2014年10月31日金曜日

法観念を表す言葉に


非理法権天(ひりほうけんてん)という言葉があります。法観念を表す言葉だとされる。

非即ち無理は、理即ち道理に劣位し、道理は法に劣位し、法は権威に劣位し、権威は天道に劣位する。

争いがあるとき、理屈も何もないのでは、理由のある主張には敵わない。

しかし双方にその立場による理屈があるのは当然だから、その場合は法に基づいて決めるということになるのだが、その法があったとしても、それを上回る権力の下では、力によって決まってしまう。

正義と言うものがなされるのに、現世においては、正邪善悪ではなく力によってが決められてしまうということだって往々にしてあり得る。

それでは救われないことだってあるから、天(神)が決める場が必要になる。

それであれば、永遠に生き続ける霊魂の世界があって、そこで正しく判断されることが必要となるというふうに理解しました。

 

2014年10月30日木曜日

歴史は修正することができないものなのだろうか?


ちょっと調べてみるだけで、明らかに事実と違うであろうことを、事実に基ずいて主張しようとすると、歴史修正主義であると非難されるが、事実を事実として認めて貰おうとするのはいけないことなのだろうか?

 

歴史修正とは、新しく発見された史料や、既存情報の合理的再解釈により、歴史を叙述し直すことを主眼とする試みの一つである筈です。

伝統的な或いは固定した歴史解釈に対し、別の可能性(仮説)や、可読性(読み方)を提示する試みをいうことであるし、改訂しようとする叙述が正しいという価値判断に関わる意味は含まないのだともいうが、事実の認識は公正であるべきです。

そもそも、歴史修正主義というのは、思想的に偏向した歴史観に限って用いられる用語でもなかった。

 

根拠も証拠もなく、押し付けられる歴史というものに対し、それは違うでしょうと証拠を揃えて意見を申し述べるのは、当然許されて然るべきものだと思うのですが。

 

2014年10月29日水曜日

理性って何なのだろうか?


物事には全て根拠というものは無く、決めるのは理性であるとするのが、一口で言ってみれば左翼思想。だから、歴史だって簡単に否定することができる。

善悪にも根拠はなく、極端な言い方をすれば、殺人だってどうしていけないのか?という例だってある。

でも、自分が殺されるのは嫌でしょう?という質問はなりたたない。自分は殺されてもいいから人を殺したら駄目か?ということになる。

根拠がないから、全て否定してもよいということにはならない。

理性というのは大事だと思うけれど、絶対的に言いきってしまえるような理性というのはあるかどうかわからないからです。

 

一方、保守というのは、絶対的根拠と言うものはないことを前提にして、伝統ということを重んじる。伝統というのは長い間に醸し出され定着しているからです。

でも、それが伝統であるかどうか判断するのは、これも理性。

 

自分の言うことが絶対であるとするような理性というのがあるのかどうか、難しいことです。

であれば、決めつけないことが大事だとおもうのですが・・・

 

2014年10月28日火曜日

点検ということで来た営業マン


住宅の各部屋には、TVのアンテナジャックが設置されています。

管理会社から点検を依頼されたとの触れ込みで、TVの映り具合を点検させてくれという業者がやってきました。

 

TVが映らないなどのトラブルは元々ないから、映るかどうかを確認したらすぐ帰るのかと思ったら、電話はどうしているのか?PCのブロバイダー契約はどうなっているのか?その費用はいかほどになっているのか、という話をしたかったのが主眼らしく、今キャンペーン中だから、工事費無料でそれらを一本化できるから、そうしたらどうかという営業話しに変わりました。

 

そうすることで費用はさして増えるほどではないし、一本化することで面倒がなくなることは確かです。

費用は提示したもの以外に一切かからないというので、じゃあ、切り替えようということにして申込書にサインしたところ、申し込み手数料として3000円かかると最後に切り出した。

 

それは説明の順番が違うのではないのか?

