2019年5月31日金曜日

どこまでやりあう気なのだろう?


米中貿易戦争が収まりそうな様子を見せないが、世界に与える影響のみが喧伝されるだけで、その本質がどうも見えにくい。
関税のかけあいで終わるなら、相互の商品の値段のことであろうから、買う買わないで済むことであり、経済規模が減少するくらいであって、今後も必要な商品は買うのではないかと思える。

日本での報道は、トランプ大統領に批判的なものが(米国の報道でも批判的なものを拾ってのものを日本でも報道しているように見えるとも含め)多いように見えるが、どうも米国では民主党も共和党も一致して中国叩きであるようにも感じる。
中国の不公正な貿易姿勢に危機感を覚えているように思えるのである。
儲けた金が軍事費の増大に結びつき、周辺国の緊張を高めているように見えるから、猶更米国が面白くないと思っているのではなかろうか。

関税だけで決着がつかなければ、次に米国が考えるのは金融であろうし、更には為替問題だと思える。
そこまで行ったら、制裁は当然ついてまわるから、経済規模からいって中国では対応できないのではないかとも思える。
中国が保有している米国債を売るという対抗手段があるようにもいわれるが、中国はそれを担保にしてドルを借り入れているらしいから、実際にそれができるかどうか疑わしい。
ドルがなければ世界相手の貿易は殆ど不可能になるのではなかろうか。

AIIBや一帯一路も、中国の利益にはなっても融資を受けた国は借金漬けになるだけで何のメリットにもならないということがバレてきているらしいから、それらも中国にとっては枷になりそうである。
市場原理によらないで、国の補助金で広げて来た貿易には限度があるということなのだろうか。

そういえば、爆買いをしていた中国人は影を潜めてきたようにも見える。
世界中で買いまくった資産も投げ売りをし始めているともいうから、適当なところで矛を収めないと酷い状況になってしまうのではないかと危惧する。
日本にも大きな影響が出ることなのだから、正確な解説と情報提供が欲しいと思う。

2019年5月30日木曜日

日本中に基地はある


日本には、北海道から沖縄までの全国各地に130か所の米軍基地(1024平方キロメートル)があります。そのうち米軍専用基地は81か所で、他は自衛隊との共用なのだという。
東京や神奈川にも基地はあります。
誰だって、傍に有って欲しくない施設というのはあるが、やむを得ないこともある。

世界中から戦争がなくなれば、基地は必要ないのだが、残念ながら現実に対処するにはそうも言っていられない。
憲法9条があるから戦争が起こらないなどということを信じている人は一人もいないのではなかろうか。それが本当なら、国連が率先して各国の憲法改正を進めればよい。

基地というのはどこに構えてでもいいのではなく、作るのに適した戦略的条件に合致していなくてはならない。
それで、沖縄に日本の基地の7割強が集まる結果となっている。県民にしてみれば、迷惑だと思う。
沖縄に負担をかけすぎているという現実は、日本が攻められるとしたときに、一番危険な場所にあるからのようにも感じる。
住民にだっていろんな考え方があって当然だが、他府県から国籍が違う人まで押し寄せて騒ぐのには違和感を覚える。
沖縄県民に、中国や韓国のようになりたいと思っている人が多いとは思えない。
それどころか、基地反対の手段として、沖縄の独立を煽るようなことを言う人もいるというが、いかがかと思う。隣国が涎を流して喜ぶだけではないのか?

外患罪は、外国と通謀して日本国に対し武力を行使させ、又は、日本国に対して外国から武力の行使があったときに加担するなど軍事上の利益を与える犯罪である。現在、外患誘致罪(刑法81条)や外患援助罪(刑法82条)などが定められて はいるが、近年その適用を受けた例というのは知らない。
昔で言うところの内憂・外患罪は、国家反逆罪であるから死刑であった。
日本は何をやっても通ってしまうようだが、人の幸せを考えたら、逃走的方法では解決しまい。
戦争が起こったら如何に悲惨かということを考えたら、それが起こらないようにするために、とりあえず抑止力を整備しておかねばならないのである。
普天間が危険すぎるということで、移転を考えて、苦渋の選択をしたのではなかったのか?
少なくとも朝鮮半島や南シナ海に安心できない状況がある間は、対応策に万全を期さなければならないことを無視できない。如何に日本が平和を望もうとも、侵略されてしまったら後の祭りとなりかねないことを思えば、備えることで抑止力とせざるをえないのではなかろうか。

