2017年6月30日金曜日

部分的な情報では判断できないのに

獣医学部を1校にかぎらず複数作っても良いと総理が言った途端、野党もマスコミも文科省も必死になってコメントしているが、語るに落ちたということではないのか?

50年も新しい学部の新設ができなかったことは、いかになんでも既得権益が守られ過ぎできたという証ではないのか?
このまま何も変えずにぬくぬく行く方が良いとは思えないのだから、結果的には良い選択といえなくもない。
文句を言っている人たちは、国民の為といいながら感情的だし、主張に何か胡散臭さを感じさせられてしまう。

そもそも、文部省からと言われる漏洩文書は、テロ等防止法案潰しに使われているという側面が垣間見えていたが、それが潰えてもまだ、加計学園問題を言い続けているのは何故なのだろう。
岩盤規制とかで、既得権益を守っている行政に楔を打ったことに抵抗をし続けようということなのだろうか?
未だに言い続けている人たちは、官僚主導ではなく政治主導で行政は為されるべきだと言っていた側なのではなかったのか?
天下りは、行政官庁の役人ばかりではなく、新聞社のOBも同様であることが、騒げば騒ぐほど、段々に浮彫されてくる。
な~んだ、そういうことだったのか、という感が否めなくなってしまう。

ジャーナリストというのは、諸外国では事実を報道するのが仕事だという認識らしいが、日本では権力を監視するのが仕事だと言い張る。
だとしたら、マスコミだって権力そのものになる筈だが、自分のことは棚に上げてものを言うから、おかしなことになる。
北朝鮮が地上の楽園だと宣伝しまくったことや、慰安婦の捏造報道で日本を貶めたばかりでなく、世界を騒がせたということへの反省や謝罪もないままでは、何を言っても信頼されまい。

行政が歪曲されたと前次官は主張しているが、我々としては、学校教育が歪曲されてきたと思っている。
主権国家としての領土問題も、教育指導要綱にそれを書くことを積極的に潰したのは、前川氏であったとも聞く。
官庁の人事は、その省内で決めるのは当然としても、国の組織である以上は、少なくとも次官を決めるときに、彼がどんな仕事に携わり何をしてきたかくらいは、事前に国民に知らせるべきではなかろうか。

青山氏が怒っている。膨大な取材実績により知り得ているいろんな問題の経緯、証拠資料に基づく意見は説得力をもっている。


2017年6月29日木曜日

戯言と妄言

韓国人や中国人が好んで使う言葉に「妄言」というのがある。聞くだに腹立たしい言葉の一つになっている。
今度は、米国のアトランタに慰安婦像を建てるのだという。
日本の領事官が反対を唱えたのに対しても、この言葉を使って騒いでいるという。不可逆的にと言ったのは彼らの側なのに、合意を守る気など更々なくて、懲りずにまだ続けたいらしい。

彼らは、自分たちの意に染まないことは全て一括りにして「妄言」と言って片付けようとするが、
「妄言」というのはそもそもが「根拠もなくみだりに言う言葉。でまかせの言葉。」という意味であるから、どこに根拠がないとするのか、どこがどうでまかせの言葉だというのか、論拠を挙げて説明しなくては反論とはならない。
要するに説明ができないから逃げ口上として使っているに過ぎないということになる。
妄言は虚実と現実の区別がついていないが、戯言は嘘だと知っていて冗談で話すことだということになっている。
基本的に日本側は、外交に関わる話をするとき、戯言は言わない。ちゃんと資料に基づき証拠があることをいっている。
反論ができないことは確かに悔しいことではあろうが、証拠があることはいかに言い繕おうとしても変えようがないことを認めた方がよいと思う。彼等こそが妄言を弄しているのではないのか?


