2013年6月15日土曜日

体のお掃除デトックス


 身体の中の悪いものを出尽くさせるデトックスと言われる言葉を見聞きすることが多い。

 食品であったり薬品であったり物理的に外からの作用に恃むものなど、方法は数多くあるが、いうなれば身体のお掃除ということだから、心身に問題を抱える人は、真剣にならざるを得ないようです。

 関連して、岩盤浴という看板を方々で見かけます。

熱せられた岩盤の上にバスタオルを1枚敷いて寝転んでいると、体に伝わってくる熱により、汗と一緒に老廃物が体内から排出されるということであるが、高温多湿な室内は、かびや雑菌も繁殖しやすいというので、施設としてはその防除や除菌を必要とします。

 サウナのあの刺すような暑さと違って鼻も乾かないし、楽に汗を搾ることができ、身体も温まる。

銭湯の倍くらいの費用で利用できるところが方々に在るので、そんなに負担にならず気軽に行くことができます。

 使っている岩盤の種類によって効能に多少違いがあるのかもしれませんが、前後にたっぷりよい水を飲んで、身体のなかを綺麗な水と入れ替えればなお良い。健康は、内外のお掃除からということです。

 健全な肉体に、健全な精神が宿る。

なんといっても体と心のケアなくしては、幸せに巡り会えないのかも・・・

自分で綺麗にできるお掃除 その2


 社業30有余年の中で積み上げた技術に付随する、石材に関するノウハウを活用して、墓地墓石にかかる仕事で社会のお役に立てるのではと、この部門を開設致しました。 今を去ること11年、平成12年の春のことでした。

 この仕事を形にしようとおもいたった理由の一つは、高齢化が進んで日頃気になっていても、墓参は行くことも掃除も自身で行うには体力的に大変となって、「誰か代わりにお願いできるといいんだけれど。」との声が多いと聞いたことと、もう一つには、身体はまだまだ丈夫な中高年の人向きの新たな働きの場がつくれないだろうか、との二点からでした。

 

 手がけてみると、墓参の代行には墓石磨きがつきもので、こちらの要望の方がかえって多いという事実でした。

 大部分の汚れやシミは、本業のビルメンテナンスの延長線上のことでもあり、石を傷めることなく落とすことが当初から可能でしたが、石材の中から滲み出してくる錆を手早く落とすことには、苦戦を強いられました。

 

 努力の甲斐あって、これらもクリアすることができ、殆どの汚れは石を傷めず落とせるようになりました。

 仕事を終えて帰ってくる従事者が一様にニコニコして、「お客さんから手を合せて拝まれた。」と言って、お客様の喜んだ様子を報告してくれるのを聞くのは嬉しいかぎりでした。

  これが何年か前までのことですが、カバーできる範囲が関東近県に留まっていることについて特に疑問も持たずにいました。

 しかし、墓石クリーニングを希望する方は日本全国にいるわけです。問合せがあっても出かけるだけでも費用が嵩むしするので、お断りせざるを得ないでいました。

そこで、誰でもが墓石クリーニングをすることができるようなマニュアルにまとめて、そのノウハウを提供すれば、世のため人のためになるではないかということに気づいたのです。

 ご先祖様への気がかりや、胸の思いをはらすことが、幸せに繋がると思っておられる方々が多いのだとも気づいたわけです。

 

 自分でやることができれば、業者に依頼するより費用が圧倒的に安くて済みますし、何よりも作業時にご先祖様との密接な時間を過ごすことからくる満足感が違います。

やり方さえ解れば、何時やるかを決めるのも自分の自由になります。

そんなわけで、わが社で受注して作業をする部門は終了したのですが、それでよかったと思っています。

2013年6月14日金曜日

自然のままに任せた方がいいのかも知れませんが


 休み無くせっせとフェンネルの葉を食べ続けた黄揚羽蝶の幼虫は、ようやく蛹になる段階を迎えました。


 

 数多くいた中で、小鳥に啄まれることを逃れなんとか生き延びた10匹は、外敵に見つからない場所に移動してサナギになってくれたと信じるが、サナギの状態を確認できたのは、そのうちの僅か2匹でした。

