2017年3月31日金曜日

西洋の祭りだが

日本では、クリスマスが定着したばかりでなく、イースターも違和感なく祝うようになった。
西洋のものでも東洋のものでも抵抗なくとりいれ、日本古来の祭りもあるから、商店街はいつも忙しい。賑やかなのは結構である。

復活祭は基本的に、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、年によって日付が変わる移動祝日である。日付は変わっても、必ず日曜日に祝われる。

復活祭を表す英語は、イースター(Easter)、ドイツ語は、オースタン(Ostern)」。
ゲルマン神話の春の女神「エオストレ(Eostre)」の名前、あるいは彼らが用いた春の月名「エオストレモナト(Eostremonat)」に由来しているともいわれる。



2017年3月30日木曜日

個別の事象をつついているだけでは

小説の世界もそうであるし、日常の社会生活においてもそうであるが、ものごとには前後の経緯というものがあり、全体像として捉えて理解することが大事だということは当然である。

そんなことは改めて言うまでもないことだと思っていたが、そうばかりではないらしい。
マスコミの報道も、国会での議論もそうなのだと、大して意識もしないでいたが、このところいろいろ騒がれる問題が多いので、すこしばかり注意して読んだり聞いたりするようになった。

意外なことに、一部の言葉なり事象だけを切り取って、本来の実態とは違った意見を述べていることが沢山あるように思えてきた。
部分だけを抜き出してものをいえば、いかようにでもとれることは多い。場合によれば、捻じ曲げて批判の対象にすることだってできる。

法律にだって立法趣旨というのがあり、条文には書ききれないことは、それに基づいて理解する。
本意とか目的というものは、全体像の中にある。

自分の思惑に添うように編集したら、それしか情報源が無い人たちは簡単にミスリードされてしまう可能性だってある。
主張する人が基本的にはどういう立場をとっているのかとか、その媒体が普段からどのような傾向をもっているなかというくらいのことは予め理解しておかないと、引きずられて自分の判断を誤ることに繋がりかねないと感じる。
少ない情報量の中であっても、自分で考えて全体像を掴んでみる癖をつけることは必要である。

2017年3月29日水曜日

メール公開で浮かび上がってきた別問題

あちこちつつき回すだけで、何を言いたいのか分からなくていい加減辟易していた森友問題について、論点を整理して解りやすく説明してくれている動画がありました。

違法でも何でも無さそうなことにまで範囲を広げ、説明しろ説明しろと責め立てていた野党議員と、ワイドショーのようにして視聴率稼ぎなのか潰したいものがあるのか知らないが、TVなどで騒いでいた人たちは、きちんとした取材も裏付けもしないで、ただただ疑わしいというだけでそれをしていただけのように思えてきています。
忖度などと、責任のとりようのないことを言われても、対応のしようはあるまい。

マスコミは報道しないが、ネット上には説得力があって納得がいくようなものが沢山ある。
全てがその通りとはいえないまでも、辻褄があっているように思えるのです。

森友学園の土地の値段も、近隣の土地と比べると、喧伝されてきたような不当なものではなかったということが浮かび上がってくる。

ノイホイと呼ばれる自称ノンフィクション作家だかジャーナリストだかの言うことを、検証することもなくそのままニュースにしてしまったマスコミも、流石にこれはまずいと思ったのか、その後は名前も出て来なくなった事情も、ネットで知りました。

それこそ、本当かどうかわからないが、あの土地は決して掘り返してはならない危ない物が埋まっているのだとの記事もネットには出ていた。
マスコミが報じなければ、自分でだって調べられるのだとしている人は多い。

それにしても、一連の騒ぎで出てきた辻本氏への疑惑は、決して見逃してはならず明らかにしなければならないことであると思う。
こちらは、まかり間違えば犯罪となりかねない疑惑を含んでいるからです。
寄付金をしたかどうかなどとは桁違いの内容となっているのではないのか?
マスコミは報道しないが、ネット上では拡散しているから、ここまできたら隠しようがないと思うのだが・・・

