2014年4月29日火曜日

部屋が甘いって?


甘い部屋?

新婚旅行にいったとき宿泊することが多いからスイートルームというと思われがちだけれど、そうではありません。

Honey moon(蜜月)も、新婚の甘い期間と思われているが、そもそもは新婦が新郎の為に蜜酒をつくる期間なのだということは、以前書いた通りです。

 

カタカナ表記するとスイートではあるが、甘いという意味のsweetではなくsuite roomは、一続きのとか一揃えの部屋、すなわち続きの間がついている部屋ということです。

当然こちらの方が豪華だし、宿泊代も高くなります。

 

連休には普段のご苦労へのご褒美に、おごりこんで泊まるというのもよさそうです。

 

2014年4月28日月曜日

合州国ではなくて合衆国


先日、国賓としてアメリカ合衆国のオバマ大統領が来日しました。

国として数えるのにいろいろな見方があるが、現在世界には195国あるとされています。

君主国と君主が存在しない共和国とがあるが、リパブリックと呼ばれる共和国は126か国あります。

しかし合衆国(United States)というのは、アメリカ(米国)とメキシコ(墨国)の2か国だけです。一般的には合衆国といえば米国のことです。

自治制をとっている州の政体をまとめて統括する連邦制をとっているのだが、合州国とは呼ばず合衆国となっています。

 

これだけは捨てられないでとってあるもの


もうすぐ端午の節句です。

五月人形や鎧などを飾ったのは、もう遠い昔になりました。

子供が成長してからは、それらを処分してしまったのでもうないのですが、未だに捨てられないで残してあるものが一つあります。

幼稚園に通っている頃、そこで作った紙製の鯉のぼりです。

これだけは、いまも五月には飾ることにしています。親ばかです。

 
 
 


 

世界中の争いごとから無縁でいられたら


「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と日本国憲法上はなっている。


 だが国際法上、主権国家は、重大な主権の一部である「交戦権」を持っている。

国際的には認められているその「交戦権」を、日本国はみずからが、憲法によ って否認してしまっている。
 従って、日本国は、この憲法を改正しない限り、現行では交戦権を持たない国である。


では「交戦権」とは何かということになるが、「国家が戦争をなし得る権利、または戦争の際に 行使しうる権利。」ということである。

わが国には、自衛のための交戦権はあるとするのが、憲法第九条の解釈となっている。

 

 憲法の下位法である法律や条令などのいわゆる法令は、民法や刑法を読めばわかる通り、国民の行為を規律するものである。国民を適用の対象(名宛人)として定められている。

 翻って憲法はどうなのかというと、国民から国家にむけて、その適用対象がなっている。

 即ち、名宛人は国であり、国が国民に対して守らなければならないというものである。


 世界のほとんどの国は、刑法その他の法規で「人を殺せば殺人罪」と定めている。
 しかしながら、法に基づくものならば、死刑執行人が死刑を執行しても、これは殺人罪の適用の埒外である。法律用語で「違法性阻却」と呼ばれるものであります。


 日本国以外のどの国家も「戦争を宣言」し「交戦権を行使」した場合、その国の軍隊の構成員が、人を殺しても傷つけても、他人の器物を壊しても、それが戦時国際法に違反しない限り、その「実力行使」は、「違法性阻却」となり、どこの国の刑法その他の法規にも問われないということであります。

即ち「戦争であれば、何をやっても違法とされない」という原則が先に立っているのです。
 そのような権利が「国の交戦権」ということであります。

では、なぜそのような権利を諸外国は容認というよりは積極的に持ち続けるのか?

そして持たないとどうなるのか?他人事ではなく深く考えてみる必要はありそうです。

 

たとえば極端な例としてですが、外国人が個人として重大な犯罪を日本人に対して為したとしても、それを「国としてやったのだ。」とその外国人の国が言ったとしたら、日本としての対抗手段は無いということです。

そんなことは起こらない? そう祈るばかりです。
世界中から戦争がなくなればよいのですが、現実には一触即発の危機も含め数多の争いがあります。

2014年4月27日日曜日

鍵のかからない料金箱で無人販売ができる文化


もう何年も前のことになります。

家内が倅の留学先を訪ねた折、ミュンヘンのショップに土産物を買いに立ち寄ったところ、お店の店長に日本人観光客が忘れていったというビデオカメラを見せられ「持ち主がわからないのだけれどどうしたものだろう?」と相談を受けたのだと言う。

住所の表示はされていないが、九州からの母娘づれであったということと苗字がかろうじてわかるくらいであった。

日本人が外国で如何に信用されているかという証は、そのように相談を持ちかけられることもさることながら、「では、私が預かって帰って持ち主を探し、送り届けてあげます。」という言葉を全く疑うこともなく家内に預けたということからも如実にうかがい知れます。

 

