2013年12月31日火曜日

詩的・素敵・長生き


 親はなくても子は育つなんてことはありません。

親は、たとえどんな子であっても、子が可愛いと思わなくては育てられないのです。

 順番だから仕方ないのですが、親になってみないとわからないことです。

 

 詩的だの親だので思い出してしまいました。

 何をかって?

 

韓詩外伝にあった、いわゆる「風樹の歎」っていうのをです。

 

樹欲静而風不止 子欲養而親不待 (あとは忘れました。習ってから50年も経つんですから・・・)

樹静かならんと欲すれども風止まず 子養わんと欲すれども親待たず

 

高校の漢文の先生が言うのに「孝行をしたいときには親はなし。」ということだとのことでありました。唇寒しかな~?

 

私は、100歳間近まで生きた母を、数年前に亡くしました。郷里から離れて住んだので、親孝行らしいことは殆どできなかったのが心残りです。

親より長生きするのが親孝行だと言いますが、そうだとするとまだ30年は生きなくてはなりません。

先日、同期生と一緒に高校時代の友人の入院見舞いに行ったのですが、見舞いを終えての帰り道に同期生が言うのに、「母が100歳を迎えて、俺より元気なんだ。お役所の係員が長寿祝いに来てくれたんだが、帰りに母が外まで見送りに出て恐縮されたくらいなんだ。」とのこと。

 

寝込んでしまったりボケてしまたりの長生きではないことが素敵だと思う。

 

新しき年が、皆々様に素敵な年でありますように!

 

 

2013年12月30日月曜日

明るさを連想する木通(あけび)


 「うけひ」っていうのもあるけれど、これは古事記を読むか、手っ取り早くは辞書を引いてネ。

 

明るい日、灯、アケビ(木通)は明るいことを連想させるので、たいそう宜しいのであります。

 

で、今日はここからが尊いお話。

このあいだ友人が得の話しを書いておられましたが、これは重要な示唆にとんだことなのでありました。

「身体に栄養」「脳に知識」と言いますが、じゃあ心には何が必要か?といいますと、これが""というものなのでございます。

そうです「心に徳」というので三要素が揃うわけでございます。

 

では、その徳っていうのはどんなものなのか?ということになるわけですが、よく徳を積むなんて言われても、何のことだかさっぱり分からないというのが偽らざるところです。

 

平たく言っちゃうと、ひとの気持ちを明るくすること、軽くすることなんだそうです。

 

ですから、禿(トク)もあかるくするので徳というわけです。

 

 それでは禿が徳を積むとどうなるかっていうと、得をするわけです。

これを三段論法と言います。

ゆめゆめうたごうことなかれ。日々を"明け日"でいかなくてはならないのですぞ。

 

明日と言う字は明るい日と書くのネ・・・というのは、歌の文句です。

もうすぐ来る新しい年が、明るく幸せな年でありますように!

 

 

冷えは想像以上に体に悪い


 先日に続きまして、身体によくないことの例です。

 

 伊達の薄着という言葉があります。

私もご他聞に漏れず若い頃は、寒いのを我慢して薄着で過ごしたものでした。

 

 でも、これっていずれどこか体に変調をきたすものです。冷えは万病のもとなのです。

 私は大学時代の夏の1シーズンで気づいたので、その後は努めて身体を冷やさないようにしています。

 

 私の携わっている業界は、高齢者が多く働いているのでよくわかります。

顔色がよくて年齢に似合わず元気な人は、寒そうな格好をしていません。そしてどういうわけかコブトリです。

 

 御伽噺(おとぎばなし)の「瘤とり」ではなくて、小太りです。

 

 夏にオヘソを出したりお尻を出していた人達は、お気をつけ下さい。

 自損行為とも言えることをしていたのだと、後になって気づいても、痛かったり苦しかったり、醜く脂肪がついてしまったりしてからでは、いかに自分の責任なのだから反省したところで遅いのですから。

 

大概の病気というのは、体の冷え、とくに芯が冷えることが原因となるようです。

 

 

2013年12月29日日曜日

アクセントが違えば意味も違う


TVを見ていて、たいそう気になりました。

ニュース原稿などを、その場で読むのなら仕方がないケースもあるでしょうが、取材から作成した番組のナレーションは、編集できるのですから気を付けて欲しいものです。

 

