2017年10月31日火曜日

口先だけで「話し合い」と主張されても具体案なしでは

平和主義を気取っているとまでは思わないが、「話し合い・話し合い」とご託宣のように言っている人たちのことがよく解らない。
自分の言うことを全て聞け。それ以外は認めない。という人を相手にしてどう話し合いをしろというのかが全く理解できないという意味である。

これまでに話し合いで約束したことは、結果的にはその場凌ぎであって、全て反故にしてきたのである。
話し合いの手段は有ると口にする人たちは、それなら具体的にはどんな方法があるのか、それはどのように有効なのかを一度だって説明したことがない。
軍事的な脅威に対処するために、抑止力を持とうとして法整備することも、戦争法案だと言って反対する。
専守防衛だと叫ぶが、それは日本本土を戦場とするときにしかできないということと同義語なのではないのか?
ならば、それを避けるのには、飽和攻撃という戦術で飛来するミサイルを全て本土に届く前に迎撃できる膨大な量のミサイルで針鼠のように防御せずばなるまい。
しかし、そのための予算を思い切って計上すべきだなどと、野党が言ったためしはない。

防衛手段もなし、法整備もなされないままで、どうやって国民の生命財産を守るというのだろうか?
例えばであるが、やくざ者やゴロツキが暴れまわっていたら、それに唯々諾々と従って無抵抗でいろ、と言っているように聞こえるが、それで良いとする主張なのだろうか?

話し合いというのは、双方が合意点を見つけてそれを了承し、約束を守るということが担保されなくては成り立たない。
それができるという納得できる方法があるのなら、是非具体的にその方法を提示し、早急にそれを進めて貰いたい。時間はさほど残ってはいまい。
それが無ければ、相当な被害と痛みを甘受しなければならないという覚悟をせずばならない状況下にあるのだと切実に感じる。

2017年10月30日月曜日

結果を認め協力するのが民主主義なのでは?

解散総選挙の結果、自民党が圧勝した。
それなりにいろいろ理由は有るにしても、民意の結果であることは歴然たる事実である。
民進党が二つに割れ、立憲民主党と希望の党に分散した結果しか残さなかったようにさえ見える。
この2党は見るからに問題含みで、いずれかが政権交代可能な党に育つ可能性は限りなく低いように感じさせられる。

必死になって、可能な限り野党を応援したマスコミも、敗退したのだと反省した方が良さそうに思うが、往生際が悪くて、いまだに変な理屈をこね回している。
「自民党は勝ったけれど、安倍政権が信任されたわけではない。」という論調がそれである。
愚かなことを言い張っていてはいけません。
日本国は、他国の大統領と違って、国民が首相を直接選挙制で選ぶのではない。
当選した議員により、首班が決められるのである。とりもなおさず、まだ首班指名をされて決定したということではないにしても、普通に考えて安部氏が民意として選ばれたのだと理解するべきなのである。

何故か安倍氏を毛嫌いするマスコミは、自分の思惑と自社の行ったアンケート調査なるものを根拠にして、政権批判を繰り返すが、マスコミが吹聴するアンケート調査に信頼感を持つ人は少なくなってきているように思う。
アンケートの質問項目が自分たちの思惑に沿うように巧妙に仕組まれているのだと感じ取ってしまっているからのように思えるからであろう。
単純に支持するか支持しないかというネット上の質問では、高支持率を得ているように見える。

民意を構成する国民の判断を軽んじ、我々のように判断すべきなのだと言いたいのであれば、それは国民を余りに愚弄していることになる。
多様性ということは理解するが、ミスリードしようというのは、そもそもの民主主義理念を否定することに繋がるのではないのか?
民意から乖離しているのはどちらなのかという分析くらいはした方が良さそうに思うが・・・

2017年10月29日日曜日

日本の皇室は世界から重きを置かれている

日本を訪問したことのある外国人が増え、日本のことを褒めている記事をよく目にするようになった。
それに対し、中には「そんなことはない、嫌な目にも会った。」とコメントしている人もいるが、それはそうであろう。誰もかれもがどんな場合でもコンファタブルな対応をするわけではない。総じてどうであったかということであり、良いと思ったことの割合がどうであったかということになる。
日本人に見えても日本人でない人の対応だって有ったかも知れない。
ただ、落し物がそのまま帰ってくることとか、他人に対する気遣いがある国だということは共通して評価されている。
どちらかというと、日本人のことを悪く言うのは日本人の方に多いように感じる。