2019年5月29日水曜日

ヒヨコが産まれるには


「啐啄同時(そったく同時)」という禅語があります。
啐啄同時とは、鶏の雛が卵から産まれ出ようとするとき、殻の中から卵の殻をつついて音をたてます。これを「啐」と言います。
そのとき、すかさず親鳥が外から殻を啄ついて破る、これを「啄」と言います。
そしてこの「啐」と「啄」が同時であってはじめて、殻が破れて雛が産まれるわけです。これを「啐啄同時」と言います。これは鶏に限らず、師匠と弟子。親と子の関係にも学ぶべき大切な言葉です。

妙心寺ご開山(関山慧玄・無相大師)の逸話なのだという。
ある雨の日のこと、開山さまの部屋から、「なんぞ持ってこい」と呼ぶ声がしました。
「また雨漏りだ、早く何か持っていけ」と僧たちが騒いでいると、一人の僧が笊を持って飛んで行きました。
すると、「これだ、これだ、よく持ってきた」と上機嫌で褒めているところへ、もう一人の僧が桶を探して持ってきました。
すると、「バカ者!そんなものが役に立つか!」と烈火のごとく叱りとばされたという。

笊で水を掬うというように、水を貯めるのに笊では用を足さない。
普通ならば桶ですが、そこは禅の修行の場。雨漏りだから桶だと考えて行動する分別があったから駄目なのだというのである。
師匠からもってこいと言われたら、ざるでも桶でも何でもいいのです。「オーイ」と呼ばれたら「ハイ」と返事する。そこには一分の隙もない無心の教えなのだとか。これこそ師匠と弟子との啐啄同時というのだが、解ったような解らないような・・・

2019年5月28日火曜日

一国だけで騒いでいるが


外務省がようやく重い腰を上げて、旭日旗の広報に乗り出した。
韓国のみが大騒ぎしている。
朝日新聞のマークには文句をつけないが、蟹缶の模様にまで文句をつけるくらい頭に血が上ってしまって始末に負えない。
少し前の話になるが、フランスの軍事パレードで旭日旗が掲げられたのに対し大騒ぎしたのだという。

韓国人は、日本国旗や旭日旗に火をつけて燃やしたり、足蹴にして憚らない異様さを見せるが、日本と実際に戦争をした相手国だって旭日旗を否定しない。
それどころか尊敬して取り扱う。
言うまでもないが、日本は韓国と戦争したことはない。それどころか自分たちでそれができなかったから、日本が国を守ってやったのである。
頼んだ覚えはないとむきになって言うだろうが、紛れもなく頼まれたのである。

何を勘違いしているのか知らないが、自分たちが兄の国だと口を開けばいうが、彼らが日本の手本になるようなことを何かしたとでもいうのか? 一つでもあるのなら挙げてみて欲しい。
日本は弟どころか親として、自らが苦難を肩代わりまでして韓国を守り、どうしようもないほどの後進国であったのを近代化したのである。

朝鮮は清国に攻められてソウルは落城した。いつもの通り、朝鮮は戦わずして敗れた。
日本が日清戦争をすることで韓国は独立できたのだが、韓国はその日清戦争に1兵たりとも参加しなかった。
その後はロシアの南進である。韓国人は右往左往するだけで、自らが立って戦うことはなかった。

国防上、日本にとって朝鮮半島は戦略上無視できない。
しかし朝鮮は自ら戦って国を守ることをしない。いつも他国の助けを借りる以外なかった。
そういう状況下では平和を保てないし、どのみち日本がその役目を負うしかないから、日本が併合するのはやむなきこととして、米・英・仏はそれに異を唱えることはなく、むしろ賛成した。