手数料がかかるけれど、これこれのメリットがあるから、そうしたらどうか?ということであれば、多少代金が増えたとしてもそうした。

やりかたが不明朗だから、それを指摘して即座に断りました。

 

後で調べてみると、代金に消費税は含まれていないし、総費用はかなりの増額になる金額設定でした。

 

管理会社に問い合わせてみると、設備の点検だからということで、各戸に訪問することを許可したということであった。

 

2014年10月27日月曜日

フリガナが付いていたので自然に覚えた漢字


旧家であった母親の実家には、分厚い緑色の表紙の講談本が沢山ありました。

水戸黄門・太閤記などなど、子供の頃にはそれを借りてきて、夢中で読みふけったものでした。

 

漢字には全てルビが振ってあるので、難しい漢字でも読めないということは一切ありませんでした。

そのせいか、中学校時代以降に漢字で困ったと言う記憶がなく、辞書というのは殆ど引いたことがありません。

文章の言い回しというのも自然に身について、作文などの時間にはいつも褒められていました。

高校時代の漢文の時間は、特にその有難さが身に浸みました。

 

漢字にはルビを振っておけば、子供は勝手に読んで、教わらなくてもいろんな知識を知らず知らずのうちに、身に着けてしまうのではないでしょうか?

漢字の意味だって、熟語の使い方だって、どのような場面でどのように使うかだって、いつの間にか理解してしまいます。

 

面白くもない授業で教わるより、興味を持った本が読めるようになっていれば、そのほうが効率的だし、楽しいと思うのです。

 

2014年10月26日日曜日

体が疲れてくると顎があがる


身体がバテタときの表現に、顎があがるとか顎が出るというのがあります。

ランニングなどをしているときの状態から来た言葉のようです。

 

走っていて疲れてくると、フォームが乱れてきます。筋肉のバランスが崩れてきたということです。

それでも走り続けなくてはならないとなると、脳が何とか筋肉を働き続けさせようと指令を出します。

顎を出すことで、前かがみになりがちな体のバランスをとるためだといいます。

でも、余り無理をしない方が良いです。

 

2014年10月25日土曜日

鉱物と生物の境目にあるウイルス


エボラ出血熱(エボラウィルス病)は、罹患発病したときの致死率の高さと、対応する薬がないことで、恐怖の病として知られています。

ウイルスというのは、名前は知っていても一体どんなものなのかということになると、意外に知られていません。

 

ウイルスは、細胞を構成単位としているのではないが遺伝子を有し、自らで細胞分裂はできないが、他の生物の細胞を利用して増殖できるということにおいては、生物の特徴を持っている。

自然科学は、生物・生命の定義を行うことができなくて、便宜上、細胞を構成単位として、代謝・増殖できるものを生物と呼んでいる。

細胞をもたないウイルスは、非細胞性生物として、生物というよりむしろ「生物学的存在」といわれるが、遺伝物質を持ち生物の代謝系を利用して増殖するので、鉱物と生物の境目にあると言えます。

「ウイルス」という表現は動植物に感染するものを指して用いることが多く、細菌に感染するバクテリオファージとは区別して用いることが多い。

バクテリアや細菌や微生物との区別は、大きさだけではありません。

 

2014年10月24日金曜日

華麗に外国語を取り入れてしまった日本


日本人は、外国語に弱いとよくいわれます。

かくいう私も、日本語以外は、英語もドイツ語もフランス語もイタリア語もできません。

 

しかしながら、負け惜しみではないのですが、日本人は言語能力が極めて高いのだと思っています。

 

古くは、漢字が渡来した時、もともと有った日本語に合わせ、音訓を駆使してあざやかに言葉として使いこなしてしまいましたし、明治以降の欧米言語も日本語として意味を持たせるくらいに完訳しつくしたのだと思います。

 

思考は言語を介してなされるといいますが、思考能力があれば外国語の対訳も可能です。

自国語に外国語の対訳がなければ、外国語に頼らざるを得ませんが、ニュアンスを含め、日本語を外国では理解できなくて、日本語のまま使う例だって多いのだと聞きます。

 

そのうち優れた翻訳機ができて、外国語を覚えなくても自由に会話ができるようになる日が近いのではないかと期待しています。

 

2014年10月23日木曜日

加減乗除の学術記号は世界共通ではないらしい


日本では、加減乗除を表すのに、「+・-・×・÷」を意識することなく使います。

でも、パソコンのキーボードを見るだけでも、テンキーのところに+と-はあっても×と÷というキーはありません。

 

数学の学術記号として世界共通かと思っていましたが、海外ではどうもそうではないらしい。

÷は、6世紀にドイツの数学者が考案したのだといわれるが、現在ドイツで使っている記号は「・・」なのだとか。

割り算は、分数の形で表す国も多いのだとか。

 

因みに、÷を使っているのは、日本・アメリカ・イギリスくらいなのだという。

 

2014年10月22日水曜日

水泳といえばフンドシでした


時季外れの話題になりますが、海水パンツなど無かった子供の頃に水泳をするのに、サラシを6尺使ったフンドシで泳いだものでした。

 

