。
普段から可愛がり可愛がられている様子が見て取れました。
お祖母ちゃんがつけているキラキラ光るアクセサリーが、孫にとっては欲しいもののようで
あった。
「お祖母ちゃん、これ頂戴。」
「今はまだ駄目よ。でもお祖母ちゃんが死んだら、貴方にあげるわ。」
「やったー。」孫は大喜びして手を叩いたのだが、そのあとに続いた孫の言葉に周りが凍り
付いた。
「それじゃあお祖母ちゃんいつ死ぬの?」

それに似た話というのがある。
お爺さんが臨終まじかの床に臥せっていた。親族が集まり、枕頭に侍って沈鬱な表情で息を
潜めていたとき、幼い孫が突然その静けさを破った。
「ねえ、お祖父ちゃんまだ?」
まだ死なないのか、ともとれる言葉に、周りはぎょっとして顔を見合わせた。
しかし、続いて言った孫の言葉は「お祖父ちゃんまだ起きないの?」であった。

幼い子を残して死んだ親の葬式で、涙をさそうのは、悲し気にうちしおれている子の姿を見
るより、何事が起ったのかまだ理解できず、親戚が大勢集まったことに喜んではしゃいでいる
様子を見たときであるといわれる。
核家族化して久しく、まわりに死というものに触れる機会が少なくなったこともあるのかも
知れないが、誰が教えなくても自然に身に着くそういうときの振る舞いというのが、いいか悪
いかは別にして判らなくなってきた時代ともいえる。
平均寿命が延びたこともあって、大人だって我が身のことを敢えては考えなくなっている。


2017年5月25日木曜日

虎に翼 獅子に鰭

鬼に金棒・虎に翼・鬼に鉄杖・駈け馬に鞭・獅子に鰭・弁慶に薙刀、いずれも強いものがより強くなるという表現ですが、良い意味で使われるものばかりではありません。

掣肘(せいちゅう)・牽制などは、逆の意味。

邪魔するものということになれば、月に叢雲・花に風・寸善尺魔・花に嵐などがある。


日本語にはいろいろな表現が有って面白い。

童話「ホトトギス」

ホトトギスという鳥がいます。
日本では、その悲しそうな鳴き声から、和歌によまれた数が多い鳥です。
「まんようしゅう」では153、「こきんわかしゅう」では42、「しんこきんわかしゅう」では46もあ
るほどに、したしまれていました。
夜に鳴く鳥として、めずらしがられたり、その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声を「しのびね」
と呼びならわし大事にしました。
のどのおくが赤いことから、鳴いて血を吐くホトトギスという悲しい呼び方もあります。
カッコウに似ているのですが、鳴き声がちがいます。
早口言葉でいわれる「とっきょきょかきょく」と鳴くことでしられていますが、こども
のころにお母さんから聞いたお話しでは、「お・と・と・き・た・か」と鳴いているのだ
というのです。
「弟 きたか」と何回も鳴くのです。

むかしむかしあるところに、二人だけで住んでいる兄弟がいました。
お兄さんは体が弱くて、いつもお布団でねていました。
お兄さんおもいの弟は、毎日せっせと食べ物あつめにでかけて、栄養のあるおいしいも
のをもってかえって、自分は食べないでも、おにいさんにはお腹いっぱい食べさせてい
ました。
それがどんなに大変なことなのか、働いたことがないお兄さんにはわかりませんでした。
あるとき、お兄さんはうたがいをもちました。
「おれが毎日こんなにおいしいものを食べているんだから、弟はもっとおいしいものを
食べているにちがいない。」
そこでお兄さんは、ほうちょうで弟の腹を切って中を見てみたのです。
お腹の中には、木の葉や草などそまつなものが少ししかありませんでした。
おいしいものはぜんぶ、お兄さんにあげていたのです。
弟はしんでしまいました。
後悔してもおいつきません。なげきかなしんだお兄さんは口から血を吐くまで泣きつづ
けました。
そして、そのまま鳥になって夜の空にとんでいきました。
ホトトギスになったお兄さんは、それ以来「お・と・と・き・た・か」と鳴くようにな
ったのです。


兄弟げんかしたときに「なかよくしなさい。」と言って、母から聞かされたお話しです。

2017年5月23日火曜日

輪廻転生はあるのかも知れない

輪廻転生というのはあるのだろうか?
有るという人もいるし、無いという人もいるが、証明のしようはなさそうである。
しかし、世界には前世の記憶を持ったまま生まれた人というのがいるらしい。
その子の言うことを調べてみると、幼い子が知り得る筈のない場所と時代に実在したことがあるという歴史事実に合致することがある例が多いのだという。

では、何故生まれ変わるのだろう?
死後は、肉体という器がなくなり、零というエネルギー体でより高い意識を目指して修行に励むのだという。
しかし、肉体という衣をもった実体でないと、どうしても叶わない修行というものがあるらしい。
生まれ変わりを望んでも、すぐにそうできるわけではなくて、およそ400年くらいは順番待ちをしなくてはならない。
そうして、その修行に適う経験を積むために、自分が生まれ変わるときの両親を選ぶのだという。
だとしたら「産んでくれと頼んだ覚えはない」と両親に悪態をつくなぞとんでもないことになる。

修行が行き届いて精神的に向上することができれば、現世に生まれ変わって苦しい経験をしなくてすむようになるらしいのだが、何度生まれ変わっても新たな業を積むような生き方をしていれば、次に生まれ変わるときにはもっと過酷な世界にいくことになる。
全て最初からやりなおし、ということである。


それはともかくとして、現世で生きているときは、少しでも徳を積むように心がけた方が、精神衛生上もよさそうに思う。

童話「狸囃子」

満月の夜になると、気持ちがウキウキします。
そういう夜には、山の広場に狸たちが大勢集まって、うかれてお祭りを始めるのだとい
います。
皆が車座(くるまざ)と呼ばれる輪になって座り、お腹を膨らませて鼓(つづみ)のよ
うにポンポコポンと打つのです。
その音がお囃子のように聞こえるので、“たぬきばやし”といわれるようになりました。
そのお囃子の音がどこから聞こえてくるのか、と思って音の聞こえる方向へさがしに行
っても、音は逃げるように遠ざかってしまい、どこからその音がでているのかつきとめ
られないのだといわれます。
音の出るところを追っているうちに夜が明けてしまうと、見たこともないところにいる
ことに気づくというのです。
いまは、いなかの村も開けてしまったので、明るい満月の夜に外にでてみても、“たぬ

きばやし“が聞こえるということはなくなってしまいました。