2019年8月31日土曜日

不買は結構だが


半導体生産のための素材にのみ反応して騒いでいるが、そもそも韓国の製造業の基になっているのは、殆どが日本から教わり、或いは援助や協力があってのことだとの認識は全く欠落してしまっているのではないのか?
鉄鋼生産・造船・自動車製造・家電・PC関連製品、それら近代産業は現実として日本を抜きにしては考えられないのではないのか?
韓国が全く努力しなかったとは言わないが、彼らが自慢するサムソンだって、日本の素材や部品・製造機械があってこそ、製品を組み立てることで輸出製品の分野で日本を追い抜いただけであると、日本人は皆思っている。いつだって抜き返せると思っている。
何となれば、長く培ってきた基礎力が違うからである。彼らがその域に達するには膨大な時間と資金、何よりも地道な研究が必要なのであることも知っての上である。
日本はそれをしてきたが、韓国が今からそれができるとは思えない。美味しい所どりして楽をすることに慣れてしまった性情は、簡単には方向転換できまい。

どうして争うことを優先させて、仲良くすることで互いの長所を補完しあうことを目指さなかったのだろう。
不買運動とやらで息巻いているが、日本からの物が全て無くなったら、彼らの国の製造業はその殆どが成り立たないのだということが全く解かっていないように感じる。
日本では、韓国製品の不買運動なぞ起こらない。ありようを言えば、買いたいものがないからだともいえるが、日本人の嫌韓は韓国の反日運動へのリアクションだけのことであって、根拠のない反日運動を改めて正常な感覚を彼らが取り戻せば、すぐに元にもどるであろうに・・・
日本人の精神の根底にあるのは和の心。その大義のもとに語族協和を願ったのである。

2019年8月30日金曜日

彼らが歴史事実を学びなおすことはないだろうが


朝鮮には「凌遅刑」と呼ばれる残虐な刑罰があった。
凌遅処斬または凌遅処死 と称される。
三つの等級に分けられ、一等級は墓に葬られた死体を掘り起こして胴体、腕、脚など六部分に切り取って晒し、二等級はを用いて八つ裂き、三等級は存命のまま皮膚を剥ぐ。
高麗の恭愍王の時代に導入され、李氏朝鮮の太宗のほか、世祖や燕山君や光海君の治世でしばしば執行されたとされる。その後は仁祖により段階的に禁止されたものの、実際は高宗の時代に実施された甲午改革1894に際して廃止された。朝鮮では、斬首などは軽い方で、長く苦しむ方法で死に至らしめる刑罰が施行されていた。
死ぬまで鞭打つのや、拷問で大腿骨の間に丸太を挟んで骨折させることなどは、韓国ドラマで目にするから、日本人の多くも知っている残虐刑である。

女性が長男を産むと、乳房を露出させるチョゴリを着ることができるのが誇りであった。

奴婢(奴は男の奴隷・婢は女の奴隷)の身分制度を廃止させた。

上記に三つだけ挙げたが、他にも人道的に見て前近代的な仕来りを持つものが沢山あった。
これらは確かに朝鮮の文化であったから、これらを廃止させたことを韓国の文化を奪ったと言われれば確かにその通りである。これも伝統として残したかったとして恨みごとの中に含まれるのだろうか?

いずれにしても、未開土着民族に等しい後進性を近代文化の道に導き、その後も一貫して近代国家に成長するよう援助して来たのは、恩を着せるわけではないが紛れもなく日本である。韓国以外の諸外国が等しく認めているところであるが、恩義になったことには全て知らん顔で通そうとしても無理が積み重なるだけではないのか?それをこそ、積弊というのではないのか?

彼らは自分にとって都合が良い本来こうあるべきであったというファンタジーを歴史だとして、
その捏造歴史を国民に刷り込んで信じ込ませて来てしまっているから、歴史の真実とは大きく乖離してしまっているのだが、それに基ずいて日本を貶めることに快感を覚えているのだから始末が悪い。アイデンティティが破壊されてしまうから、真実を学びなおすことはないであろう。

2019年8月29日木曜日

竹島カードも嫌がらせだけで


FNNのニュース:
韓国軍が、島根県の竹島周辺で、軍事訓練を実施したことをアメリカ国務省が、異例の強い表現で批判した。
韓国軍が25日と26日、竹島周辺で軍事訓練を行ったことについて、アメリカ国務省は、FNNの取材に対して、「日本と韓国の最近の対立を考えると、タイミング、メッセージ、そして規模の拡大は、問題を解決するのに生産的ではない」とコメントし、不快感をあらわにした。
国務省高官は、アメリカ政府が、韓国による竹島周辺での軍事訓練を批判するのは、これが初めてだとしていて、事態を深刻に受け止めていることがうかがえる。
この国務省の批判について、韓国外務省は取材に対し、「コメントできません」としている。

戦後のドサクサに紛れて、漁民を殺戮して日本から強奪した竹島は、彼らが何と胡麻化そうが日本の領土であることは覆しようがない。
政権支持率の低下に困ると、反日の具として韓国民の感情を煽ることは常態化しているが、国際常識としてみても反感を強めるだけであろう。
今まで韓国に配慮してか、米国がこの問題についてコメントすることはなかったように思うが、
苦々しく思っていたことは紛れもない。
韓国は自ら歪曲した歴史の深みに嵌って益々孤立化への道に突き進んでいるということか?
米国が党派を超えて公式に韓国を批判していることも見逃せない。
あの中国でさえ、日本はこれまでに韓国に対しいろんな援助をしてきたのに、政府の反日政策が酷過ぎて、日本が対抗措置を取り始めたのは当然であると分析して理解している人が多いのだという。