2017年3月28日火曜日

桜の花の咲く頃は

茄子は、種類が多いことで知られます。
植物で種類が多いものとしては、ボケは200種類以上だといいますし、バラなぞは数えきれません。
同じバラ科の植物である桜も300種類くらいはあるといいます。
桜の花が咲く頃になると、毎年のように持ち上がる桜の起源説というのがあります。

ソメイヨシノは、済州島に自生していたのだと言うのですが、ソメイヨシノは交配種であるから、絶対に自生することなぞはあり得ない。科学的に言えば、DNAが済州島のものと全く違うというのですが、それがいつまでたっても理解できないらしい。

桜を文化として定着させたのは、紛れもなく日本である。
美しい花の前で、起源説を唱えてみても野暮な話。
良いと思うものを発展させ広めることもできず、ましてや人の用にたてることもできなかったのに、起源説を主張してみたところで、何の気休めにもなるまい。
これからしばらくは、桜前線の移動に伴って花を諸方で楽しめそうです。

2017年3月27日月曜日

もう司法に任せたらどうなんだろう

森友学園問題はなかなか収束せず、どんどんあらぬ方向へ広がりを見せている。
国会での証人喚問や、議会での質疑応答をみていて納得できそうなものというのがいくつかある。

8億円も値引きされたことについては、あの土地は瑕疵責任が担保された物件であり、値段を折衝したのは森友学園側の弁護士と役所の間で法に基づいてなされたということが、籠池氏の証言でも明らかになったことであり、これは証人喚問の前から国会答弁でなされていたことが追認されたということであろう。
瑕疵責任分を考慮すれば、隣接する土地の売買値段と比べ、特段違法性を窺わせる値段とは思えない。
そこに政治家の関与があったのではないかと疑い、或いはあったに違いないとして責め立ててみたが、どうやってみてもそれは浮かび上がってこないから、あれやこれやと戦線を広げて騒いでいるようにしか思えなくなってきた。
疑いをもたれたら、疑われた側がそれが無いことを証明すべきだと野党は主張するが、ないことを証明することはむずかしかろう。
そんなことをいったら、メールが公開されたことで浮かんできた疑惑についても、事実無根だといっている辻本氏側にだって、自らの問題を証明しなくてはなるまい。ただ、これについては、キナクサイ動画が残っているらしい。

議員は陳情を受けたら、その陳情に添って動くことは当然ながらありうる。
野党議員だって、生活保護やら何やらいろいろあるだろう。そこに違法性が介在するかどうかということであり、それが立証されれば額の多寡ではなく責任を問われる。

寄付金が問題だというなら、過激派や違法団体に献金やら寄付やらしている議員がいることだって取り沙汰されているのだから、それを無視して質問に立つことには違和感を覚える。

二重国籍問題とかガソリーヌと揶揄される問題から目を逸らせるというよりも、共謀罪の成立を阻止したいがために、野党とマスコミが一緒になって騒いでいるのだという人もいるが、そうではないことを願いたい。

明確になってきたことは整理して、納得できるとされるものは除外して議論しないと、いつまでたっても終わるまい。
さしたる根拠も裏付け取りもないまま、疑わしい疑わしいというだけで騒ぐのには辟易する。
もう、司法の手に委ねたらどうなのだろう。


2017年3月26日日曜日

捨てずにすんだ家財

家内の母が、老後を気楽に過ごそうと東京から移り住んだ地方都市に、手広く商売をしている女性経営者が居ます。
以前に仕事上の付き合いで親しくしていたこともあって、この方の経営する住居に住まうことになった。
この方は、かなり気腑がよい。3・11の東日本大震災のとき、自分の住居には被害が全くなかったのだが、目の前に住んでいた人の家の屋根が瓦解したとき、自分の商売上の付き合いがある建設業者を直ちに手配して、瞬く間に修復してしまったことがある。
自分の生活がそれによって困ることはないとして、謝礼というものは一切受け取らず「雨が降る前に直ってよかったね。」と言ったのみだったことは、近隣でも有名な話である。

気持ちがやさしいのか、明らかに徘徊していると思われる老人を呼び止めて「上がってお茶でも飲んでいきな。」とリビングに通し、お茶を出して落ち着かせている間に、施設などに電話して迎えに来てもらうというようなことは度々で、根が親切である。