 サナギになりたての身動きができないところに、蟻がどこからともなく集まってきて群がるので、このままでは蝶々になる前に食べられてしまいそう。

 それも自然の掟なのかも知れないが、見過ごすには忍びないので、時々見回ってハケで蟻を振り払ってやっていました。

 なんとかサナギの殻も硬く固まったらしく、蟻も寄ってこなくなりました。

 この先は羽化するまで、の先ず食わずで長い時間を過すことになります。

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運の有る無しは、何か偉大なものに守られているかどうかによる。

(何かに守られていると実感できることが大事なこととなります)

 

世の中には、ツキのある人というのが確かにいます。

それはどこからのハタラキなのでしょう。

 

気づいた人が次のステージに進むことができ、そこでの気づきが必ず又あって、更に次のステージに進むことができるようなのです。

 

やると良いとわかっても、やらない理由を見つける名人でいては、なにも変わらない。

生命のあるものは、必ず成長しようと働くのに、それにブレーキをかけるのは何時も自分自身の自我です。

無限のパワーを持つといわれる潜在意識に叶えたい望みを届けることを阻むのも、自我という顕在意識がつける「やらない理由づけ」であるといわれます。

できるのにやらない、ということが如何に多いことか。

繋がるはずのパイプを閉ざしてしまっているのが実は自分であったと気づくことは、難しいことではない。素直にやるかどうかだけなのです

洗うということ


 清掃のなかには、洗うということが大きな部分を占めています。

 心を洗うということもよくいわれますが、洗うということにはいろいろの意味があります。

 さて、食べ物を洗うということについてでありますが、体の中に入れるものは出るものとは違い、なんであれ、そもそもが綺麗なのではなかろうか。

 それでも、洗って綺麗な方が美味しいことはちがいない。

 宮崎県串間市の幸島(こうしま)の雌サルが、あるとき餌の芋を洗って食べることを覚えた。泥や砂がついていないことは、さぞ口当たりがよかったことだろうが、身内のサルを経由して島全体のサルに伝わった。それが100匹を越えるころになると、突然、海を隔てた大分県の高崎山の猿に伝播した。猿のことであるから、電話もTVも手紙もないのにである。

 この101匹目の猿の話は、シンクロニシティの説明に使われることが多い。

 よいことが皆に広まって、誰もが幸せになるというのは喜ばしいことではあります。

 話はがらっと代わり、昼食を摂ろうと会社の外に出たところ、道路のそこここにカップラーメンの空カップが、捨ててある。というよりは置いてある。

近所にある高等学校の生徒が、コンビニで買い求めて食べた後、置き捨てして帰ったものである。誰がそれを片付けることになるのかは、意識にない。自分には関係ないというわけである。

 一人一人のときにそんなことはしないが、何人か群れると、イキがって恥ずかしいことでも平気でする。他人への慮りなどという人間の持つ徳目などどこへやら、互いに戒めあうことなどさらさらない。「自分さえよければ」という育ちの悪さが如実に現れてしまうところが情けない。

 猿にも劣るこういう行為も、そうする人が増えて伝播したのだろうか。

 私権は公共の福祉に従うということが、絵空事であっていいはずはない。義務セットなのだとまではいわないが、恥ずかしいことはしないに越したことはない。

 でも、話をしてみると本当はいい子が多いのも事実。ワルぶらないと仲間の付き合いができないという風潮を、どこで断ち切るか。

 微力をつくしてはいるけれど、先は長い。

2013年6月13日木曜日

自分の身に置き換えてみると


 どんな人でも、汚れたら顔は洗うし風呂にも入って、身体を綺麗にします。
女性であればその上に、化粧をしたり身支度を整えたり、身綺麗に飾ったりして周りの人に接します。
 それは礼儀でもあるし、汚れたままでいれば、人が寄り付かないばかりか避けて通られるようになり、運だって逃げてしまうでしょう。
 しかし、自分の上っ面だけ綺麗にすれば事足りるといえるかというと、それがそうはいきません。磨かねばならぬものがいっぱいあります。
 知っていても、或いは気づいていても、それを綺麗にすることをしないで、ただ運が悪いだのツイテいないだの言っているのではどうにもなりません。