2019年8月28日水曜日

今日から発効する


今日から韓国のホワイト国除外が発効する。
外交努力をして、もっと話し合いをすべきだという主張をする人がいるが、今までの歴史や経緯を無視して無責任ではないかとしか思えない。
話し合いというのは、お互いが意見を述べ合い合意点を探り、了解事項を約束事として守るということが前提としてない限り成り立たない。
どちらか一方が主張することを他方が聞き入れるというのを話し合いとは言わない。
日本は愚かとしか言いようがないが、長きにわたってそういう譲歩ばかりしてきた。
もうそろそろ、常識的な話し合い以外には応じないことにしても、内外から責められることはないのだと決めて動いた方が良い。

彼らが自分たちの勝手な都合ばかりを口にして、それを日本が聞かないことがどうして対話に応じてくれないと諸外国に出かけて行ってまで告げ口まがいに不満を言い募るのか理解に苦しむ。
ホワイト国除外も、自国の管理の杜撰さを棚に上げて、その改善策もこれまでの経緯も一切説明することなく、多分それをすると困る事情(横流しの傍証だとされてもしかたがない)があるのかも知れないが、問題点をすり替えての対抗策としてGSOMIAを破棄することを正式に日本宛伝達したのに、それすらもまだ舌の口が乾く暇もないうちに、外交手段として蒸し返そうとしている体たらく。
米国や北朝鮮から嘘つき呼ばわりまでされてしまった情けなさである。
何をどのように話し合えというのか?

外交的に折衝が可能な提案であれば、日本はいつだって応じるだろうが、論理的思考に無理がある国にそれができるとは現時点ではとても思えない。
話し合いにならない以上、条件が整うまで無視するほかない。

2019年8月27日火曜日

領土は放棄したが主権まで放棄してはいない


195198日、日本と太平洋戦争で争った連合国49ヶ国の間で講和条約が調印された。サンフランシスコ平和条約を締結したことにより戦争状態は終了し、終戦後に連合国軍によって占領されていた日本は独立国として国際社会に復帰することになった。
条約の締結に至った背景には、アメリカとソの冷戦があったといわれているのが歴史の現実である。
第二次世界大戦が終わると時を同じくして、東アジアでは共産主義が勢いを増し、中国・モンゴル・北朝鮮などの共産主義国家が相次いで誕生した。
1950年にはロシア・中国の支援により、朝鮮半島では南北に分かれての戦争が勃発した。
第二次世界大戦の終了間際、すでに帰趨は決していたのに、無駄にソ連を参戦させたことで、当初から予想された通り、ソ連との関係が悪化する状況のなかで、アメリカをはじめとする西側諸国は、共産主義への防波堤として日本が必要となった。
そんなことは、ソ連を参戦させるためにヤルタ会談で密約を結んだ時から予想できていたはずなのである。それがいざ源氏儒家したということで、講和条約を結び、日本を西側陣営に取り込もうと考えたのである。
これは、主権の回復を考える日本政府にとっても悪くない話であった。
一方のソ連側は何とかこれを阻止したいと考え、日本国内の共産党や社会党を使って「全面講和論」という反対キャンペーンを行った。
講和条約を結ぶのであれば、西側だけでなく東側諸国とも結ぶべきだというものであり、一理あるようにも聞こえるが、アメリカとソが対立している状況では実現する可能性の低い政略であった。
それらの反対を押し切って条約締結を推進し、日本の代表としてこれに調印したのが、当時の首相だった吉田茂である。西側諸国という片方の陣営とのみと講和したため、サンフランシスコ平和条約は「片面講和」とも呼ばれている。
ソ連は講和条約時に参加していないから、現代に至るもロシアとは平和条約は結ばれていないことになる。終戦後に違法に侵略占拠された北方4島の返還も、決着がついていない。
ソ連軍は、日露不可侵条約を一方的に破棄しただけに留まらず、終戦ということで武装解除していた日本領に8月15日以降も襲い掛かり、千島列島を不法に占拠したのである。樺太も含め、日本固有の領土上で日本が負けたことはない。占守島で日本軍が玉砕しながらもソ連軍を押しとどめたことで、北海道が占領されることを免れた。
ソ連だけが8月15日の終戦日を過ぎても9月4日まで侵攻を続けるという無法を侵していた。
ロシアと書きはしたが、関連していうなれば、国連の常任理事国としてのソ連は解るが、
ソ連が崩壊した後のロシアが常任理事国として横滑りしたことの根拠は何なのだろう?
ついでに言えば、中華民国が当初の常任理事国であった筈だが、中華人民共和国がそれに代わったのも変な話である。共産中国軍がいつ国連軍として戦ったというのであろう?
日本人の大多数は、サンフランシスコ条約の第2章 領域 を、理解できていない。
もはや他人事のようにして触れることも避けているからであろう。
改めて言うまでもないが、サンフランシスコ条約の第2章は、戦後の日本の領域を定めるための条項である。
日本は朝鮮の独立を承認し、済州島・巨文島および鬱陵島、台湾および澎湖諸島、千島列島並びに樺太の一部およびこれに近接する諸島、国際連盟の委任統治制度に基づき統治していた太平洋諸島、新南群島(現在の南沙諸島)および西沙群島などの領土を放棄することが定められている。放棄した中に竹島は入っていない。
このサンフランスコ条約の第2章の条項が、現代の領土問題の原因の一つとなっている。
北方領土問題、竹島問題、尖閣諸島問題なども、この条項の文言を巡って解釈が分かれているのであるが、日本が放棄した領土の中に含まれるというロシア・韓国・中国の主張に対し、日本はこれらは含まれないと主張するのは当然である。領有権の放棄は、逐条的に明記されているのである。
ここのところを日本人は勘違いしてはならない。法というのは厳密に解釈されるのである。
新南群島(現在の南沙諸島)および西沙群島などの領土を放棄すると言ったが、そもそもそれらは大東亜戦争の前から日本固有の領土として国際的に認められていたのであって、戦争によって彼らが占領したことで得たのではないし、新南群島や西沙群島が中国の領有権下にあったことはないのであるから、中国に返還したということでは全くない。領有権は放棄したが主権を手放したということと同義ではない。
事実、それらの島々はどこの国のものともならなかった筈である。
中国が南沙諸島を自国のものだと主張するが、日本がその地の主権を中国に委譲したという条約がない以上、中国が南沙諸島に基地をつくる正当性は無いということになる。
領土は放棄したが、主権まで放棄したのでは絶対にない。
それは沖縄県、奄美群島、小笠原諸島などはアメリカの信託統治下に置かれることになりはしたが、主権を手放したのではなかったから、これらは返還されたのであることと同じなのである。
奄美群島が1953年、小笠原諸島が1968年、沖縄県は1972年のことであった。
竹島は、李承晩による不法占拠であることは、韓国が如何に妄言を吐き散らそうと覆しようのない事実である。
大人しくしていることで日本の自由と平和が守れるわけではないのは、中近東の様子をみていればよくわかる。対岸の火事視していて済む話ではない。
憲法を守っていれば平和で居られるという主張のみでは、日本を取り巻く国々を見るに、説得力が余りに希薄すぎないか?