なんでフンドシの話をするかというと、最近下着としてフンドシを使うのが男ではなくて女性が4割もいるのだという記事を読んだからです。

 

時代は変わったものです。

 

三毒の一つ貪(とん)


三毒といわれるものがあります。

仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)を言います。

 

とん、じん、ち は愚かさの連鎖反応とでもいうべきもので、その連鎖の大本は、「とん」すなわち貪りです。

金が欲しい・地位が欲しい・好かれたい・成功したい等々、人間であれば欲があるのは当然だとしても、それを際限もなく欲しがるのを貪欲といいます。

自分の器以上のことを望んでも、簡単にはいきません。

すると自暴自棄になって怒りがわいてくる。 これが「じん」いかりです。

 怒って正常な判断ができなくなり愚かなことをしてしまう。 これが「ち」すなわち愚かです。

 

思うのですが、食欲は、腹いっぱいになれば、もうそれ以上は食べられない。

しかしながら、金は使いきれない程あっても、さらに欲しがるというのは貪りなのではないかと思うのです。

有るのに更に欲しがって、その先に何をしようとするのでしょう?世の為人の為に使うというなら解りますが。

 

グローバリゼーションが良いのだとして、TPPなどがもてはやされますが、このシステムというのはどう考えても、お金を沢山持っている方・力が強い方が勝つに決まっているように思えてならないのです。

ヘビー級のボクサーとフライ級のボクサーが同じリングで戦ったら、結果は決まっています。

それでも同一ルールのもと、自己責任で戦えということと同じに見えてしまいます。

 

ハンディキャップをどう公平に与えるかがなくては、希望を失ってしまう人が出そうです。

 

2014年10月21日火曜日

本当のところはどうだったのか知りたい植民地支配


植民地というのは、支配した国の生産物を根こそぎ簒奪するものだと思っていました。

そのためには、イギリスのそれのように愚民化政策をとり、人を家畜さながらに扱い、将来才能を伸ばしそうな青年の手首を切り落とすようなことが平然となされることだったのだと刷り込まれていました。

 

ところがわが国がK国でやったとされるそれは、ちょっと調べてみても、学校を沢山建て、4パーセントしかなかった識字率を60数パーセントにまで高め、道路・鉄道・橋梁・学校・建築物などのインフラを整備し、衛生観念を植え付けて寿命を倍に伸ばし、禿山に植林し、溜池をつくり、農業生産性を倍増し、などなど本国の北海道や東北の開発を後回しにしてまで資金をつぎこんだのだという。

 

こういう資料は、朝日新聞にも毎日新聞にもNHKにも、山ほどあるのだと漏れ聞くけれど、そういうものが目に触れるような報道はありません。

 

良いも悪いも含め、事実を事実の通り開示しないと、誤った判断をしかねないと思えてなりません。

ものごとは、一方向からだけの見方であってはならないのだと思うのですが・・・

 

2014年10月20日月曜日

言われるままではなく、事実を調べ自分で判断する若者が増えた


戦後教育を受けた我々の年代は、「悪うございました悪うございました」一色で、何を言われても我慢するということになっていました。

 

日本人の特性で、口に出さずとも誠意をもって耐えていれば、そのうち仲良くなれるのだと思っていましたが、どうもそうばかりではないらしく、言いがかりとまでは言いませんが、どう考えても故ないとしか思えないことにまでエスカレートして来ているように思えることが多くなったようにみえます。

 

口を開けば「どこそこの国がああいっているこういっている」と、日本がその要求に応じなくてはならないのだという報道ばかりが取り上げられます。

羽織ゴロとは申しませんが、本当に我が国の立場に立って意見をいっているとは思えないことだって、報道されればそのようにリードされてしまう人だって大勢います。

国益を考えることが右翼だと言わんばかりですが、本当に日本ばかりが悪いのでしょうか?