義母が突然倒れて後遺症が残り、介護施設に入らざるを得なくなったことから、家財を整理しなくてはならなくなった。
家の中というのは、想像以上に物が詰まっているものである。

1か月ほどをかけて整理し、捨てられるものは大量であったが思い切って何とか処分したが、捨てるには惜しいものが、これもまた大量に残った。
桐箪笥一杯に及ぶ着物数十枚・殆ど袖を通していない洋服も数十着・ローズウッドの食器棚にびっしり重なった見事な食器類その他・・・

リサイクルショップかネットオークションで捌けば、そこそこの値段になるのかも知れないが、そんなことをする気が少しも起こらなかった。
勿体ないけれど捨て去るより他仕方がないかと思っていたところ、様子を見に来てくれたその女性経営者が声をかけてくれた。
「電化製品も台所用品も、全部心配することないよ。」火災やら災害で困っている人はいっぱいいるよ。衣類などは、90歳でまだ生きている人が使っているものだから縁起がいいから、声をかければ貰い手なら沢山居るよ。
困っている人たちの人助けになるんだから、全部引き取ってあげるよ。」
自分が使おうというのではない。当方以上に十分ものが揃っている人の言うことである。
有り難かった。

処分業者に頼めば多額の費用がかかるだろうし、行き先があって無駄なく使ってもらえそうなのが、なんとも嬉しかった。洗濯機も冷蔵庫も台所用品も、そのまま全部引き受けてくれた。
最初から相談すれば、目をつむって捨てたものの中にも十分役立つものはあった。
下着類の新しいものについては、施設に問い合わせたら使ってくれるとの返事があり、数箱のダンボールに詰めて運び込むことができたのも、気分的にはせめてもの救いとなった。
「全部、あんたたちに任せるから、好きにして頂戴。」と言っていた義母にも、そのように報告した。「あ、そう。」とだけが返事であったが、それで良いという意味であったと感じた。

2017年3月25日土曜日

何を考えて物をつくるか

陛下は、口にされる食べ物に、決して旨い不味いを仰せになることはないと聞いたことがある。
お立場上、料理を饗する側の責任をお考え遊ばしてのことであるとは思えない。
食べ物への感謝があるからだと信じている。
作物を育てる人たちは、少しでも美味しいものになるように努力するし、料理をする人は、美味しさを引き出して、食べる人に喜んでもらえるように、工夫や努力をする。
物の味がわかるという食通は、それはそれで幸せなのだと思うが、何を食べても美味しいと思う人の方が、もっと幸せなのだと思う。

先日通りかかった道に、以前は行列ができるほど繁盛していたお店があったのだが、なくなってしまっていた。
店主の拘りで、一時的に有名になったお店であったが、その拘りというのは客に喜んでもらうというより、自分の味を押し付けるような方向付けだったのかも知れない。
エセ通というのがいて、有名な店ということになると、それだけで旨いと思うらしいが、食べ物には好みがあるから、いつの間にか飽きられて寄り付かなくなったのかも知れない。
どちらの側に顔が向いているかによって、その後が決まってしまう。

立派な作品を残し、一流と呼ばれる職人ということで取り上げられていた番組を見たことがある。
その職人さんがポツリと言ったことで感銘を受けた言葉があります。
「日々工夫努力して、何時の日か陛下のお目にとまり、お手元に置いて頂けるようなものを作りたいと、仕事を続けてきた結果です。」
陛下ということは別にして、自分の技量を高めるのは使う人のことを常に考えての修行なのだと心底思っているのだと感じたのです。

2017年3月24日金曜日

学園の認可と国有地売買が本論なのではないのか

今日も相変わらず森友学園の問題をああだこうだとやっていた。
TVワイドショウでは、「小池書記長は、籠池氏と個別に面談して何を話したのか公開せよ。」とジャーナリストが迫り、隣にいた共産党議員がたじろいでいたのが印象に残る。