2019年8月26日月曜日

アヘン戦争だって大威張りでできた


明治維新前後の世界情勢というのを理解しないと解らないことがある。
どう考えたって不当で無法なアヘン戦争やアロー号事件にだって、それなりにこじつけた理由付けはあった。
勿論、彼らの勝手な理屈であるが、戦力を持たず法の支配が整っていなかった所謂日文明国では対抗できなかった。
即ち、無法が罷り通ってしまっていたのである。
それが当時の国際的関係であった。今の常識を持ち出して四の五の言っても始まらない。
西欧諸国以外で文明国と認められたのは日本であったことを思うと、鎖国政策を敷いていたとはいえ、徳川政権は決して無能ではなかった。文明の基礎を培っていたのである。

ウエストハリア条約は、1648年、ウェストファリア会議で成立した三十年戦争の講和条約である。
世界最初の近代的な国際条約とされる。
ウェストファリアは、ネーデルラントに接したドイツ西部の地方で、その中心の二つの都市、ミュンスター市とオスナブリュック市で講和会議が開かれた。会議は1642年に開催されることになったが、皇帝とカトリック諸侯の内輪もめや、フランスの参加が遅れたことなどのため、1644年にようやく始まった。
会議の場所が二カ所になったのは、フランス(ミュンスター市)とスウェーデン(オスナブリュック市)という戦勝国を分離させ、それと個別に交渉して有利に講和しようと言うドイツ諸侯の策謀があったからであった。
いずれにせよ、神聖ローマ皇帝、ドイツの66の諸侯、フランス、スウェーデン、スペイン、オランダなどの代表が参加した世界で最初の大規模な国際会議であった。
会議は45年から実質的な討議に入り、延々と3年を要して、1648年にようやくウェストファリア条約が締結され、三十年戦争を終結させた。

条約の内容は、次の5点に要約することが出来る。
1.   アウスブルグの和議が再確認され、新教徒の信仰認められる。またカルヴァン派の信仰も認められた。
2.   ドイツの約300の諸侯は独立した領邦となる(それぞれが立法権、課税権、外交権を持つ主権国であると認められる)。 
3.   フランスは、ドイツからアルザス地方の大部分とその他の領土を獲得。
4.   スウェーデンは北ドイツのポンメルンその他の領土を獲得。
5.   オランダの独立の承認と、スイスの独立の承認

三十年戦争の悲惨な被害が拡大されるなかで発表されたグロティウスの「戦争と平和の法」は、戦争の悲惨さを緩和させるため国際法が必要であることを提唱した。
戦争後のウエストファリア講和条約の成立によって、中世ヨーロッパのローマ教皇や神聖ローマ帝国という上位権力が無くなったことによって、近代主権国家は国家間の関係を規律する国際法を生み出した。

しかし、18世紀後半のアメリカ独立戦争、フランス革命は絶対王政に対する新興階級である市民の勝利をもたらすと共に戦争観をかえ、あたらしい戦争規則が形成されることになる。戦争は陸戦の場合は傭兵ではなく国民軍が行い、海戦の場合は私掠船(海賊)でなく軍艦がおこなうべきこととされ、交戦規定や捕虜に対する非人道的な扱いなどで一定の抑制が加えられるべきであることが認められるようになる。 