朝鮮戦争の時も、北朝鮮に攻められた韓国は、逃げ惑い、釜山だけを残して全て制圧された。
米国を主力とした国連軍が参戦したことで38度線まで押し戻したが、韓国軍が勇敢に戦ったからではない。
米国軍が血を流した結果である。
戦争が長引くのを嫌い、38度線で取り敢えず停戦ということにしたのだが、韓国は自分たちが大して戦ってもいないのに、北を統一するまで停戦しないと言い張ったので、停戦協定から除外されたのである。頭から相手にされていなかったのである。

米朝首脳会談で終戦宣言がなされるなら、そこに韓国も立ち会うべきだなどと臆面もなく主張しているが、一体どの口がそれを言っているのか?
東南アジアで、自国の独立のために戦ったことがないのは、韓国のみである。

そんなことは韓国人以外の世界では常識である。それなのに、韓国以外のどこもそんなことは言っていないのに、その守ってくれた大恩がある国の旭日旗を、戦犯旗などと勝手に決めつけ、ナチス旗と同一だといって騒ぐから、彼らが大好きな国の一番としているドイツからさえ一番嫌われることになる。

世界中を探し回り、太陽のイメージのあるデザインを見つけると、躍起になって抗議するから、その粘着質な行動に世界各国は辟易し、より嫌韓が進むことになっているのを彼らは気づいてもいない。
どちらかといえば、嫌われた原因となったことを、得意げに韓国内で吹聴する。
とにかく日本が嫌がりそうなことを次々見つけ出し、それを日本を貶めるために使うのだが、知らない外国人はまんまとそれに乗ってしまう。
韓国人の特技である「相手を陥れるには周りを巻き込む」というのを使いこなすタチの悪さには辟易する。
それが韓国内では持て囃されるから、正常な判断力がますます麻痺してしまう。
そんな愚かなことをいつまでもやっているのは韓国だけであろう。

太陽を嫌うようなことをしているから、いつまでたっても国際的に陽の当たる場所に出られないのかも知れないのではないのか。

2019年5月27日月曜日

如何に属国だったとは言え


貢女(コンニョ)は、朝鮮が中国への朝貢品の1つとして献上した女性のことである。
如何に何も貢ものがないからと言って、女性を差し出すというのは程度を越えている。
運よく帰国が出来た女性であっても、国の為に犠牲になったのだとして篤く遇されることなく、還鄕女として蔑視・差別待遇を受けた。現在でも朝鮮語・韓国語で女性を節操のない女だと罵倒して卑下する言葉として用いられるファニャンニョンの由来となっている。
高麗・朝鮮王朝時代の「貢女」の実態とは、高麗時代から朝鮮王朝時代まで続いた「恥辱」そのものである。朝鮮は貧しくて、さしたる産物もないことから、女性を貢物にした。
そのため、娘を守りたい親は、娘が候補になると、顔に薬品を塗って醜く爛れさせてそれから逃れる工夫をしたり、傷を付けることで醜い容貌にしたりした。
娘が生まれたら秘密にしたまま暮らす。他人に知られるのが心配で、隣人にも娘を見せられない。娘を隠していた事実が発覚すれば、村全体が害を被ることになるから、どうにも隠しようがなかった。
そうなれば処女を選ぶ過程で賄賂が取り交わされるのは当然で、金がある者は切り抜け、金がない者は 連れて行かれるということでもあった。
その恥辱の歴史は、5世紀初めまでさかのぼる。しかも、日本が関与するようになる迄、朝鮮は独力でそれを廃止することができなかった。
高句麗・新羅から中国の北魏に、女子を送ったという記録があるのだという。現代の韓国人はその多くが漢字を読めないから、仮令読める人がいたとしても、その歴史を知らないふりで居るが、知ったら平静ではいられまい。
貢女の献上が最も盛んに行われたのは、高麗後期から朝鮮王朝時代にかけてだった。
高麗時代の元宗15年(1274年)、元が140人の婦女を連行したのを皮切りに、忠烈王・恭愍王代に元に対し献上した貢女は170人以上、44回に上った。
朝鮮王朝時代にも、太宗から孝宗の時代にかけて、明・清に対し9回にわたり146人が献上された。
中国の高官が私的に連れて行ったケースを合わせると、数千人に上ると推定されるのだという。
中国から、貢女を選ぶ「採紅使」が訪れると、朝鮮の朝廷では貢女選抜機関を臨時に設置し、
巡察使が各地を物色して回った。
朝鮮王朝時代には、貢女に取られないようにする目的で、娘が幼少時に婚姻することを防ぐために、世宗王は「12歳以下の女子については婚姻を禁ずる」という法令を公布しなければならないほどだった。
朝鮮王朝時代の太宗84月、各地から処女30人が選ばれ、ソウルに移送された。
父母を亡くして3年以内の女性や、息子がいない家の一人娘を除いた7人が、景福宮での最終審査に臨んだ。
しかし中国の使臣は、その中に「美しい女がいない」として官吏を棒で打とうとした。
娘たちも指名を避けようと、体に障害があるかのように口をゆがめたり、足を引きずったりした。
最終的に、それらに関わった娘たちの父親は全員罷免されたり、流刑に処されたりした。
同年7月、再び選抜が始まった。
太宗は「処女を隠した者、針灸を施した者、髪を切ったり薬を塗ったりした者など、選抜から免れようとした者」について、厳罰に処するという号令を下した。
要するに、国王が率先して、自国の女性を生贄にして差し出したということになる。
近年騒いでいる慰安婦は、どんなに探しても強制性を示す証拠は1件も見いだせないが、貢女は紛れもなく朝鮮の国策であった。
同様に、米軍兵を相手とした洋公主も、韓国が国として提供したのである。

