2019年4月30日火曜日

タコは虫?


漢字には虫偏の文字が沢山ある。
例えば「蚊」「蜂」「虻」などなど。昆虫や見るからに虫だと解るものの名ならば納得いきますが、虫でもないものに虫編が使われているものも沢山あります。
不思議なのは、カエルやヘビも「蛙」「蛇」や「蛸」なども虫偏です。
「虫」という字は「ヘビの形からきたものだからだという。ヘビの意味としてはマムシ
だからその仲間、爬虫類を表すのにも「虫偏」を使うのは解らなくはない。蜥蜴(トカゲ)などにも虫偏で表す。
しかし、虫でもない自然現象の「虹(にじ)」にも虫偏がつくのは何故なのでしょう?
虹は天をまたぐ大きなヘビ、龍であると考えられていたからだという。
「蛸(たこ)」も「魚編」ではなく虫偏になっているのも、うねうね、くねくねしたところが爬虫類の仲間に見えたのであろう。

魚偏の文字にもいろいろある。

2019年4月29日月曜日

 巫祝(ふしゅく)


いわゆる神や仏と言われるものに向かい合ったとき、どうするか?
 柏手を打ったり、十字を切ったり、手を合わせて合唱したりするのが一般的な作法として思い浮かぶが、日本人は八百万の神としての自然神に対するとき、山や海や樹や岩に、静かに頭を垂れるのである。
 巫祝(ふしゅく)という言葉がある。意味は神につかえる者のこと、というくらいにしか辞書には出ていないが、敬うべき大いなるものだと感じたときの日本人は、誰に言われなくても頭を下げるのである。
 このことを、国民を代表して常時なされているのが、天皇陛下なのだと感じる。

日本人は無宗教だと言われているのに、モラルの高さやマナーを守ることにおいては、諸外国人が一様に称賛するところである。
しかし、日本人が無宗教なのだとは思わない。
神道にしろ仏教にしろキリスト教にしろ一宗一派にとらわれないだけのことで、敬う神というのは心の中に持っているのではなかろうか。
それぞれの神の良いところを昇華して、意識していなくてもいつも共に居る。
極め付けが「お天道様が見ている」という言葉に代表される概念のように思う。
誰が見ていなくても、自らを律することに意識の高さを感じる。
自分の外に神が居るのではなく、自らの内に神性が宿っているということを悟っているのでないとこうはいかない。

長い歴史の中で培われ身に染み付いた能力なのであろうが、目先の損得や競争ばかりに明け暮れて、「人様に迷惑をかけるんじゃないよ」という基本的なことさえ教えなくなった親が増えてしまっては、この先が思いやられてならない。
自分の中に神様がいるのだという意識が持てるようにすることは大事だと思う。
頭を垂れる

2019年4月28日日曜日

スポンサーでもあった数寄者


数寄者」とは本来「好き者」の意味である。
当て字として用いられることが多いが、それを専門業とはせずに何らかの芸事や趣味に打ち込む様が尋常でないのを、「すき」と称している。
その昔は、「すきもの」とは和歌を作ることに執心な者を指した様であるが、蓮歌が流行するようになると、特に「数寄」が連歌を指すようになったとされる。
時代が下り、茶の湯が流行するようになると、「数寄」も連歌から茶の湯へと意味を変えていった。このため江戸時代になると、数寄のための家「数寄屋」も茶室の別称として定着した。
茶人達は多くの名物道具の収集を熱心に行った。

「傾奇者」というのも居た。傾奇者とは、江戸より前期に、命がけで反体制的な行動をする武士や奉公人らを指した言葉です。

数寄者と呼ばれたお金持ちが、日本の文化に与えた影響は大きい。
金持ちが居ないと文化は育たないという側面があるようにも思えます。

2019年4月27日土曜日

宇宙戦艦ヤマトから


超ド級戦艦「大和」は、日本がその技術を結集して造った世界最大級のものであったことを知らない人は少なかろう。
「大和」を読むのに「だいわ」と読む人がまずいないことも、同様に日本人の基本知識である。
どうして「やまと」と読むのか気になったので、ウィキペディアで探ってみました。

