2016年1月31日日曜日

どうにもスッキリしない報道

どうにもスッキリしなくて気持ちが悪い。
政治家が金を貰ったから怪しからぬというなら、それはそうであろう。

贈収賄というなら、職務権限のなさそうな話しになりそうだし、それを防ぐためだという斡旋利得罪に該当するということなのだとしても、両罰規定ではないのか?
金を贈ったほうの側も、Sコウギョウだのイッシキという総務担当者だのと聞くだけで、明確な報道がない。筋が悪すぎるという感が拭いきれない。

政治家に陳情はつきもので、口利きをしたことが1度たりともない議員がいるとも思えないが、鬼の首でも取ったように騒いでいて大丈夫なのだろうか?まさか手ぶらの陳情ばかりではあるまい。受け取った額の問題ということにはなるまいから、ブーメランにはなりうる。
一方、金は受け取っても何もしなかったから大丈夫というのであれば、詐欺ということになりかねない。贈った側も罪を問われるから、表沙汰にはなるまいとしているのなら、あざとい。

効果のなかったことに金を使ったということになれば、厳密に言えば、贈った側には本来配当に回すことにできた金だから、背任罪ということになる可能性だってある。
ならば、成功報酬ということにでもするとしたら、事前に渡すのも変な話しになる。

いずれにしても、スッキリしない。
国益を損ずることのないよう、しっかり対処して貰いたいものである。


化石燃料ではないとしたら

何十年も前の、我々がまだ子供だった頃から「後20~30年後には、石油資源は枯渇する。」といわれていた。
しかしながら、そういわれて来たにも拘わらず、50年を経ても一向に無くなる気配を見せない。
それどころか、いろんな理由はあるにしても、原油価格は下がり続けている。
少ないものは値段が高くなるのが理屈であり、無くなるというなら大体エネルギーの開発は急務となる筈が、石油以外のものに進むのには、制約が多そうなのは何故なのだろう?

石油資源はまだまだ沢山有るということなのか、それ以外のことに進むと既存の利権に影響するからということなのか、今一釈然としない。

石油の起源として最有力なのが「有機起源説」である。植物が地下の高温高圧により、石油になったという説のことです。昔はそう教わった。
これだとすると、地下に埋まっている植物に限りがあるので有限ということになる。
しかし、最近その説を否定するような証拠がいくつか出てきているのだという。

それらの証拠から、新たに提唱されたのが「無機起源説」であり、それは地下深くにある岩石に含まれる炭素化合物から石油が出来る、という説です。
地下深くにある岩石にだって確かに限りはあるが、その量は膨大であるから、ほぼ無尽蔵に近いくらい石油が出てくるということになる。

有機起源説・無機起源説、どちらが正しいかはわかりませんが、無機起源説が証明されれば、石油資源は、ほぼ枯渇しないことになるから、エネルギー政策は急を要しないということになる。

そうは言っても、わが国はエネルギー源の殆どを他国に頼っているから、安全保障上の問題はついてまわる。
自前のエネルギー源は、どうやらありそうなのだが、開発には何か問題があるのだろうか。

2016年1月30日土曜日

どれが本当の国益に結びつくのか判りにくい

デフレからの脱却を図らねばならない大事な時期に、国益を損ずるような議論に汲汲としていたら、どちらが国民の信を失うかを考えた方がよい。
物事には優先順位というものがある。
バランスというものを考えられないと、大勢を誤る。
今回の案件は、そもそもが両罰規定のはずだが、一方だけが取り上げられ他方は実名も出ない。
変に出来過ぎていて胡散臭さを感じさせる筋の悪い問題だと感じさせられる。
国益を考えて、冷静に本論を進めて欲しいものである。ツケを払うのは誰か、ということを抜きにされては困る。

日本の財政赤字の額は危機的であり、このままでいけば大変な事態を迎えると、財務省やマスコミや学者が口を揃えていうが、日本の場合はちょっと特殊な気がする。
確かに、国債の発行残高は巨額だとは思うけれど・・・

しかし他国の基準に合わせたら、国・或いは政府の借金とカウントされているものは、半分以下なのだという説もある。
日本の持つ対外資産は莫大であり、それは世界のトップクラスなのだとか。
借金のない会社はないとして、企業経営なら、B/Sで一目瞭然なのだが、国となるとそういうものは目にしない。

