2018年10月31日水曜日

条約も守れない国なのか?

裁判官は「憲法及び法律にのみ拘束される」当然、条約も守らなければならない。
法治国家であれば、基本中の基本である。

徴用工について、韓国で異常な判決が下された。1審2審の判決を上級審が覆したということになるが、裁判官は法に携わる者としての信条に背き、捏造教育によって衆愚と化した民衆に阿ったとしか思えない判決を下したとしか思えない今回の裁判官の見識は、国際法の下では通用しまい。
後進性と感情に遵うものとして、世界からの嘲りを受ける結果となろうし、今後は世界から軽視されることにもなろう。
ある意味で日本側も良くない。これまで韓国が日本に対して何をしても、毅然たる対応をしてこなかった所為でもある。
日本国民も、これまで韓国がタカリとしか思えない要求をしてきても、日本ならできるのだからやってやればいいじゃないかとし、それを毅然として退けることを、あたかも弱いもの虐めのように感じる人が多く、可哀想だからと大目にみてきたことが続いた結果、彼らが付け上がって勘違いするようになった。

こういう韓国のありようも、憲法改正論に拍車をかけるに違いない。
北朝鮮による日本人拉致も、韓国の際限もないタカリも、日本に軍隊が有ったら、まず不可能なこと。
最近自己責任論で騒ぎとなっている問題も、日本に軍隊が有ったら違った対応になったに違いない。
日本の憲法改正反対論者が、「日本にこういうことをすると、日本は憲法改正の方向に進んでしまうので、どうかそういうことはしないで下さい」という運動をしたことは一度もあるまい。
彼らは行動しないばかりか、反日行動に擁護的意見を言ったり、身代金を払って更なるテロに拍車がかかるようなことに協力的なようにさえ見えてしまうことに積極的であるようにさえ思えるが、違うだろうか。
反対反対と叫ぶのみで、現実に則し良くなる方向への行動なくしては、信頼は得られないと思うのだが・・・

2018年10月28日日曜日

聞きたくもないニュース


韓国は、違法に占拠した竹島について韓国領土だと言い張り、日本側の発言を妄言だとして片付けようと必死だが、妄言を繰り返しているのはどちらだ?と言いたい。
あろうことか、日本にお勉強をしろとまで言うに及んでは、呆れ果ててしまうばかりである。
根拠としている韓国の歴史というのは、捏造教科書で学んだものではないのか?
大学教授にしてこれでは、お寒い限りである。

教授曰く「どうか独島について正確な事実を知っていただきたいと思います。日本語の資料を送りますので、ぜひ勉強を少ししてください」。
言うに事欠いて「勉強を少しして下さい」とは、何たる言い草。
大した説得力もないこんなニュースでも、聞けば腹が立つから、日本では取り上げないで欲しい。

教授が言うようなそんな資料が有るのなら、是非早く提供してもらいたいものである。
いつも言うだけ番長で、たまに鬼の首でもとったように出してくる資料は全て反証されているのではなかったのか?
日本語の勉強をきちんとしていないからそうなる。
韓国が自国の教科書で、自国領に組み入れていないというのなら、有るんじゃないのか?

徐敬徳(ソ・ギョンドク)誠信(ソンシン)女子大教授が最近、独島(ドクト、日本名・竹島)関連の妄言をした新任の宮腰光寛領土問題担当相に対し、こうした内容の手紙と鬱陵島(ウルルンド)から撮影した独島の写真などを郵便で送ったと25日、明らかにした。

宮腰担当相は12日の記者会見で「竹島は歴史的事実に照らしても国際法上でも明確な我が固有の領土」と述べた。
当然である。竹島が韓国領であった歴史事実を証明できるものは無いのではないのか?
韓国は日本軍と戦って、竹島を勝ち取ったのではない。違法・無法にも、日本人漁民を殺害して占拠したのである。

徐教授は「韓国の鬱陵島と独島の距離は87.4キロであり、日本の隠岐諸島と独島の距離は157.5キロ。このような事実を正確に認知し、二度と公式的な席で嘘をつかないでほしい」と求めた。
地図上の位置関係を、日本が争っているわけでもないのに、なにをトンチンカンなすり替えをしているのか。

また「隠岐諸島からは絶対に独島は見えないが、韓国の鬱陵島からは天気が良いときに独島がはっきりと見える」とし「今回の(宮腰担当相の)発言はむしろ『独島が韓国の領土』であることを認めたありがたいこと」と伝えた。
こんなのも、宮腰大臣の発言の言葉尻を捉えただけのことで、韓国領であることの証拠となるわけもない。

徐教授は手紙で「情けない」「恥ずかしくないのか」という表現を使いながら宮腰担当相の発言にクレームをつけたらしいが、同じ言葉をそのままお返しする。
学者というのは、事実を研究するのが仕事であって、感情論を述べ立てても仕方あるまいに。