元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。
その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする令制国を大和国とした。さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり日本国の別名として大和が使用されるようになった。
更に続けて、やまと」の語源は諸説あるとの記述があった。
·         山のふもと
·         山に囲まれた地域であるからと言う説
·         この地域を拠点としたヤマト王権が元々「やまと」と言う地域に発祥したためとする説
·         「やまと」は元は「山門」であり山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説
·         「やまと」は元は「山跡」とする説。
·         三輪山から山東(やまとう)を中心に発展したためとする説
·         邪馬台国の「やまたい」が「やまと」に変化したとする説
·         「やまと」は元は温和・平和な所を意味する「やはと」、「やわと」であり、「しきしま(磯城島)のやはと」から転訛して「やまと」となり、後に「しきしま」がやまとの枕詞となったとする説。
·         アイヌ語で、は接頭語、マトは讃称で、高貴を意味するムチや祥瑞を意味するミツ等と同根の語とする説。
·         ヘブライ語で「ヤ・ウマト」=「神の民」とする説(日ユ同祖論)
·         古墳時代頃に漢字文化が流入すると、「やまと」の語に対して「倭」の字が当てられるようになった。中国では古くより日本列島の人々・政治勢力を総称して「倭」と呼んでいたが、古墳時代に倭を「やまと」と称したこと]は、「やまと」の勢力が日本列島を代表する政治勢力となっていたことの現れとされる。
·         次いで、飛鳥時代になると「大倭」の用字が主流となっていく。大倭は、日本列島を代表する政治勢力の名称であると同時に、奈良地方を表す名称でもあった。7世紀後半から701年(大宝元年)までの期間に、国号が「日本」と定められたとされているが、このときから、日本を「やまと」と訓じたとする見解がある。
·         奈良盆地を指す令制国の名称が、三野が美濃、尾治が尾張、木が紀伊、上毛野が上野、珠流河が駿河、遠淡海が遠江、粟が阿波などと好字をもって二字の国名に統一されたのと同じく、701年には「倭国」を「大倭国」と書くようになったと考えられている。
·         奈良時代中期の737年(天平9年)、令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19年)には、再び「大倭国」へ戻された。そして757年(天平宝字元年(818日改元))、橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。このとき初めて「大和」の用字が現れた。その後、「大倭」と「大和」の併用が見られるが、次第に「大和」が主流となっていった。

いろんな説があるものです。
邪馬台国を「ヤマタイコク」と読んでいるが、「ヤマトコク」とも読めるのだという。邪馬臺国の「臺」という字は、もともと「ト」あるいは「トウ」と読むのだというから、ヤマタイコクから「やまと」と呼ぶようになったというのが、説得力があるように感じる。
現に卑弥呼の後を継いだ「台与」は、トヨと読んでいる。

2019年4月26日金曜日

日本語のオノマトペは素晴らしい


日本語には、他の言葉では替えられないと思える擬音語が沢山ある。
大抵は、同じ音を繰り返すことで表す。
例えば、そばやうどんを「ツルツル」と食べる、のようなものである。これをフランス語ではオノマトペ(擬音語・擬態語)というらしいが、何とも言えない不思議な世界に誘われる。

辞書を見ると、[副]1 物を続けざまにたたいたり何かにぶつけたりする音や、そのさまを表す語。「下駄の雪を落とす音が、と聞こえる」〈藤村・千曲川のスケッチ〉2 旗などが風にあおられたり、鳥が羽ばたいたりして立てる音や、そのさま。
続けざまに打ち合わせる音。うちわを使ったり、旗などがあおられたりしてたてる音。
というように説明されている。

そんな中で、思わず唸ってしまう擬音語というのがある。
「泪をはたはたと落とす」という表現である。
大声で泣き叫んで流れる涙のことではない。堪えても堪えきれないで地に落ちる泪の音のことである。
拭いもせず大量に流れる「滂沱の涙」とは趣を異にする。
日本人はそのさまを見て、我がこととして文句なしに共感してしまう感性を持っている。

2019年4月25日木曜日

美意識


桜吹雪。花が散る風情を美しいと感じるのは、日本人特有のものなのだろうか?