今日とりあげられていたのは、谷秘書官からのファックスである。

どう読んでみても、総理夫人から谷秘書官に
「籠池夫人から、無理な依頼メールが沢山きているが、私がどうこうできる問題ではないから、役所の方に問い合わせをしてどうなっているかくらいは聞いてあげて頂戴。どのみちそれは無理だという返答をされるに決まっているだろうから、それをそのまま伝えておいて下さい。」と言われて出したものとしか思えない。なぜなら、
1、以来メールを受けてから日数がかなりたっていること。
2、メールの内容が、決まりきったことをいっているに過ぎない。
3、総理夫人にも報告済みの問題だから、重ねて総理夫人に問い合わせをしないで下さい。
4、私(谷秘書官)も出張に出かけるから、電話はつながらなくなる。
ということが、普通に読んだら読み取れることを、角が立たない言い回しで書かれているとしか思えないからである。

極めて優秀な秘書官であることを推測して余りある。
こういう優秀な秘書官が、後に不利な証拠となるかもしれない文書を残すなどということは考えられない。何の問題もないということなのではないのか?
一般的に言って、与野党を問わず、議員に陳情することは普通になされる。陳情に添って動くのは通常であろうし、そこに違法性があるかないかが問われることはあるにしても、秘書が問い合わせをしたことにどんな違法性があったというのか。それを抜きにしての質問をするのであれば、今後議員は陳情を一切受けられなくなるということになる。

このファックスで、一体何を問題にしようというのだろう?
口利き疑惑に持ち込みたいというのであれば、余りに無理過ぎよう。
何でもいいから、騒ぎの種にして長引かせようとでもいうのだろうか?

本筋から離れたところで騒ぐのはいい加減に終わりにしてもらいたい。

証人喚問というのは解り難い

どうにも解り難い証人喚問であったというのが、端的な感想です。

森友問題の中核をなすのは、国有地が不当に安く売買されたということと、それに政治家が関与していたのではないか?ということであった筈。そこに焦点が絞られない。
今日の質問を聞いていると、森友学園に隣接する土地であった給食センターと、公園の土地売買は瑕疵担保付きでなされ、瑕疵責任として後に国が支払った額を差し引くと、その売買値段が不当に安かったのだとは思えない。
そんなことは、与野党を問わず、情報資料として掴んでいなかった筈はあるまい。
マスコミも含め、流された価格対比は、表面上のものだけであったから、よりセンセーショナルに扱われてきたのではないだろうか?

誰が疑わしいとしたのか知らないが、犯罪構成要件を構成しない寄付金を突破口に、安倍首相に結びつけようとしているかに見えるが、無理筋に思えてならない。
総理夫人から二人だけのときに手渡されたと証言していたが、夫人には秘書官が同行していたというのは明らかとなっているから、それは極めて疑わしい。
公務員が秘書官として随行した場合は、いかなる時も傍らを離れないというのは、随行官を勤めたことのある公務員であれば等しく口にすることである。それが職務なのだと必ず言う。

国有地売買に不正があったなら、明らかにしなければならないが、誰がどのように関与したのかは、一向に浮かび上がってこない。政治家以外の力が働いたのであろうか?

現時点でいえば、副次的な結果として、新規小学校の開設は潰れた。野党が等しく口にする思想信条の自由を潰したということである。
森友学園が、学校として良いのかどうかは判らないが、それは別問題である。

まだまだ結論が出ずに尾を引きそうだが、国会の大事な時間を費やすのに、森友以外の別の思惑がなくてくれるといいと願ってやまない。

2017年3月23日木曜日

福島の人たちはどんな思いで見ているのだろう

安全と安心は、豊洲問題について語られるときは、さして意識しないで聞いているが、都民ではなく福島の人たちは、それをどのような思いで聞いているのであろうか。

安全ではあっても安心ではないという風評被害から、農産物の買い控えをされている現実があるのである。
そういうところにも配慮された報道の仕方というのがあっても良いのではないかと思う。
築地も駄目、豊洲も駄目ということで騒ぎ続ければ、それは世界に向かって東京が危険な場所であると捉えられかねまい。
これに触れて語る人たちは、なぜにとげとげしい言い方をするのだろう。
日本人は、基本的に、悪口を言う人は、長い目で見たとき淘汰される。穏やかに話した方が良い。