極めて独善的なのは、文明国・未開国・野蛮国を勝手に決めて、未開地や野蛮国であれば何をしても許されるとしてしまったことである。
第二次世界大戦が終わるまで、植民地支配をされて苦しんだ国々が沢山できた。
植民地支配をした国が被支配国に賠償したという例は浅学にして知らないが、おそらく一つもあるまい。

2019年8月25日日曜日

案の定破棄したか


マスコミと識者?と呼ばれてコメントを述べる人たちは、問題点を整理して解決策を図ることを放棄してしまっているようにしか思えない。
非を責めるべきことには目を瞑り、何としても韓国側に肩入れして日本を悪者にしておきたいと躍起になっているように見えるが、一体なぜなのだろう?
どれも韓国側が素直に実施すれば収まることばかりであるが、もはや決着がついていることまで洗いざらい持ち出して並べ立てるからややこしくなる。

このところ問題になっていることを整理してみれば、要点となることは少ない。
1.国際法上の順守義務である条約等、約束したことは守って下さいネ。
2.軍事転用される可能性のある戦略物資は、その管理を厳格に守って下さいネ。
 (管理ができないということになれば、それを輸出者である日本が厳正にしますということで、
  改善策も使用量の報告もできない韓国をホワイト国から除外した。)
以上の2点だけである。
これの何が問題だというのであろう?

歴史問題だ、面子だ、捏造教育からくる誤った認識が助長した感情その他、拗れさせているのは韓国側の事情と、日本国内に居る反日分子だけではないのか?
必要以上に揉める原因は、そのあたりにもありそうに思えてならない。
何年か前までは、友好的になる兆しもあったのに、それを壊したのは断じて日本側ではない。
やりたい放題をやられて、日本側が我慢の限界をこえてしまったのである。

韓国と日本の一部マスコミが大変だ大変だと騒ぐが、日本がまだやっていない韓国への経済制裁に本気で踏み切ったら、確かに大変なことにはなろう。韓国経済は持ちこたえられまい。
日本のマスコミはそれを恐れて必死になっているのだろうか?

GSOMIAの破棄も、韓国の国益だと彼らは言っているが、国防上の方策をなくして韓国一国だけで自国を守れるとでも思っているのか?
勘違いも甚だしい。
それをしたことで日本が困っていると官民そろって思い込んでいるらしいが、日本政府の建前上の反応と本音は違い、日本が困ることなぞ殆どないと思われる。

何時まで経っても同じことのくりかえしだろうから、こうとなったら揉め事の原点となってしまった併合以前に立ち返り、当てにならない朝鮮半島を除外して、対馬海峡以南を日本の防衛ラインとすることを決意すれば、ややこしい国を相手にしないで済む。

2019年8月24日土曜日

法に基づいて統治はしたが

植民地というものがどういうものなのかということを明確に定義しないで、押しなべて植民地という表現で一括りにするのは、歴史を論理的に交渉するには阻害原因としかならないように感じられてならない。
日本のマスコミがそれを意図的にかどうか解らないが、安易に口にすることで、日本人がある種の怯みを覚えさせられてきたことは事実だが、日本の植民地というものに対してはちょっと違いのではないのか、という認識を持つ人が増えたように思う。
物事を論理的に考える時に一番重要になるのは、言葉の定義づけである。
植民地という言葉を使う時には、その定義づけがなされないまま安易に使うと、共通認識は生まれない。
諸外国による現実の植民地政策がどのように悲惨なものであったかと較べ、個別の検証をしないままで論ずることには無理がありすぎる。

日本人も簡単に韓国を植民地支配したと口にする人が多いが、白人によってなされた植民地と混同するから、お互いの言い分に齟齬が生じる。
搾取するような物がなく、虐げることがなされたことがなかった韓国が言うように、植民地支配されたということを鵜呑みにして全て認めれば、日韓は未来永劫政治的には協調できないことになる。
是々非々での検証をして公平に事実を事実として明らかにしないままでは、収まりは決してつくまい。世界諸国における植民地支配国と被支配国のように、完全な和解はなくとも協調していく関係が築けるかどうかが問題ということであろう。
日韓は、認識のズレをすり合わせるには時間が経過しすぎた。
もはや、この先も政治的に折り合いがつくことはあるまい。


明治43年(1910年)、日本と韓国は合邦しました。

渡部昇一(上智大名誉教授)の書かれていたことを下記にそのまま引用させて頂きましたが、解りやすいと感じました。

日韓併合を日本による韓国の「植民地化」ととらえる考え方があり、むしろ、それが一般的な風潮となっています。もちろん、韓国や北朝鮮は政治的な利害からそう主張している。
しかし、それは日本と朝鮮半島という、地域的にも思想的にも限定的な、狭い見かたにすぎません。
アジアに対する欧米の帝国主義、植民地主義が当然とされていた時代の、世界史的な視野で見るべきだと思います。

たとえば、英語の文献では、日韓合邦のことを「アネクセイション」(annexation)と表現しています。これは「植民地化」を意味する「コロナイゼーション」(colonization)とはイメージがまったく違う。
歴史を公平に客観的に見るには、言葉が当時どのように使われていたかを知ることも重要です。現代の常識で過去を断罪すべきではありません。頭ではわかっていても、ついつい今の物差しで歴史を計ってしまいがちです。