世界の経済状態が厳しくなると、円が買われ円相場があがる。
借金漬けで危ないという日本が、そういうときに信用されるのは何故?と思ってしまう。
ネットでいろんな説を読んでみると、いずれも書いている側の主張はなるほどと思わされるが、果たして真実はどうなのであろうか?
危機感を煽るような記事にも違和感を覚えるし、楽観論についても安心しきれない気持ちが残る。
思惑なしで、解り易く説明してくれる人がいないものなのだろうか。

2016年1月29日金曜日

中国人も昇殿参拝するらしい

今年の懇話会(同業経営者で気の合った仲間がつくっている会)新年会は、浅草寺から始まった。
本殿に昇殿してご祈祷をうけたのだが、祭壇前にずらりと並んだ供花の名札は、その殆どが中国人名であることに驚きました。日本人名は数個。
雷門から仲見世通りに聞こえてくる言葉は中国語が確かに多かったけれど、観光の為だけではないということなのだろうか?
1月下旬というのに、まだまだ初詣客で溢れていました。

2016年1月28日木曜日

爽やかな気分が残る落語「井戸の茶碗」

昨日は、春風亭一朝師匠の落語を聞きました。
寄席の落語というのは、その場にならないと演目は分らない。
「井戸の茶碗」でした。この噺は、何回聞いても良い。
身分の上下を問わず、日本人が持っていた正直さと誠実さが解っていないと、理解できない落語であるが、面白い。
後に、爽やかな気分がのこる。


2016年1月27日水曜日

解釈が違えば憎みあう対象となるのだろうか?

宗教から始まる争いというのは多い。
「異端は、異教より憎い。」
異端を打ち負かすためなら、今まで敵としてきた異教とだって手を結ぶというのでは、何ともやりきれない。
昔から言われる同族(近親)憎悪というか、仲の悪い親戚同士ほど激しく憎みあい争い合うということは、周りで見ないわけではないが・・・

我が国にだって、宗派ごとの争いはあった(或いはる)が、今は殺し合うほどの激しいものではなくて、ある程度許容しあっている。
信じるということに、他の人の信じることを全否定しないという精神の奥行きがあるということであろうか?

自分の信ずることのためにテロに走る。それも無辜の民を対象とするソフトターゲットを戦略とするのでは、主張に同感を得られないと思うのだが、騒ぎを起こして注目を集めれば、何とかなるとでも思っているのだろうか?

我が国にも暗殺の歴史がないわけではない。
昔は巨魁と言われる政敵を斃せば、革命というものは成ったかも知れない。但し、自信の命と引き換えにする信念というものに、歴史的に一定の理解が得られるということは必要であった。

現代の民主主義の世の中というのは、リーダーを一人や二人倒したところで、替りはいくらでもいるから、体制を変えるためにはそんな非効率的な手段が有効とは思えない。
反対する者は皆殺しにするまで止むことがないとしたなら、つまるところ世界中で一人だけが生き残るということに繋がる。
そんなことに、人としての正当性を認めることはできない。

信じ込んでしまったものはもはや理屈ではないから、議論して互いが納得できるものを導き出すことは難しい。
ましてや、今までの行きがかり上の恨みつらみも加わってこんがらがった想いまで、綺麗に洗い流すことには絶望的ですらある。
人智ではもはや如何とも難しいとしたら、人類全員が納得するかひれ伏して従うことができる大神様が現れるのを待つしかないのだろうか。

そんなことはあるまい。
いざとなったら、人間はそんなに愚かではないと思う。
面子で世の中よくはならない。

2016年1月26日火曜日

エイヤッとばかりに目をつぶってまで結婚してしまう時代もあったが

結婚しなくても良いという若者が多い。お互いが好きになるということはないのだろうか?
無理して結婚しなくてはならないことはないが・・・

振り返ってみると、昔の若い男女たちは、お互いが好きになるといつも一緒に居たいと願って、それが結婚に至った。
食べられるか食べられないかよりも先に、互いが好きかどうか、一緒に居たいかどうかであった。
男は懸命に働いて、何もないところから始めた家庭を立派に成り立たせられるように努力したし、女はそれを支える思いやりと優しさをもって協力しあった。
成功者と言われる人たちの多くは、勇気をもって家庭を築こうと一歩踏み出したところから始まっているのだと思う。
彼らの世代が、日本の戦後の急速な経済発展をなしたことに疑いはもてない。