2018年10月27日土曜日

書き終えるまで時間がかかった小説


小説「夏風越の」の最終章部分

数馬は、このところ守屋山で巡り合った羽衣を纏った天女のことを度々想い出す。
そのときの会話は、およそこんな内容であった。
「人は望むものを手に入れる為に力が必要だと思っている。武力や暴力であったり、金力であったり、権力であったりするが、それを手にした途端、その先に何をしようと思っていたのかを忘れる。その先があった筈なのじゃ。何事をか為さんとすれば、何らかの力は必要じゃ。気づけばそれらは誰もが持っている力ではあるが、他を虐げることなくエネルギーを形にすることができるようになるには段階がある。確かに、未開ゆえ誰かが統べて導かねばならぬ時代もあろうが、義として立てた理想であっても時代を継ぐものがそれを自分に都合よく変えてしまうことはよくあること。自分勝手に振る舞うことのみが目的となっている者共には、まだそのような能力は与えられぬ。体の仕組みと同じでどこも大事ではあるが、それぞれに役目というものがある。全部を慮ることができるかどうかじゃ。無尽蔵にあるものは、誰も奪い合いはしないものじゃ。それによって争いは起こらぬ。
この世が物質で成り立っている以上、何かを得ようとすれば対価が必要となるが、豊かであろうとするなら対価以上のものを与えねばならぬ。
余分に支払うもよし、相手が喜ぶような感謝の気持ちでもよし、付け加えることはあっても決して見合う価値から少しなりとも奪ってはならぬ。そうしてこそより豊かさが増すというのが真理じゃ。奪えば奪われる、与えれば与えられる、教えれば教えられる。
本来、宇宙にはものを生み出す元となるものは無尽蔵にあるから、かまわず供給しても許されようが、当たり前に手に入るのだと思う者がいるならば、それは許されぬ。手にしたときに畏まることがあってこそ湧き出ずるがごとく現出するようになるのじゃ。物質的にはほどほど発展しつつあれど、肝心の魂が追いついておらぬ。
「星をも砕く力」とは、見切りをつけられたら創り変えることを辞さぬ大いなる意思があるということと知るがよい。さほど猶予はないぞえ。
前世から200年も経ってはおらぬ。400年はかかる転生が、それほど急を告げているということじゃ。
此度も共に生きる仲間ができているようなのは喜ばしい。今生は、金力と肉体の快楽を学んでみるか?」
「もそっと近う寄れ」手招きされ誘われたのは、柔らかく眩いばかりの光に包まれた空間であった。光は溢れているがまぶしくはなくて、限りなく心が穏やかにいられる場所であった。

「まず、其方がわらわの中に入ってきやれ。神話にいうところの『まぐわい』じゃ。しかる後、わらわがそなたと一体となって国生みをする。何が生まれいずるかはわからぬが、この世に生を受けたら増やすことがつとめ。産みの苦しみというが、それは嘘じゃ。途轍もない快感に見舞われよう」
そういいつつ、ハラリと羽衣を足下に落とした。現れた裸身はこの世のものとは思えぬ美しさで、導かれて内に入った数馬は余りの快感に震えた。

最近の表れ方は、絹の白無垢をきりりと身に纏った姿をしている。
「いろいろ経験して学んだようじゃが、あのときと考え方が少しは変わったか?」
「はい、何事であれ望んで意識すれば、それはすべて実現するということです。それが叶わないのは、自らがブロックしているからな
のだと判りました。自らを変えたくないとい
う自我の防御意識がそれを拒んだときには、変化は起こりません。自意識の中に、自分が侵してきたマガ事に忸怩たるものがあれば、猶更です。しかし、大義の為に自分を許し他人を許し自分を愛し他人を愛すということを意識して光に変えてそれを開放すると、内なる真我・内なる神の領域に届いて、何事も実現するようです。この世の善悪とは違う何かがあるようです」
「そうじゃ。内なる神は、外なる宇宙の神の意識と全てつながっているのじゃ。神の許し賜うものは実現するのじゃ。なればこそ、多くの者がそれに気づき、互いが争わずとも必要なものは必要なだけ手に入ると解れば、人たるの道を踏み外すことはなくなろう。さすれば、地球という星が破壊されることもなかろう。思考は現実化する。宇宙に溢れる物質エネルギーが不足することはないと知らしめよ。ひとえに、そなたらの働きにかかっているのだと知れ!」

これにて筆を置くことにします。
長きに亘ってお付き合い下さり、誠に有難うございました。
=完=

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私が書いた小説 
ある日突然、頭に「これを書け」という声が響いて書き始めた小説「夏風越の(なつかざこしの)」は、書き始めてから年月がかかった。
どう書き進めるのかは、降りてくるお告げに従ってのことであるから、一気に何ページにも及ぶこともあれば、何か月にもわたって一文字も書かないということもありました。
幕末から現代に生まれ変わって、超常現象を介して話しが進むということなのですが、何かが時々降りてきて言われる通りに少しずつ書き進め、2018年10月10日、第12部の後、最終章をまで書き終えました。長きに亘り有難うございました。

童話 「トイレの神様」・「お祖父ちゃんの神様」・「鬼切丸」・「昔ばなし」・「麦の命」・「猿酒を飲んだ天狗」・「狐のお嫁さん」・「花を摘んでいた少女」ほか、幼児に読み聞かせるのに良さそうなお話を書いています。