結城紬の番組だったのですが、紬を折る、折ると何度でも繰り返すのです。

「織る」と「折る」はアクセントが違うのですから、プロが公共放送で言う場合は間違わないようにしてほしい。

 

似たものとして、「厚い」と「熱い」・「柿」と「火器」・「痛い」と「遺体」・「海」と「膿」・「赤」と「垢」・「箸」と「橋」・「犬」と「去ぬ」・「雨」と「飴」などなど様々あります。

 

また、形容詞や形容動詞が、どの語を修飾しているかによって、文章を句切るところが違うのも、配慮して欲しいものです。

 

性善説が採りにくい


 むかしは官姓名(所属身分)を明らかにしてからモノを言ったり為したりしたから、世間様に恥ずかしい行いは自ら慎んだので、まわりも芯のところでは性善説を採って大過なかった。

 

 ちかごろは、物影にかくれ誰の所業かわからぬようにして天人ともに許されぬことをするのが多く、バレても大抵は心神耗弱とやらで、乃至は未成年とやらで、被害者よりも加害者の人権のほうが擁護されるから始末が悪い。

 誰の所業かわからないままなら、それで幕というのもある。

 

 意見を言う人も、自分がどう思っているか考えているかではなく、○○国がどう言っているとか、さる高官が(名前を明かすことはない)とか言って、いつでも責任逃れできるようにしているから、後に間違っていたと明らかになっても、謝罪することはない。

 

 そりゃおかしいだろうと声をあげる人は少ないし、思っていてもそうしないでいることに慣れると、大勢がおかしな方向に行ってしまいかねない恐れがあるのだと感じる能力さえ失せる。

 

 おまけに、皆がしているんだからいいじゃないかとか、誰かに注意されるまではトボケてズルをするとか、結果がのっぴきならないところまで行ってから「そういうのは良くないことだと最初から思っていた。」などとか後出しジャンケンみたいなことを言って、自分の品性を自ら貶めて恥じないというのもいる。

 

 日本は、恥を知るというのが文化であったはず。

 

 そろそろなんとかしないとまずいんじゃないかってこと、周りに多いんじゃなかろうか。

 

 

2013年12月28日土曜日

高いことが褒め言葉


「お目がお高い。」とは褒め言葉には違いないのだけれど、どうして「高い」というのでしょうね?

 なんとなくというより、意味は言いえて妙と理解できるのですが・・・

 

他にも似たような表現のものが沢山あります。

 

目が・・・「きく」「早い」

頭が・・・「切れる」

腹が・・・「立つ」「据わる」

鼻・・・「白ら(じら)む」「薬(ぐすり)」

肩・・・「風を切る」「張る」

 

上げれば切りなく出そうですが、ご自分で探してみるのが面白そうです。

 

2013年12月27日金曜日

箸で盥に張った水を動かす


バタフライ効果とは、英語ではbutterfly effectと呼ばれ、日本語に訳せば「蝶々効果」ということになる。

この概念を最初に発表した気象学者エドワード・ローレンツの講演の題名「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか?」から来ている。

これが理論的に証明されているわけではないが、蝶が羽ばたくときに起こす風のような、ほんの些細な事であっても、それが徐々にとんでもなく大きな現象の引き金に繋がるのではないか?という考え方。

どんなに初期が小さくても、時間経過や諸条件が組み合わさることによって、大きな影響が現れ、どんな結果をもたらすかは誰にも判らない、と言う事を意味する言葉としても使われる。

少しニュアンスは違うが、「箸よく 磐水を回す」という喩えがあります。

磐水とは、盥に張った水の事。

盥に張られたような大量の水を、細い箸1本で動かせるか?ということなのであるが、水を箸でかき回し続けていると、最後には渦を巻くほどになる。

小さなことでも諦めずに続ければ、結果が出るということであります。

 

 

2013年12月26日木曜日

鯨面文身(げいめんぶんしん)とはイレズミのこと


タトーと言えば、一見格好良く聞こえますが・・・

黥面文身(げいめんぶんしん)

 イレズミのことです。

 魏志倭人伝に、倭人は顔や身体にイレズミをしていると書かれているとか。

人類学的に見て、発展途上前には身体を傷つける例が多いように思われます。

 イレズミには、マジナイの意味もあったらしい。

 