最近の若い男性を見ていて感じることは、冷めた目で女性を見ているのではないかということ。
女性の方も、自分が努力して一定の地歩を固めた同性を基準にし、自分の事は棚に上げてそれを保障できそうかどうかで男を品定めして、それで良いとしている節が見える。
自分も参加して何かを作り上げようとしている気配をみせないということである。

女性の要求水準が自己に見合わず高いから、男は最初から諦めてしまっているようにも見えてならない。
泥まみれになってでも取り組もうとするのは、格好悪いという風潮もありそうだ。
苦労は、最初からしたくはない。

それが悪いというつもりは毛頭ない。時代も違うし、考えることも違って当然です。
理想は高く掲げなければ、進歩発展はないからということもある。
しかし、勇気をもって始めなければ、なにごともできないのはいうまでもない。
やる気を起こさせるのは、互いを認め励まし合う優しさなのだと思うが、乱暴な言葉づかいをしている中から、それらは生まれてこないのだと思う。

2016年1月25日月曜日

週刊誌ネタから揉めることが多い

政局とは、簡単に言ってしまえば政治の主導権をめぐる争いが表面化すること。

政局にする以上は、責任をもって国事を成し遂げる政策や、審議されている法案の対案或いは修正案を提示して、多くの賛同を得られなくてはなるまい。

反対の為の反対を唱えて、本論から外れたことを人質のように種にして、重要法案の審議をしないで時間を浪費するのを、今までさんざん見てきた。
政治家に清廉潔白であることを求めることは、信頼を委託するためには重要であろうが、国益に何も資することのない政治家であっても困る。
何を成したか、或いは何ができそうかということを、抜きにするわけにもいかない。
疑惑として出てくるものに譲れないものもあるにしても、ほどほどが良い。

国家公務員と違って選挙で選ばれる議員というのは、そういうものである側面を認めたくはないがもっている。
多少悪いことをしても目をつぶるから、みんなの為になることをして下さいよ、ということでもある。
「沈香も焚かず屁もひらず」のような人を選んだわけではない。

しかし、政治というものには、そんなに金がかかるものなのだろうか?
政治資金については、与野党ともに今までにも問題になったものがあるが、野党議員の場合は、大抵うやむやのうちに終わったように感じる。
与党議員の場合は、そういうわけにもいくまいが、政策が大詰めの段階に来て紛糾するのは、残念なことである。


2016年1月24日日曜日

夫婦仲が良い小鳥たち

庭に小鳥たちがやってきます。
近所に地主さんの屋敷があって、そこにかなりの木々が茂っているとはいえ、巣があるとまではおもえません。
歩いて20分ほどのところにある石神井公園に住みついているのだろうか?
メジロ・ヤマガラ・スズメ・ハト・ヒヨドリなどなどです。
不思議に思うのですが、群れて飛んでくるスズメ以外の鳥は、大抵がツガイです。
小鳥たちは夫婦仲がよいのかもしれません。

2016年1月23日土曜日

世界中で株安だというが

株式の相場が下がっているというニュースが多い。
中国が影響しているのだという。
中国で株式を売買しているのは、80パーセント以上が個人投資家であり、もはやギャンブルに近い様相を呈しているのだとか。

日本における株式市場で株の売買をしているのは、65パーセントが外国人なのだという。
株式は、企業に投資して、その企業が上げた利益の中から配当金を貰うというのが基本なのだろうが、実際はそんな小さなところではない売買利益を求めての動きであることは、門外漢の私にもわかる。
原油安・世界的にものが売れない経済状況・国ごとの金利政策、そんななかで利益を得ようとするのは大変であろうと思うが、得られた利益が設備投資などにむけられ、実体経済が上向くまでは、世界情勢も安定しそうにない。
こういうときは内需の拡大を図らねばならないということになるが、買いたいものがないと言われる時代にさてどうするか。
内需となれば、消費税も心配の種になる。消費税があがれば、買い控えも起こるだろうし・・・