帰国後、苗字を頼りに九州に電話をかけまくり、とうとう持ち主を捜しだしました。

「カメラはなくなっても仕方ないけれど、撮影した思い出の写真が失われるのは悲しいことだと残念に思っていたところに嬉しい知らせです。」と大層喜び、その後は面識のないままで東京と九州間での電話や季節の挨拶のお付き合いが続いています。

 

世界で自動販売機が何の問題もなく設置運営されているのは日本位だといわれますが、もっと世界の人が仰天するのは、野菜の無人販売なのだといいます。

誰も見ていなくても、代金を払わずに持ち去る人が居ないのは信じられないことだというのです。

野菜がただで持ち去られるどころではなく、代金箱まですぐになくなってしまうのだと。

 

私の住まいの近くにも、生産者直売の野菜無人スタンドがあって、新鮮な品が手軽に飼えて重宝していたのですが、最近それがなくなってしまいました。

何語かわからない言葉を使う人が近所に増えてきてから、料金箱まで持ち去られてしまうので、

信頼関係が成り立たないなら、お互いに不幸だからやめることにしたのだとか。

 
落し物を拾った人が持ち主を探してでも届ける文化を持った国が、いつまでもその美徳を失わずに続くことを願わずにいられません。

2014年4月26日土曜日

家庭で緑を育てるのに


お蚕様の餌にされる桑の木は、切り戻しに強い。

鉢植えにして枝や葉が伸びすぎたなと思ったら、枝を切り落としてしまっても新しい芽が伸びてくるので心配がいりません。

時々剪定することで、小さな葉に保てることもできて具合がよい。

 

どこかで小さな木を見つけたら、鉢にあげて育てると簡単に緑を楽しむことができます。

 

2014年4月25日金曜日

ヨーロッパバイソン


チェコでの催しに招かれ、そこでのピアノ演奏に出かけた倅が、オバマ大統領が来日した数時間前に羽田に到着する便で無事帰国しました。

リサイタル会場であったズブジの市長からお土産にもらったお酒の壜に模様が入っていて、それがヨーロッパバイソンの頭部のものだという。

昔そのあたりには、ヨーロッパ野牛がいたのだという。

 

 

これからの山を白く彩るヤマボウシの花


この何年かで、街路樹にアメリカハナミズキが増えて、今が花盛りです。

ハナミズキの仲間にはヤマボウシがありますが、これから真っ白な花をつけるので山麓などでは遠くからでも目立ちます。

 


さらにこれの仲間にはクマノミズキがあります。

ミズキは燃えにくいので、火伏の樹木として昔は庭木などによく用いられました。

ただ、ミズキは大木になるので、最近は大きなお屋敷以外では見られなくなりました。

 


 

2014年4月24日木曜日

今が盛りのブルーベリーの花


昨年の夏、沢山の実をつけた木からブルーベリを摘んだのが、ついこの間のように思っていましたが、月日の巡るのは早いものです。

 

秋に下草を刈って、実を一杯獲らせて頂いたお礼に、木の周りに肥料をたっぷり撒いておいたところ、今年も沢山の花をつけました。

 

衣類や手荷物が残響音に影響する


コンサートホールに行くとクロークがあって、そこでコートや手荷物を預けます。

座席が狭いから邪魔にならないようにとか、周りに迷惑がかからないようにということもありますが、ホールの残響時間に影響を及ぼすからということでもあります。

 

美しい音色というのは、ホールの残響時間によって大きく左右されます。

普通、残響時間は1.5秒から2秒くらいが必要とされますが、ホールの設計上のつくりだけではなく、観客の衣服に吸収されてしまう音の量にも影響を受けます。

 

ピアニストでもある倅は、コンサート会場に入ると、会場の係員にホールの音の減衰時間を確認してからリハーサルで入念にチェックしています。

無音無振動でということを求めますので、親と言えどリハーサル中の会場には入らないようにしています。

 

演奏が始まってしまってからは、プログラムを捲る音や、酷い時には携帯電話のメールチェック音や飴の紙を剥がす音を立てられても仕方ないとしていますが、集中して弾いていても、後から聞いてみると客席のどのあたりからどのような音がしたかをよく覚えています。

 

そんなこともあって、プログラムの用紙は多少動かしても音が出にくい紙を選ぶなどして工夫しています。

良い音楽、良い音を聴いてもらいたいと心底から思っているからです。

 

2014年4月23日水曜日

ニワトリモドキからニワトリ


進化論でいうのか生化学でいうのか宗教あるいは哲学でいうのか、大命題とされていました。

進化論的にいって一番最初にニワトリ、若しくは最初のニワトリとなった卵になったのは、どのような生物なのでしょうか?