そろそろ沈静化の方策を打ち出さないと、感情的な対立が深刻になるのではなかろうか。
本当に危険であるのなら、築地への移転は取りやめという決断をしなければならないだろうが、
それは政治的な決断をするべきであって、住民投票などということにしたら、K国の意思決定の仕方と差はなくなるようにも感じる。

全員が賛成するものはないのだから、民主的な手段で手続きを踏んで選ばれた知事或いは議会が、責任をもって決めるということではないのか。
そうでなければ、選挙で議員を選ぶ意味がないではないかと思う。
今までも、リスクのあることをそうやって決めてきたのだと思うのだが・・・
騒ぐだけで結論がでないというのでは困る。

2017年3月22日水曜日

茶王と呼ばれる中国茶「大紅袍」

中国茶は、種類が多い。

中国・福建省の武夷山は、ウーロン茶発祥の地であり、その中でも「大紅袍」(だいこうほう)というお茶は、「茶王」と称されていることで有名である。

「大紅袍」の茶木は、武夷山天心岩付近の九龍窠(きゅうりゅうか)最後列の岩下に自生している。その場所は非常に険しくはあるが、土壌は潤って肥沃であり、周囲は岩壁に囲まれているため、日照時間が少ないが、これが、茶葉の生長に最適な環境となっているという。
しかし、大紅袍と呼ばれる茶は、畑ではなく岩に根を張った岩茶であることに特色がある。
お茶というのは、何膳か注げば味が薄くなるが、「大紅袍」は9回注ぎ出しても本来のオスマントゥス(木犀)の香りがそのまま残るのが、茶王と評される所以である。

清の時代、首都へ科挙の試験を受けに急ぐ1人の秀才が腹痛を起こし、病に倒れた。
通りかかった天心寺院の住職が、秀才を寺院へ連れて帰り、九龍窠で採ったお茶を飲ませたところ、激しかった腹部の痛みも消え、元気になったという。

その秀才は、無事に殿試(科挙の最終試験)に合格し、状元(主席合格者の称号)となった。
状元は命の恩人に感謝するために、武夷山へ出かけ、住職に不思議な効き目のお茶をみせてもらうと、幹がくねり、表面はコケに満ちて、濃い緑色の葉の間には、赤紫色の茶葉の新芽が出ている古木があった。状元は住職に了解を得て、少し茶葉を分けてもらい持ち帰ったのだという。

状元が都へ戻って暫らくした頃、時の皇后が腹痛を訴えて病に倒れた。
あまたいる侍医たちが為す術すべも無く手を拱いているところへ、状元は持ち帰ったお茶を皇后に献上した。すると皇后の病状はたちまち快方に向かった。
皇帝は非常に喜び、状元に真っ赤な長い衣を与え、武夷山の茶木に賞を授けることを託した。
状元は、茶木のある場所へ行き、茶木にその真っ赤な長い衣を掛けた。
以来、その茶は「大紅袍」と称されることとなり、毎年皇帝へ献上されるようになった。


2017年3月21日火曜日

歴史事実を知ろうとするのは修正主義なのだろうか?

報道の自由は守られなければならないということに異を唱える人はいないであろう。
但し、裏付けも確認した真実である必要はある。飛ばしや捏造であっては困る。
しかしそれにも増して、報道しない自由ということで伏せられてしまったものの中に、重大なことが数多く隠されているのではないのかということは感じる。

細かいことなのか知らないが、正義の味方のようなことを言って、取材対象者の人権を無視し、親類縁者や近辺住人まで洗いざらい報道することについて、制限というものはないのだろうか?彼らが好んで使う人権ということは、彼らが破るのはいいということにしているのだろうか?
正義というのは、そういうものではない筈である。
後に冤罪であったと知れたとき、どうやって回復できるというのだろうか。

歴史問題に関連しても、同じことが言えよう。一部マスコミには、ことさらに反日記事を書いたことはないとは抗弁できないように思う。
捏造記事を書いて、それがどんな悪影響をもたらしたとしても、事実が判った後に謝罪記事を書いて訂正を広く徹底するなら兎も角、そんなことはまずない。
そんなことがいつまでも許されていて良い筈はあるまいが、とどめる術がない。

