2013年6月20日木曜日

ますます繁盛


 古い語呂合わせに2升5合というのがあります。それは分解すれば升升半升だから、益々繁盛っていうことになるという他愛ないもの。

 ある仲間内のページの書き込みで、タイミングよく500番になったときの話題にあわせて、反セン(半千)と評した人がいたのです。

 いくさは、誰もが嫌いなもののはずなのに、それが絶えないのも不幸な事実です。

 昔、あるひとが言った言葉で、なるほどと思ったことがあります。

 「世の中は、悪い人が居ないとおさまらない。」というのです。本当の悪人ということではなくて、「私が悪うございました。」と譲歩する人がいてこそ、「いやいや、私のほうも言いすぎました。」となって漸く折り合いがつくと言うのです。(日本の美徳かも知れませんが、外国相手に通用するのかどうかは疑問です。Sorryといったが最後、傘にかかって賠償まで求めるというのが恒らしいから。それでも、相手を慮る日本のやりかたのほうが好きです。人らしいです。)

 現状をみるに、百人居たら百通りの正義があって、どこまでも自分の側の主張のみを絶対視すれば、最後の一人まで行くよりない。世界に一人だけ残って、何が楽しいんだろうね。

 神を説き、愛を叫ぶなら、それぞれに内なる神を抱く自分以外の人をないがしろにはできない筈なのに、いつからか損得とか面子とか主義とかが優先されて、人類数万年の知恵は軽くなってしまったようです。

 主張するのあまり"いただきます"という言葉すら、「学校の給食時には相応しくない宗教儀式である。」とクレームがついたというけれど、宗教でもなんでもなくて、人間は生きるためにやむを得ず他の生き物である動植物を口にせざるを得ないことを慎んで、「あなたの命を私の中で生かさせていただきます。」というのが、そもそもの意味なのだと教えられたことがあります。
 そんなことには触れもみで、ってことばかりじゃ寂しいかも・・・。

2013年6月19日水曜日

鎌でご飯を炊くって?


「鎌でご飯を炊く」などとTVでナレーションが流れたのには驚いた。

鎌ではなくて釜でしょうに。

もっとも、最近は釜など見かけないから、鍋との違いなんか判らない人も多くなったのかもしれません。

 

釜は、むかし財産でした。

いろは歌留多に、「月夜に釜を抜かれる」というのがありました。

 

「抜かれる」は、盗まれるという意味。
明るい月夜だから盗まれる心配はないだろうと思っていたら、大事な釜を盗まれてしまうことから、ひどく油断する、不注意極まりないことの喩えとされる。

2013年6月18日火曜日

語彙力を高めて


 美しい日本語は、言を待つまでもなく大切であるということに否やはありません。

 言葉を磨くということも、大切なことです。思考は、言葉を通じてなされますし、思考は潜在意識に刻まれて実体化するといわれてもいるからです。

 そうだとすると、望みを叶える前には、もう少し語彙力をつけることも必要なのではないでしょうか。

最近の若い人の話を聞いていると、すげ~、おいし~い、かわい~い、~なんだし~ なんて変に引っ張った言葉や、きもい、うざい なんていう創作形容詞の飛び交いが殆どで、ほかの単語が聞こえてきません。

若い人の感性は優れているのだから、表現力を磨かないと勿体無いと思うのです。もっと国語を勉強しましょうネ。

なかには、モロ哲学っぽい議論をしているむきもあって、聞いていて感心することもありますが、それが言葉遊びに留まってしまっては、これもまた勿体無いことだと思うのです。

誰も見ていなくても、身につけたことが実社会で世の為になるというのは、素晴らしいことなんだと思うのです。

言葉を取り戻すのは今のうちなんじゃないでしょうか。乱れが続けばそれが定着してしまいます。言葉は一種の波動ですから、玄妙なところで精神や肉体に影響を及ぼすかも知れません。

美しい言葉は、幸せをも運んでくるでしょう。人間は太古の昔から、音楽にしろ芸術にしろ、つまるところ美を求めてきたことは、それが幸せに結びつくことを解っていてのことではないでしょうか。