2018年10月25日木曜日

思い出せないことが多くなった


風流な人が多いらしく、13夜のことを書いた記事をいくつも目にしました。
月と言われると、高校時代に習った漢詩「峨眉山月歌」 李白 を思い起こします。


峨 眉 山 月 半 輪 秋
峨眉山月 半輪の秋
がびさんげつ はんりんのあき

影 入 平 羌 江 水 流
影は平羌江水に入りて流る
かげはへいきょうこうすいにいりてながる

夜 發 清 渓 向 三 峡
夜清溪を發して三峽に向ふ
よる せいけいをはっしてさんきょうにむかふ

思 君 不 見 下 渝 州
君を思へども見えず渝州に下る
きみをおもへどもみえず ゆしゅうにくだる

記憶というのはかなり曖昧で、峨眉山と聞くと「水月の色」というのがすぐに頭に浮かんでしまうのですが、李白の詩にそんな文言は出てこない。
他の誰かの詩と混同しているのだろうけれど、それが思い出せません。

2018年10月23日火曜日

音のだ仕方が違うんじゃないのかと思うとき

クラシック音楽が好きなのでよく聴きます。
中でもピアノの音色は美しい。例えようもなく妙なる音がしみわたってくる。
クラシック音楽の優れた作曲家は、もはや神に近かったのではなかろうかとさえ思ってしまう。

しかしそれも、優れた演奏家が限りなく譜面に忠実に弾いていてくれるからだと思う。
演奏家の解釈やその弾き方を否定するつもりはないが、余りに自分が出過ぎている演奏をされると、それは違うんじゃないのかと素人ながら感じてしまう。

殊にそう感じてしまうのは、打突音が聞こえてくるときです。
コツコツと木質部にあたる音が甚だしい演奏や、指や爪が鍵盤に当たる音を平気で出している演奏を聞かされた時にはさらに幻滅します。
弦の鳴る美しい音はどこかに行ってしまって、不快な音だけが残るからです。
更に言えば、弦が伸びてしまったようなビエンビエンという音が出ていて平気な演奏者もいる。

Pの音が出せない人は、Fも怪しい。
f(フォルテ)といっても、いろいろなfがある。
激しいf。感動のf。どっしりした重厚なf、雷のような鋭いf。
その中のどのイメージが、譜面上要求されているfとして必要とされているかを感じ取れないのでは、優れた演奏とは言えまい。強く鍵盤を叩けばよいのではない筈です。
ただ音を並べているのと違い、「表す」ものには、作曲者の魂が入っているのであり、それを汲み取る感性がない演奏では、感動は得られない。
独りよがりな身振りや顔つき、乱暴に見える鍵盤への打突は、演奏者の自我を見せつけられているようで辟易する。

そのような演奏者は、「どうしてそのように弾くのか?」ということも解かっていないように思える。多分ご本人に聞いても説明はできまい。
それは意味も考えずに弾いているので、自分がどう弾いているのかすらわかっていない場合もありそうである。
一方で、「こう弾きたい」という気持ちが丸出しの演奏をする人もいます。
「誰が何と言おうと、私はこう弾くんだ!」というようなものであっても、練習に裏打ちされた主張なのであれば、それはそれで納得できる。
作曲家やその時代に合わない弾き方になってしまっている場合は如何かと思うが、弾く人の想いがあれば「そう弾きたい」という考えが伝わってくることはある。

ピアノという楽器は鍵盤を押せば、取り合えずその音階の音は出るが、それが美しい音色として紡ぎ出されるためには、たゆまぬ練習と音楽に対する謙虚さが必要なのだと思う。
パフォーマンス宜しく鍵盤を叩きまくる演奏では、それとは程遠いものになろう。
ショパンは、指が鍵盤から離れず滑るように移動したということすら知らない演奏では、なんともなるまいに・・・

2018年10月22日月曜日

命知らずの無法者?

命知らずの無法者と言えば、諸人の迷惑もかえりみず天下のご法を無視して命のやりとりになるような喧嘩三昧に明け暮れる破落戸・やくざ者・ゴロツキの類を昔は指した。

近頃は、無恥というか自分勝手というか、それをしていたら自分はおろか他人の命さえ脅かしかねないことをして平気な一般人も、そう呼んだほうが良さそうな光景を目にする。

例えば、電車の出入りが頻繁な駅のホームや自動車の往来が激しい道路で、スマホ画面にばかり夢中になって歩いている人。甚だしきは幼児を連れていることすらある。
自分だけは事故を起こさないとでも思っていたら大間違いで、良識ある人たちが道を譲るなりして注意してくれているからに過ぎない。
蛇行する・立ち止まるなどの不規則行動は、いつ事故に結びついてもおかしくない。
相手も同じくスマホ族であれば、その可能性は更に高まる。
自分が痛い目にあうのは自業自得であるにしても、他人を巻き込まないという保証はどこにもない。
事故を起したら故意犯として、刑事民事で重い責任を負わねばならぬことは勿論として、そんなリスクを侵すことを考えてもいないにしても、せめて人様に迷惑をかけないようにするよう考えて欲しいものである。

2018年10月20日土曜日

日影者とは言わない


日陰者とは、 公然とは世の中に出られない身の上の人のことを言う。
日影者とは言わない。
何故なら、影は光が当たるからできるもの。
お天道様の下に出られないようなことをしていれば、影なぞできる筈がない。

陰は、有るには有るのだけれど定かには見えないものを指す。
影が薄い人、という表現もあるけれど、それは目立たない人、くらいの意味で使われる。
行いが悪いために日向に出ても本当に影が薄いということがあるらしい。