そんなことでは、望むものを得られないことは当然です。

望むものがあれば、それを叶えるために必要だと思うことを、些細なことまで注意をはらいます。
 本当は、自分ではどこを磨かねばならないか、何をしなくてはならないか、ちゃんと分かっているのに知らない振りをしているということでは、望む結果は得られないのが普通です。
 何か決意してそれを始めようとするとき、まずお掃除から手を着けるということが多いと思います。

部屋であったり、トイレであったり、心であったりでしょうが、ご先祖様の眠る墓石のことを考えたことはあるでしょうか?
 野ざらしで汚れるのにまかせていていいはずがないと思うのです。
 時間をかけて静かに墓石のクリーニングをしていると、ご先祖様がそっとどうすればいいのか気づかせてくれるのだと、自分でクリーニングをした人たちは皆が言います。すごく穏やかな気持ちになれるのだと・・・

綺麗にするということの功徳でありましょう。

2013年6月12日水曜日

外見を整えることから始まる


 正式な場所に出るときには、正装に威儀を正してとか、衣紋を正してとかいいます。

 和風であれば紋付羽織袴、洋風であれば燕尾服やモーニング、タキシードということになりますが、それほどではなくても大切な人や初めての人に会うときは、身じまいを整えます。

粗相があってはならないという礼儀上の意味も勿論あるでしょうが、別の捉え方もできます。誠意の表し方は、まず身じまいから始まるのですから。

 心理学者アルバート・メラビアンが提唱したので「メラビアンの法則」といわれますが、人の言動のうち、他人に影響を及ぼす要因としては、話の内容などの「言語情報」が7%、口調や話す速度、声色などの「聴覚情報」が38%、見た目など「視覚情報」が55%を占めるのだといいます。

わざわざだらしない格好をしたり、不潔にみえるような支度をあえてしていている人がいますが、多分なにもいいことはありません。

 正装は清掃に通じます。見た目だけで判断されて運を逃がしていてはならないのですから、心せねばならないことになります。

本来輝いているはずの本質を、自分で曇らせていては、生まれ出て本来の役目が果たせなくて残念なことになります。

人は誰でも、自分が思っている以上の能力を秘めているものなのだと思うのです。

お掃除をすることでの気づき その1


悩みの大半は、まだ起ってもいないことを、先回りしてくよくよするということが多いのだと言われます。
 普段からこころがけて、いざというときに備え用心しておくことは大切ですが、困難に当面してからでも真剣に努力すれば間に合う、というのが殆どだとも言われます。
 神様は、人間が乗り越えられないような試練は、お与えにならないのだと。

 初めてお掃除をすることになったとき、掃き方も拭き方も下手で、そうかといって誰かがやり方を教えてくれるということもなく、自分なりに只夢中で、わけもわからず時間ばかりが過ぎていきました。しかもその割には結果が綺麗になっていたとはとてもいえなかったのです。
 段々慣れて、手際よく道具を使えるようになると、「ごみはなくなったけれど、床に汚れが残っている。」とか「隅々が綺麗になっていない。」とか「壁などの立体面の汚れが気になる。」とか、射し込んでくる光線に浮かんで見える埃が多いけれどなんとかならないものだろうか、とか次々に綺麗さの要求度合いが上がってくるのです。
 そして、やってもやってもすぐまた次には汚れてきて、いつ果てるともない繰り返しがあるのだという現実に気がつくのでした。
 それでもそれを、馬鹿らしいと思わず乗り越えていかねばならないのです。
 そんな中で無心にお掃除をやっていると、あるときなんの前触れもなくハッと気がつくことがあるのです。
懸案事項の対処方法であったり、悩んでいたことの解決方法であったり、人生の教訓であったりします。
 なんでもそうなのでしょうが、簡単なことでも一心に努めることが大事です。
 これらの気づきが顕著に起るのが、昨日ちょっと触れたトイレの清掃をやっている時と、墓石のクリーニングをしているときなのです。