そこで、少々衒学めきますが、初めに「アネクセイション」と「コロナイゼーション」の違いをイギリスの辞典などにもとづき、できるだけわかりやすく述べておきたいと思います。

まずコロナイゼーションの語源を考えてみましょう。“colonization”の“colo”は「耕す」とか「居住する」という意味です。このラテン語の動詞の過去分詞“cultum”は「耕された」「洗練された」の意で、「耕作」「教養」の意味の英語「カルチャー」(culture)も、そこからきています。

 “cultum”の派生語である“colonia”(コロニア)は、「農場」「領地」という意味でした。元来はローマ帝国の拡大にともなって新たな征服地へ移り住んだローマ市民、とくに「ベテラン」(veteran)と呼ばれる除隊した兵士たちが住んだ土地のことです。彼らはローマ市民権を持ち、駐屯兵として帝国防衛の役割も担いました。「屯田兵」のようなものと言えばわかりやすいでしょうか。

 イギリスをみてみると、ブリテン島にはローマのコロニアが九つありました。よく知られている地域では、ロンドン、バース(Bath)、チェスター、リンカーンなどがあげられます。いずれも当時はローマのコロニアでした。

 さて、ローマ時代には「農場」「領地」という意味だった「コロニア」が、やがてギリシャ語の「アポイキア」(apoikia)の意味にも使われるようになりました。ギリシャはシュラキウスやイタリアの島に入植し、独立・自治の・植民地を建設した。それが「アポイキア」で、メトロポリス(母なるポリス)から独立して住むところという意味でしたが、それもラテン語ではコロニアというようになったのです。

 では現代英語で「植民地」をさす「コロニー」(colony)という言葉はいつから使われるようになったのか。

 最初にコロニーという言葉を英語で使ったのは、リチャード・イーデンという十六世紀イギリスの翻訳家です。ペルーのインカ帝国を滅ぼし、文明を破壊した例のスペイン人、フランシスコ・ピサロの行状を書いた本の翻訳のなかで彼が初めて「コロニー」という言葉を使いました。一五五五年に出版した“The Decades of the New Worlde, or West India”(「新世界あるいは西インドの数十年」)という本に出てきます。
 一八三〇年代になると、アメリカでは、「コロナイゼーショニズム」(colonizationism)=植民地主義とか、「コロナイゼーショニスト」(colonizationist)=植民地主義者という言葉も用いられるようになりました。これなどはまったく批判的な意味合いを持っています。

 もともと悪い意味ではなかった「コロニア」という言葉が、大航海時代に白人が有色人種の国を征服していくにしたがって「コロナイズ」という言葉を生み、「掠奪」「侵略」というイメージを持つようになったのです。

 その「コロナイゼーション」という言葉は、日韓合邦については私の知る限り、イギリスの文献にはまったく現れません。すべて「アネクセイション」(annexation)と書かれています。

「アネクセイション」という言葉は、イギリスの哲学者フランシス・ベーコンが一六二六年より以前に書いたといわれる“Union England and Scotland”(イングランドとスコットランドのユニオンについて)のなかで、「二つの国(民族)の土地から、一つのコンパウンデッド・アネクセイション(複合した合併)をなす……」と、平等というニュアンスで使っています。

 一八七五年には、ジェームズ・ブライスという法学者・歴史学者が、“The Holy Roman Empire”(神聖ローマ帝国)のなかにこう書いています。
「フランスは、ピーモントをアネクセイション(合併)することによって、アルプス山脈を越えた」。ここにも「掠奪」という意味合いはまったくありません。

 動詞の「アネックス」(annex)は、subordination(従属関係)なしに、という意味を元来含んでいて、もともとどちらが上というニュアンスはなかったのです。

 一八四六年に出た『英国史』、元来はラテン語の本で、それ以前に出版されているのですが、そのなかには「ジュリアス・シーザーはブリテンをローマ帝国にアネックスした」という記述があります。この場合も、ローマの文明をブリテン島におよぼしたというニュアンスが強く、掠奪したという感じはない。
 一七七一年にグレートブリテンのエディンバラで第一版が出たブリタニカは、イギリスのみで発行されていた時代には『ロンドン・タイムズ』と並び情報の公平さで世界的に評価され、世界中の知識人に読まれた信頼度の高い事典です。そこには、こう書かれています。

「一九一〇年八月二十二日、コリアは大日本帝国(Japanese Empire)の欠くべからざる部分(integral part)になった」

 ここで「欠くべからざる部分(インテグラル・パート)」という書き方をしていることからも、・植民地・とは見なしていないことがわかります。

 「国名はおよそ五百年前に使われていた朝鮮(Chosen)に戻った。(略)日本が外交権を持った一九〇六年以来、日本によって秩序ある体系的な進歩がはじまっていたが、これ(合邦)によってその進捗はさらに確かなものになった」。ただ、「コリアン・ナショナリズムの抑圧を批判する人もいる」ということも書かれ、以下、およそ次のような趣旨の記述が続きます。