戦後、現人神であった天皇陛下が人間宣言をして以来、いつの間にか日本人は皇室を身近なものとして親しむようになった。
一部の思想的に凝り固まった人は別にして、未だに尊崇の念を持ち続けている日本人は多い。
世界最古の系譜をもつ天皇家は、数多の王の中でも別格で、諸外国からはエンペラーとして遇されている。
外交儀礼上の不文律なのかも知れないが、エリザベス女王でさえ、天皇陛下と挨拶するときは女王の方から一歩進んで握手するし、あの美しかったダイアナ妃が皇后陛下と挨拶した時は、拝跪の礼(片膝をついて握手する最高の挨拶)をとった。見事なまでに決まったポーズの写真が残っている。
英国王室が、他国の元首に対してこのような礼をとることは他にはない。
日本人が考えている以上に、諸外国からは尊敬されているのだという。
外国の元首クラスでも、天皇陛下に謁見するときは、かなり緊張するのだと聞いている。

最近は、過去には天皇陛下のことを悪しざまに言っていた野党議員でさえ、公の場でそれを口にするのを控えるようになったように感じる。
それを口にすると、言った本人とその所属党に悪影響が出ることに気づいてきたからなのだろうと思う。
あの中国でさえ、皇室の悪口は言わない。そこがK国との違いなのかも知れない。

国粋主義者ではないけれど、以前に遠くからお姿を拝見しただけで、戦後教育を受けた年代ではあるが、以前とは全く違った感覚を持つようになった。圧倒的なオーラがあったのである。
大相撲の場所でチラリと見ただけで、それまで天皇と呼び捨てにしていた人が、陛下をつけるようになった人が多いのだとも聞く。
何世紀にもわたって国民に染み付いた感情は、多少のイデオロギーの違いくらいでは変わらないということであろう。


2017年10月28日土曜日

民意とか国民というのを僭上していないか?

衆議院議員の解散総選挙が行われ結果が出た。
法の手続きに従ってなされたのであり、大義だの横暴だの文句をつける筋合いは全くない。
文句を言っているのは、自分の思惑と違ったことへの不満であって、それが少数意見だから退けられたのだという結果を正しく認識できないからに他ならない。
決まった以上、それに従うということにならなければ、民主主義における選挙というものを否定することになるのであって、混沌を助長する。
結果が歴然としているのに、民意が反映されていないと主張して憚らないメディアがあるが、選挙結果というのが民意そのものでないと言い張るというのは、選挙民を馬鹿にしているとしか思えない。国民の判断は、自然なバランス感覚がある。
自分たちの思惑だけが民意ではあるまい。必死になって偏向報道を繰り返してもこの結果だったとしたら、自分たちが民意から乖離していたのだと気づかなければなるまい。

「森友・加計隠しだ」と未だに言っているに及んでは、噴飯ものでしかあるまい。
あれだけ時間を費やして国会審議を繰り返しても、国政調査権を持つ議員も強大な取材力を有するマスコミも、違法性を立証できなかったではないか。
挙句の果てには「無いことを立証せよ」と信じられないことを要求するに至っては呆れる他ない。
法というのは、基本的には推定無罪いということであり、違法性が有るとするなら、その主張するなら、証拠を出して立証するのは法に触れるという側にあるのが当然ではないのか?

国防にしろ外交にしろ経済にしろ、どちらに国民が信を置いたかということである。
「話し合い・話し合い」と叫んだ側が、国内の国会でその話し合いすらまともにできない現実を目の当たりにして、判断した結果なのだと言う他ない。民主主義とはそういうものである。

憲法問題もそうである。憲法の改正というのは、現憲法下においては不可能に近い程に垣根が高い。何十年も経過して実態にそぐわなくなってきた現憲法に不備を感じる国民が増え続ければ、1強政治どころか圧倒的多数を持つ全体主義政権を招きかねまい。その時の国民投票結果は推して知るべしである。
そんなことになる前に、タブー視しないで真剣に審議する方向付けをするべきであるとは考えないのだろうか?
反対反対と叫ぶだけでは、何事も良い方向には進まない。
少数意見を汲み取らねばならないことは勿論であるが、如何に躍起になったところで、偏向報道でそれを達成することはできまい。それこそ、国民は多様なのであるから。

2017年10月27日金曜日

外国では子供たちが教室のお掃除をしないのだろうか?