 先日昼食を摂りに出かけたところ、倶利伽羅紋々というほど勇ましいものではないが、いやに入墨が目立った。

 

同行していた役員に「彫り物って体が冷えるんだってね。」と話しかけると、「そんな程度で済めばいいんですが、肝臓を傷めるらしいですよ。」との返事。

知人の知人が背中に彫り物を背負っていて、お酒を飲まないにも拘わらず二人が肝硬変で若くしてなくなったという。

 

身体髪皮膚(しんたいはっぷ) 之を父母に受く

敢えて毀傷(きしょう)せざるは 孝の始めなり

 

むかしは、身体に傷をむりにつけないことが孝行の始めだと習った。

 

いま、親孝行などというと古いなんて言われてしまうが、親がどんなに慈しんで子を育てるかは、自分が親になって初めて知る。

 

人類発祥以来、連綿とうけつながれてきた命であってみれば、自分のことだからといって、勝手に仇や疎かにしていいものではあるまい。

 

 

 

2013年12月25日水曜日

クリスマスに定番としていること


クリスマスには、デコレーションケーキではなくてシュトーレンを食べる。

シュトーレンは、ドイツのケーキで柱とか棒とかの意味があるらしい。

当家では、ピアニストである倅が、ドイツ語圏に長く住んでいたので、そこで作り方を覚えた。彼が自分で焼いたのと、家内が焼いたのとを、薄く切ってこの時季に食べます。

 

それとともに定番となっているのが、バレエの「くるみ割り人形」をみること。

今年は、DVDでマリインスキー版を見ました。

2013年12月24日火曜日

盾の発達しなかった文化


中国の『韓非子』の故事に基づく「矛盾」とは、むかし楚の国に矛と盾を売り歩く商人がいて、矛を売る時は「この矛はとても鋭いので、どんな堅い盾でも突き通す」と言い 、盾を売る時は「この盾はとても堅いので、どんな鋭い矛でも突き通せない」と言っているのを、或る人がとがめて、「ならば、その矛でその盾を突いたらどうなる?」と聞いた故事。

 

原文はともかく、書き下ろし文は次の通りです。

 

楚人に盾と矛とを鬻(ひさ)ぐ者有り。
之を誉めて曰はく、

「吾が盾の堅きこと、能(よ)く陥(とお)すもの莫(な)きなり。」


又其の矛を誉(ほ)めて曰はく、

「吾が矛の利(と)きこと、物に於いて陥(とお)さざること無きなり。」


或るひと曰はく、

「子の矛を以つて、子の盾を陥(とお)さば何如。」


其の人応ふる能はざるなり。

 

矛盾についての話は、そういうことでありますが、日本の武器・武道においては、どういうわけか防御のための盾というのが無いように思えます。

刀にしても槍にしても両手を使うから、盾というものが出てこない。

潔いと言えば潔いのではあるが・・・国民性なのかしら?

 

2013年12月23日月曜日

歯のある植物?


TVで、園芸番組を見ていて、思わず耳を疑いました。

ポインセチアが人に噛みつくのかと思ったからです。

それは、「ポインセチアの歯には毒があるから気を付けて下さい。」と言ったことからであります。

よく聞いてみたら、ポインセチアの葉と茎から出る液体のことを言っているらしい。

「歯と葉」が読み分けられないとは・・・

 

天下の公共放送N局なんだから、気を付けて放送しましょうネ!

 

振動・音叉・共鳴


 離れているのに音の振動が空間を伝わって共鳴することは、よく知られています。

 この世のことは、物質も含め全て振動数の違いによって現れているという人もいます。

 

「類は類を呼ぶ。」とか「類は友を呼ぶ。」とかいいますが、善は善を引き寄せ、悪はアクをひきよせる。

 その人の心のありようによって同じものを引き寄せ、対立するものを撥ね返すらしい。

 

 ツキとかヒラメキとか、何か偉大なものからの精妙な知らせは、澄んで清らかでいるところに齎されることが多いようにみうけられます。

 

 他人との関わり合いだって、だらしなくて汚ならしい人は避けたいと思うのが普通の人情でしょう。

 

 身を清め、こざっぱりした服装で過ごした方が、本人だって気持ちよいに決まっている。その方が、回りに良い人たちが寄ってもきやすい。

 

 お掃除もきちんとしないと、人だって良い運だってやってこないのは自明の理だと思うのですが・・・

 

 

2013年12月22日日曜日

イヒヒヒヒ と言っても笑いではない


Ich bin also bin ich. (我思う ゆえに我あり)

イッヒッヒッヒ(笑い)・・・この科目の成績はよろしくなかった。

 

 これで思い出すことに、わが国では対になっている美しいことばが古来よりあったということ。

 

 牛を追う・馬を引く・鳥を刺す・etc.

