2021年12月31日金曜日

訪米ができない?

 

新しい政権ができると、日本の首相は2~3か月の間に米国を訪問し、大統領との会談を持つのが通例であった。

しかるに、コロナや米国内の政治情勢を理由にあげているとはいえ、会談日の目安が立っていないのだという。

上げられた理由をそのまま信じるのは、外交上緩いのではないのか?

外相会談すら目途がたたないというのでは、見限られつつあるといわれる韓国と同様の扱いではないか。

中国を無下にできないことは解るが、日米同盟を重視したら、米国が日本の体制に危惧を抱いてしまったのだと考えてみることも必要である。

大国同士というのは、利害関係を調整するのにシビアなのだということを意識した方がよい。

日本の頭越しに何らかの合意を結ぶことくらいは平気でする。

そうなったら、我が国だけではどうすることもできまい。

覚悟を決めて、他国に対抗できる軍事力を持つというなら別だが、憲法改正にだって及び腰の政権ではそれも期待できない。

国家観と世界観を明確に持って、それを主張できる強さが無いと、国際社会では軽んじられてしまう。

国の舵取りをするには、野党と同じことをやっていて済ませられるわけがない。

日和見が過ぎると、蝙蝠の汚名がつけられるだけである。

2021年12月28日火曜日

蕎麦ツユに辛味大根と焼き味噌

 

日本には、大根に200種類もの品種があり、地方地方で栽培されているという。

農作物には旬と言うものがあり、大根も蕎麦も11月過ぎが美味しい。

 

曲がったまるまる1本のネギで食べる高遠蕎麦は福島県会津地方の名物料理だが、そもそも「高遠」は長野県信州伊那地方の地名である。

なぜ会津のそばに信州の地名がついているのかというと、きっかけは、徳川3代将軍家光の異母弟、保科正之が信州高遠藩の養子となり、その後山形の最上藩へ、更に福島の会津藩へ国替えとなった。その際、無類のそば好きが高じて、そば職人も最上へ、会津へと連れて行ったことによる。

遠く会津で定着したその蕎麦は、敬意を込めて「高遠そば」と呼ばれることになった。

日本そばの始まりは、奈良時代という説が一般的である。

信州蕎麦は、修行に出かけた修験者が、その途中、現在の伊那市内で大変なもてなしを受け、そのお礼としてそばの実を置いていったということから始まる。

かつて、しょうゆやかつおぶしが普及していなかった時代、そばつゆとして使われていたのは「からつゆ」と呼ばれる、焼き味噌とネギ、辛み大根を合わせたものだった。現代の江戸風のそばつゆは、その後出汁としょうゆが普及した時代の味付けだ。

伊那の高遠そばは、ザルに盛ったそばをつけ汁につけて食べる「ザルそばスタイル」。そばのセットには、必ず焼き味噌が添えられている。

しゃもじなどに味噌を塗り、それを焼いてそばつゆに添える。「からつゆ」の名残りである。

そばを食べる前に、焼いた味噌を適量そば蕎麦猪口に取り、そこに現代風に味付けされたそばつゆを流し入れ、味噌を溶く。添えられる薬味はおろした辛み大根と刻みネギ。

つけ汁に浸すと、焼き味噌の風味が、そばの強さと互角の戦いを繰り広げる。そばの味が強い分、つけ汁もそれに負けない力強さを持つようになったのだろう。

高遠辛味大根は地元に行かないと手に入らないというが、食べてみたい。

2021年12月19日日曜日

周りが口を出し過ぎる

 

自己責任ということを否定する論調が幅を利かせるようになっているようだが、果たしてそれが人類社会のためになるのかというと、かなり疑わしい。

生物の基本は自己責任であろう。天は自ら助ける者を助くというのが真理なのではないのか?

 

もとより、何らかの原因が有って弱者と呼ばれる人はいて不思議はないから、如何に努力を重ねても叶わないということはある。その部分に力を貸すことで達成できるようにするというのが基本的な考え方なのではないのか?

 

自分でできることは自分でやるという力を育てないで、何でもお膳立てしてやらねばならないとすることでは、人の実力は育たない。

周りから庇護されることが権利であるとして憚らないのでは、それこそ血の滲むような努力を重ねている人たちに対して申し訳が立たない。

やるだけやってみることで、自らが納得できる段階に至ることができなかったとしても無駄だとは思えない。

殆どの人がそうなのであるからというのがその理由ではない。

人にはそれくらいの結果に耐える強さが備わっているのだと認めるべきなのではなかろうか。

 

自由でありたいと望むのは理解できるとしても、他人を踏みつけにしても構わない傍若無人波な身勝手さまでをも容認することにはならない。

ましてやそれを助長するかのような説には同意しがたい。

多様性とやらを理由に何を勘違いしたのか解らないが、場所柄をも弁えず、奇抜な服装や眉を顰めざるを得ない行動をして、それが個性だとして恥じない輩が出てくるのを咎めもしないでいると、それは弱肉強食の世界に繋がり兼ねまい。

2021年12月1日水曜日

口で言うほど簡単ではない脱炭素

 

地球温暖化を防ぐために脱炭素というのが世界の潮流になっている。

炭酸ガスが温暖化の原因と言うのが科学的に証明されているとは思えないが、表立ってそれを主張することはできない状況下にある。

化石燃料は目の敵にされているが、現実問題として電力を得る方法をどうするのかは確立されてはいまい。

火力発電をやめ、原子力発電も廃止するということになったら、電気エネルギーの恩恵にどっぷり嵌った文明人は、それが不足する生活にどう対処するというのか?とてものこと耐えられるとは思えない。

電気自動車だって、バッテリーに充電するための電気は必要である。

流行りの水素だって、その製造には電力が要るし、なによりもその移動には冷凍せざるを得ないから、ここにも電力が必要となる。

風力発電は、その設備が発する重低音被害と構築物の与える美館損傷に対応するため、洋上それもかなり深い場所に作るよりなくなるから、コストを無視できない。

太陽光発電だって同様であろう。

口先だけで同調意見を並べている間は解決に向かうとは思えない。不便を覚悟することができるかどうかにかかる。

 

よく、ドイツは火力発電も原子力発電も廃止の方向に進んでいて先進的だと持て囃すが、自国ではそれをしないだけであって、近隣のフランスに付け回しているだけではないのか?

表面的に表れる一事象だけを取り上げて全体像を評価しないのでは、問題は解決できない。

資源小国である我が国が長きにわたり積み上げてきた技術は、必ず世界中の役に立つ形で貢献できるようになるものと信じる。

悪口を言われることに負けて、それらの実力を発揮できないようになってしまうことがないようにすることが日本の役目であると思う。