少し前のことになるが、日本を訪問したアルゼンチンのマクリ大統領が帰国後に感想を述べているのだという。
「日本が大国になったのは当然なのだ。」と。

来日中に日本の学校を訪問したときに、それを感じたらしい。
子供たちがごく当たり前に清掃をしたり、給食時に生徒が仕事を分担しているのを見て、そういうところから助け合いや協調の意識が育っている。
日本には、基本的に規律やマナーが備わっていることは以前から知っていたが、働くということを尊ぶ姿にも国民性を感じ、発展できる国というのには理由があるのだと痛感したと言うのである。

アルゼンチンで、もしも生徒に清掃でもさせようものなら、児童虐待だの人権侵害だのと大騒ぎになってしまうらしいが、日本では昔からそんなことにはならない。

職人が一定の評価を受けて尊敬される国というのは、世界でどこも発展している。労働が卑しいものではないと考えられない国ではそうはならない。
昔から、殿様だって家老だって、工事現場に出て汗を流したことは珍しくもなんともない。
お公家さんがどうだったか知らないが、天皇陛下だって田植えをなさるし、皇后陛下だって桑を摘んでお蚕様を飼うことを見れば、それが民度の根底にある考え方なのだと思う。

偉い人は転んでも自分で起き上がることすらしなかったり、自分の脚で歩くこともしないで、どこに行くのも輿に乗るのを当たり前だとしていた国とは、発展の仕方が違って当然ということになる。
自らが働くということは、とりもなおさず他者への思いやりの気持ちが育つし、尊敬しあい感謝しあうことができる社会を築き上げることができる。

2017年10月26日木曜日

古事記に一度だけ出てくる最初の神様

古事記によると、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は、天地開闢の時に高天原に現れた日本最初の神様である。一度名前が出てくるだけである。
天御中主神と高御産巣日神(たかみむすび)と神産巣日神(かみむすび)との三柱の神を、造化三神と申し上げる。
宇摩志阿斯訶備比古遅神ウマシアシカビヒコジノカミ)
天常立神(アメノトコタチノカミ)の二柱の神を合わせ五柱の神を「別天つ神」と申し上げ、
神代七代に移る。
神代七代の神である伊弉諾尊と伊邪那美尊により、アマテラスの命が生まれる。

この間が一代の神様でも単純計算で60万年にも及ぶ壮大な神話なのだけれど、割と日本人なのに知らない人が多い。
知る人ぞ知ることであるが「天御中主神様有難うございます」といつも唱えていると、良いことが起こるのだという。


2017年10月25日水曜日

日本人と半島人ではDNAが違う?

学校では、日本人の先祖は半島人が渡ってきたのだと習ったが、どうもそうではないらしい。
石器時代の遺跡が日本には1万以上あるのに、半島には石器時代の遺跡が50数個しかないといわれ、人が住んでいなかったか或いは絶えてしまった時期があるらしいからである。

対するに、九州の縄文土器との類似点が多い縄文土器が出土しているのを見ると、日本から縄文人が渡っていったという可能性のほうが高い。言われてきたことと全く逆である。
日本独自の前方後円墳が半島では発見されるというが、何か不都合なのかそれらは壊されてしまうのだという。

科学の進歩によりY染色体の解析により明らかになってきたというが、日本人の染色体は半島人とは違うのだということからも、それらは証明されてしまう。。
日本人の先祖は、大陸のもっと奥の方からやってきたのか、或いは南方からやってきたのかもしれない。
シュメール人だったとか古代イスラエル人だったという説もある。
言語・紋章・神話などに余りにも共通点が多いからであろう。

飛鳥時代には、ペルシャ人の渡来があったともいわれるから、それが半島経由であったかも知れないが、日本人の先祖が半島人であったということの可能性は低そうである。
まあそんなことはどうでも良いのかも知れない。いろんな混血はあって不思議ないくらいの時代を経てきたのであり、祖先がどうのこうの言っても始まらない。
日本人は努力して独自の発展をとげたのだということは確かなのだから。