 そのほか、物を数える単位なども美しい。

 

そういう美しい言葉が失われるにつれて、2千数百年の歴史が培った日本の美徳も失せていきつつあるように思えてならない。

 

 自分以外の命も軽く考えすぎなのではなかろうか。

 この時季になると毎年どこかに現れる林檎泥棒や稲泥棒も、人様の努力の結果だけを攫っていってしまうような行いであることは、他人を軽んじるということでは同列だと思います。

余りの身勝手さに言葉を失う。破廉恥極まりない。

 

 戦後、安直に権利を主張するのあまり、「公」というものがどこかに追いやられてしまったようです。

少なくとも殺生を憚ることと、人様に迷惑をかけないようにするというくらいのことは、ちっちゃいうちに親が躾けておけってんじゃ!そのことに理屈はいらない。

 

 

2013年12月21日土曜日

大晦日のお年とりにはブリを食べた


 信州にいた子供の頃、東京の年越し蕎麦と同様の習わしとして、大晦日に「お年とり」といって食したのが、アジ科の海水魚の鰤(ただし、高くて切り身でしか買えなかった。)でした。

大きくなるにつれて名前が変わる出世魚だということであったが、何回名前の変わる順番を聞いても、いまだに覚えられないでいます。

 

 お早苗饗(おさなぶり)・・・お田植えがおわると、田のかみさまを送るお祭りというかお祝いというか、神棚にイネの苗を供えて豊作を祈ってお参りしたものでした。

 

 千振(せんぶり)・・・山道の土手などに生えていて、リンドウ科なのに白い小さな花をつける薬草がありました。たしか胃腸に効いたのだと思いますが、舐めるとたいそう苦かった。

煎じて千回振り出してもまだ苦いというのが、名前の由来とか。別名、医者倒し。

 

 ことほどさように、「ぶり」というのは大切なのでございます。

何事の修行に入るときも「ふり」からはいることが多いのでは・・・。わが不利な押せな~んてね。

なに、そりゃ我が振り直せの間違いじゃなのかって?まあ、そうも言うけど・・・。

 

 

2013年12月19日木曜日

影と陰について


 陽射しが薄くなって、少しでも暖かい日の当たる場所を求めて歩くことが多い季節となりました。

 ところで、影というのはシャドウの意味で使われることが多いけれど、もともとは光のこと。
 でないと、月影・星影・灯影というのがなんのことかわからなくなります。

 光の当たらないところは、陰といいます。

陰と言えば、日本にはとても素晴らしい言葉があります。
「お陰さまで。」
 なんていい響きなのでしょう。
 世の中、自分の力だけでなんでもも成り立っているのではない。

大きくは神仏などの偉大なものの陰で庇護を受けていることに気づき、謙虚にそれを受け止めたときや、まわりの多くの人達の協力があることを認識したときなどに感謝の言葉として口にされます。

 ちかごろ、自分のことばかりになってしまって、この世が対になっていることを考えない人が多くなってしまいました。

例えば、権利の主張のうらには義務の履行というものが付いてくるのであるし、
 陰陽・善悪・正負、あげればキリなくセットの言葉がでてきます。


 人智を超えた偉大なる力や、誰に伝えたらいいのかわからないときの感謝を表すとき、「お陰さまで。」と自然に口にできたら、素晴らしいことだと思います。

 向日葵畑に大きな熊ン蜂が飛び回っておりました。刺されるのではと恐れる人達が、キャーキャーとまるで害虫扱いをして追い払っておりました。追ったほうが危ない。


 花に止まった姿を見ると、足に沢山の花粉を付けていました。このお陰で花は受粉でき実を結ぶことができるというのに・・・

 

 