「警察制度を整備して内治をすすめたことによって泥棒や強盗団が跋扈していた辺鄙な地方の治安もよくなった。朝鮮の平穏さは、併合(アネクセイション)以来、曇ることなく続いていたが、一九一九年三月に突如、騒乱が起こった(渡部注 三・一運動)。これはウィルソン米大統領の唱えた民族自決主義(セルフ・ディタミネーション)の影響であったが、ただちに鎮圧された。日本は慎重に改革を進めていたが、これを見て計画を急ぐことになった。注目すべきことに、軍人だけでなく民間人でも朝鮮総督に就任できることになり、総督は天皇のみに責任を負う立場から、首相に従うこととなった。(以下、割愛)

国際的な合意も得て日韓の併合をし、土着民族の後進性を色濃く残す朝鮮を、日本の国力を傾注して近代化に導いた施策は素晴らしかったと思うが、韓国人たちにとってはその全てが恨みだというのだから仕方あるまい。
種族主義から抜け出せない思考形態は、反日思想に凝り固まり、意識は過去にのみ向かうばかりで未来に向かっての協調を目指せないほど牢固なものらしい。
彼の国で戦後70余年にわたって刷り込まれた歴史教育が匡されるには、それに倍する年月を要すであろうから、こちらからは如何ともなし難い。

2019年8月23日金曜日

拳のおろし先がそこだとは


韓国がGSOMIA協定を破棄すると発表したことで騒いでいるのは、マスメディアだけなのではないのか?
政府も表向きは遺憾の意を表明しているが、実質的に日本が困るということではあるまい。
これまでも、日本側が掴んだ軍事情報を韓国側に伝えることの方が多かったように感じる。
北朝鮮の発射したミサイルの飛距離でさえ、韓国は正確には判らなかった。
衛星一つ持てない国が、自らの安全保障上の対策を放棄するというのであるから、どうぞご勝手にということであって、北朝鮮と中国は喜ぶであろうが、日本が困ることになるとは考えにくい。
例によって、一番悪いタイミングで一番悪い選択をするという癖が出ただけのことである。

マスコミや一部識者?が考えているようなことは、日本国民の真意とはかけ離れているのだと思う。日本人は、韓国に対して何か圧力をかけて彼らを変えようとしているのではない。
これまで一方的に譲歩してきた韓国に対する姿勢を、仮令原価がかかったり多少の損害が出るとしても、もうそういう関係はやめようと、日本人側が変わろうと決意したのである。
GSOMIAの破棄は、それをすると対アメリカ上の関係で日本が困るだろうとする、単なる嫌がらせ行為にしか思えない。国防問題を、そんなことに使ったのである。
しかし、それをしたことで、馬脚はしっかり顕してしまった。
米国が呆れて米韓同盟に影響が出て、韓国側が要求しなくても米軍が撤退してくれれば勿怪の幸い、めでたくレッドチーム入りが果たせるという目論見が透けて見えてしまった。
韓国人がそれを望んでいるとは思えないが、大統領を選んだのは韓国国民であるから、日本がとやかく言えることではない。

2019年8月22日木曜日

それ以上戦えなかった


日露戦争は、勝つには勝ったが、実態はそれ以上戦争を継続できないくらいの薄氷を踏むような状況であった。
一人日本の力だけで勝利を得たのではないのだが、それを知らない人が多い。
当時のイギリスのロシアに対する都合と思惑が絡んで、日英同盟が結ばれていたことも大きかった。
それによりロシアのバルチック艦隊はアフリカ大陸を大回りし、途中の寄港地でもイギリスの意地悪により補給もままならず、疲れ切って日本海に辿りついていたのである。

日露戦争当時の日本経済は、名目GNP約30億円、国の一般会計予算約3億円、日銀券発行残高約3億円、全国預金残高7億6千万円というサイズでしかなかった日本は当時のGNP2.5倍、国家予算の60年分の負債を積み上げて日露戦争に挑んだのだから、国の存亡をかけた文字通り命がけの戦いであった。

明治38年(1905年)95日、日本とロシアの代表の間で「日露講和条約(ポーツマス条約)」が締結されたが、条約の内容は、ロシアは日本に対して一切の賠償金を支払わず、領土については、日本軍が占領していたサハリン島のうち南半分を日本の領土とし、ロシアが有していた中国東北部の権益は日本に譲渡される、というものであった。
このような条約内容での合意に至った交渉の経緯は、日本国内でも報道されてはいたが、死傷者総数20万人以上という犠牲と、重税や生活の切り詰めによって約20億円もの戦費を負担するという金銭的な犠牲を払ってきた多くの国民は、戦勝による見返りを当然のことながら期待していたけれど、これを大きく裏切るものだったのであった。
しかしそれでまとめるより他ないくらい、日本も疲弊していた。
《ポーツマス条約締結と時を同じくして、米国の鉄道王と言われたエドワード・ハリマンが来日、日本政府に、鉄道をシンジケートで共同経営するよう持ちかけた。
南北戦争をしていたことで中国への進出に出遅れたアメリカとしては、それまでの日米の関係の良好さもあって、かなり友好的な提案であった。

 桂太郎首相や伊藤博文、井上馨ら元老は乗り気だった。日露戦争で金を使い果たし、鉄道を経営する資金のメドがたっていない。しかも日本単独では、ロシアが満州を奪還しにくるのを防ぐ自信もなかったからであった。
 このため10月にハリマン側と協定書に調印するところまでこぎつけたが、ポーツマスから帰国した外相、小村寿太郎が待ったをかけた。「満州は日本の勢力下におくことが国益にかなう」というのが小村の主張だった。
 戦争に勝って得た鉄道まで手放すことへの国民の不満も小村に味方した。結局政府は共同経営を断念、資本金の半分を外債で賄うことで単独経営を決めた。