日本人は、少なくとも国民性が広範な事象において違う。
彼の国の国民が人生の目標とするのは、自分が時と場所を選ばず威張り散らすことができるようになることだと、そこに在住した経験のある人は、いずれも喝破しているという。人前で言わないだけで、信頼からは程遠い考えを持つに至る。
上下関係には異常に拘り、対等という概念は育たない。
「国民情緒法」などというものがあって、それは法規範を超越するというから、法治国家として安定することも難しい。
悪いのは自分ではなく、全て人の所為だとすることでしか生きられないというのは不幸である。
どこからこんなに差のある国となってしまったのかということは、歴史ではどう捉えているのだろう。
いずれにしろ、自分たちが発展するためには自分の力だけではなく多くの人のお陰が有ってこそ為せる。自分が敵だと思い込んでいる人たちからだって多くの恵みがあったのだと気づき感謝しないと、長続きしない。

2017年10月24日火曜日

選挙が終わって

「希望の党」が頭初の勢いはどこへやら、選挙で惨敗した。
「排除する」と言った言葉が反感を買って一気に人気が急落したという人が多いが、そうではあるまい。少なくとも都民は、最初から予想していたのではなかろうか。
政党がその政策に合わない人を排除するのは当然で、だれかれ構わず受け入れていたら、もっと大敗したに違いない。

都知事選に小池氏が立候補した時、U氏やT氏が異常なくらいその立候補に反対し攻撃した。
身近で見ていた人たちであるから、反対するには反対するだけの理由はあったのだろうけれど、その主張の仕方が都民の反感を買った。
U氏やT氏がそんなに好かれていなかったということもあろうが、なんともまずい対応であったことは否めない。
判官贔屓という感情も働き、対立候補が知名度はあっても思想的に偏っていて普段から偉そうなことを言って嫌われている人だったり、どっかからむりやり連れてきたどういう人かも解らない人だったりしたこともあって、小池氏は都知事選で圧倒的な勝利をおさめた。
それはそれで、結果について都民は満足した。

続いてのことだが、都議会議員もその結果を受けての対応を、紳士的にやれば良かった。
小池都知事が初登庁したとき、余りにも都民感情を逆なでするような扱いをした。
その様子がマスコミを通じて何度も放映されたので、都会議員は何様だと思っているんだ、と都民が怒った。
次の都議会議員選で勝てたのは、それら議員にお灸を据えなくてはならないと思った結果に過ぎない。
事実、都議選の投票時「これは都議選で、国政選挙ではないのだから。」と言って、都民ファーストに投票した人が殆どだったように思う。
選挙前も選挙後も、「都議選だから」と多くの人が口にして憚らなかった。
即ち、小池氏に人気があったのでは決してあるまい。
マスコミが持ち上げ話題にするので、その後に本人が勘違いしていただけのように思う。

都知事になってからやったのは、意趣返しのように政敵を悪者にして叩いたことである。
内田氏も石原氏も森氏も決して庇う心算はないが、やり方の陰湿さには眉を顰め、いずれ自分の身に返ってくるに違いないと言っている人が多かったのである。本人は解っていたのだろうか?

それでも、都政で実績を残していたら、国政選挙でも別の展開はあったかも知れない。政治家は実績がものを言うからである。
言うだけは言うが仕事は前に進まない。ブーメランだけは投げる。最後にはモリカケ問題まで持ち出して人の悪口を言うまで落ちぶれては、少なくとも地元の人心は離れてしまったということになる。
都民はかなり理性的で、マスコミの口車には乗らなかったということだと思う。

2017年10月23日月曜日

鉄の5倍の強度をもつ紙

先日打ち上げに成功した人工衛星みちびき4号機が加わることで、合計4基の衛星が連携して稼働することになり、日本のGPS精度はマッチ箱大のものまで解析でき、誤差は6センチだという。国防上も重要な意味を持つ。

セルロースナノチューブという技術を確立しつつあるという。紙の延長線上にあるというが、これは鉄の5倍の強度を持ち、7分の1の重さで物を作ることができるという。
日本は国土の70パーセントが山林であるが、そこに育つ樹木の3分の2は植林などにより人工的に管理されていることから、原料の継続確保も容易なのだという。

マグロの完全養殖には成功しているし、ウナギのそれも続くに違いない。
日本にはその他にも、カーボンナノチューブ、カーボンナノベルト、特殊鋼、精密工作機械、電磁石、電池など数多くの他国が追随できない技術があるのだという。
これらは、地道でたゆまぬ努力が積み重なってのことである。
働くことを美徳として考えてきた国だからこそ、為し続けられる。

