足りないものを数えあげれば、限りなく不幸を求めているに等しい。有る物に喜びを見いだせなければそういうことになる。
向上心を持たなくても良いということではありません。貪るというのは、必要以上のものを求めるのだから、きりがありません。
釈迦の目には釈迦が見え、豚の目には豚しか見えない。
我神を見たり。
神様は、自分のことをエイーエ・アシエル・エイーエ(古代ヘブライ語)、英訳すれば I am that Iam.とおっしゃったのだそうです。
自分がその域に達していなければ解らないことが多いけれど、誰にでも神性は内にあります。
世の中には腹の立つことが多いし、自分の気持ちを穏やかに保つのが難しい。
でも、これって勝ち負けの気持ちが高じたときに起こりやすい気がします。
前にも書いたことがあるかと思いますが、「許せないけど許す。」と無理にでも思い、小声で呟くだけで波立つ気持ちを解放できるから不思議です。
もっと究極の方法としては、「憐れんでやる」というのがあります。
「この者は、自分が何をやっているのかわからない可哀そうな人なのです。」と思うのです。
許す側、憐れんでやる側の方がずっと精神的上位者ということです。
更にその上の方法としては、その者の幸せを祈ってやることです。
でも、できるかな~? 言うは易く行うは難し。
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自分が何の努力もしないで成功を修めることができるとは思いません。
しかし、人一倍励んでも結果として報われることは少ないようです。
その一方で、傍から見てさして一所懸命ではなさそうに見えるのに、やることなすこと巧くいってしまう人というのも確かに居ます。
ツボにはまれば、打ち込むことができる仕事に着いて、次から次へ頑張れる道が開けるようです。
物事が成功するとき、自分の力だけではないものが働いていることを否定できる人はいないと思います。いわゆる運といわれるものの加護のことです。
そのために常に綺麗にしておく必要があるところは、玄関・トイレ・机・身嗜み・洗面所等ですが、究極の場所があります。
自分は特別な才能・能力をもっているのに、いまいち正当な評価が得られていないと思っている人は多いのに、何故そんな境遇のままなのでしょう?
自分一人だけではなんともならないものが現にあるのに気付かないか、気づいてもそのように動かないからではないでしょうか。
風が吹いても、自分の花を咲かせる風ではないとしたら、惜し過ぎです。
気づけるようになるのに、できることは有ります。「頭で解ったつもりでいる」のと、どんなに小さくとも実際に体感して得ることとには、大きな差があるものです。
何でもそうですが、やってみると今まで見えなかったものが解ってくるものです。早くやれば良かったと、やった人は言います。
「どうして墓石清掃をするのか」参照