2017年6月28日水曜日

教えられてきたことと実際が違うことはありそう

光と陰という字を見ていて感じたことです。

「光」という字は、日本においては明るいもの、希望を齎すもの、という意味で使われる。
中国のように、無くすとか奪うという意味で使われることはまず殆ど無い。そんな意味を持つということ自体を知らない。

小学校時代だったか中学校じだいだったか定かではないが、日本軍は中国において、三光作戦という名の酷い行いをしたのだと習った。
子供心にそれを信じ、随分悪い事をしたのだと思いながらも、不審感はあったことを覚えている。

「三光」が、「殺光」「焼光」「搶光」(略光、奪光ともいっています)を表し、それぞれ「殺しつくす」「焼きつくす」「奪いつくす」ということだと教えられたが、なぜ「光」なのかがわからなかったけれど、それが中国語の意味であるということは、後に知った。

ごく普通の常識をもって考えれば、、「三光」 という言葉は日本語にはなく、明らかに中国語なのですから、日本軍が「三光作戦」という作戦名を本当に使ったのか?という疑問が湧いてくる。日本軍将兵は「三光作戦」という作戦名のもと、本当に「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」ことを本当にやったのだろうか?
「三光作戦」に参戦したはずの将兵の誰一人として、「三光作戦」などということは知らないのだという。「三光」という言葉自体を知らないということらしい。

にもかかわらず、参戦したとされる将兵が知らなかった作戦が、日本の学生や一般人に知識として教え込まれ、やがて日本人の共通認識になるというのであるとしたら、南京事件と同様、その真実を明らかにする必要はあろう。
過ぎ去ったこととして忘れてしまうというのも一つの考え方ではあるが、相手国が有る場合はそうとばかりは言っていられない。
黙っていれば、相手の言うがままが歴史として後世に残ってしまう。
どうもプロパガンダだった疑いは強いし、反日的日本人学者や政治家が、それを言い立てたようにも思える。戦後しばらくは、それに異を唱えることは難しい状況があった。
戦争をしていたのだから何もなかったとは思わないが、事実はどうだったのかという検証はしておくべきだと思う。

2017年6月27日火曜日

もう毅然たる対応をしていく以外にないのではないか

韓国の大統領が替わってしばらくが過ぎ、予想通り日韓の合意を蒸し返し、反故にする動きを見せ始めている。
告げ口外交がまず手始めということなのだろうが、それをやったところで諸外国からは最早聞き捨てにされるだけで、信頼をますます損なう結果しか得られないように見える。
しかし、一国だけは相変わらず、かの国に譲歩する動きを見せる。
他ならぬ日本である。
反日的日本人、或いはナリスマシ日本人、または一部マスコミがそれを助長する。
このままでは、いつまでたっても、というより永遠に決着はつかない。
不幸なことに、日本側には国交断絶をしても構わないという人が増えている。

かの国では捏造教育によって、誤った歴史認識を刷り込まれた国民が多くなった結果だと今までは思っていたが、最近はその認識が変わってきた。
彼らは自国で教えられた歴史が正しいなどとは思っていないのではなかろうか?
日本でもそうであったが、自虐史観に基づいた教育を受けてきた年代層が、いかに学校で教えられたとはいえ、自然に歴史の事実というものに気づいてしまったように、かの国だって、本当は日本の言っていることの方が正しいと判ってしまっている人が多いのではなかろうか?

これだけネットが発達し、物証のある世界の歴史資料が手に入る時代にあっては、仮令かれらの言に染まないことであっても、韓国の教えていることだけが他国で教えていることと明らかに違うということは、改めて比較してみるまでもなく簡単に知ることができるからである。

ただ、知ってはいても自制するかどうかは別の話である。
日本は、無理なことでも文句を付ければ、何だかんだ言っても結果的には金を出す。今までそうであった。日本相手なら何を言っても、何をやっても構わないのだという癖がついてしまった。

彼の国の外交において、国論をまとめるには反日というのが手っ取り早くて都合が良い。
国内的に行き詰る問題が出てくるたびに、それを使うのは有効的に作用した。

そのための地ならしとして、学校で教えたと思われるのが、

日本との独立戦争をして勝った。
(日本と戦ったというなら、それは即ち内戦ということになる。そんな史跡はひとつもあるまい。そんなことは、彼等だって言われなくても判る。)

竹島は、民間人が手りゅう弾と僅かな武器を使って奪取した。
(発表されているその証拠写真というのは、米国兵士が乗っている上陸用舟艇を竹島をバックにしたできの悪いコラージュ写真であり、ご丁寧に日章旗と旭日旗を嵌めこんだものだということは、彼等自身も知っている。その旭日旗も、つい最近のサッカー試合での不祥事を誤魔化すために、苦し紛れに言った嘘の時まで問題になることはなかった。戦ってもいないのに戦犯旗などという取って付けたようなことを言わざるを得ない羽目になっているのではないのか。)