日本には地震や台風により大災害が起こることが多い。
そんな時に暴動も略奪も起こさず、互いに助け合って冷静に対処している姿を見て、外国人は驚嘆するのだという。
支援物資が配られるとなれば、争って奪い合いなどせず、整然と並び順番に礼を言って受け取る。至って普通のことだと思っていたら、諸外国では違うのだという。
宗教国でもないのに何故それができるのかが不思議なのだという。

日本の神道には経典というものはないし、仏教というのも道徳律というわけではないが、人たるの道は自然に発揮される。
意識しているかどうかは別にして、身内に培われている美意識に従って自らを律しているのではないかと思えてならない。
では、美とは何かという事になるのであるが、今を盛りとしているものでもやがて滅びるのだと思うところから発しているように思える。
「もののあわれ」がそこに伴っているものに、日本人は美を感じた。
後に武士が出てくると、さらに潔さというものが加わった。
生ある者同士が命のやり取りをするのであるから、勝っても負けてもそれが認められるルールというのができていったであろうし、それを認めるのが潔さとなった。
天に恥じず戦ったことを敵味方双方が認めるとき、それを「あっぱれ」と言った。
命というものを大切にするなら、動物も植物もない。自然全体が対象となって、その後ろにあるものを感じ取ろうとしたのである。
「もののあわれ」と「あっぱれ」が含まれていてこそ、美を感じたのだと思う。
武士道にしろ、芸道にしろ、商道にしろ、美を求めて成り立ったのが道。そして、お天道様が見ているというのが共通認識となっていれば、それはルールを越えた。

2019年4月24日水曜日

レディーの言葉


日本語には地方によって訛と呼ばれるものがあって、そこで育つと後からではなかなか治せない発音というのがあるが、別段直さなくてもよいと思う。温かさがあるからである。
東京の下町にも、浅草の旦那衆が自然に会話の中で使っている言葉がある。本人たちは気づかずに使っているのかも知れないが、それも親しみを感じさせる。

大好きな女優さんの一人であったオードリー・ヘップバーンさんが亡くなったとき、エリザベス・テーラーさんが「神様は、また美しい天使をひとり手に入れた」とコメントしことにも、流石一流の方は違うと感銘を受けたが、美しい言葉遣いができるのは全人格的なものだと信じている。
「マイフェアレディー」というのも、その言葉のニュアンスを題材にした素敵な映画でした。

スペインの雨は主に広野に降る。これをひたすら繰り返して練習する場面がありました。
有名な言語学者「ヒギンズ教授」は「ピッカリング大佐」を相手に、「訛だらけの貧しい下町娘
でも、教育次第では立派な上流階級のエレガントな娘に仕立てる事が出来る」と持論を披露し、
それによって二人が賭をすることになる。
イギリスでは、身分階級ごとに言葉が違っていて、どんなに隠しても話しているのを聞くだけで出身が判ってしまうといわれる。

この賭の「実験材料」に選ばれたのが、「コベント・ガーデン」の貧しい花売り娘「イライザ」
でありました。
彼女には激しい「コックニー訛」があったのであります。
Hが発音できないから、ヘレン・ヒギンズ教授はエレン・イギンズとなってしまう。
ロンドンの下町言葉「コックニー訛」は、「二重母音」が上手く発音できず「ei」と発音すべき
ところが「ai」となってしまう特徴を持っています。
つまり「rain」を正しく「レイン」と発音出来ず、「ライン」と訛ってしまうのです。
日本語で言えば、「鮨=すし」が「すす」、江戸が井戸と訛ってしまう様なモノでしょうか。