それまでの生物を、仮にニワトリモドキとします。

そうしますと、ニワトリモドキがニワトリの卵を産んだということになります。

ニワトリはニワトリのまま生まれる事は有りませんから、最初のニワトリは元々鶏卵で、その親はニワトリに限りなく近い生物ニワトリモドキということになるので、卵が先ということになります。

 

 

 

2014年4月22日火曜日

列車が止まったときの影響人員数は?


大型連休に入ります。

交通機関に事故などがあると、ニュースなどでよく「○万人の足に影響がでました。」と報道されますが、どうやって数えたのだろうと不思議に思います。

 

飛行機などなら乗客数を把握しやすいだろうかららかるのですが、鉄道ということになると定員以上に乗っているだろうから簡単にはいきません。

 

鉄道会社では、年に1回ダイヤに組み込まれている全列車について、乗車人員を調べているのだそうです。

トラブルで1分以上遅れた場合には、そのデータに基づいて計算するのだそうです。

 

デモなどの動員人数は、どう数えるのでしょう?

主催者側の発表と警察の発表では、数に大きな隔たりがありますが・・・?

 

2014年4月21日月曜日

山に登らないと見られない「イワウチワ」の花


少しは寒いだろうから、奥多摩の桜は咲き残っているのではないだろうかと思い、出かけてみました。

残念ながら、殆どの桜は咲き終わり、何本かを残すのみでした。




 

 

 

 

そこで、見る花を変え、イワウチワを見に行くことにしました。

奥多摩湖から少し下って、東京多摩学園の裏手から天地山に登ることにしました。

天地山への登山口は、目立たない小さな木の標識があるだけでしたが、登り始めるとそこで山林の仕事をしていた職人さんに「このルートで登ってきた人は、今年3~4人しかいない。」と言われました。

思いの他の急登路でしたが、頂上付近で「イワウチワ」の花が出迎えてくれました。

 


 

2014年4月20日日曜日

どんな料理もどんな皿でも箸であれば


綺麗な塗箸を手に入れました。むかしは、子供の頃に親から箸の使い方を口やかましく躾けられたものでした。

作法でもあり素養でもあったのです。

 

日本人は、箸で豆も米も一粒ずつ摘まめるし、豆腐のように柔らかいものでも、壊さずに取り上げることができます。

私が感じることなのですが、手の形が残るフォークやナイフやスプーンで食べる料理は、小さなお皿には馴染まない。

 

箸で食べる料理は、器の大きさや形を選ばないし、逆に言えば料理を引き立たせるための器の形や模様が求められもするから、その相乗効果で発展した文化でもある。

更には、そこに包丁の冴えというのも加わるから、食材の使い方にも工夫がされ、ますます広がりを見せることになる。

味が良いことは勿論のことですから、旨味を求めダシも温度も多様性極まりない。

 

日本料理とかフランス料理とかイタリア料理とか、国の名前がついた料理文化というのは数々ありますが、日本料理は箸があってのものと思うのです。

 

美味しく食べながら、箸のマナーが大事だと思った次第です。

 

2014年4月19日土曜日

国立新美術館の光風会展に同級生の陶芸作品を見に集まる


中学校時代の同級生が、陶芸に長く取り組んでいて、今年も国立新美術館にての光風会展に作品を出品したというので、卒業50数年を過ぎた同級生が集まりました。

長きにわたり仲良くつきあえる仲間というのは良いものです。

元気でいれば、心置きなく楽しい語らいの場がもてて、食事も含め4時間以上を共に過ごしました。

 

 

会場に行く途中の庭に咲いていた白躑躅

 

 

お釈迦様の目にはお釈迦様が見える


足りないものを数えあげれば、限りなく不幸を求めているに等しい。有る物に喜びを見いだせなければそういうことになる。

向上心を持たなくても良いということではありません。貪るというのは、必要以上のものを求めるのだから、きりがありません。

 

釈迦の目には釈迦が見え、豚の目には豚しか見えない。

我神を見たり。

神様は、自分のことをエイーエ・アシエル・エイーエ(古代ヘブライ語)、英訳すれば I am that am.とおっしゃったのだそうです。

自分がその域に達していなければ解らないことが多いけれど、誰にでも神性は内にあります。

 

世の中には腹の立つことが多いし、自分の気持ちを穏やかに保つのが難しい。

でも、これって勝ち負けの気持ちが高じたときに起こりやすい気がします。

前にも書いたことがあるかと思いますが、「許せないけど許す。」と無理にでも思い、小声で呟くだけで波立つ気持ちを解放できるから不思議です。

 

もっと究極の方法としては、「憐れんでやる」というのがあります。

「この者は、自分が何をやっているのかわからない可哀そうな人なのです。」と思うのです。

 

許す側、憐れんでやる側の方がずっと精神的上位者ということです。

更にその上の方法としては、その者の幸せを祈ってやることです。

 

でも、できるかな~? 言うは易く行うは難し。

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自分が何の努力もしないで成功を修めることができるとは思いません。