日本は、ドイツのように謝罪もしないし賠償もしない。
(日韓基本合意以来、何回にもわたって謝罪を繰り返し、お金も出しているが、国民が知らされていないだけ。)ただ、いくらでもエスカレートさせたいということなのであれば、どこかで線を引かない限り際限のないことになる。

上記の3つだけを取り上げてみただけでも、ハッキリしてしまう。
他に彼らが主張していることの殆どが、事実に基づかないものは彼ら自身の論理矛盾を起す。
それにもかかわらず姿勢をあらためないということは即ち、「日本相手なら何をやってもいいや」と、知っていてやっているのだと判断する以外にない。

韓国の今の繁栄は、日本なくしては叶わなかったことは、世界の常識である。
日本政府も、韓国を援助したかったのであれば、別の名目をきちんと立てて、補償紛いのことに理由付けされないようにしてくるべきであった。
そういう意味では、日本も悪い。

この先もなお、合意も約束も守られないということになるなら、日本も世界各国に向けて、かの国に配慮するばかりでなく大々的に主張しなくてはなるまい。

2017年6月26日月曜日

何をして悪女との名を歴史に残したのだろう?

中国三大悪女なら、よく文献に出てきますが、ドラマで見るのと違っていずれも残忍極まりない。
呂后・則天武后・西太后ということになっている。

世界三大悪女という言い方は余り聞いたことが無いが、西洋まで含めたら、半端じゃない悪女がいるのではなかろうか。

政治に多大な影響を与えて、国に仇する結果となった悪女といえば、カトリーヌ・ド・メディチ(仏)日野富子(日)エカテリーナ2世(露)マリア・ルイーサ(西)江青(中国)などがあげられるのだという。

男を惑わす悪女なら、アグリッピナ(羅)ユリア(羅)メッサリナ(羅)ルクレチア・ヴォルジア(伊)なのだというが、何をしたのかは知りません。
暇ができたら調べてみると面白いのではないかとは思うが、胸糞が悪くなるのではという恐れもありそうだから、積極的にというわけでもない。


2017年6月25日日曜日

誰に投票したら良いものやら

都議会議員選挙が始まった。

各党が公約を掲げてはいるが、キレイごとばかりでなく実現を目指してもらいたい。
争点にすると言われていた豊洲市場移転問題は、余り歯切れのよいものとはならなさそうに、感じる。
地域政党であるからそれでも良いのだろうけれど、「都民ファーストの会」というのは、ネーミングとしてどうなのだろうかと思ってしまう。
都知事選では小池氏に投票したが、東京都ということになると、ちょっとした国の予算を凌駕する規模の自治体ということであるから、都民だけ良ければよいとする考え方は取りにくい。
誰にどのようなことを期待して投票するか、ということをこれからじっくり考えなくてはならない。なんとも悩ましいことになる。
劇場型選挙になるのは勘弁してほしい。
当選目当てで今まで所属していた政党を離党して他会派に加わった人は信用きそうなのか?
(蓋を開けてみたら隠れ○○党であったというのでは目もあてられない)とか、具体的にどのようなことをしようとしているのか?とか、今までの実績はどうだったのだろうかとか、人相骨柄とか、話し方からくる雰囲気とか、今までの選挙ではしなかったことを、今回は検討してみようと思っている。
一つだけはっきりしているのは、名前の連呼こそしなかったとはいえ、公示前にセンデンカーを走らせていた人は外す。最初からルール違反をするようでは信頼できないから。

2017年6月24日土曜日

「もういい加減にしろ」と言っている人が多いと感じるが

怪文書問題というのが今一よく解らない。

文科省にファイルされていた文書の中に、同様の趣旨の文書があったということであるが、あったからといって、それがどう不都合なのか、どう問題視される違法性を持つのかが解らない。

どういう会議がいつ、誰が出席して開催され、どのような審議をしてどう決まったという議事録というわけでもなさそうに思える。
他省庁から何かいわれたとしたら、そこで反論すればよいだけのことで、何をいわれたからといっても理屈が通らなければ、行政が歪曲されることはあるまい。
内閣府からのメールが会議の資料として提示され、それが会議の帰趨を決めたということかどうかも極めて疑わしい。
何となれば、それらのメールは個人ファイルにはいっていたものだということらしいし、メモ程度の意味しか持たない可能性も否定できない。