2018年10月19日金曜日

この人しかいないと思った人でも

多くの男女は、「この人しかない」一生愛し合って仲良く暮らしていくと決心して結婚する。
しばらくは、相手のすることの全てを受け入れ許すことが互いにできるが、日が経つにつれその熱が冷めてくると、相手に対し不満を持つに至り、やることなすこと全てが気に食わなくなって憎み合うようにさえなる。

自分のことより相手を優先して考えられるうちは良いが、いずれは自分中心の考えが頭をもたげてくるのは世の常だから、致し方ないといえば致し方ないことなのかも知れないが、そうなってもせめて、人の道を外すような言動をするような事態にならないことを願う。
小さな諍いがエスカレートし、腹立ちまぎれに、人として決して口にしてはならないことを言ってしまった場合には、不幸なことに離婚の憂き目にあう。
「初心忘れる事なかれ」というのは、至言である。

中国に余桃(よとう)という言葉がある。
同じことをやっているのに、捉え方で全く逆の評価をされてしまうときなどに使われる。

衛の弥子瑕(びしか)は、自分の食べかけの桃を美味しかったので、王に分けて喜ばれた。
王いわく「自分が食べたいのにそれを我慢して分けてくれるとは、愛い奴じゃ。」ということであった。
衛君に愛されていたうちはよかったが、容色衰えてから、そのことを理由に罪に問われた。
曰く「弥子瑕(びしか)は実に失礼な奴じゃ。むかし儂に自分の食べかけの桃を食わせたことがある。」

 広辞苑の説明にある意味以外に、愛憎の変化の甚だしいために、思わぬ罪を 得ることがあることのたとえとしても使われます。

若い頃の弥子瑕(びしか)は衛の国一番の美少年で、衛の君主の寵愛を受けていた。
ある時、夜中に母が病気になったという知らせを受けた弥子瑕は、許可を受けたと偽って勝手に君主の馬車を使って母の下に駆けつけた。
本来であ れば、君主の馬車を勝手に使ったものは足切りの刑に処せられるのであるが、この話を聞いた君主は、「母を思うあまり、足切りの刑を忘れてしまうとは、なんと親孝行な者
ではないか」といってその罪を赦し、かえってこれを褒めた。
ある時、君主と果樹園に遊んだとき、もぎ取って食べた桃がとても美味しかったので、自分の食べかけの桃を君主にも食べてもらおうと、これを手渡した。
「美味しいものは誰でも食べたいものだが、美味しい桃を食べれば、私食べさせたいと思うとは、なんと私を思う心の篤いことか」と、またこれを褒めました。
こんな弥子瑕でしたが、年月を経ると悲しいことにその容色は衰えて行きました。
容色が衰えるとともに君主の寵愛も失われました。
こうなってしまうと、かつては賞賛の対象であった行いの数々も違った目で眺められるようになります。
君主は云います
「この者は以前、私の馬車を勝手に乗り回し、自分の食いかけの桃を私に食べさせるという無礼をはたらいたことがあった怪しからん奴じゃ。」

孔子の言葉に「愛してはその命長からんことを願い、憎んではその死を願う。これ惑いという。」
というのがあるという。


2018年10月16日火曜日

それでは戦う前から負けではないのか

最新の世論調査(日経とテレ東)で自民党の支持率が上昇し、ダントツとなっているという。
片や野党第一党の立憲民主の支持率は減少、なんとヒト桁というお寒い状況です。
自民党  44(42)
立憲    9(12)
国民    0()
公明党   4()
共産党   4()
維新    1()
自由    0()
社民    1()
そりゃあそうでしょう。国政調査権をもってしても違法性を立証できないモリカケ問題だけに終始し、印象操作しかできないと、最早国民に見破られている。
国民が怒り呆れているのは、モリカケのみに捉われて他の重要法案の審議拒否をし、いざ採決ということになると「審議が十分に尽くされていない。」と言って反対する態度である。
次の国会では、いよいよ憲法改正法案が上程される可能性が高まった。
どっちが良いのかは熟慮せねばならない。
これに対する立憲・国民・共産の野党党首は、審議を拒否すると公言している。法案に反対すること自体は、党の立場として理解はできるが、一体野党は何を考えているのか?
議員が法案の審議を拒否したら、議員である価値は皆無であろう。
「憲法を守れ」と言っているが、その憲法の手続きに従って提示される法案であるとしたら、憲法を守らないのはどっちなのか?言うまでもなく明白である。

憲法改正は重大事であるから、国民が納得できる議論を力の限り尽くして欲しい。その過程で支持率は変わる可能性は当然ありうる。目の覚めるような論戦を展開して欲しい。
しかる後には、何よりも国民の最終的権利である「国民投票」という段階がある。
その権利を最初から奪うようなことをするとしたら、憲法を守らないのはどっちなのだというのは言うまでもなかろう。
審議拒否などという愚行をするのは、国民の判断力を軽んじていることそのものであることに思いを致してほしい。

2018年10月15日月曜日

文化を育てるのも能力

何にでも、自国起源説を唱える韓国。荒唐無稽、噴飯ものの説を唱えて恥というものを知らない。
特に、日本や中国の優れたものに対してはコンプレックスがあるのか、自国がその文化の発祥地であると、何の根拠もなく言って憚らない。