慰安婦の問題しかり、南京事件しかりである。
証拠として使った写真が明らかに間違っていたと書いた本人が口にした本田氏のことは、報道しない自由かどうか知らないが、訂正されないまま放置され、未だに日本軍が残虐であったことにされたままである。
例えば、日本刀で首を斬るとしたとき、日本人なら刀を両手で持つのであって、決して片手でそれをすることはない。着ている軍服も明らかに日本軍のものではないが、それを日本軍のものとしたのは捏造であろう。
日本軍に凌辱されて殺されたのだとされる写真の中に、和服が見えるのを何といって説明するというのか?殺されたのは、中国人ではなくて日本人だったと推定されるのに十分である。
写真というのは、いつ・どこで・誰が撮ったのかが明白でないものは証拠たりえない。

歴史というのは、事実関係を一つ一つ検証し、それが事実だったのか捏造あるいはプロパガンダによるものだったのかを明らかにしていかなくてはなるまい。
日本ばかりでなく、他の諸国だってもっと残虐なことをしたではないか、と言ってみたところではじまらない。
謀略やプロパガンダによるものは、後々まで狙い通りの悪影響力を及ぼすのである。

事実を解明しようとする動きは、修正主義だとか戦争を肯定するのか、ということにすり替えられ、なぜか日本だけが非難の的にされるが、そういうことではあるまい。
戦争が悲惨なものであるとしたら、余計に真実というものを明らかにしなければならないのは当然である。事実ではないことまで謝罪を求められてきたとしたら、猶更のことではないか。

事実を知ろうとするそれを阻もうとするのは、都合が悪い事が出てくると困るということと同義ではないのか。
戦争に負けたから、植民地主義の悪も、残虐行為も全て日本だけが負わされるということでは、健全な世界への発展は難しい。

東京裁判において、被告席に立たされた人たちが毅然とした態度をとり続け、裁く側に立った人たちが忸怩たる気持ちを顔や態度に表していたのだとも聞く。
もっとも、これは伝聞に過ぎないけれど・・・
そのことを今更言い立てたいというのではない。ただ、事実がどうであったのかを知りたい。
歴史というのは、事実の積み重ねによる評価なのだと思う。

2017年3月20日月曜日

黒船来航で教わらなかったこと

ペリーによる黒船の来航の歴史に関しては、鉄の船が浮かぶことに幕府が驚いて、要求通りに不平等条約を結んで開港したと習った。

しかし、日本が鉄の船が浮かぶことを知らなかったわけではない。古くは織田信長の鉄甲船というのもあるし、維新よりずっと前にロシアの船が日本近海で沈み、それを模倣して鉄の船を作ったこともあるのだという。

ペリー来航の数年前、アメリカの捕鯨船が北海道沖で難破し、乗組員30人位であったというが、15人ほどを必死で救助し、松前藩ではたかだか猟師というにすぎないその船員たちを帰還させるために、それができる長崎まで大名並みに駕籠をしつらえ、食事にも配慮して送り届けたという。しかし、それらの船員たちは感謝するどころか、狭い檻に閉じ込められ粗末な食事を与えられたと不満を言っただけだったという。文化の違いを理解できる教養はなかったのだということになる。

アメリカは、鯨油を採るために大西洋を駈け廻り、そこにいた鯨を絶滅させてしまったので、次なる捕獲場所として太平洋に進出した。
広い太平洋では、水や食料や燃料の補給が必要となるから、日本に開港を迫ったのだというのが、本来の目的であった。
捕鯨反対を唱えるなら、クリーンハンドの原則との整合性をどう考えているのだ?ということではなく、単に歴史上の事実だけをいいたいだけのことである。

幕府の役人が恐れたのは、黒船そのものではない。船に乗せられていたペクサン砲という爆裂弾を水平射撃のできる武器を恐れた。
これで江戸の町を砲撃されたらたまらない。
一年の後返答するということで一旦返し、その間にお台場を作り、そこに十字砲火を浴びせられる砲台を築いた。
帰ると見せたペリー艦隊は、沖縄で乱暴狼藉の限りを尽くし、1年の約束を破って7か月後に再来航したが、江戸湾に入ることは危険であると察知し、横浜に上陸した。