あくまで、報道で知り得た個人的感想である。
報道は、それらのことについては詳らかにしないし、今治市が以前から要請していたことについては、敢えてかどうか知らないが、報道或いは議論から外しているように思えてならない。
自分たちに都合のよいことしか提示しないのでは、論拠に齟齬を来しかねないのではないのかと、単純に考えて不思議に思ってしまう。。

前川前事務次官についても、信頼できる人物かどうかは重要だと思うが、これに触れることを言うと、個人攻撃であり下品だとしているが、彼のしていたことは下品ではないのか?
出会い系バーに足繁く通っていたということはさておいても、面従腹背が座右の銘であったとして公言して憚らない人だから、どこまで信用してよいものやら・・・

誰がその怪文書を作成したのか、また、それが誰によって外部に漏らされたのかということだって、秘匿義務が課されている役人がしたことであれば、それに目をつむって見逃していて良いとは思えない。

総理の指示によって、一部利害関係者に都合の良い結果になったというなら大問題であるに違いないが、それもどうやらそんなことはなかったのではないのか、と感じさせられる。

強権を発揮できる独裁国家の独裁者だとでもいうなら別であるが、日本においてそんなことをすれば命取りになりかねないことを為政者が知らない筈もないだろうから、加計学園に決めろというような支持を出したとはとても思えない。
だから忖度したのだと言い張るのは、どうにもいただけない。

疑いを持ったのであれば、疑いを持った側が立証するのが法の建前だと思う。
疑いを持たれた側がそれはないのだと証明するのは難しい。

既得権益を振う岩盤規制を崩して、獣医学部を新設することには反対なのだろうか?
加計学園が罷りならぬというのであれば、他の学校法人に変更すれば良いということなのか?
それとも、騒ぎ立てることで何としてでも政局に持ち込み、総理を退陣に追い込もうというのだろうか?(それはどう見たって無理筋に見える。)
野党もマスコミも躍起になっているが、どうも責め立てている側の方が支持率を落としたり、信頼を損なうことに繋がっているようにしか思えない。

「国民が納得しない」と二言目には言っているが、果たしてそうなのだろうか?
連日ワイドショウで取り上げているけれど、周りに居る知る限りの大半の人は、「もういい加減にしろ。他にもっと重要な案件が山積しているだろう。」と言っている現実が目の当たりにある。

2017年6月23日金曜日

口にするのも憚られることではなくなってきた

憲法改正問題が取り沙汰されるようになってきた。
制定されてから何十年も経過すれば、実情に合わない事例が出てくるようになっても不思議はないし、かなり昔からそれを提案する人もいた。
諸外国における実情では、何回も改正した国が多いとも聞く。
主権国家であれば、国民の生命財産を守るのに適した憲法を持とうとするのは当然で、それを議論するのも罷りならぬというのでは、柔軟性を欠くように思える。

反対論者がよくつかうのは、憲法学者がこう言っているという手法であるが、それはそうであろう。現行憲法の解釈が仕事である学者は、反対するに決まっている。
しかし、学者の全てが反対するわけではなく、賛成する学者もいるから、感情的にならず、双方の意見を公平に扱うべきだと考える。

もし、改正ではなくて新たに憲法を制定するのだとしたら、賛成も反対もあるまい。国民全員が知恵を尽くしてよりよい法を得ようと議論を尽くすのではないのか?

学者の数は、国民のナンパーセントになるのだろう?
少なくとも、法を決めるのは学者ではないことは確かである。

2017年6月22日木曜日

漢字で書くと何という鳥なのか解り難い

漢字で書く鳥の名は難しい。
同じ鳥なのに別の名前で呼ばれると猶更むずかしくなる。

子規  ホトトギスの別名。(杜鵑・時鳥・不如帰・沓手鳥・霍公鳥とも書く)
啄木  キツツキ
花見鳥・春告鳥 ウグイス
仏法僧 コノハズク
雪客 鷺
閑古鳥 郭公
都鳥 ユリカモメ
鴻(コウ) オオハクチョウ・ヒシクイ
鵠(コク) クグイ(白鳥の古名)

燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや、なんていわれてもねえ。

児童向け読物「お地蔵様」

お寺の境内や道路の辻などいろんなところで、お地蔵様をみかけることがあります。
地蔵菩薩が本来居るところは、仏教世界でいうところの兜率天といわれる高い場所だと
いわれています。
地蔵場札は、お釈迦様が死んでしまうと現世に仏が不在となってしまう為、57600
年後か567000万年後に弥勒菩薩が出現して人々を救うことができるようになるまで
の間、お釈迦様の依頼を受けて六道すべての世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・
人道・天道)に現れて衆生を救うことになった菩薩であるとされているのです。
どんなところにも自由に行き来できますし、その場その場によって姿を変えて現れるの
だといわれています。
自分のことではなく、人々を救うということがお役目です。
人々は親しみをこめて、「お地蔵さま」とか「お地蔵さん」と呼びますが、正式にはイン
ド生まれの 地蔵菩薩は、サンスクリット語(インドの古典言語)で、クシティ・ガルバと
いうのだそうです。
クシティは「大地」、ガルバは「胎内」という意味があることから、「大地の母胎」を意
味する漢字に意訳して 地蔵 と言われるようになったのだそうです。
色々なものに姿を変え、人々の苦悩を大きな慈悲の心で包み込み救って下さるのですが、
妊婦の安産を守護すると言う「子安地蔵」、災難にあった人の苦しみを身代わりになって
引き受けてくれる「身代わり地蔵」、集落や村の境界や道の辻を守る「道祖神」としても
祀られているので、特に身近な仏像として知られています。
六道 (地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)で生まれ変わりを繰り返し、そ
こで苦しむ人々を救ってくれると言わている六体並んだお地蔵様を「六地蔵」と呼びま
すし、生まれる前の水子(中絶、流産、死産してしまった胎児)の供養の役割をするのが
水子地蔵です。
それなのに人間は、どうしても損得でものを考えがちです。損得を考えるのが悪い事だ
とはいいませんが、どんなことでも行き過ぎると苦しみを生みます。
自分の中にいる神様がそれをご存知だから、少しは反省しなさいといっているのかも知
れません。
日本のように長い歴史があって、お互いに助け合って生きてきた国の人々は、いざとな
ると、自分のことを抜きにしても人様のために尽くそうとする人が大勢現れます。
日本では当たり前でも、世界の人々は、それを見て驚くのです。

長い間に培われた文化は、自然に人間性を高めているのです。

2017年6月21日水曜日

豊洲と築地だけのことではあるまい

豊洲か築地かということについては、豊洲に移転ということに小池都知事は一応の方向付けをしたようである。
しかし、この先もまだまだ騒ぎは残りそうである。

大きな案件を決めるときというのは、合意を得られるまでには長い年月を必要とするし、結論がでたところで、いつまでも納得しない人というのは必ずいる。
それでもなんとか大筋が動き始めたとしても、一旦でも足を止めれば元の木阿弥どころか、以前にもまして纏まりが着かない事態を招いて、無理を重ねなくてはならない事態となる。

「最低でも県外」と言ってしまったことで、いまだに紛糾している沖縄の基地移転問題が彷彿される。
環状8号線などは、「一人でも反対する人がいるうちは・・・」と言った知事がいたせいで、最早完全な開通は期待できない。
ある程度に詰まっていた案件を停止すると、収拾がつかなくなるということである。
全員が賛成するものなどないのである。

安全と安心と、較べようもないことを比べたことで、もう手がつけられないところに、都民が運ばれてしまったということなのではなかろうか?
都議選の争点にすることもできなかろうと感じる。
決着がつかないまま、この先も税金を払い続ける覚悟を強いられるということになりそうに思える。

誰もそれに触れないけれど、そもそも、築地市場の移転問題は、市場の老朽化ということもあったにしても、併せて東京湾の再開発という含みがあったのではなかっただろうか?
首都に直結する港湾の、貿易等に関係する能力を高めようという動きがあった。
昭和54年、都知事に鈴木俊一が就任すると、臨海副都心開発の検討が始まった。
昭和54年のマイタウン構想懇談会、昭和57年の「東京都長期計画」、昭和60年の「東京テレポート構想」、昭和61年)の「第二次東京都長期計画」である。
臨海副都心の建設は、バブル景気絶頂期の1989年から始まり、建設期間は3[27年である。臨海副都心はオフィス街として開発される予定であったため、東京都は企業誘致を積極的に行った。
しかし、バブルの崩壊により企業進出のキャンセルが相次ぎ、開発計画の見直しを迫られることになった。
平成7年、都知事に青島幸男が就任。計画第二期が始まった。
平成8年3月からは、臨海副都心の大掛かりなスタートデモンストレーションも兼ねて「世界都市博覧会」」の開催が予定されていが、青島都知事は、臨海副都心開発見直しを掲げ、世界都市博覧会を中止した。だが開発計画自体は止めなかった。
平成11年、都知事に石原慎太郎が就任すると開発事業を推進する方向で動いた。
このころになると、ようやく建築物も増え始め、かつての鈴木都知事の後押しで本社屋を当地に移転したフジテレビが牽引役となり、地元の活性化運動もあって大規模イベント会場の誘致が進んだ。