2016年1月22日金曜日

智慧は行動に結びついてこそ

命がけではあったにしても、明治維新を成し遂げ、国の近代化の為に働いた志士たちの思想の中にあったのは、陽明学であり「知行合一」というものがあったのは疑いない。
陽明学は、認識と実践(あるいは体験)とは不可分と考える。
たとえば美しい色を見るときのことを例に取ると、見るというのは「知」に、好むというのは「行」に属する。ただ美しいと感じてその色を見るときには、すでにして好んでいるのであるから、「知」と「行」、つまり認識と体験とは一体不可分であって、両者が離れてあるわけではないとし、「行動を伴わない知識は未完成である」とも言い表される。
王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであるとを主張し、知っている以上は必ず行いにあらわれるとした。
知行合一は「知は行の始なり、行は知の成るなり(知ることは行為の始めであり、行為は知ることの完成である)」

こういう学問をしたのは日本のみではないが、惜しいかな隣国あたりでは、国の将来を考える者がいても王の気分で、才能あるものが重用されることがないばかりか、殺されてしまうという憂き目にあった。近代化ができる筈がなかった。
身分の上下に関わらず、実務に携わることは大事であることを知らねばならないとしていたかどうかということであろう。


2016年1月21日木曜日

コーヒーの飲み方

コーヒーを淹れる。コーヒーを沸かす。コーヒーを(抽出)だす。コーヒーを落とす。
表現はいろいろありますが、今日はドリップです。
焼きあがったシフォンケーキを切り分けて・・・




2016年1月20日水曜日

雪かきをしない所は、長く残りそう

東京にも雪が降りました。
諸方にいろいろ被害がでて、ただ雪の美しさのみをいうわけにもいきません。
かなりの積雪でありましたが、今回は雪だるまを作る子供を見かけませんでした。
朝方に雨混じりになったからかもしれません。
気の利いた大人が付き添って、迷惑にならない場所につくるのならまだしも、駐車場の車の出入りに障りとなる所につくるのを、注意もしなくなった親がいることも困ったものだが、今回はそれも無くてよかったのですが、自分の車の出入りするところの雪かきもしないおまけつきでした。
翌日が冷え込んだので、長く消え残りそうに凍り付いています。東京は、雪に弱い。

写真は、降り始めて2時間くらいの夜半のものです。




2016年1月19日火曜日

現代の女性は男顔負け

女賢しゅうして牛売りそこなう

牛の売買には多年の経験による知識を必要とし、浅知恵でこれに手を出すと、大損につながるという故事から出た諺です。
女の知恵というのは、狭い視野での判断しかできないので、いくら賢そうに見える女でも、下手に出しゃばるととんだ失敗を招くという喩えとして使われた。

似たものに
・女の賢いのと東の空明かりとは当てにならぬ
・女の知恵は鼻の先
・女が口をたたけば牛の値が下がる
・女の利口より男の馬鹿がよい
などというのがあり、現代の女性がこれらを見れば、烈火のごとく怒るに違いない。
昔の人は、女性になぞらえたが、門外漢がという言葉に置き換えれば、意味が通じやすい。
現代の女性は賢い。男性も奮起しなくてはと思う。

2016年1月18日月曜日

メンドリが朝を告げる?

雌鶏(めんどり)が時を告げるようになると、国が滅びる。
「牝鶏(ひんけい)ノ晨(あした)スルハ、惟()レ家ノ索()クルナリ。」索る、は=尽る
から来ている諺?
「晨する」とは、夜明けに、雄鳥が「コケコッコー」と鳴くのを指します。
要するに、責任を果たすべき役割を持つ人が、その役目を果たさなくなるとということであります。
男女同権を否定する心算はありませんが、自ずから持っている役割は、端的に言えば男には子供が産めないことが自然の摂理であるように、そもそも持ち分が違う。
何でも同じと考えることには、土台むりがある。
役割としてのものをどのように認め合い、各々がその責任を果たすか。
男は、女の望むような者になるといわれますが、角を矯めて牛を殺すではないけれど、男女ともに自覚しなくてはならない役目と果たさねばならない責任があるように思えてならない。


2016年1月17日日曜日

認め合うところがないと

一神教の神様を信じると、他の神様は全部否定しなくてはならないように見える。
場合によれば、それを悪魔とまで呼ぶ。それを信じる者は、人間ではないと見做すこともかってはあったように記憶する。
神様は、祈りや感謝の対象であり、敬うのはよいが、その域に近づこうとすることは許されないのだと聞く。経典の教えに従う。
最後の審判というのがあり、天国に行くか地獄に行くか決まるらしいが、その基準となるものは何なのか解らない。殺生戒などというのもあるのだろうか?
その割にはよく戦争をする。日本に平和憲法を押し付けた後の世界各国は、戦争の放棄という流れにはならなかったのは何故なのだろう?