 こういう時に、国の実情を理解することができず、感情的になって騒ぐ民意に従うことは、えてして判断を誤る。そんな実力はまだ日本に備わっていなかった。
 今の韓国の有様を見ていると、それがよく解かる。
 以後、アメリカは反日的な流れになっていったのではなかろうか。
「歴史にifはない」のだとしても、もし南満洲鉄道をアメリカと共同経営していたら日本の歴史が大きく異なっていたであろうことは確かでる。

 このハリマン提案を拒否したことについて、今となってみれば「共同経営を受け入れておれば、日本があれほど大陸に深入りすることはなかった」との批判が根強い。だがその後、移民問題などで日米関係が悪化したことなどを考えると、共同経営がうまくいったかどうかは一概には言えないことではある。
 しかし、もし米国と満洲の権益を二分していれば、日本は単独でロシアの南下を防ぐ必要はなかったに違いないし、米国と戦うことになるのもなかったかも知れない。

 日本人が歴史から学ぶべきことは、小村寿太郎のような「正論」だけでは世の中は回らないし、いけいけどんどんではすまないということであって、自国の実態実情・実力を見極め、無用な軋轢を避ける意味での「妥協」とか、全体のバランス感覚というのが政治には必要だということなのではないだろうか。

軍部の独走によって以後の日本が道を誤ったというが、国民にだって責任はある。

2019年8月21日水曜日

戦犯として裁かれなかった石原莞爾


ネット上で読んだ記事であるが、おそらく事実であろうと確信する。

東京裁判において、なぜか石原莞爾は戦犯として裁かれなかった。
どちらかと言えば、連合国側は石原を法廷に出廷させることを、極力避けようとしたようにも思える。

石原莞爾といえば、関東軍1万の兵力で、近代兵器を備えた張学良軍22万の大軍を打ち破り、満州国を建国に導いた希代の軍略家だった。
病気療養中の石原完爾を尋問するために開廷された極東国際軍事裁判『酒田臨時法廷』には、リヤカーに乗って出廷したという。

終戦後の昭和21年某日、極東軍事裁判所の検事が石原を訪ねた。聞きたいことがあるなら、そちらが来いと言って自分が出向くことはなかった。
石原は、のっけから「自分が参謀総長なら敗戦していなかった。その時は君達が我々の前でペコペコしていたろう。」と言ってのけたという。
検事は、戦犯の中で暗に第一級に値する戦犯を模索していたので、誰がそれに該当するかと尋ねると、石原は即座に「トルーマンだ」と応えた。
検事が「米国大統領の事か」と聞くと、「そうだ」と答えた。 
検事:「何故か?」
石原:トルーマンがまいたビラの「もし日本人が軍人と共に協力するなら、老人子供、婦女子を問わず全部爆殺する」としたことを指摘し「これは何だ、国際法では、非戦闘員は爆撃するなと規定がある」
検事:「あれは脅しだ」
石原:「米国はこのビラの通りB29が軍需工場でない所、戦闘員以外の民衆すべてを爆撃したではないか。更に広島長崎に原子爆弾を投下した。一体どうしたことか。トルーマンの行為は戦犯第一級だ。考えて見ると一国の大統領ともあろう者がこんな野蛮行為を敢えてし、しかも恬として恥じない。こんな者を相手に戦争した我々が恥ずかしくてしようがない。賠償は払うが我々はその倍の賠償を逆に要求したい。」
更に続けて、「日本の罪を何処まで遡るのか?」
検事:「日清、日露まで遡りたい。満州事変の根源はそこまであるからだ。」
石原:「よしわかった、そんなに遡りたいなら、ペリーを呼んでこい。」
検事:「エッ、ペリー?」
石原:「自国のペリーを知らぬのか?我々は徳川時代から鎖国で、台湾も満州も不要であった。ペリーがやってきて大砲でおどかして門戸開放を迫り、自ら侵略のお手本を示した。日本も何とか生きる方法を考えないといけないから米国を大先生として泥棒の侵略を習い覚えたのだ。その元凶はペリーだ。彼を戦犯としてはどうだ?」