平成14年)には政令による都市再生緊急整備地域にも指定されている。近年ではアミューズメントやショッピング施設が次々に開業し、週末の気軽な観光地として賑わっているが、港湾の整備が経済の発展に不可欠だと思われるのだが。

読み聞かせ童話「カタツムリの角の上での争い」

まだ小さいうちは解らないと思いますが、「蝸牛角(かぎゅうかく)上の争い」という諺
が有ります。大きくなって漢文などを習うことがあれば、出てきます。
蝸牛というのはカタツムリのことです。
カタツムリの角の上のような狭いところで何をこまごま争うというのか。人生は火打石
の火のように短いのだから、大所高所からものごとを見て、争わずにすむようにしたら
どうなのか、というような意味になります。
似たような言葉としては「小異を捨てて大同につく」というのがあります。
誰もが自分のことばかり主張していては、何事もまとまりません。大勢の人が良いとす
るところで折り合いをつけようとする知恵です。
民主主義などという言葉などまだなかった時代の中国のお話しです。
(本来の意味とは少し違った説明になっているかも知れません。)

この諺を目にするのは、白居易(はくきょい)という中国の詩人の
對酒(さけにたいす)】という漢詩です。
蝸牛角上争何事(かぎゅうかくじょう なにごとをかあらそう)
石火光中寄此身(せっかこうちゅう このみをよす)
隨富隨貧且歓楽(とみにしたがい まずしきにしたがいて しばらくかんらくせよ)
不開口笑是癡人(くちをひらきてわらわざるは これちじん)

この詩の意味はカタツムリの角の上のような小さい所で、いったい何を争うのか。
(この世の人は)火打石の光の一瞬の中に身を寄せているようなものだ。
富めば富んだで、貧しければ貧しいなりに、しばらく楽しもうではないか。
口を開けて笑わない者はバカだ。

この詩ができたのには、その前のお話しがあるのです。
中国の戦国時代、魏(ぎ)の恵王(けいおう)は斉(せい)の威王
(いおう)と盟約を結んだのだけれど、威王がこの盟約を破った。
これに怒った魏の恵王は威王に刺客を送ろうと考えました。 それを
知った公孫衍(こうそんえん)はこれを恥ずべきことと思い、王に言
いました。
「王は多くの民の主だというのに、身分の卑しい男がするような方法
で恨みを晴らそうとされている。 私に二十万の兵をお与え下されば
斉を攻めて 人民どもを捕虜にし、家畜を捕獲し、その君主の背に内
熱を発生させ、斉の国を攻め取って見せます。将軍の田忌(でんき)
が逃げ出すのなら、背後からこれを討ち、その背骨を打ち砕いてご覧
にいれます。」と申し出ました。
これを聞いていた季子(きし)は、恥ずかしく思い「八十尺の城壁を
築くのに、すでに七割がた築いている。これをまた壊すとは、工事人
夫を苦しめるものに他なりません。 今、七年間戦がないのは君が王
者となられるための基礎です。公孫衍は国を乱す者です。お聴き入れ
になってはなりません。」と言いました。
華子(かし)がこれを聞くと、また恥ずかしく思い、言いました。
「斉を討伐しようと巧みにに言い立てる者は、世を乱す者ですが、ま
た討伐してはならないと巧みに主張する者も、世を乱す者です。
そして、討伐論者も討伐反対論者もともに世を乱すものだと言うこの
私も、また世を乱す者です」
魏王は、「では、どうしたらよかろうか」と問いました。
「王は、真実の道を求められることです。」
恵子(けいし)はこれを聞くと、戴晋人(たいしんじん)という賢人を
恵王に引き合わせました。
戴晋人が言いました。
「王は、蝸牛(かたつむり)というものをご存知でしょうか。」
「おお、勿論知っておるとも。」
王が即座にそう答えると、戴晋人は次のような話を語った。
「この蝸牛の左の角の上に触氏(しょくし)という者が国を構えてお
りました。 また、右の角の上にも国を構えている者がおり、これを
蛮氏(ばんし)と申しました。 あるとき、両者は領土をめぐって争い、
激戦のため死者が数万人にものぼりました。
そして、逃げる敵を十五日間にもわたって追いかけた末、ようやく引
き上げました。」
「なんだ、作り話ではないのか。」と王がいうと、
「では、私がこれを真実の話にして差し上げましょう。」と言い、
「王は、この宇宙の四方上下に際限があると思われますか。」と尋ね
ました。
「際限はなかろう。」
「ならば、この際限のない宇宙の中に心を解き放てば、我々の往来し
ている国などは、いかがでしょう。取るに足らないものなのではあり
ませんか。」
「そうかも知れぬ。」
「この往来できる国々の中に魏という国があり、魏の中に梁(りょう)
という都があり、梁の中に王がいらっしゃる。この宇宙の中で、王と
蛮氏との間でどれほどの違いがございましょうか」