そんなことを題材にしようというのではない。宗教を研究したこともないから、比較することも僭越ということになる。
ただ単純に、認め合うということができないものなのかと思うのみである。

無宗教と言われもする我が国における宗教?というのは、神の領域に近づこうとすることが禁じられてはいない。
死生観が違うのかどうか知らないが、神の領域ともいえる悟りを目指す人がいることを、誰も否定しないし、返って尊敬している。行いが優れてくることを知ってもいるからであろう。
森羅万象の全てに神性を見出し、自然物であれ人間であれ動物であれ、優れたものはそれを認めて、神として敬い祀ることに違和感はない。
その結果として、慈愛とか慈悲とか、西洋にいうところの博愛というのを、神ではない人間がする国のように思える。平和というのは、そういうものの延長線上にあるのではなかろうか。

2016年1月16日土曜日

正月はリセットのチャンスとなる側面を持つ

世界中に争い事は絶えない。
夫々に主張はあるだろうが、大半は過去に囚われているからのように思える。
これから先の平和を求めるなら、一旦全てをチャラにして、理想として目指せることを新たに構築するということはできないものなのだろうか?
価値観が違うというなら、その価値観も共有できるものを知恵を出し合って導き出す。

虫の良い事を言うなという批判は当然のことでるだろうが、真っ新なところから始めなければ、いつまでたってもケリがつかないのが多すぎるのではないのか?

なぜ、そんなことを言うのかというと、お正月の行事を見ていて感じたからです。
日本の神様は、「昨年までの諸々の禍事(まがごと)罪穢れをいったんチャラにして、新たに物事を始めよ!いつまでも引きずっているものがあると、先には進めまい。」というお許しの行事としたのではないか、と。
さればこそ、新たな気持ちで真剣に取り組まなくてはならぬことではあるが。

2016年1月15日金曜日

拒否反応を起こされてしまう意見の出し方

相手の言っていることを聞いて、意見を擦り合わせることは難しい。
自らの信ずることを主張するのは良いにしても、相手の信ずることを一方的に拒否して聞く耳を持たないというのも困る。自分だけが正しいというのは、殆どの場合ない。

全体像をつかみ、そのなかから双方が「なるほどそうだ」と納得できる案を、議論をつくして構築するというのは難しいにしても、感情的に先鋭化した言葉で一つの事象のみを取り上げているのでは、全体バランスがとれまい。
しかしながら、それを調整できる知恵は残念ながらまだない。便宜的には多数決ももって決めざるを得ない。それでも、何をもって多数とし、何をもって代表的な意見とするか?
大声を上げると目立つから、そうする人も多い。

卑近な例では、SEALDsが「戦争法案」と決めつけ、学生の代表のようにいって、ただただ反対と叫び、それにマスコミも同調していたようだが、最近目にする記事では、殆どの学生が相手にもしていない団体だったということがわかる。
意見そのものは否定しないが、代表だと名乗るなら、その根拠は要る。

大多数を目指すには、穏やかなマジョリティーを無視できまい。彼らは冷静に判断していて、拒絶反応を誘発するような言動は、それを自然に避けるように思える。

2016年1月14日木曜日

遺伝子のDNAミトコンドリアを鑑定すると祖先がわかるという

遺伝子のミトコンドリアを調べれば、日本人のルーツが分かるまでに遺伝子研究が進んでいるのだという。
日本人の先祖は、大陸や半島から渡ってきたのだと教わってきましたが、遺伝子で調べると、それは違うらしい。勿論混血はあっただろうけれど、割合は、どこが多いかということになる。
旧石器時代の遺跡を調べることにより解ってきたこともあるという。
それによると、そのころの半島には人が住んでいなくて、朝鮮半島に最初にいたのは、縄文人であり約7千年前に無人の朝鮮半島に、意万年以上前から日本に住んでいた縄文人が渡ったのだということになってしまうらしい。
朝鮮半島から出土した人骨の、DNA鑑定で分かってきたことだという。
朝鮮半島から出てくるものは、縄文土器で、弥生土器はでてこない。即ち、朝鮮半島にはその頃、何も無かったということを科学が証明してしまうのだという。