マイフェアレディーの表題も、実は「Mayfair Lady」つまり「ロンドンの高級住宅街メイフェアに住む淑女」が「コックニー訛」によって訛って「マイ・フェア・レディ」になってしまったと言う、実に気のきいた洒落たタイトルなのでありました。
オードリー・ヘップバーンは、忘れようもなく美しい女優さんでした。

勿論、日本女性の美しさは言うまでもない。
整形をしなくても化粧をしなくても、美人というのが揃っている。
年配になって、内からにじみ出てくることで出来上がった顔は、いろんな経験を昇華し、その上で使われる言葉の優しさまで備えているから無敵である。
どうでもいいが、ある国では美容整形をしすぎて、誰の顔も区別できないほどになっているらしい。
フィギュアスケートの女子選手などで、850万円かけてそれをしたと噂された人がいたが、そんなに金をかけてもこの程度かと、自国民にまで言われているのだと聞くと、気の毒でさえある。とやかく言うつもりはないが、美という者は内面から滲み出てくるもの。
顔は、男女に限らず、全人格的なものが作り上げるものなのだと思うけれど、それにも増して普段使う言葉や立ち居振る舞いは、磨き上げられて「様=さま」になることで美しいものとなって周りに伝わる。

2019年4月23日火曜日

禿山にすることなく鉄を作った


石器時代から青銅器時代を経て、やがて鉄器文明へと移ったのだと学校では習った。

初期の製鉄は、炉の中に木炭と鉄の鉱石を層状に投入し、鞴(ふいご)で空気を送って燃焼させ、その熱により溶けだした二酸化炭素と結合した金属鉄を取り出して使った。

この化学反応に必要な温度は400から800度ほどであり、温度が低いことから、孔だらけで海綿状の質の悪い鉄であった。硬いものの上で赤熱のまま打ち叩いて不純物を絞り出し、鉄原子同士をくっつけ直すことで純粋な鉄にすることが必要であった。
鉄器の原料となる砂鉄や鉄鉱石などは、青銅器の原料である銅鉱石やスズ鉱石にくらべて偏在が少なく、世界の多くの地域において容易に入手が可能なものであった。
このため、その土地の原料によって製鉄が試みられるようになり、金属器の増産をもたらした。
ただ、古くに轍を製造していた地は、その殆どが砂漠化してしまった。

石炭を燃やし、その高熱を利用して鉄を取り出したり精錬することがなかった時代では、木材や木炭を使うしかなかったから、大量の木がその燃料となった結果、禿山となった地は保水力を失い、砂漠化への道を辿ったのだということは容易に推測できる。

唯一、日本だけはそうならなかった。工夫がなされた。
素戔嗚尊の神話で知られる天の叢雲の剣(草薙剣)は、出雲地方の砂鉄から玉鋼を作り、それからできた鉄剣であったと思われるが(神器であるから見た人がいない)、日本人はその頃から知恵が働いていたのだとしか思えない。
八岐大蛇が暴れたというのは、多分河川の氾濫のことであったろうから、治水のためには植林が必要であった。スサノオの詠んだ“八重垣”というのは、護岸工事のために植えられた木であったと考えられる。
その後に備前の国を中心として大量に作られた日本刀も、出雲の砂鉄と、メンテナンスに配慮された中国山地の木材に支えられて発展したのだと推測すると解りやすい。

2019年4月22日月曜日

きちんと学ばなければ判断できない


明治維新以後の歴史を、学校で習った記憶がない。あったとしても散発的なものであり、流れとか相互の関係性が理解できるようなものではなかった。
考えてみれば、幕末あたりから後のことが変である。

確かに、日本は鎖国をしていたことで世界の情勢から遅れてしまっていたことは事実であろう。
関ヶ原の戦いの頃は、世界中で一番鉄砲を保有していた最強国の一つなのである。
武力をもって政権を維持していた徳川幕府であるから、開港を迫ってくる英・仏・米との戦力差を見極め、現時点での戦いを避けたことは解らなくはない。武将というのは最初から負けそうな相手と戦うことはせず、戦える体力をつけるまでの時間稼ぎをする。