ついでに言うと、韓国人が名君であったと崇める世宗王は、国民を愚民と言って憚らなかった王でもある。
歴史を学ばねばならないのは彼らなのではないのか。

2019年5月26日日曜日

音質が大事だと思うのだが


予め申し上げておくが、これはあくまで個人の感想であります。有名な人の演奏なのかどうか知らないが、個人の好みの問題です。
ブログなどにものを書くときは、基本的に自分の思ったことを書くのであって、それを他に押し付ける気は毛頭ない。人それぞれの考え方や捉え方は違っていても当然だと思っているからです。

少し前の放映ですが、男性と女性のペアでのピアノの連弾をTVで観ました。
楽譜を捲る手つきがいかにしても乱暴で、演奏どころかそれが興ざめさせもしました。
だいぶ前の番組なのですが、すぐに書くと誰の演奏か判ってしまって、ご迷惑をかけるかも知れませんので控えておりました。

まず第一に、プロがステージに上がって客の前で演奏するのなら、暗譜くらいはしておいて欲しい。
しかも流れ出てくる音が濁って聞こえるばかりでなく、弾き方もゴツゴツしていた。
肩や腕に力が入っているのがありありとわかり、見ているこちらの方がつられて疲れてしまった。
ピアノは好きだからよく聴くが、演奏者の名前で聴くわけではないから、有名な方なのかどうかは関係ない。数多く聴いていれば素人にだって、それが良い演奏かそうではないか自然に判るようになるのだと思っている。

ピアノの演奏は、ピアノとピアニッシモの音が如何に澄んでいて伸びがあるかは重要である。
それがないと、音楽に語りが生まれない。聴いていても観ていても楽しくなかった。
評論家が何か言うよりも、意外に素人の方が厳しい評価をしているのだと知ってもらいたいものである。ただ言わない(或いは言えない)だけである。
演奏時の身振り顔つきというパフォーマンスも大事か知れないが、それが自分を見せたいという欲に繋がっていると思われるような動作であったとしたら、本来の音楽とは違うものになってしまうのではなかろうか。

