2013年10月30日水曜日

日本画「雪山童子」を見て


曽我蕭白の日本画に、雪山童子があります。釈迦の前世と言われていますが、女性と見紛うようなかなり不思議な絵です。

雪童子(ゆきわらし)ではありませんから、何者を描いたのか知識が必要となります。

説話というのは、こうです。

遠い遠い昔、雪山に若い修行僧がいて、人々はその修行僧を雪山童子と呼んで尊敬してたのだといいます。

あるとき帝釈天が、その雪山童子の修行の程を試さんとして、悪魔の姿に身を変え雪山童子の前に立ち「諸行(しょぎょう)無常(むじょう)、是生(ぜしょう)滅法(めっぽう)」と唱えたのだそうです。

諸行無常とは、ご存じの通り、一切の物事は常に移り変わり止む時が無いという意味であり、是生滅法とは万物はみな必ず亡びるという事であります。

ところが、この悪魔の唱えた「諸行無常、是生滅法」の言葉を聞いた雪山童子は、その深遠な言葉に驚嘆し、悪魔に「今唱えた言葉の続きはありませんか。」と尋ねたのだそうです。

悪魔は「いやそれに続いてあと二句ある。」と答えたといいます。

感じ入ってしまっている雪山童子は、どうしてもその後の語句を聞きたくて、是非教えてくれるように悪魔に頼み込みました。

それに対し、悪魔は言いました。

「この尊い教えはわしが長い修行の末到達し得た悟りであるから、簡単には教えられぬ。わしは修行が過ぎて今食べるものがなく、今まさに餓死しようとしている。もしわしがお前を今食べる事が出来れば、お前の血と肉でわしはこの先永遠にいき続ける事が出来ようというもの。この後の歌を聞きたいというのなら、替りにお前の血と肉をわしに捧げることができるか?。」

雪山童子は、即座に「解りました。私の肉体を貴方に捧げることをお約束致します。どうか続きの語句をご教示下さい。」と答えました。

「では教えてやろう。それは生滅(しょうめつ)滅己(めつい) 寂滅(じゃくめつ)為楽(いらく)である。」

生滅滅己とは生滅すなわち生き死になどの煩悩を自分の心から滅すれば、寂滅為楽、すなわち涅槃に入り、安らかになり悟りを開く事ができるという事であります。

雪山童子はその言葉を聞くや歓喜した。

「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」と何度も口ずさむと、この言葉を山中の木々の幹といわず、石といわず書き連ねました

「これで思い残す事はありません。後世の人はこれを読んで、きっと悟りを開くことが出来ることでしょう。さあ、何時にても私を食べて下さい。」

すると、たちどころに、悪魔は本来の帝釈天の姿に戻り、こう言いました。

「貴方はゆくゆく必ず仏になって、衆生を救うことができるであろう。私は貴方の影となり貴方を守護しましょう。」と言い終えると、天に昇って行きました。

 

完全な悟りを得ると仏と一体となり、もはや輪廻転生から逃れる事が出来る。

しかし、悟りが完全でないと仏になる事は出来ず、如来、あるいは菩薩となって再び輪廻転生を繰り返さなくてはならない。

観音や菩薩といえども修行中の身であり、仏となるべく次の修行が必要とされるが、時代が進み後世になると、如来信仰、菩薩信仰が強くなり、如来はすでに真実を悟り仏となることが出来るにも拘わらず、衆生を救済するために、あえて仏となることなく、菩薩として現世に戻り、人々を救う為に奇跡を起こす働きをするのだと考えられるようになりました。

食べられる木の実、ガンコウランとクロマメノキ


秋に山に行くと、食べられる木の実があって楽しい。

ガンコウラン(岩高蘭)も、その一つです。
 

花は5-6月、高山に咲くが他の植物に混ざり目立たない。

秋には、径6-10mmの黒い球形の果実ができ、食べることができる。採取してジャムなどにする。

果実はビタミンやミネラルなどの栄養素が豊富で、山鳥のえさともなっている

 

ガンコウランはジュース作りに適しており、ブルーベリー、クマコケモモ、クロマメノキといった果実と合わせても美味しいジュースが出来る。

青紫色の実は材料に混ぜるとその綺麗な色が着くので、菓子作りに使われるが、生のまま菓子の彩りとして飾るのもよい。

 

この時季に採れる果実に、クロマメノキ(アサマブドウ)というのもあります。春咲く花は可憐で美しい。

秋になると黒い実を 付けることからクロマメノキという名前が付くコケモモ と同じツツジ科の低木です。

クロマメノキの実も、食べることができます。

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2013年10月27日日曜日

小言幸兵衛ではないけれど


 ふわふわと、ただ酔っていた。

それでも意味は通じるけれど、

 かわいい女の子が、記憶を消されて・・・という場面でのナレーションなのだから、

 ふわふわと、漂っていた。ということでないと、意味がわからないシーン。

 