最近気になるのは、日本が有する特殊技術を擁する鉄鋼や電子技術の大企業に不祥事が発覚することである。
日本人が物作りに取り組むとき、基本的にゴマカシをすることがあるとは考え難い。
ハメラレタのではないのか?と感じる人が多いのだという。
不祥事があってそれが問題になれば、企業の命運にも影響が出るし、株価も下がる。
外資が入ってくることで、門外不出の技術を他国が簡単に手に入れることができるという戦略というか謀略があるのではないのかと危惧してのことである。

いろいろ防衛しなくてはならないことが多いように感じる。


2017年10月22日日曜日

日本を良く見ていた世界の知識人

ラスベガスで銃の乱射による多数の死者や負傷者が出たという事件があった。
しかし、それによって銃の規制がされることはあるまい。
自分の身は自分で守るのが権利であり、使われた銃よりもっと強力な銃を対抗手段として持とうとするのが彼らの考え方なのだろうから、簡単に社会構造が変わるとは思えない。
他国人がとやかく言っても始まらない。

戦国時代、豊臣秀吉が刀狩りというのをした。これは強制的にやったということであるが、治安に不都合なものは取り上げるということで効果はあったのではないだろうか。
明治維新後に廃刀令というのが出された。
武士の魂であるとされた刀を捨て去るには、簡単にはいかない問題もあったのではなかろうか?
それでも、それは為された。

歴史を遡れば、種子島に漂着したポルトガル船により、火縄銃が2丁もたらされた。
数年後、大量の火縄銃を売りつけて大儲けしようとしてポルトガル船が再来したところ、最早もっと性能の良い銃が夥しく出回っていて仰天したのだという。
江戸時代には、世界中で一番多くの銃を保有していた国であったとされるが、何故かそれを使うということはなかった。
日本人というのは、特異な考え方をする国なのだろうか?

西欧列強により東南アジア諸国が植民地化されていた帝国主義時代、日本だってその対象国ではなかったとは言えない。
しかし、江戸時代においてさえ日本人の識字率は70パーセントを越え(ロンドンでも20パーセントの時代)、精強な武士団が全国に存在している日本を植民地化なぞできなかった。

大東亜戦争に敗れ、戦勝国から日本が分割統治されて植民地化する危機はあったが、それを救ってくれたのは東南アジア諸国であったことは知って感謝した方が良い。
スリランカ ダルマパーラの演説

日本を絶賛した世界の知識人、という動画があった。

絶賛と言えば、真珠湾の記念館には日本軍の決して民間人を標的にしなかった戦いぶりを絶賛している展示があるのだという。米国軍人もそれを是としているのだという。
戦後教えられてきたのは、そこは日本人が近寄れない反日オンパレードの拠点だということであった。
どちらが本当なのだろう?いつか自分の目で確かめてみたいと思っている。

2017年10月21日土曜日

日本語にしかない言葉

紅葉の美しい季節を迎える。
日本の四季折々の風景は息をのむほどであり、迫ってくる筆舌に尽くしがたい感覚は、時に切ない程のものにまでなる。青春・朱夏・白秋・玄冬の全てにそれらは有る。

言葉に表現しきれないことを敢えて表現しないで「もののあわれ」だとか「わびさび」として感覚的に捉え、それを相互に理解しあえるというのが日本人の感性なのだと思う。
「切ない」とか「もののあわれ」だとか「わびさび」というのを表す言葉は、多言語には無いと言われる。
それを説明するには膨大な言葉数が必要となるであろうが、そんなことをしなくても伝わり合えばそれで良いのだと思う。感じ方に差が有ったとしても何ら問題とはされないし、清国に気にすることでもない。

豊かな実りに恵まれることと一緒に、日本は古来自然災害の猛威にも曝されてきた。
そういう自然現象をあるがままに受け入れ、森羅万象すべてに大いなる意思を感じ取ってか、先人たちは生かされてあることに感謝して、周りにあることを神として敬いもし、「おかげさまで」という言葉ができたのもそれであろう。

食事の作法というのがある。
主客があっての場合は、主人側が「召し上がれ」と声をかけ「頂きます」と客側が挨拶して始まる。南信では「お丈夫におあがりてや」と主側が言い「お辞儀なしに頂戴します」と客側がいう。
一人で食事をするときでも「いただきます」と言って手を合わせてから始まるのが普通である。