2019年5月25日土曜日

読めなかった寄付額の漢字


何度か訪ねたことがありますが、熱海の木宮神社はパワースポットとして知られています。樹齢2000年と言われる大楠は岩を巻き込んで育っていて、その幹回りは圧巻です。
社務所の石の垣に寄付金額を彫り込んであるのですが「肆拾万円」と書かれていたのが読めませんでした。
ガイドさんの説明によると、四十万円のことなのだとか。
但し、この字は「し」と読むから、「よんじゅう」ではなく、「しじゅうまんえん」となる。

その前に訪ねた三嶋大社の境内には、樹齢1200年という金木犀の木がありました。

2019年5月21日火曜日

伝統を培ってきたことで


職人や物を生産する人を大事に考える国は、基本的に強い国になる。
頭だけを使うのが偉いのだとして踏ん反り返っていた国には蓄積されたものが少ない。
底力が違うのである。日本やドイツを見れば納得できよう。
その他にも使われる言葉にも違いがある。同じ言葉であっても意味が全く違うのだという事を理解していなくてはならない。
例えば「約束」という熟語なぞはそもそもなかったのだというし、政治家が使う「遺憾」などというのは、極めて軽い意味合いしかないのだという。

ある国が好んで使う「パートナー」というのは、目先の利益がある間だけの関係であり、それがなくなればあっさり終わりになる。「共同」というのも同様である。
「友人」ということになると、他人のものは自分のもの、自分のものは自分のものと考えるのが親しいという意味になる。親しき中にも礼儀ありなどという概念はない。
文化が違うのだということを知らないと、腹が立つだけで終わる。

日本には「形見分け」という文化があって、良いものは代々伝えられていく。
が、そういうものは無いらしく、親が死んでも遺品は捨ててしまうのが普通なのだと言う。
日本ではさらにその上、ものごとを為すときに事前に大義を立てているということが多いから、短期的には考えずできるまでやるから、積みあがってできあがったそれは無双である。
日本民族は、物心両方に、大義のために殉じるということができる国民であった。それが叶わず命を落とすことになっても潔かった。
それが主たる目的ではなかったにしても、日本人の行いがきっかけとなって人種差別や植民地がなくなる結果を齎したことは否定できまい。

物を作るということは、汗もかくし体が汚れることは当然である。殿様だって工事に出て、人足と一緒になって働くことがあっても特異なことではなくて、それが普通であった。
優れた物を作るには、技術の積み重ねが必要不可欠である。労働する者が蔑まれるような国では、文化が発展するわけがない。先輩の技量を尊敬するから、さらにその上を目指そうとしてきたことが、日本文化を発達させた。
伝承・口伝、いいものは復活してでも残す。それに労を惜しむことはない。
日本人は昔から多くの者が基本的に文字の読み書きができたから、名人が書き残したものが、古文書として残りやすかった。

2019年5月20日月曜日

馬には乗ってみよ


「馬には乗ってみよ人には添うてみよ」という諺がある。

馬のよしあしは乗ってみなければわからず、人柄のよしあしは実際につきあってみなければわからない。何事も自分で直接経験してみよという意味であるが、誰もがそれを理解して行動できているかどうかは、甚だ心もとない。以外に雷同してしまっていることが多い。

人間には感情があるから、好き嫌いというのは当然あるし、それに引きずられることはあることはある程度仕方ない。
しかし、役者などが劇中で演じたものをその役者の性格だと心底思い込んでしまっている人もいるのもまた事実である。会ったことも話したこともないのに、どうしてそう思うのか考えてもいない。
ことほどさように、ニュースなどで誰かの発言の一部を切り取ったものを悪意をもって流されれば、それをそのまま信じ込んでしまう人だって多い。
残念ながら思惑を盛り込んだニュースは有りうる。
それに安易に従って、軽々に非難できないようなことでも、正義の代弁者の如くそれを捲し立ててしまえる人たちは、一体何をもってそうできるのかと不思議でならない。

ましてや教育でそれがなされれば、疑いもなく定着してしまう事だってありうるのだから、ことは重大である。
そういう意味でいえば、近隣諸国条項というのは、歴史に捻りが入ってしまっていて、事実と乖離した状態を招くことを助長することだってあるのではなかろうか。
それをよいことに、捏造歴史を何十年にもわたってされていたら、それを鵜呑みにするしかない国が真実に辿りつけるわけがあるまい。