2013年12月17日火曜日

口が巧いのを弁巧(べんこう)と言った


 そろそろ初詣で賑わう、霊験あらたかな天狗さまが居る神社も多い。

 天狗といえば、神変大菩薩=役の行者=役の小角を連想してしまうのは、高尾山で見るからかも知れません。空を翔ぶばかりでなく予知能力もあったのだとか。

 

 友人リンクの川柳のなかに

 「予知不能 サイ(角はないらしい)の怒りの 時期と規模」というのがありました。

 

 皆様くれぐれも、サイ難に会わないようにお気をつけ下され。

 AAなんぞは、最初から勝負にならないと痔核痛しおっと自覚致しておりますので、こうして未だに無事生きながらえているのであります。

 叶わぬ高望みをしちゃあなんねえですぜ。無事これ名馬(午年に因み)ということです。

 

 サイに角 無いはずもなし 口オマケ (AA

 オマケの方が多かったりするから、おそろしゅうございます。

 

 そうそう、「勘考する」っていうのは仰る通り、信州では熟考するというよりは「工夫する」というくらいの意味で良くつかいました。

他には「あそこのムスメは、なかなか"ベンコウ"でおありるに。」っていうのもありました。

漢字で書くと「弁巧」または「弁口」。口先がうまいということから発展して、オシャマとか小生意気くらいまでの意味で使われたように思います。

便硬ではありません。

 

 

2013年12月16日月曜日

それは勘違いなのでは?


 先日の朝、電車にのったところ、優先席に頭頂がすこしばかり薄くなったとはいえ、40台とおぼしきオヤジが新聞を目一杯ひろげ、足を組んでふんぞり返って座っておりました。

隣に座っていた人は、このオヤジの後から乗ったのを遠慮してなのか、窮屈そうにしておりました。

 先に乗ったほうが偉いとでも勘違いしてるらしい。

 

 次の駅で高校生らしき男の子が乗り込んできてそのオヤジの前に立ったのですが、この子も気が弱いのか、組んだ足に当たらないように下がって、これもまた窮屈そうにしていました。

 

 時間とともに混んできているのに、いつかな周りに配慮しないオヤジの様子に、さしも温厚な?AAもたまりかねて「邪魔なんだよ。いい加減に足をおろしなさいよ!」(蹴飛ばしたりはしませんでした。)と言うと、そのオヤジバネに弾かれたように慌てて足をおろしました。

マナー上マズイという認識は、最初からあるらしい。

 

 ときどきウラメシそうに注意した此方のほうをチラチラ見ていたが、体力気力とも敵わないとでも思ったのか、一言もなく新聞を読み続ける振りをしてました。

 

 「内臓が弱いもんですから・・・。」とでも言い訳してみろっていうんだ。

 

こんな人でも、会社なり家庭なりに帰ると、偉そうなことを言ってんじゃないかと憶測したわけです。

 公共の場で、お互い譲り合って気持ちよく過ごそうとしない人が多くなったのは何故なのでしょうね。言われなければ知らんふりで済まそうとするのは、いただけない。

大体が、そういうマナーの注意をする人が殆どいないのだから。

 

 

 

2013年12月12日木曜日

星形を描く一筆書き遊びがありました


 いっちゃもっちゃ ちゃっちゃもっちゃ あぶらおけ どんす

こう言いながら子供の頃、一筆書きをしたものでした。

これで何が書けるかっていうと、星の形。

 

 これは六芒星(ろくぼうせい)に似た形になる。

 六芒星は別名ダビデの星ともいうけれど、このマークっていうか形というのかは、伊勢市内の到るところでみられるのが不思議ですよね。

 

 昴星と書いてボウセイとも読む。

日本人はプレアデス星団(昴=スバル)から渡って来た星人の裔だなんていう人がいるらしいけど・・・

 

 伊勢神宮の参拝には、内宮での昇殿参拝というのもありますが、御垣内参り(みかきうちまいり)というのも正式参拝ということらしく、神官の先導で玉砂利を踏んで静々進み、拍手を打ってお参りするというのも浄まるような心地がします。

 

両方やるとより宜しいのでは、と薦め参らせるでおじゃるよ。

なんといっても式年遷宮をしたばかりです。

今年のお爺さんの会の初詣は、伊勢神宮ということに決まりました。

 

心のお掃除です。