だからどうだというのではありません。
もっと元を辿れば、アフリカのたった一人の女性に行きついてしまうのだというから、そんな太古の昔から、人類は世界を巡っていたのだと驚くばかりです。
世界中の人類が、親戚関係をもっているということになるのでしょうか?


2016年1月13日水曜日

私が書いている小説

小説「夏風越の(なつかざこしの)」というのを書いています。
幕末から現代に生まれ変わって、超常現象を介して話しが進むシリーズ。第三部進行中。
正月休みを利用して、少し話を進めてみました。
当初は短編のつもりでしたが、時々興に乗って書きたしているので、長くなりそうです。
自画自賛ながら、結構面白いです。
ご用とお急ぎでない方は、気がむいたら読んでみて下さい。

知っているくらいのことはある方が良いとおもう歴史

「人様に迷惑をかけないようにしなさい。」「きちんと挨拶をしなさい。」「お世話になったら、ちゃんとお礼を言いなさい。」「年長者は敬いなさい。」「お天道様が見てるんだから、ウソはつくんじゃないよ。」
幼かった頃、どこの親も、周りの大人が言うことも、大抵は同じであった。
昨日今日そう言うようになったのではなく、ずっと長きにわたり続いてきた躾けであったと思う。

戦後、中韓が言う歴史カードというものに対して、学校でも全部日本が悪かったと教わっていたから、そうなのかとも思い、人間の本性が一時的とはいえ、普段接する大人たちを見ていてそんなに急激に変わるものなのか、そんなに悪いことをしたのかと不思議に思っていた。

敗戦したことで、生き延びる為にそう教えられ、それ以外を知らされるることなく過ぎてしまったことは、ある意味でやむを得なかったことなのかとも思う。
それによって発展したことも事実ではあろう。結果が悪いことばかりではなかった。
しかし、それらの発展は、戦後の教育によるばかりのことではなく、驚異的ともいわれる復活は、本来持っていた勤勉さであったり、蓄えられてきた技術力であったり、長く積み重なってきた文化の礎があったことも否定できまい。

日本自身が否定してしまった大東亜戦争について、海外では違う見方をしている方が沢山いることを知る日本人は少ないのではなかろうか。私自身もそうであった。
彼らは、実に冷静な見方をしているように思えてならない。
だからといって、今更どうこうしようというわけではないにしても、我々が知らされていないことを述べている方が、どのように言っていたかという事実くらいは、知っておく必要を感じます。

大東亜戦争の真実(海外の声)

神風はなぜ世界で尊敬されるのか


2016年1月12日火曜日

後世に歴史の解釈は変わることだってあるかも知れない

このところ歴史に興味をもって、ネット記事を読むことが多くなった。
歴史というものは、当事国の都合や見方があるから、同一の判断がなされないのは当然として、良い悪いの観点からではなく、事実を事実通りに記述するという作業はお互いにできていないのではないのかと感じる。

朝日新聞の記事訂正についても、言論に対する圧力があってそうしたのだという海外の意見もあるらしいから、押して知るべしということでもある。

なまじ真相を究めようとすると、できあがってしまった価値観に対する歴史修正主義だとして一括りに処理され、拒否反応はあっても真意は伝わり難い。
更にそこに感情というのも加わるから、難しさはいや増す。

「アジアには日本がいた。アラブには日本がいなかった。」 エジプトのナセル大統領の言葉です。
ことほど左様に、ナセル氏に限らず、各国指導者たちの受け止め方というのには賛否ある。

しかしながら、どうしてそういう歴史の結果を招来したのかということを検証するには、丹念な事実関係の積み重ねが重要なのではないだろうか?
何事にも、どちらか一方が100パーセント正しくて、他方が一方的に悪いということはない。
その時の法に照らして公平に裁判するということもできてはいないと思える。
現在の価値観でできている法をもって考えるのは、安定性を欠く。
過去を覆そうというのではない、という前提条件をつけてでも、今やっておかねばならないことは多いのではなかろうか。予算をつけてでもすべきことかと思う。