こういう歴史は、学校では教えてくれない。
加えて、南北戦争で使った中古武器を売りつける目的もあったということなどは教えない。
鎖国していたから海外情勢に疎かったのだということはない。アヘン戦争のことも知っていた。ペリー来航の情報も事前に得ていた。疎くないから明治維新を成し遂げ、植民地にされることがなかった。

2017年3月19日日曜日

大量の死者を出したのは戦争ばかりではない恐ろしさ

戦争が好きだという人は滅多にいないと思うが、依然として世界に戦争は絶えない。
起これば、それは膨大な破壊をもたらし、尊い人命が多数失われる。
わかっていてもそれは起こり得るから、自衛と抑止のための備えは要る。
殴り掛かったら自分も反撃をうけ、無傷ではいられないということで自制心を持ち合うことは、残念ながら現実的な対応であろう。
ただ、それが軍備の増強合戦になっていくのを、なんとか防ぐことはできないだろうかと思う。
国と国の戦いということばかりでなく、主義主張や政権維持のために、自国内あるいは支配の及ぶ地域内で粛清や内戦により出た死者というのも、歴史上にはある。
人間というのは時に狂うことがある。

毛沢東(中国)7800万人
戦争によるよりも、革命の名のもとに、自国民に対する殺人も膨大な数にのぼる。その残虐さは、吐き気がしてしまって、読み調べるに勇気がわかない。
どの口が、日本の南京事件に対する虚言を吐き続けるというのか。

ヨシフ・スターリン(ソ連)2300万人
戦争もあるが、政敵を倒すための粛清というのが酷すぎる。

アドルフ・ヒトラー(ドイツ)1700万人
ご存じの通り、ユダヤ人に対するホロコースト。ただ、気になるのは、当時のヨーロッパ諸国には、そういう気配が感じられること。

レオポルド2世(ベルギー)1500万人

エンヴェル・パシャ(トルコ)250万人

ポル・ポト(カンボジア)170万人

金日成(北朝鮮)160万人

李承晩(韓国)120万人
戦争はしていないから、政権を維持するために自国民を粛清した人数が多い。

メンギスツ・ハイン・マリアム(エチオピア)150万人

ヤクブ・ゴウォン(ナイジェリア)110万人

人間の狂気は、それこそ原爆数個分の被害を起こす。戦争によるよりも悲惨である。

2017年3月18日土曜日

大枠を決めて議論しないとまとまらない

世の中に、リスクがゼロなものはないし、全員が賛成で全員が反対なものも無い。
だから、何か問題が起こったときには知恵を集め議論を尽くして、可能な限り多くの人が納得できる方法を探す。
衆議して決まったら、それに従うということがないと、民主主義国家は成り立たない。

衆に優れた政治家や専門家が集まって、素人では判断ができないことを、個人の立場ではなく公の立場で議論を重ねるのであるから、見守るしかないのであるが、議論の方向付けというか枠組みの大前提をしないまま、個々の事象のみを言い募っているように思えてならないことがある。
大枠合意を醸成することなく好き放題を言っていたら、問題はとりちらかるばかりで結論を得るにはいたらない。問題を分けて考えないと、焦点が定まらない。
その結果、不安を煽ることで、自分たちの党利に都合がよいように大衆を味方につけようとしているだけに見えることすらある。

例えば原発問題。
事故が起きれば壊滅的な被害が及ぶから、無くて済むなら無いに越したことは無い。
いかに安全対策を施していても、想定外の自然災害に抗すことはできなかったこともあって、積極的に原発賛成を唱えることは難しい。
かといって、直ちに全廃するというのは、現実的ではないだろうと思う。

1.原発は、持ち続けるのか廃止するのか?
2.廃止するとしたら、電力エネルギーの安定的供給をいかにするのか。
3.施設で働いていた人たちの生活をどうするのか。施設を引き受けていてくれた自治体の今後をどうするのか。構造の体系は当然変わる。
4.費用負担は当然のことながら発生すると思うが、それをどのように分担していくのか。費用を分担するのは厭だというのでは話にならない。
5.原発に替わる設備をどこにどうつくるのか。引受先はあるのか。