千歩譲って、「思いつき」くらいは有ったとして(どんな民族であってもそれはありうる)も、
それを工夫発展定着させる能力が皆無であったということを自ら認めていることに他ならないと気づけないことが、何とも情けない。
起源説を唱えれば唱えるほど、その無能さを晒しているのだと解らないのであろうか?
地道な努力をするのが不得手であるから、成果だけをパクルのが得意になってしまっているのが彼らの文化だと隣国の中国にさえ言われてしまっている。
文化どころか、近代科学、近代技術に関し、世界に誇れるものがあるとは、寡聞にして知らない。
あったら、ご教示願いたい。
ご自慢のハングル文字さえ、パスパ文字のパクリではないのかと言われている。

他国のことだからどうでもよいのだが、変な自尊心ばかりを先行させてしまい、何をしなくてはならないのかを見失ってしまっているように思えてならない。
感情を満足させるのに熱心なあまり、冷静・公平な判断力を失ってしまっては、正常な発展は望めないのである。

もはや手遅れ、といわれるような選択もしてしまった。


2018年10月14日日曜日

将軍旗を掲げたんだとか

二枚舌という語があるが、まさにそれを地で行ったという恥知らず。

韓国の済州島で行われた観艦式には、10カ国から、米原子力空母ロナルド・レーガンなど外国艦艇15隻を含む計39隻が参加したという。このうち豪州、ブルネイ、カナダ、インド、ロシア、シンガポール、タイの艦艇がマストや艦尾に軍艦旗を掲げた。
日本政府関係者によると、残る米国、インドネシア、ベトナムは、もともと国旗を軍艦旗として使っているため、「国際法に裏付けられた海軍の常識から見て、降ろす選択肢はない。」だから、軍艦旗を掲げなかったのであるに過ぎない。(防衛省幹部)という。
即ち、参加国のいずれもが、韓国の要請に従わなかったということである。当然と言えば当然の対応であったが、韓国がそれに抗議できよう筈もない。
 韓国国防省は事前の通知で、各国に「中央マストに韓国と各国の国旗を掲揚してほしい」「艦首と艦尾には旗は掲揚しないでほしい」と要請していた。
これは、国際儀礼上からは極めて非礼であり、誇りある各国海軍がそんな要請を受け入れるわけがない。流石の韓国軍人たちですらも恥ずかしいことだと思っていたという。
要するに、旭日旗に見当違いな難癖をつけて、日本を貶めたいだけだったのではないのか?
法律で艦尾に旭日旗の掲揚が定められている海自は、自衛艦の派遣を断念した、といういわくがある。日本だけが、韓国の顔を立ててやったということになる。
それなのに、言い出しっぺの韓国海軍は、文在寅(ムンジェイン)大統領が演説した艦艇のマストに、豊臣秀吉の朝鮮侵略で豊臣軍を撃破した李舜臣将軍が使ったものと同じデザインの将軍旗を掲げた。
韓国は、この李舜臣が自慢らしいが、これが国民的英雄だとしたらかなりお寒いのではなかろうか、というのが偽らざる感想である。李舜臣は日本との休戦協定により引き上げた薩摩軍の背後を恥知らずにも襲い、返り討ちに遭って敢無く戦死した将軍である。
韓国側は自国の国旗と韓国の国旗だけを掲揚するのが原則として各国に通知していたにも拘わらず、自国はそれを破ったということになる。そんなことをするくらいなら、いっそのこと開き直って自国の軍艦旗を使えばよかったのに・・・
いつものことながら、ウリナラマンセイということらしいが、なにをやっても首尾が一貫しないから、国際的信用を失墜する。
日米韓の同盟にも大きな傷をつけたことになるが、レッドチームに入る気満々ということか?

2018年10月13日土曜日

困難をいつの間にか乗り越えてしまえる民度

ロシア人には、日本人がどうしても理解できないことが有るのだと言う。
「原爆を2発も投下して、無辜の民を30万人も虐殺したアメリカを、どうして好きな国だと言えるのか?」
それに対し、日本人が、「不可侵条約を一方的に破棄して侵攻し、戦後には日本兵を大量に抑留して、シベリアで強制労働に従事させたこと、終戦後に日本の北方領土を不法にも占領した事について、ロシア人はどう思っているのか?」と問い返すと、実に困った顔をするのだとか。

日本人が米露に対しさほど文句を言わないのは、敗戦国である悲しさで、戦勝国が彼らに都合の良い理由をつけて、日本人を教育した結果だという説明をする人がいる。
反日日本人がそれに全力で協力し、自虐史観を定着させた結果であると言う人もいる。
しかしそればかりではあるまい。
いつまでも相手の悪口を言い続けるのは、民族の美意識と誇りに馴染まないということもあるように思う。

戦後教育によるというそれらは事実なのかも知れないが、真珠湾攻撃も、それに引き続いた大東亜戦争も、一方的に日本が悪かったとは言えなかったことも、段々に浮かび上がってきていても、それらを蒸し返し逆上して騒ぎ立てるということを日本人はしない。