2013年6月17日月曜日

一円硬貨のデザインとなっているオガタマ


 一円を笑う者は、一円に泣く。「お金は大事にしなくてはいけません。」と小さい時に教わりました。

 よ~く考えよう お金は大事だよ

 よ~く考えなくてもそうなので、大事にしてるんだけど・・・

 

一円玉のデザインはオガタマの木なんだそうです。

神社で巫女さんがお神楽を奉納するとき手に持ってシャンシャンと鳴らす鈴の原型になったのが、オガタマの小枝なのだいいます。

高天原のアマノイワトの前で踊りをしたアメノウズメノミコトさまも、これを打ち振るって舞ったのだといいます。

モクレン科のこの木を初めて知ったのは、むかし参拝に行った熊野速玉大社の境内で神主さんに聞いたのが最初です。次には、高千穂神社だったように思います。方々にあるらしいんですが、目にする機会が少ないようです。

 

お金は、なにをやるにも基本となり大切なのに、これを得ることにある種の後ろめたさをもっている人が多いようです。

沢山持って、世のため人のため、幸せになるような使い方をすればよいのだと思います。貯めこむことだけが目的となってしまっては、そこに淀みができてしまい、それではお金がお掃除の対象となってしまいます。

こつこつと、しかし大きく貯めて大きく使うことは、神様の意にというのか宇宙の意思にというのかに、叶うことなのだと思います。

パワーストーンの持つ能力の回復


あなたがパワーストーンとして持っている天然石や宝石は、その石が本来持っている能力を十分に発揮しているでしょうか?

本来その石が持っているとされる能力は、段々に衰えてしまっていることが有るのだと言われます。

採掘されているとき・加工されているとき・流通の過程で人の手を通るとき・店頭に置かれているとき・自分が身につけているとき等々に、いろいろなマイナスエネルギーや良くない想念が憑依してしまうからだそうです。
要するに、知らず知らずのうちに汚れてしまうということです。

願いが叶わないとき・金運があがらないとき・仕事運がわるいとき・・・
そんなときは、自分の持っている石の手入れが必要なのかもしれないのです。

前にも書いたと思いますが、汚れや穢れを払うのは先ず自分の体、次にパワーストーン、そしてご先祖の墓石ということでありましょう。

2013年6月16日日曜日

やさしい花色のアジサイ

雨がやんで、薄日が差し込む庭に、優しく咲いています。
派手な大きさでも色でもないけれど、好きです。

究極のお掃除 墓石クリーニングをする意義


 人の考えることには多様性があって、汚れても苔むしても古い感じになったほうが好いと仰る方もいます。

 しかしその一方で、ご先祖様がどういう謂れの方であったとか、前世がどうであったとかに興味を持たれる方も沢山いらっしゃいます。

 だとしたら、墓石は放置して墓碑銘も読めなくなってしまうより、長くきれいに保つほうがよいと思うのです。

 大切なものは、手入れして大事にするというのが、美徳の一つです。

 

 さて、神社仏閣に詣でてお賽銭を上げ、お願い事をした経験というのは誰もがお持ちだと思います。

 でも、考えてみて下さい。一般社会において偉い人に直接会って何かをお願いできることというのは、まず無いのではないでしょうか。必ずといっていいほど紹介者や取次ぎの方が間に入ると思います。

 自分のために親身になってそのお役を担ってくれるのは、一体誰なのでしょう。

 育ってくる過程で、お祖父さんお祖母さんが孫の為なら自分のことはさておいて何でもしてくれたという記憶をお持ちの方は多いのでは・・・

 そのまたご先祖様ということになれば、子孫を可愛く思わない筈がありません。

 私は、頼まれればご先祖様がその取次ぎ役を喜んでして下さるのだと思っています。

 願い事は、画像になるくらいはっきりイメージした形で、ご先祖様を通じてするのがよいように思えてならないのです。

 

 何かを決心して始めようとするときは、まずまわりを整理整頓し、お掃除をしてからではありませんか?

 世の中、ただではまず何も動きません。ご先祖様だって同じことだと思います。誠意を示す為にも、お願い事の前に或いは今までの感謝を込めて、墓石クリーニングをすると良いと思うのです。