留学中であった息子が、習慣通りに「いただきます」と言って食事を始めたところ、同席していたハプスブルグ家の後裔である旧侯爵家の御曹司が「それは何のことか?」と尋ねたので、人間は心ならずも植物や動物の命を食事として摂らねば生きられない。だから「あなたの命を私の命としていただきます」という感謝とお礼の挨拶でもあり、食材料を生産してくれた人や食事を作ってくれた人への感謝の気持ちを込めて「いただきます」と食前に挨拶するのが、日本人の習慣なのだと説明したところ、いたく感じ入って、彼はそれ以来食事の度に日本語で「いただきます」と言うようになったのだという。その時は必ず嬉しそうな顔をして息子の方を見たのだとか。

「もったいない」という言葉も、多言語に訳せる適当な単語がないのだという。
物を大切に扱って長く使えるようにこころがけたり、無駄使いしたりしないで、修理したり再利用したりして最後まで使い切ることを表す言葉であるが、これも感謝から出てくる言葉であると思う。
日本語には、多言語に翻訳できない言葉というのが、他にも沢山あるのだという。

2017年10月20日金曜日

選挙で投票を棄権しないのは

ネットを見ていたら成るほどと感じた書き込みがありました。
投稿者にお断りはしていませんが、同感したので転載します。

*ロンドンに駐在していた時に痛感しました。西欧人と話をすると、選挙は学校で次のように教えられるというのです。
メディアが事前に選挙結果を予想しますが、その予想通りで良かったら三つ方法があります。投票に行ってその通り書く、白票を出す、棄権をする。すべて同じ結果になります。
もしメディアの予想に反対なら、方法は一つしかない。行って違う人の名前を書く。
これが選挙ですよと教えるのです。

日本ではこういう当たり前のことが教えられていないから、「ろくな候補者がいなかったら堂々と棄権しなさい」などと変なことを言う評論家がいたりするのです。*

至極まともな考え方だと思いました。
安心できる国であるようにと願って、信ずるところに従って投票しようと思っています。
最高裁判所判事の国民審査もあるが、今まではそれを意識したことが無かった。
今回は少しは調べてみて、日本の為にならないような判決をした判事はチェックしようと思う。

2017年10月17日火曜日

朝鮮王朝時代のドラマを見て

韓国人が有り難がり大自慢している「李氏朝鮮」て何なのだろう?
彼らは、その成り立ちを知ったら精神が崩壊しかねないから知りたがらないし、捏造してでも理屈を付けて綺麗ごとで誤魔化そうとしているが、我々は概略であっても歴史事実くらいは知っておいた方が良い。

韓流ドラマを見ていると、華やかな衣装を纏った宮廷文化(中身は自己中心的な権力闘争ばかりで嫌らしい)が描き出されているが、500年も続いた末に日本に併合された頃の写真を見ると、首都のソウルでさえ貧民窟そのもののように荒れ果てて薄汚くみすぼらしい。
本当に、自慢できるほどの発展した文化などというものがあったのだろうか?

写真は事実しか映し出さないのに、それとの乖離が激しすぎて説明できない。
それこそ信じられないくらい夥しい数の写真が残っているが、中世以前の未開発国さながらの様相しか写っていない。風景も民衆の姿も数多く映されているが、いずれもこれが文明国だとはとても思えないものばかりである。(ネット上でいくらでも見ることができる。)
実際に貧乏過ぎて染料は買えないから、白い衣服しかなかったという説が立証できてしまう。
因みに、写真は日本が撮ったものではなく、その殆どは外国人旅行者が撮ったものである。
(どうでも良いが、ついでに写真のことをいうと、多分日韓併合後すぐのことだと思うが、美人宝鑑という雑誌があって、当時の韓国美人と言われた女性の写真がズラリと並んでいる。現代の韓国美人と較べて、余りに容貌が違うのに驚く。整形は勿論されていない。)