抑留され、捕虜として強制労働をさせられたとしても、そこで残した仕事の成果は、後々まで高く評価されるものであった。どんな境遇下にあったとしても、いい加減なことはしないし、焼け野原から見事に復興を遂げるに至るときも、恨み事や泣き言は言わなかった。いつでも潔かったのである。
現実をそのまま冷静に受け入れ、そこから何をすべきかに誰もが懸命になって、困難を乗り越えたのである。
相手国の優れた点は謙虚に受け入れたし、経済が発展してきてからでも、後進性の残る国が相手であっても、決して馬鹿にしたり格下に扱うことはしなかった。
あるがままの現実を冷静に評価し、将来に結びつけることに目を向けられる賢さがあったのだと思える。
長い歴史が培った高潔な民度があったということになる。

さればこそ、瞬く間に世界有数の先進国として甦り、世界諸国から好ましい国として評価されるに至ったのである。
日本が嫌われていると言い続けているのは特亜3国と、その宣伝に毒された一部の反日日本人のみである。
ちょっと調べてみればすぐ判ることである。もっと誇りと自信を持った方が良い。


2018年10月12日金曜日

身から出た錆?

韓国の景気低迷が深刻だという。

なにせ親北・従北に熱心で、他のことは念頭にないらしいから仕方あるまい。
杖とも柱とも頼まなければならない日本を大事にするどころか、反日・日本叩きに血道を上げて、もはや何をやっているかの判断もできない状態だから何ともなるまい。
困ったときの日本頼みということでこの先擦り寄ってきても、日本国民はすっかり冷めきってしまっているから、援助してあげようと言う気にならない人が殆どであろう。
それどころか、進出している日本企業が韓国に匙を投げて次々に撤退したら、韓国経済は壊滅しかねないが、彼らが選んだ道だから自業自得というほかない。
もう懲り懲りである。自分勝手な韓国ルールを作って日本に押し付けてきたことには今まで譲歩して対応してきたが、きりがない。
もはや大目に見てあげようと、甘い声を上げる勢力は影をひそめてしまった。
逆に断行を叫ぶ人たちが増えている。
またまた助けてくれないと文句をつけてくるのだろうか?
日本に対して特に顕著だが、何をしてあげても恩を仇で返すことを繰り返してきたから、信用されていないと思い知った方がよい。
片思いで大好きなドイツからも嫌われている。


2018年10月11日木曜日

口にするとそうなってしまう言葉


自分が決めた通りになる。嘘ではなく、それは本当である。

気の置けない仲間数人で、琵琶湖の外周275㎞の約半分を廻り、三井寺・石山寺・日吉大社・竹生島を訪ねた。
ガイドさんにも恵まれ、暑い中ではあったが楽しい旅となった。
 問わず語りにガイドさんが言うのに、「10年ほど前に脳梗塞で倒れ3年余りの闘病生活をしたが、こうして元気になって働けるようになったことは有り難い。まだまだ頑張る。」
それを聞き、同行者全員が喝采した。
 医者は、奇跡だと言っているらしい。車椅子で一生過ごすことになるであろうとの予測に耐えられず妻も去ったのだとか。
 絶対立ち直るのだと意を決して辛いリハビリに励み、車椅子から両松葉杖、片方だけの松葉杖へと回復し、歩くことができるようになったときの嬉しさも話してくれた。
 身障者の証書も全て返納し、こうして働けることを感謝しているとも。

 神社巡りをしていたことからご利益の話題になったとき、私がしていることを話したことがきっかけで、彼が身の上話をしたのであった。
どういうわけか、普段は疎遠なのに病気になると私の所に電話してくる人が多い。
私が友人知人の病気見舞いに行くときに、重病患者に必ずいう言葉というのがある。
「人間は、自分が決めた通りになるのだから、絶対言ってはならない言葉がある。それは、『俺はもう駄目だ』という言葉。口に出したら、それは自分が決めたのだから必ずそうなってしまう。口が裂けても言わないように。それを今、俺と約束しろ。」
と見舞い代わりに励ます。それを素直に聞いて守った人の多くは退院できている、と話したのを聞いていて、ガイドさんが「そうです。」と自分の体験を話してくれたのでした。

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私が書いた小説 
ある日突然、頭に「これを書け」という声が響いて書き始めた小説「夏風越の(なつかざこしの)」は、書き始めてから年月がかかった。
どう書き進めるのかは、降りてくるお告げに従ってのことであるから、一気に何ページにも及ぶこともあれば、何か月にもわたって一文字も書かないということもありました。
幕末から現代に生まれ変わって、超常現象を介して話しが進むということなのですが、何かが時々降りてきて言われる通りに少しずつ書き進め、2018年10月10日、第12部の後、最終章をまで書き終えました。長きに亘り有難うございました。

童話 「トイレの神様」・「お祖父ちゃんの神様」・「鬼切丸」・「昔ばなし」・「麦の命」・「猿酒を飲んだ天狗」・「狐のお嫁さん」・「花を摘んでいた少女」ほか、幼児に読み聞かせるのに良さそうなお話を書いています。

2018年10月10日水曜日

師匠と先生は違う

学ぶ側の姿勢が甘くなってきていると感じる。自分のことなのに、お膳立てをしてもらわないと動けない世の中になってしまったのかも知れない。
見て覚えろと言う世界は理解し難くなったのか、手取り足取り懇切丁寧に教えて貰えないと、長続きしない。
それでも師匠というのは、自分を越える弟子を育て上げることができるのが、優れた師匠だと言われる。