幕藩体制に陰りが生じ、国内が勤皇だの佐幕だのの争いになっていたとしても、それらを抑えきれないほど弱体化していたとも思えない。相手は補給が続かないのである。
徳川慶喜が大阪城を捨てて逃げたことを腰抜け扱いしているが、慶喜がフランスとイギリスの代理戦争となって日本が疲弊してしまう愚を嫌ったのだという説は、かなり説得力を持つ。
大きな内戦にならず明治維新が成ったのは良かったのだと思うが、新政権ができるまでにどうもスッキリしないことが多い。

当時の世界情勢は、トルコ帝国が敗れてより、ナポレオン戦争を経て、西欧白人諸国が競争で武力を蓄え世界に打って出ていた時代である。
種の起源などという説を悪用し、白人が最高に進化した種であるのだと思い込み、有色人種国はその程度が低ければ皆殺し、少しは使えそうなら奴隷、もうちょっとましで資源がありそうなら植民地として支配することに何の躊躇いもなかった。宗教も精神的にそれを後押しした。

野蛮な未開人の地であろうと見下して襲来したのは良いが、案に相違して、日本は文化的であったし、迂闊には攻められない武力も保持していた。
維新以後には西洋の文化を学んだのであるが、数学などは学ぶまでもなく西洋に匹敵するほど進んでいた。
自然科学を理解し、それを利用した近代産業を発達させることなぞできまいと見くびっていたらしいが、それも短期間で成し遂げてしまったのである。植民地化なぞとてものことできなかった。
だから、今度は彼らが時間稼ぎをしたのだと考えないと、辻褄が合わないのである。
時間稼ぎをし、あの手この手を使って親玉である日本潰しをするのに一応は成功したが、植民地を再構築することはできなかった。
それでも、根深く残っている人種差別がされなくなるには、まだまだ時間がかかりそうである。

2019年4月21日日曜日

EU諸国は問題含み


ブレグジット、いわゆる英国のEU離脱問題は、ゴタゴタしているという印象での報道しかされないから解りにくい。
専門家ではないから、簡単に整理して考えてみることにした。
そもそもイギリスがEUを離脱しようと思ったのは、世界中の左派やマスコミが喧伝するグローバリズムということに疑問を持ったからではなかろうか。
国家としての意思を明確にしにくいのは、統合した圏内にとどまっていれば当然制限されるのだから仕方ない。

国民投票までして離脱ということに決したのだが、賛否はほんの数パーセントであった。
それでも、離脱という事に決まったことは間違いない。
民主主義国を自慢していたのに、手続きを経て決した結論に従いたくない人が多すぎて収まりがつかない。
国際協定によりEUに加盟していたのであるから、当然のことながら離脱には条件が付される。
加盟国が減ることを嫌がるEU側と、離脱したい英国がすんなり合意できる筈がない。
離脱した後、英国がそれにより成功したら目も当てられない。離脱する国が次々に出てきてしまう恐れだってあるから、条件はきつくなる。

メイ首相が折衝した結果の合意案は、英国議会の承認を得なければならないのは当然であるが、この合意案というのが玉虫色で、主権国家として英国が独自性を出せる内容とは程遠かったということであろう。
英国は英国で爆弾を抱えている。北アイルランド問題である。
英国はカトリック、北アイルランドはプロテスタントであるという宗教上の問題もあって、テロなど多くの争いが過去に頻発したが、EU加盟ということで国境問題は取り敢えず収まっていた。しかし、離脱という事になればそれが再燃する。

議会内には、何でも反対の労働党もいる。そもそも労働党は離脱反対であった。
どうも合意内容が反対される原因は、離脱によって変わることが少ないからのように思える。
二国間の貿易協定は駄目らしいし、外国人の逮捕強制送還も制限されるのだという。
離脱の原因の一つであった理由は、無制限に流入する外国人に仕事を奪われ・文化を壊され、今までに貯め込んできた社会保障費を、それら外国人にも使われてしまうということへの不満があった。それに手を付けることができなければ、確かに離脱の意味がない。