李氏朝鮮は、高麗王朝の将軍であった李成桂が国を裏切り、国王を捕らえて殺したことから始まった。その後自分の兄弟たちも殺して建てた国なのだという。
どう言い訳しようと反逆者である。
日本でいえば鎌倉時代末期から室町時代にさしかかる1300年代のことである。
高麗王朝は、蒙古・元の系列にある国であったが、元の衰退を見て中国の明に付こうとした李成桂により、明の属国としてできあがった。国号も明にお伺いを立てて決めてもらった。
朝(貢物)鮮(少なし)。最初から軽んじられていた。
成り立ちは反逆であったとしても、その後に善政を敷き、国の発展に尽くしたとか国民が豊かになったとかいうのなら別であるが、全く逆であった。

高麗は仏教を基にしていたが、朝鮮は仏教を迫害・廃止して儒教を重んじた。
それはそうだろう。自分のことを考えたら、忠孝を大事にする儒教を採用せずばなるまい。
我が身に引き比べ、いつなんどき同じような反逆者が出るかわからない。反逆というのを心底恐れたに違いない。
問題なのは儒教の考え方である。手足には頭が無い、働いたり物を作るのは卑しいことだとして、手足として酷使する対象として民を位置づけ、頭を使うのが偉い人であるとして両班が君臨した。
両班と称する1割程度の貴族階級が、あとの9割を支配して暴虐の限りを尽くしたということである。決して自らが働くことはなかった。
何も汗を流さない両班の言うことに命がけになれる筈がないから軍は極端に弱く、戦って一度も勝ったことが無い。

逃げるだけしか能がない軍しかないことから、他国から侵略されないために採った方法は、貧乏で魅力がない国でいるということであった。
発展できるわけがない。高麗が終わった後は、木を曲げる技術すら絶えたというから、桶も車も水車もなかった。

韓国人が大自慢するハングル文字も、世宗大王が作ったとされているがパスパ文字のパクリだとも言われているし、何よりも諺文(おんもん=卑しい字)だとされて使われなかった。
世宗大王と言えば、1400年代は日本で言えば室町時代。
日本には7世紀から8世紀の奈良時代には万葉集があり、その後には世界最古の文学とも言われる源氏物語があるが、ハングル文字による文学などというのはひとつもない。
全く使われていなかったという証拠でもある。

それはそうだろう。日韓併合のときの韓国の識字率は僅かに3パーセント。識字率を上げるために捨てられていたハングル文字を日本が発掘してきて、教育に役立てたというのが厳然たる事実なのだから・・・。
日本が韓国の文字を奪ったなどというのは、とんでもない言いがかりだが、彼らはそれを決して認めない。近年は漢字まで廃止してしまったから、自国に僅かに残っている漢文の資料さえ読めなくなっているのではないのか?

中国の隣に位置していたことだけで小中華を僭上しているが、いくつかあった属国の中で最下位の属国であり、明や清の使いが来ると、そんな使者に対してでさえ朝鮮王自らが出迎え、地面に這い蹲って三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)という屈辱的な姿を晒さねばならなかった。
そういう軛から解放されたのは、日清戦争以来の日本のお陰ではないか。日本は血を流したが、韓国は1兵も出さなかった。それでも下関条約により、韓国は独立できたのである。

自国では決して不可能だった近代化もそうである。
植民地支配されたと言い張るが、植民地とはどんなものなのか知っているのか!!
経済的な簒奪などできるような国ではなかったし、日本がつぎ込んだ資本投下の方が圧倒的に多い。インフラ整備も教育も日本が全てやった。
併合後数年で劇的に変わったことを写真は如実に語っている。
ロシアに席巻されそうな状態であったのを日本に泣きついて併合してもらったお陰であり、国際法上も認められていたというのが事実である。
日本は、地政学的に見て安全保障上の必要があって併合したのであって、植民地的な考えからの見方をすれば、今もまだ損をし続けている。
日本に感謝するというならまだしも、日本を恨むなどということは、筋違いも甚だしい。
正しい歴史と言い立てるなら、そこから認識しなおさなければなるまい。

北朝鮮に共同で対処しなくてはならないのに、今一つ信頼できないところがある。
レッドチームの側に行くというなら仕方ないが、言動が一定しない。

2017年10月16日月曜日

国の為になった法律だったのでは?