教えると教わるの関係では、師匠と弟子、先生と生徒というのがある。
同じようでいて、その関係は大きく違います。

師というものは、基本的には何かを「教える」というわけではない。いうなれば、自分が知っていることを「伝える」だけなのである。従って特定のプログラムを持っているわけではないことが殆どである。伝統的な方法は「見て覚えろ」であり、言葉では説明できない領域のことを修めた者ということになる。

手取り足取り親切に教えるということではないから、師と弟子には当然のことながら、相性ということも大切となる。
弟子が何を身につけたいかが明確になっていないと、いかに時間を費やしても技能や精神に進歩は得られない。あくまで弟子の主体性と自覚にかかっている。
教えを乞うという姿勢がなくては適わぬことは勿論である。

師は、その弟子の個性や進捗程度に合わせて、迷ったり行き詰っているのを見定め、時にヒントを与えるだけしかできない。そういう世界なのである。
ですから、師にとっての最大の喜びは、弟子が自分を超えることです。
(この師弟関係は、家元制度のようなものとは趣を異にする。その制度の下では、弟子の創意工夫は否定されることが多いからである。形式を破ることは許されない。)

先生と生徒の関係は、一定のカリキュラムに依ることが殆どである。
到達させるべき習熟度というのがあるから、先生には教える技術というのが要求される。
テストで点数がとれ、試験に合格できれば良いとすることに走り過ぎると、人間的には尊敬されない。生徒の人格形成に関わることができなければ、恩師と慕われることとは無縁となる。
頑張っている先生がいることは疑わないが、昔の先生には、生徒を「薫陶する」という理想を持った先生が多かったように感じる。


2018年10月9日火曜日

レッドチーム入りまっしぐら?

身勝手な感情が何事にも優先してしまい、論理的な思考ができない国だということが、ますます鮮明になってきているように感じる。
何をやるにも後先の判断ができず、それらは当然のことながら悪い結果を導き出す。
すると決まって「自分は悪くない。悪いのは相手だ。」と言って、責任を取るということはしない。どうやっても逃げきれないと判ると、その時に言うことにも決まり文句がある。
「一度だけ許して。」である。
反省しないのだから、一度どころか何度も同じ過ちを繰り返しすが、言うことはいつも同じである。
済州島での観艦式に自衛艦を招待しておきながら、掲げる旗に非礼な注文をつけ、そんなことに応じるわけにはいかないから、日本は参加をとりやめた。
韓国が世界諸国から批判を浴びることは当然であるから、今になって焦っているようだが、同盟関係を崩しかねない韓国側の愚行であった。

韓国といえば、北朝鮮・ソ連・中国の共産主義に対し反共の砦として戦略的意味があった。
だから米国も日本も韓国を支える為であれば、多くのことに目をつぶってきた。
その両国の援助があって経済が発展してくると、感謝するどころか反米・反日に走る。

東ヨーロッパ諸国が共産主義の矛盾に耐え切れず、その結果としてソ連が崩壊したのは、大して考えなくても理解できることである。
何を勘違いしているのか、最近の韓国は容共てきである。
大統領さえも北の代弁者、もっと厳しい言い方をするなら、北のパシリのようにさえ見える。

朝鮮統一は民族の大義であることを否定しないが、韓国主導で北朝鮮を統一できると思っているとしたら、甚だしい勘違いであろう。そんなことにはなりえない。
振り返ってみると、北朝鮮の戦略は韓国を圧倒していた。

韓国の国力は、日本と仲良くしている限り益々増大する。北朝鮮にとって、それは甚だ都合が悪い。経済力は即ち軍事力でもあるから、そこに楔を打ち込んで離反させることを考えたとしてもおかしくない。
北朝鮮は、朝鮮民族の心情的特徴をよく理解していて、国民が反日で固まる方法を捏造してでも広めようと図ったに違いない。
韓国はその策にまんまとはまった。
反日教科書で洗脳するという国策の定着は、ものの見事に成功した。余程有能なスパイが韓国政権にまで食い込んだのだということは想像に難くない。
追い打ちをかけるように、財閥の解体などと言って騒いでいるが、韓国経済の屋台骨をかろうじて支えているのが財閥ではないのか?

変な教育が徹底しすぎて、日本を軍事的に攻撃しても勝てると勘違いしている輩がゴマンといるらしいが、欠陥兵器しかない国が何を言っているのやら。(自国での兵器開発は能力不足で、米国などから買うしかないが、すぐにパクルから信用されず、二流品しか買えない。)
歴史に学ばないことの最たるもので、過去にそれをやろうとして無防備になった背後を突いて、、北朝鮮が南下し朝鮮戦争が勃発したのではないのか?