関税問題など煩雑な手続きは、今のままの方が楽だという判断もあるのだろう。
しかし、そんなのはすぐに締結しなおせる筈である。
ドイツは工業製品の、フランスは農産物の輸出先であるイギリスを手放せない。
関税協定を結びなおしたいのは、EU側の諸国なのではないのか?
楽をしてうまい汁を吸い合うなどということはできないのに、関税問題が大変だ大変だと騒いでいるように思える。

外野席からだから気楽にものを言えるのかも知れませんが、合意なき離脱であっても、ズルズル長引かせるよりいいのではないかと思える。
リスクはあるだろうが、けっこううまくいくのではなかろうか。現に世界各国はそれでやっているのである。

離脱というのは、いうなれば独立戦争のようなもの。
戦後は何もない所から始まる。当初しばらくは経済的に下降するかもしれないにしても、すぐに復興できる。
多くの国が共同で何かをやるには、まだまだ無理があるのではなかろうか。国連もまた然り。

例えばであるが、東洋にEUのようなものを想定してみるに、日本・中国・韓国が一緒になってうまく行くことなぞ土台考えられない。
主権国家というのは、長期にわたって培ってきた民度の差というのが厳然としてある。無理して一緒になるより、互いを認め尊重し合う方が穏やかに付き合える。
経済だけをまとめようとしても、他がついていかない。

EU内の国々には、外国人の受け入れに反対する政党が議席を伸ばしているという現実がある。

2019年4月20日土曜日

嘘つきは悪魔の始まり


悪魔の所業としか思えない事件が報道される。魔にとり憑かれたのだろうか?
よく、悪魔だとかサタンだとかデビルだとかいうが、それは何なのだろう。

デーモンは「ギリシヤ神話では半神半人。
サタンはキリスト用語で「悪魔、デビル」のこと。と辞書にはでてくる。
つまりほぼ同じ意味ですが、デーモンに限りギリシャ神話か別かで意味が別れるということになるようです。

ウィキペディアによりますと『サタン(Satan)とは、ユダヤ教、キリスト教とイスラム教における悪魔。ユダヤ教、キリスト教では神の敵対者、イスラム教では人間の敵対者とされる。
『日本で特にサタン(Satan)と呼ぶ場合、悪魔の中でも上位の存在を指す総称として用いられることがあり、しばしば著名な悪魔(ベルゼブブ、メフィストフェレス、アバドンなど)を含むことがある。このような用法には、ルネサンス以降の小説や戯曲の影響もある』

サタンの正体にはさまざまな説があり、誰がサタンとは決まってはいない。しかも、本来サタンというものは『苦難を与える天使』だったそうです。つまり『サタン=天使』でも問題はない。サタンが悪魔だというのは人が捻じ曲げたことだといわれることもあります。

悪魔は、仏教では仏道を邪魔する悪神を意味し、煩悩のことであるとも捉えられる。
神に叛くものを悪魔と呼べば、宗教上は都合が良いかもしれないが、「人間を誘惑する存在」と考えるほうが解りやすい。
悪魔は「罠」を用いるとされる。悪魔には立ち向かえ、と教えられるが、現実の世界は悪しき者の配下にあるということで、悪魔の罠を見破るのは一般人には容易ではない。
罠を作って人を惑わすときの手段は「嘘」。
嘘つきは泥棒の始まり、などというどころの騒ぎではない。
人が幸せになるためには嘘を見破ることができることは大切だが、何よりも自分が嘘をつかないようにすることが、悪魔から遠ざかれる道である。

2019年4月19日金曜日

毎日の便り


新しい紀元の発表以来、漢字づいたというか、字の意味を考えてみるようになった。結構面白い。

「便」という字があります。「びん」と読むか「べん」と読むかで意味が違う。
「便=びん」の一番基本となる意味は、「便利」「便宜」や「簡便」といった熟語に代表されるように「支障がなくて都合がいい」だとされています。
「べん」と読めば、排せつ物のことになる。