人の意識に一番最初に入ってきたことで固まってしまった観念は、後から真実を告げられたとしても、正しいものに変えることは難しい。
信じてきたことを或る日覆されたら、人格の崩壊だって起こりうる。
だからこそ、広く全体像をとらえてみないと判らないことは、扱いに慎重であらねばならない。
政治宣伝の道具として使うようなことでは、単なる腹いせにしかならない。

受け取る側も、それがどういうルートで自分が知ったのかという事を意識する訓練をしないでいると、簡単にミスリードされるようになる。
自分が知りえたことは、ほんの一部なのだという事を理解しないまま判断するのは危険なことだと思う。

2019年5月19日日曜日

搗かないお餅


6月はボタモチの季節。牡丹餅と呼ばれる通り、牡丹の花が咲くころの和菓子です。
秋は、おはぎ。季節により呼び方が違うのは、ご承知の通りですが、餅つきはしません。
杵でつかないので、「ペッタン、ペンタン!」と音がしない
もち米とお米を混ぜて炊き、すりこぎで半つぶし(半殺し)にする。
ということで、ペッタンペッタン音がしないので、周りの人などからするといつ搗いたのか分からない。
そういうところから、 搗(つ)き知らず⇒ 着き知らず、となり、
夜は船がいつ着いたのか分からないことから、夏のおはぎは「夜船」となった。

では、冬バージョンはどうかというと、「北窓」と呼ばれる。
 搗(つ)き知らずを「知らず」と読み替え、月の見えないのは、北の窓なことから「北窓」となった。

春は「ぼたもち」(牡丹の花が咲くころ)
夏は「夜船」
秋は「おはぎ」(萩の花が咲くころ)
冬は「北窓」
日本人が風情を楽しむことから出てきた命名は、謎解きまで必要です。
ところ変われば品代わる(品名変わる)とはちょっと違う名前の由来です。

2019年5月17日金曜日

ダキニとキツネ


お稲荷様のキツネは、ダキニから来ているのだという。
ダキニというのは、いうなればハイエナのようなものであり、日本にはそういう動物がいないので、それに近いものとして狐が当てられたのだというが・・・

「荼枳尼」という名は梵語のダーキニーākinī)を音訳したものであるという。
日本では、ダッキとも呼ぶ。
荼吉尼天吒枳尼天とも漢字表記し、吒天(だてん)とも呼ばれる。
荼枳尼とは日本特有の呼び方であり、中国の仏典ではが付くことはなく荼枳尼とのみ記される。
ダーキニーはもともと集団や種族を指す名であるというが、日本の荼枳尼天は一個の尊格を表すようになった。
日本では稲荷と混同されて、一般に白虎に乗る天女の姿で表される。狐の精とされ、稲荷権現、飯縄権現と同一視される。

荼枳尼天の起源であるインドのダーキニーは、裸身で虚空を駆け、人肉を食べる魔女である。
お稲荷様としての性格もダキニ天(荼枳尼天)はお持ちですので、商売繁盛の神様としても参拝客が多い。
また、東京の豊川稲荷別院は、芸能人の方で参拝する方も多い。
恐いけれど、ご利益は強烈だとされている。

2019年5月16日木曜日

やたら耳にするが


やたら耳にすることが多くなった言葉に「癒される」というのがある。
そんなに傷ついているのだろうか?

いやす【癒やす】とは、病気や傷をなおす。苦痛や飢えなどをなおしたりやわらげたりする。
というのが、その意味。
いずれにしろ、原状回復ということにとどまる。

最近簡単に「癒される~」という表現を口にする人が多いが、どちらかといえば、やすらぐ安らぐ】と言った方がよさそうに思う事の方が多いのではないかと感じる。
安らぐの意味は、安らかな気持ちになる。 穏やかな気持ちになる。である。

ついでに言うと、「それがトラウマになっている」という人がいるが、トラウマというのは原因が特定できないものなのではないのか?トラウマだと判っているなら、それは対処できる筈。