民族統一はしたいのだろうけれど、その結果は見え過ぎている。
彼らがそれなくしては一日も暮らせない「人の悪口をいう」という最大の楽しみは、徹底的に抑圧される。北の将軍様は、決してそれを許さない。言論の自由なぞ皆無となる。
そんなこともこんなことも、比較検討する能力がないというなら仕方がない。
気の毒ながら日韓断交ということもあり得よう。

2018年10月8日月曜日

数字がもたらす不思議

宇宙には、何故か不思議な数字というものがある。

弥勒(みろく)は、現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次に仏陀となることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後567千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。衆生が悟りを開くまで、自分は悟りを開かないと言ったともいう。
それまでは兜率天(とそつてん=仏教の世界観の天のひとつ)で修行(あるいは説法)しているといわれる。
弥勒の下生は567千万年後とされているが、この気の遠くなる年数は、弥勒の兜率天での寿命が4000年であり、兜率天の1日は地上の400年に匹敵するという説から、下生までに4000×400×12×3057600万年かかるという計算に由来する。
その未来仏の出現する時代は厳密には定かではなく「遠い未来」の比喩ではないかとの説もある。弥勒菩薩はバラモンとして娑婆世界に出世して、シッタルダ同様に出家したのち竜華樹下で悟りを得て、三度にわたり説法を行い多くの人々を救うという。

ここで不思議な関わりを感じてしまいます。
宇宙数字に369というものがあり、369というのは宇宙の解明に大きくかかわっているのだと聞く。
三六九=弥勒=みろくとも呼べますが、これらは宇宙の数なのだそうです。ですから弥勒菩薩に宇宙が隠されているのかもしれません。
数学を生み出したのは我々人類であるとはいえない。人類は数学を発見しただけなのです。
数学は、宇宙の言語なのだという説がある。宇宙のどこにいても、1+2は必ず3になります。宇宙の全てがこの法則に従っています。
我々が暮している世界、宇宙、星の形成、進化を含む自然界には、複数の自然発生的パターンがあります。その中には黄金比や神聖な幾何学を形作るものもあります。
重要な自然界の法則に二進法がありますが、1から始まり、その後は2の倍数で増えていきます。
それだけではわからないことが多々あり、そこに浮かび上がってくるのが、3・6・9なのだという。


2018年10月7日日曜日

正義の無い戦争というならば

中学校時代に学んだ歴史に阿片戦争というのがあった。
極めてサラットしか触れられなかったが、その後に実態を知るに及んで考えると、それはイギリスによる鬼畜のような所業であったとしか思えない。どこをもって紳士の国だと言うのだろうか?
「アヘン」は2018年現在もメジャーな麻薬のひとつであるが、特に19世紀は、「麻薬といえばアヘン」というほど、国によっては広く流通していて、一度摂取するとその中毒性からもたらされる害悪が垂れ流しであった。
その当時の清では、イギリスから密輸されたアヘンのせいで中毒者が増加し、社会問題となっており、その中毒は常習性を伴うことから、中国国内では隠れてアヘンを吸うための「アヘン窟」という施設が農村部にまで多く存在していた。
清国大臣の一人であった林則徐がこれを重く見て、はびこっていたアヘンの取り締まりを徹底的に行ったことから、イギリスの怒りを買うことになった。
それは無法なことこの上ない戦いに結びつき、旧式の装備しか持たない清は、当時最強と呼ばれていたイギリス海軍に惨敗。「南京条約」を締結することになった。
とにかくその原因というのは無茶苦茶な話である。
イギリスは、東洋から紅茶と絹を買い入れていたが、その費用が膨大で、金を払いたくなかった。そこで、インドから密輸したアヘンを中国で密売し、巨額の富を得ることでそれを賄うことにし、自国で生産した織物をインドに売り、インドに作らせたアヘンを清へ売り、清からは茶葉を買うという「三角貿易」といわれるシステムを考え出した。
この取引は銀でおこなわれており、少しでも銀の流出をカバーしようと、アヘンを密売していたのである。
アヘン戦争が起こった直接の原因は、林則徐の厳格なまでの取り締まりである。販売していた者を容赦なく処罰し、発見したアヘンは焼却処分をしたうえに、その灰に石灰を撒いて毒性や臭いを消すなど徹底していた。
それだけではなく、アヘンをもたらしたイギリス人も容赦なく締め出した。麻薬を撲滅しようというのは、国としてとうぜんである。
これに権益を侵されたとして猛反発し、武力報復をしようとしたのがイギリスであった。
イギリスからしてみれば、商品を燃やされたうえに、清からの違法権益がなくなるということであるから重大である。イギリス議会では、アヘン密輸よりも中国から締め出されたことがクローズアップされて問題視され、中国への軍事報復が決定された。
その結果は、イギリスとは不平等条約である南京条約を、この流れにつけこんだアメリカとは望厦(ぼうか)条約、フランスとは黄埔(こうほ)条約をそれぞれ締結することに繋がった。
日清戦争以来、それらの権益に割って入ってきそうな日本は、目の上のたん瘤であったに違いない。
不思議なことに中国は、このベラボーな阿片戦争について一言も文句を付けていない。
それなのに、毛沢東でさえ触れなかった事実に反する南京事件というのを持ち出して、日本へのカードとして使う。
その事実関係は、検証をまつまでもなくかなり怪しい。20万都市であった南京の死者が30万人であったと大騒ぎをしているのである。
広島に投下された原子爆弾だって、その死者は20万人である。どだい無理な作り話ということになるが、その点を衝かれると、死者の数が問題ではないと言い逃れて、本当の歴史はどうだったのかという共同研究すらも拒むのである。ばれることを恐れているとしか言えまい。
国内事情の都合で、反日で目を逸らせたいのだとしか思えないのである。