厚く焼いた石の上に、木の葉に包んだ・・・

熱く焼いた石の上で蒸し焼きして食べた。ということに違いないんだけれど。

 

休日だというのに、不精を決め込んでTVをみてると、アラばっかり見えてよくない。

 

いずれも、こども向きの番組なだけに、プロだったらしっかりせいっ!といいたくなる。

お遊びで言葉をあやつっているわけではない立場のひとは、将来にわたる影響にも心しなくてはなるまいと思うのです。

 

 小言幸兵衛ではありませんけれどネ。

2013年10月24日木曜日

醜い家鴨の子と似て


見るだに毒々しい毛虫なのだけれど、触っても害はないのだという。

スミレの葉を食べて育ちます。ツマグロヒョウモン蝶の幼虫です。

鉢植えにして育てている何鉢かのスミレは丸坊主にされてしまいますが、春になればちゃんと新しい芽を吹き、花も咲かせますから、虫を駆除することなく、自然に任せています。

 

この毛虫から美しい蝶になって羽ばたいていくのですから、最初の見た目が悪いからと言って粗略にはできません。

醜く見えても、如何に美しく成長するかということかということなのだと思うのです。
醜いアヒルの子が育って、美しい白鳥になるのと同じです。

 

幼虫

 

成虫(写真は借り物です)

 


 

2013年10月19日土曜日

「めしい」は差別用語なのか?


 いくら私が食いしん坊だからって、飯飯(めしいい)なのではありません。

「めしい」っていうのは、今風に言うと「目が不自由な人」ということにんるのかも知れませんが、差別語じゃないと思うんだけれど、漢字変換しません。

 言葉狩りが過ぎると、普通名詞であっても使えなくなり不自由に感じます。

 

 昨日の夕方、突然視界がぼやけて、書類の文字がところどころしか見えなくなってしまいました。逆の言い方をすれば、ところどころは見えるということです。

 よく働いたからな~。

なんですと?ウソだろうって?いや、それがホントのはなし。

 社員が、「車でお宅まで送りましょうか。」と心配してくれたが、「だいじょうぶだいじょうぶ。」といって、鉄の車が沢山ついてるのに乗り、手探りで家に帰ってきました。

 すこし目を休めたら、字が見えるようになったから、懲りずにPCに向かったところです。

 眼鏡の度数が合わなくなったきたのかも知れません。
 そういえば、歯の次に悪くなるのが目なんだとか。奥歯が欠けてしまって歯医者に通っています。

2013年10月18日金曜日

「それ聞いた」「それ知っている」とばかり言っていると


何かを話しかけられたとき、「それ前に聞いた」とか「それ知っている」と言下に遮って、後を聞かない人というのがいます。

 

確かに同じことを何度も聞かされるのや、知っていることを教えてもらっても、煩わしいことであることは事実でありましょう。

 でも、これをいつも言っている人のところには、段々に情報が入って来ないようになるのです。

「もう話したことがあるかも知れない」「どうせこんなことは知っているだろうから」と、周りの人は思うようになってしまうからです。

 そうしているうちに、大事なことも知らされなくなってしまうということです。

 そうなったときに言うのが「それ聞いてない。」とか「なんで報告しないんだ。」という言葉。

 そんなことはないのです。自分が聞こうとしなかったことの積み重ねの結果なのです。

聞く耳を持たないというのは、こういうケースだってあるということです。

たとえ何度聞いたとしても、少しずつその話に関連する情報はつけくわわりもあって詳しくなるのだから、疎かにしないということが大切です。

 

 もうひとつ大事なことがあります。

年寄りが何度も同じ話をしてくるのを「それは前に聞いた。」「何度も聞いた。」というように面倒くさがっていい加減に対応していると、段々話しかけてくることが減って行き、話をすることがなくなって黙り込んでしまうようになるのです。

それがボケにも繋がってしまうキッカケになることが多いのだといいます。   

面倒くさがらず聞いてあげるのも大事なことです。

2013年10月17日木曜日

お客様は神様というけれど


近頃、品のない神様が増えたんじゃなかろうか?

大したご利益(買い物)もないのに、お賽銭(商品やサービス)にクレームをつけて、口汚く罵る。

 

「お客様は、神様です。」なんて言って、何でもありにしてしまったから、好き勝手をするのが神様だと勘違いして、人の徳性すらなくしてしまって罰だけを当てる変な神様がたくさん出てきてしまった。

 商品やサービスを提供する側が、お客さまを大事にしようとするのは解る。

 しかし、客の側が自分は神様だと思いあがるのは品が悪すぎるように思う。そんな神様はいない。

 

神様と敬われ、願えばご利益までも下さるのが、逆方向に行ってしまったら、それは神様でも人でもない「呉れ恵魔阿」となってしまう。