国が平和を維持するのに、1国のみで対応するのは不可能である。
世界の大国といえども、一国で他国と対応することはできないというのが国際的な常識であるし、殊に小国であれば、強国相手には手も足もでない。
同盟を結んで、平和を維持しようと考えるのが当然の帰結になる。
少なくとも同盟国を相手に戦争はしない。そこへの心配はせずに済む。
このことを大きく広げて考えれば、それが国連の組織ということになる。
ただ、利害関係や主義主張が違えば、現実的には緊張感を持って対しなければならない相手国というのはある。
安保法制は、そういう意味で必要な対策であると考えるべきであるが、そういう理解をすることなく戦争法案だとして騒ぐ野党やマスコミがある。冷静に考えれば平和に資することだと判ることなのに、なぜ反対反対と叫ぶのだろう?本当は戦争したいのだろうか?それとも日本が弱い国でないと都合が悪いことがあるのだろうか?
共産党独裁がどんな国になるのか解らない筈はないのに・・・

秘密保護法というのも成立した。
これができたことで、諸外国からの情報が共有できることになった。日本に情報を与えれば筒抜けになってしまうという状況下で、どこの国が重要な情報を渡してくれるというのか?
日本1国での独自の情報収集では、掴み切れないことが多くて当然であろう。

秘密保護法ができたお陰で、北朝鮮関連の機密事項が掴みやすくなったメリットは計り知れない。
できることなら、スパイ防止法も早急に制定した方が良い。
変な小理屈を捏ねて反対を叫ぶ人たちは、日本国の為ではなく、日本以外の特定な国の利益を守ろうとしている左翼系の組織なのだと思えてならない。

本質から目を逸らさせようと枝葉末節の事例を論うことにその特徴があるが、それに惑わされない見識を持たないと、間違った方向にリードされかねない恐れがあるということを自覚すべきなのだと思う。

法が成立する前の審議では、荒唐無稽な例を作り出して一般人の不安を煽ろうと躍起になったが、マスコミがそれを援護しても、善良な一般人はそんな宣伝に惑わされず、法案は通過、可決された。

秘密保護法が成立していて良かったと、今更ながら実感する。


2017年10月15日日曜日

北は何を大義に戦争を選択するのだろうか

日本が正しかったと言う心算は毛頭ないが、当時のことを知るにつれ、いろいろ感じてしまうことはどうしても出てくる。

戦後に教わったのは、全て日本が悪かったのだということであり、総懺悔しなくてはならないのだということで染まっていた。

いまになると、日本は外交が下手だったから戦争になったのだ、という人もいる。
帝国主義が主流であった時代であり、他国を植民地にすることに列強が罪悪感なぞもたなかった頃のことなのである。
植民地を持っている国々と手を組んで、そちら側の考えに与することを選択すれば、折り合いをつけられなかったことはないかも知れないが、それを良しとするには日本人の感覚が馴染まなかった。

白人である列強諸国は、有色人種である日本人が力をつけてくることに我慢がならなかった。
しかも人種差別撤廃などということを国際社会で提言する。
アジア・アフリカ諸国に長年月にわたり染み付いていた白人を半神のように考え、戦っても絶対に勝てないと諦めていた時代に、唯一白人と戦って勝利を収めていた国なのである。
目障りなことこの上なかったであろう。

一部の極悪な軍人が日本を戦争に駆り立てたのだという説もまことしやかに教えられた。
果たして本当にそうなのだろうか?
軍人というのは常に彼我の戦力差を研究している。戦って勝てるなどと信じていた軍人は少なかったのではなかろうか。
しかし、ABCDラインを敷かれ経済封鎖された状況をそのままにして、石油その他の資源が枯渇すれば、戦わずして滅びる。即ち植民地化されてしまうという時代であった。
そのことを抜きにして論ぜられない。
植民地が如何に悲惨なことかということは、知識人たちは非常によく理解していた。
誇り高い日本民族がそれに耐えられるとは思わなかったに違いない。

積極的かどうかは別にして、国民の多くが戦うことやむなしとしたのではなかったのか?
もとより、戦争を反対する人もまた多かったとは思うが、敵わぬまでも一矢報いる。座して死を待つより、死して名を残すという考え方をする民族の選択であったのだとも思う。

とやかく言ってどうなることではないことは承知しているが、全否定することでは救いがないし、物事を認識するということからはずれる。無謀であったといって片付けられることでもない。
想像以上にハーグ条約を守って戦っている。

北朝鮮を見ていると、なにかその開戦当時の日本を彷彿させられることがなくもないが、絶対的にそれとは違うことがある。
現代の世界においては、植民地化されるなどということは絶対ない。
戦争をしなくても、協調して平和裏に発展することができるのだから。