しかし、人一倍励んでも結果として報われることは少ないようです。

その一方で、傍から見てさして一所懸命ではなさそうに見えるのに、やることなすこと巧くいってしまう人というのも確かに居ます。

ツボにはまれば、打ち込むことができる仕事に着いて、次から次へ頑張れる道が開けるようです。

 

物事が成功するとき、自分の力だけではないものが働いていることを否定できる人はいないと思います。いわゆる運といわれるものの加護のことです。

 

そのために常に綺麗にしておく必要があるところは、玄関・トイレ・机・身嗜み・洗面所等ですが、究極の場所があります。

 

自分は特別な才能・能力をもっているのに、いまいち正当な評価が得られていないと思っている人は多いのに、何故そんな境遇のままなのでしょう?

自分一人だけではなんともならないものが現にあるのに気付かないか、気づいてもそのように動かないからではないでしょうか。

風が吹いても、自分の花を咲かせる風ではないとしたら、惜し過ぎです。

 

気づけるようになるのに、できることは有ります。「頭で解ったつもりでいる」のと、どんなに小さくとも実際に体感して得ることとには、大きな差があるものです。

何でもそうですが、やってみると今まで見えなかったものが解ってくるものです。早くやれば良かったと、やった人は言います。

「どうして墓石清掃をするのか」参照

 

2014年4月18日金曜日

呼び方が「げっこうぼさつ」ではなくて「がっこうぼさつ」なのは


TVで、薬師三尊の画像を見ました。

修学旅行で拝観したのを思い出します。

薬師如来を中尊とし、日光菩薩を左脇侍、学校菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊で薬師三尊は安置されます。

 

月光菩薩は、どうして「げっこう」ではなく「がっこう」と読むのでしょう?

月光菩薩は月の如き清涼をもってして衆生を救済するのだといわれます。

日光菩薩・月光菩薩は、薬師如来のおわす浄土である東方瑠璃光世界の菩薩であるとされます。

菩薩とは、菩提薩埵(ぼだいさった)」の略で、悟りを求める人の意味を表す仏語。

悟りを求めて数々の修行に打ち込む仏教界の段階の位で、文殊・観音・弥勒・勢至・普賢・地蔵菩薩などの名は、寺院に参拝すれば、その働きはしらなくてもよく耳にします。

釈迦の前世の称号であり、将来は仏になるものの意味を持つのだといいます。

 

「がっこう」とは、その仏がもたらされたときの用語がそのまま残ったのでありましょうが、俗世のものと区別するのに都合が良かったのかもしれません。

正月が「しょうげつ」ではなく「しょうがつ」と読むのも同じ。

 

クジラを食べるのはいけないのか?


日本人は、動物にしろ植物にしろ食べるものを根こそぎにするということはしないで、その命を有難く頂くというのが古来から生き方の根底にありました。

山川草木悉皆神。古来より、あらゆるものに神性を感じ取っていたからです。

 

鯨を捕獲してはならぬということになった根拠というのはなんなのでありましょう?

獲った以上は、勿体ない精神でもありますが、皮から骨までむだにすることなく使い切ります。

 

知能がある動物だから可哀そう?絶滅の恐れがある?その他いろいろいわれます。

生態系の中で大型の生物である鯨が、餌として食べる大量の魚などに及ぼす影響は、判断の中に考慮されないようです。

「日本人の出す調査記録は、事実が隠されている。」というように「陰謀論」だと決めつけ、確定された結論が先にあって、理論は後付けなのではないかという議論すらあります。
喧伝される反対資料を見たまま信じ込み、論理的思考の出来ない人が感情的というか宗教的というかの、他の意見には全く耳を貸さない典型的意見です。
クジラとは目の名称であり、その中にはいろいろな種類がいます。
主として、歯クジラ亜目と髭クジラ亜目に分かれますが、歯クジラ亜目にはマッコウクジラのほかイルカやシャチなども含まれ、これらの主食は魚、イカ等であります。
髭クジラ亜目の主食はプランクトンや小魚、エビであり、当然のことながら小魚には幼魚も含まれます。
鯨が増えることで、それらを餌とする中型の魚が減少してきているようです。

 

鯨の愛護団体やある種の宗教団体に近いものには、何を言っても聞いて貰えないのだと思います。説得のきかない議論というのは、先がありません。

捕鯨に従事する人間に危害をおよぼしてでも、妨害することに躊躇いがないのです。

 

私は鯨を食べるわけではありませんから極論を言えばどちらでもいいようなものの、自分の信ずるもの以外の価値を全く認めないという多様性のない言動というのは、偏狭にすぎるのではないかと思うのです。

牛は食べない、豚はたべない、鳥はたべない。それはそれで文化でしょうが、ものごとの判断は、多方面から検討してみるというのが、人類の知恵だと思うのですが・・・