ほかにもいくつか最初に考えておかなければならないことがあるだろうが、反対を唱える人たちが、そういう提案をすることが殆どないように思う。

豊洲市場の問題。
今まで長い年月をかけ、多額の費用をかけて進めてきたことが、使用できない施設として放置されるということなのか?
どう考えても、使いもしない地下水のことが問題となって、移転ができないというのであれば、築地に何らかの対策を施して使える方法を考えるというのか、それとも新たに別の場所を考えるというのか。土地の確保ができるかどうかもあるが、そこにはリスクはないのか。
老朽化した築地で万一事故がはっせいしたとしたら、その責任は誰がおうのか。
為政者が決断しなければなるまい。
選挙を有利に進めるために先延ばししているとは思わないが、方向付けは示すべきだと思う。

2017年3月17日金曜日

一番いかがわしいのは誰?

森友学園問題にしても豊洲問題にしても、どうも本筋を議論するというよりも、視聴率稼ぎのマスコミがワイドショーネタのようにして扱っているように思えてならないことにも違和感がある。
わけもわからないような雛壇芸人を何人も据えて、笑い事にしていていい筈のものではあるまい。

問題のとらえ方も、あちこち食い散らかして論点が整理されていない。
1.国有地の売却に、政治家の関与はあったのか?
2.森友学園が、学校として認可されることに問題はないのか?

せめてこれくらいには分けて論じてほしい。

政治家や官僚が関与した贈収賄事件だということは、騒いでいる割には浮かび上がってこない。
疑惑だけを煽っているだけだとしたら、そろそろ本筋に戻らなければならないのではないだろうか?
とっかかりをつけようというのかも知れないが、野党の質問は「籠池理事長と面識があるのか?」ということをネチネチといやらしいまでにやっているが、面識があったらどうだというのか?
答弁する側も、有ったというなら有ったと言ってしまえばよいものを、否定するからややこしくなる。
まあ、答弁する側も、このところの動きを見ていれば、土地売買に関与したと疑われかねないから否定したくなるのはわからなくもないが、嘘だとわかると問題は別の方向にも行きかねない。
無いことを証明するのは難しいのだから、有ると言って責め立てる側が立証すべきであろう。
今のような質問を何回繰り返したところで、核心に迫れるとは到底思えない。

隣の韓国ではあるまいし、マスコミを巻き込んで国民感情を疑わしいということにもっていっても、法治国家では証拠がなくてはどうにもならない。

豊洲のことだとしたら、石原氏の言動だけを責め立てているが、豊洲の土地購入の決済をしたのは確かに石原元都知事であったことは確かだとして、その政治決断が手順も踏まずになされたのではないとしたら、何が最終的な問題なのであろう?
政治家の責任の取り方というのは辞任だと思うが、個人の立場になった人に何の責任を負わそうというのだろう?
石原さんも、言い合いになるようなレベルの会見をするから、尚のこと責められるのかも知れないが・・・

森友学園については、籠池氏個人を追い回すのではなく、売却の決済をした官僚と、学園を認める指示をした府知事を取材するべきだと、某ジャーナリストが、どんなに偉い人なのか知らないが両者の名前を呼び捨てにして語っていたけれど、大阪府政をイカガワシイ輩が支配していると何度も口にしたのが気になった。かりそめにも、選挙で選ばれた人たちであろう。
そんなことをテレビの取材で言って許されるとでもいうのだろうか?

どちらに加担するつもりもないが、信用できないといって追い回されている人に一度会って聞いたことを、裏付けもなく口走っていいのだろうか?
案の定、そのとき口走ったことが、翌日になって安倍首相が学園に寄付をしたというニュースになって表れた。
立証できるのか?
または寄付行為があったとして、それは違法行為だとでもいうのか?
ワイドショーネタのようにして騒いだ人が今後責任をとることはないだろうが、混迷が行きつく先というのは危惧する。
今までの働きを見てきて、安部首相が国益を損なうようなことをしたということは信じがたい。
事実がどうであるかは知りえないが、また、それを蔑ろにして良いとも思わないが、韓国と同じ轍を踏むようなことを国民の多数が望んでいるとは思えない。