ルーズベルトが何を言い、何をしたか。
チャーチルが何を言い、何をしたか。
スターリンが、毛沢東が、どのようなことをしたのか。
ヒットラーが何をして、東条英機が何をどう言いどのようにしたのか。
その時代の経済・政治・国際情勢などの背景はどんなものだったのか。

こういったものを学問的に感情を交えず互いに研究し合うということなくして、結果に対する反省も将来に対する理想も共有することは難しいのではないのかと思える。
互いに痛みを伴うことが多かろうとも、人類の未来の為には通らなければならない過程なのではないだろうか。


2016年1月11日月曜日

空が白むまで聴いてしまった「春の声」

今年は、毎年恒例となっているウィーンフィルのニューイヤーコンサートの番組を何故か観ませんでした。
それで金曜日の晩、オーケストラではなくて歌で聴いてみようと思い、エディータ・グルベローバとルチア・ポップの「春の声」を、TVにユーチューブから表示したのですが、余りの素晴らしさに感動して何度も再生したので、気が付いたら朝の4時になっていました。

Edita Gruberova
https://youtu.be/nl44RYPQUUE
Lucia Popp
https://youtu.be/IWMrPQ0VKWg

グルベローヴァの先輩であるルチア・ポップは、1963年にブラティスラヴァ歌劇場でオットー・クレンペラーの指揮による「魔笛」の夜の女王役でデビューを果たし、同年にウィーン国立歌劇場と契約して以降、国際的にコロラトゥーラ・ソプラノとして、その後はリリック・ソプラノとして活躍したというが、亡くなってしまっているのが残念です。可愛らしい容姿で、あの細い首でよくあの声が出せるものだと思わされます。

マリア・カラスも良いが、私はエディータ・グルベローヴァが好きです。「夜の女王」は、絶品としかいいようがない。
旧チェコスロヴァキアのラチャ村で1946年に生まれたグルベローヴァは今年69歳で、引退してもおかしくない年齢だが、デビュー当時とほぼ変わらないレパートリーを完璧に歌い続けていることには驚くばかりです。
昨年3月に催された45周年記念コンサートをユーチューブで観ましたが、コロラトゥーラは片鱗の衰えさえ感じさせない。楽団員が尊敬して、一緒に演奏できたことを名誉に思って喜んでいる様子も何故か嬉しい。

何回かコンサートで生の声を聴いている倅の解説を聞きながら聴くと、ピアノをやって求めてきたことと通じることが多い経験から解るのか、彼女がどんな凄いことをやっているのかが伝わってきて、より興味をかきたてられています。


2016年1月10日日曜日

教わったことと違うのではと思ってしまう、写真から感じる植民地支配

学校で教わった通り、日本は朝鮮を植民地にして搾取したのだとばかり思っていた。
しかし、侵略して植民地にしたのではなく、歴史上の事実は先方からの申し入れにより、合法的に条約によって併合したのだという。
彼の国の人たちが声高に叫ぶ「日本は正しい歴史を学べ!」というのは、本当のところどうなんだろう?と事実を調べる動きにつながる。
日本人の「眠っていた子を起こす」結果につながった。

ユーチューブに出てくる写真資料を見ただけでも、これでこんな状態の韓国から植民地として何を搾取できたのか?と疑問が湧いてくる。
彼の国の人たちは、こういう資料を見た上で言っているのだろうか?
事実を調べるのは勇気がいる。

併合前の韓国

もっと心が痛むことがある。
今回の日韓合意は、日本が韓国の少女=処女を強制連行し慰安婦としていたことを認め、謝罪して賠償金を支払うことになったと、諸外国では報じられているのだという。
A新聞と、外務省・政府は、真実をどのように説明するというのだろうか?
単純に考えて、20万人×50人(1日に取らされたという客の数)=1000万人の兵、ということになる。
これでいつ戦争ができたというのだろうか?
摺り込まれてしまったことを匡すのは、もはや難しいのではないかと、暗澹たる気持ちになる。