ある時石原は検事に「東京裁判を見るに、東条を初めとして何れも権力主義者で権力に媚び時の勢力の大なる方について甘い夢を見ていたものばかりである。莫大な経費をかけて世界のお歴々が国際裁判にかける値打ちがあるものは一人もいないではないか。」
検事:「全く同感です、ジェネラルのいう通りです。」
石原:「ホウ、君もそう思うか、米国は戦争に勝って今は世界の大国である。こうした価値の無いものを捕まえて裁判したとあっては、後世の笑いものになる。米国の恥だ。裁判をやめて早速帰ったほうがよろしい。」
別のある時、ソ連の参謀将校が石原の病床にやってきた。そして石原の天皇に対する信仰を嘲笑した。怒った石原は「そう言う自分はスターリンを神様のように信仰しているくせに、他人の信仰を嘲笑うような下司な馬鹿野郎とは話をしたくない。即刻帰れ!」と大喝した。参謀将校は完全に威圧された。さんざんに泣きを入れてやっと話をしてもらった。
石原はにわかに笑顔をつくり「ソ連は芸術を尊ぶか?」と聞いた。
将校検事;「ソ連は芸術を尊ぶ国である。」
石原:「芸術は信仰だ。そうではないというか。第一、君達はスターリンと言えば絶対ではないか。スターリンの言葉には一切反駁も許されないではないか。絶対なものは信仰だ。どおだ、分かったか。自分自身が信仰を持っていながら他人の信仰を笑うような馬鹿には用が無い、もう帰れ。」厳然と言い放つと、それっきり口をきかなかった。
翌日は、極めて丁寧でにこやかな態度の参謀が訪れた。
昭和21年東北の酒田で極東軍事裁判の特別法廷での石原のみへの出張尋問である。
石原:「満州は自分にすべての責任がある。なぜ自分を戦犯にしないのか。」後に検事が石原に対してつまらぬ尋問してすまなかったと言い、また、多くの外国記者団が「日本はどうしてこのような優れた人を採用しなかったのか」と言ったのだという。
将軍の悠揚迫らざる威容、正々堂々として自ら戦犯なりと言明して捨身で危地に突入してくる信念の強固さ、勇猛無比の豪快なる態度、誠実さは、裁く側・裁かれる側、敵味方、民族の別を越えて人の真心をを打った。
UP、APの記者が将軍のご意見を拝聴したいといってきた。外国新聞記者も判検事も日本にきて、日本人は権力者に対しては心にも無いお世辞をつかって嘘をいうが、このジェネラルだけは全く嘘なしで底知れぬ大人物だとして好意を抱いていた。
外人記者が質問する。トルーマン大統領をどう思うかと聞くのに対し、
「トルーマンは、政治家の落第生だ。」「どうしてか?」「政治家と自称する以上、目先が利かなくてはならない。明日、明後日を洞察してテキパキ手を打つのが政治家というものだろう。・・中略・・早い話が戦争の土壇場になって、させなくてもよいのにソ連に参戦させて鳶に油揚げをさらわれた図など世界史的な大笑話となって、恐らく後世に残るであろう。おかげでアジア諸国こそいい迷惑だ。ルーズベルトにしても似たりよったりだ。B29はドイツも完全に破壊した、全世界至る所で民族的国家的なトラブルを起こしている。こんな目先のきかない政治家は見たことがない。政略方面は落第生だ。」
記者連中はジェネラルの言う通りと言い大笑いした。
また、「ジェネラルはマッカーサー軍政は大失敗であると言うが、如何なる点でしようか?」と問う。
石原将軍曰く「その第一は、敗戦国の精神を侮辱していることである。腕力の強い奴が腕力の弱い者より精神がすぐれているなどと言う理屈はない。日本には日本のすぐれた精神がある。マッカーサーは敗戦国の精神を侮辱し民主主義を強要しているではないか。勝った国が負けた国を奴隷扱いするということは大きい誤りである。
プロシアの宰相ビスマルクは、参謀総長のモロトケ将軍にフランスに最敬礼を要求しようとした。モロトケは〔勝者は敗者の身になって考えてやるべきで思いやりが大切であります。降伏した上に更に最敬礼を要求して敗者に侮辱を与える事は、道をわきまえたもののする事ではありません〕と建言した。
近年聞く処によると国民は寒さに飢えている、死人も出ている。列車では子供が押し潰されているのに進駐軍だけがガラ空きの汽車だ。
どうだ、これが君の言う民主主義なんだ。日本軍が占領地でとった態度もこれほど酷いものではなかった。満州は結果的に遂に軍人と官僚とによって誤られ、今日侵略者としてレッテルを貼られている。
失敗の原因は中国人の嫌う中国の好漢を使ったことである。彼らは軍を背景にして私利私欲をはかった。中国から見れば全く笑止の沙汰である。日本に対する不信軽侮の原因もここにあった。マッカーサーのやっている事も日本軍の失政と寸分変わらない。
・・と滔々と批判し、声を大にして石原が言っているとマッカーサーに伝えるがよろしい。記者たちは石原の思い切った発言に驚嘆した。

石原莞爾が法廷の場に立つことになった理由は、東条英機を間違いなく死刑にするためであった。石原莞爾と東条英機は、仲が悪かった。悪い証言を引き出せると踏んでいた。
裁判長:「石原さんは、東条英機と思想上の対立があったようだが・・・」
石原莞爾:「ない」
裁判長:「そんなはずはない。東条英機と対立していたはずだ」
石原莞爾:「ああ、対立はしていた。しかし、思想上の対立はない。私には少なからず思想というものがあるが、東条のバカには思想なんてないからね」
と言い切った莞爾に、これならいけるって考えた裁判長が、最後の質問をしますと言って、いちばん聞きたいことを聞いた。
裁判長:『あなたは、この戦争でもっとも罪深い戦争犯罪者は誰と思いますか』
明らかに東条英機と答えてくれると信じていた裁判長に、莞爾はハッッキリ答えた。
『それは、アメリカ大統領トルーマンである。罪のない人間を、原子爆弾で殺しまくり、20万人も殺して、それが正義だと言えるのか』
裁判長は、裁判記録の削除を命令して、裁判終わった。

数年後、815日の終戦記念日に石原は死んだ。