ここから先は、私の論です。
中学校の生物の時間で習った通り、口から肛門までは体表と同じく、外胚葉として分類されています。
口からは、「気」や「食べ物」として外界から情報を取り入れる。小腸がその大元締めであるから、小腸には殆ど病気というのが他の臓器と比べたら少ない。
心も小腸の働きであるから、心に関する熟語も「腹」に関するものが多い。

で、それらの情報を身体に取り入れた後、「便り」として大地に返す。こうしてものごとは循環する。便りがあるのが良い知らせ、なのです。

2019年4月18日木曜日

縄文時代には稲作をしていた


日本の古代史の研究というと、古事記・日本書紀がまず挙げられる。

古代の歴史書ということになれば、それは時の政権に都合の良いものとして書かれていても不思議はないし、現代のように歴史事実を正確に記したものではなかろうことも想定できる。
皇国史観に基づくものであるとか、神話などは歴史とも呼べないとして一笑に付してしまったら、
その中から学べるものは皆無となってしまう。
世に出ていない隠れた古文書というのが日本には多いらしいから、比較研究すれば分かって来ることも多いのではなかろうか。
中でも、日本各地で発見されるペトログリフは、日本に漢字以前に文字が存在していた証拠だと思えるのだが、これらの研究はどうなっているのだろう?
考古学的な発見により、歴史は見直されるということにも、並行したものとならなければ、研究の成果はあがらない。

大化の改新のとき以前のものは、蘇我氏の館と共に燃やされてしまったのだともいうが、それでも日本に残っている古文書は多いのだという。それらには必ず意味があるように思う。

諸外国のように王朝が変わると、それは易姓革命であったことが多いから、前時代のものは焚書の憂き目にあい、次代に都合がよいものに書き換えられたに違いないにしても、何らかの痕跡はどうしても残る。
日本はそういう意味でいえば、万世一系で続いているから、残されたものには文化遺産としての価値も高いように思う。自ら文化を捨て去って残さなかった国々との違いは大きい。

ヲシテ文字によるホツマツタエ、竹内文書・九鬼文書(くかみもんじょ)・上記(うえつふみ)などというのがあって、それらは神代文字とか古代文字で書かれているというが、解読しても奇書だとか偽書だとか言われて研究対象から除外されてしまうようである。
しかし、本当にそこには真実が記されていないのだろうか?
少なくとも、それらの文書が書き残された意味はどこにあるのかというくらいは究明されても良いように思える。
古伝四書と呼ばれる
『ウエツフミ』(大友文書大友文献ともいう)
『ホツマタエ』(漢字ではなくカナ書きするのがの流儀)
『ミカサフミ』
『カタカムナのウタヒ』(いわゆる「カタカムナ」)なども同様である。
16000年の歴史があると言われる縄文文化も、地道な研究の結果明らかになって来たことがある。学校で教え込まれていたこととはどうやら大きく異なる。
日本人のルーツは、大陸或いは半島から渡来した人たちの裔だとされてきたが、DNAの解析結果によると全く違うのだというが、どういうわけか、日本に古くからの文化があったことを認めたがらない学者が多いのだとか。
出土した縄文遺跡からの出土品から、7000年前には日本で稲作がなされていたことは科学的に証明されてしまった。縄文土器は世界最古の土器とされるし、縄を綯うということは布もあったということになる。事実、土器の底には布の痕が残されている。
弥生人が稲作を伝えたというが、学者が言い立てた弥生時代というのは、半島に人が住んで居なかったことが地質学・気候学的に明らかになっている。
それによって日本の歴史教科書は、それらを反映したものになっているのだろうか?
先祖がどこからやってきたとしても別に構わないが、学者は学問上知りえたことで、歴史を見直すことがあってよいのではないか?教科書が書き改められたという話は一向に聞かない。