ものを考えるというときは、全体像と細部の両方をみなくてはならな

いのです。

2017年6月20日火曜日

支持率調査の結果は信じられるものなのだろうか?

政党と内閣の支持率の調査があったらしい。
どんな質問形式で集計したのか判らないけれど、マスコミが大々的にネガティブキャンペーンをした割には、彼らの思惑ほど率は下がっていないようである。
それに対して、躍起になって擁護した民進党の支持率は、4.2パーセントと、1割にも満たないという。
民主主義が侵されたなどと主張するけれど、反対者も含めすべての人が賛成するまでまっていたのでは、いかなる法案も決まることはあるまい。
印象操作でフル活用した文部省の内部文書も、どうやら底が割れてきそうな様子が見える。
全てがその通りではないかも知れないが、https://www.youtube.com/watch?v=gkP5y6Jq0t8 なんてのを見ると、当初には怪文書扱いされたことも頷ける。
そもそもが、共通ファイルに保存されていた文書ではなく、個人のファイルに保存されていたものだとしたら、存在が確認できなくても当然である。
騒ぎは大きくすることができたけれど、国民が冷静さを取り戻したとき、思惑をもって取り上げ続けた側への反動と不信感は取り戻せなくなるのではないのか?

日曜日の某番組では、自分たちの思惑通りに世論が動かないのは、ものを考えない国民が悪いと批判したらしいが、彼らのような誰の為・何の為にものを言っているのか解らない偏向報道にはもはや乗せられないくらい、ものを考えている。
自分の思っていること以外を認めないで批判するのでは、ますます世論から浮き上がって、共感は得られなくなっていくと思うのだが・・・
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読み聞かせ童話「蛙の子」

「蛙の子は蛙」という諺があります。
「何事も、子は親に似るものだ。凡人の子は凡人である。」という意味で使われます。
「瓜の蔓に茄子はならぬ」というのも同じような意味です。
これを英語では“like father, like son”(この親にしてこの子あり)というように表
現されているようです。
確かに、外見上はそうなるに違いありませんが、人間は持っている才能を磨くことで、
立派な大人に成長することができます。
「鳶が鷹を産む(平凡な親がすぐれた子どもを生むことのたとえ)」という表現がされ
ますが、親も子も努力をしたり環境を整えることでそうなることができるのが、ほかの
動物と違うところです。
ですから、「蛙の子は蛙」というのは、形態、機能、特徴は親から子へと遺伝子によっ
て伝えられていくものでありますから、自然界で起こる当たり前のことをいっているだ
けの諺ということになります。努力をしても無駄だ、ということでは決してありません。
猿はいつまでたっても猿ですが、人間は違うのです。
心というものの働きがあって、高い志をたてて日々努力すれば、理想の姿に近づくこと
ができるのです。それは、自分一人だけのことではなくて、周りの人たちをも高めるこ
とができるのです。
そうは言っても、人間はどうしても怠け心というのが出てきてしまいます。でも、それ
に負けないで励んでいると、段々に幸せに近づいていきます。
歴史上に名を遺した人たちは、文化や学問や芸術やスポーツに限らず、そうした努力を
し続けたのです。
鳶の子が鷹になることは実際にはありえませんが、人が精神的な中身を育て上げて立派
になることはできるのです。それは、人以上の人ということができます。