 

我々の年代は、それでもそんなもんかということで、揉めないことを第一に過ごしてきましたが、最近の若者たちは少し違うようです。

事実関係はどうだったのだろうか?と、余りに責められた結果、言われるままではなく自分で調べるようになったようです。

ですから、マスコミが躍起になってものを言っても、ウソはうそ、違うものは違うと、はっきりした自分の意見を持ち始め、ネット上でも自分の考えを述べているのを多く見かけるようになりました。簡単には言いくるめられなくなってきたように思います。

国益を考えることが右翼だとは思えないのですから、右翼と決めつけても怯まないようです。

 

江戸時代までの教育は、自分で考え自分が責任を取るということであったそうで、天下国家の為に尽くすという志をもっていたのだといいます。

間違えたら責任をとって腹を切るという時代ですから命がけです。自分で考えたのです。

明治以降、西洋の文化を取り入れるのに急で、考えずに済むことが多かった。

 

外国人を見ていると、自分の主張をのべるのに遠慮というものはないらしく、がんがんやりあいますが、主張しあったことが、後にしこりを残すということではなさそうです。

どちらかというと、言わなければお互いわからないのだから、本音を言わないまままあまあで過ごすのは、ウソつきに見えるようなのです。

勇気をもって、自分で判断できるようにしたいものです。

 

2014年10月19日日曜日

電力不足になる前に


原発が反対だというのは解らないわけではありません。危ないといえば危ないと思うからです。

その為には、代替する電力エネルギーが必要なのだけれど、どのような対策が有るのかの議論は見えてきません。

危険だと言うこと以外に何かほかの思惑がありそうに思える意見もあったりして、居心地が悪いままでいます。

 

門外の素人ながら、調べて見ると、替り得る豊作として有望と思われるものを見つけるのにさして時間はかかりません。

 

以前にも書いたことがある、海水中に無尽蔵にあるマグネシュームを使うというものや、メタンハイドレードや、水素を使うものや、とにかくいくらでも出てきて、迷う位なのですが、一向にそれらに向かわないのは、これらの方法には何か採用するのに問題点があるということなのだろうか?

 

俎上に載せて比較検討することが全くないように見えてしまう。

 

ものごとが進まないのには、既得権益に障りがあるのだろうか?

 

ぐぐっていて面白かったものには、以下のようなのもありました。

無燃料発電


 

水流水力発電


 

その他にでも一杯ありそうです。ちっとも進みそうにはありませんが・・・

 

2014年10月18日土曜日

三尺下がって猫の居眠り


炊飯器などというものが無い時代、ご飯はお釜で炊いたものでした。

母親から教わったご飯の炊き方というのが「始めちょろちょろ中ぱっぱ、赤子泣くとも蓋とるな、三尺下がって猫の居眠り」というものでした。

 

炊き始めから強火にしないのは、米に水が浸透するまではそっと炊き、蓋から湯気が出てきて釜の中が温まったら強火にして一気に炊き上げる。

 

耳で聞いていて炊きあがった音がしても、すぐに蓋を取らないで、しばらく蒸らすということです。

 

キャンプなどに出かけ、鍋や飯盒でご飯を炊くときには、このやり方が生きてきます。

自分で火を燃やして炊いたご飯は、美味しいものです。

 

2014年10月17日金曜日

喧々囂々


議論を賑やかに交わす状況の表現によく使われる4文字熟語があります。

 

侃侃諤々(かんかんがくがく)は、大いに議論する時にもちい、「侃々諤々の議論がなされた」という言葉は正しい使い方。

 

一方、喧々囂々(けんけんごうごう)は、多くの人々が銘々勝手の発言をして、やかましいさまを表す時にもちいる言葉であります。

 

両方を混同し「けんけんがくがく」が大いに議論するさまを表す言葉として使われていることがままあるけれど、なまじ学識があり、難しい言葉を使おうとした場合、「喧々諤々の議論」と言った表現をするのは間違いです。

 

2014年10月16日木曜日

弥勒は救世主なのだという


弥勒は、釈迦牟尼仏の次に仏陀となることが約束された菩薩(修行者)で、釈迦の入滅後567千万年後の未来に現れて、生ある者全てを救済するとされる。

それまでは兜率天で修行しているといわれている。

 

兜率天とは、須弥山の頂上、12油旬(ユシュンは、長さの単位)の処にある天部で、七宝の宮殿があり、無量の諸天が住しているのだという。

これには内外の二院があって、外院は天衆の欲楽処で、内因が弥勒菩薩の兜率浄土とされる。

弥勒はここに在して修行と説法をしながら、閻浮提(えんぶだい)に下生成仏する時が至るのを待っている。

 

弥勒が出現するのは、釈迦の入滅後567千万年後とされているが、この気の遠くなる年数は、弥勒の兜卒天での寿命が4000年であり、兜卒天の1日は地上の400年に相当するのだという説から、現世に出現するまでにかかることを計算したことに由来する。

 

救世主の出現は、果たしてあるのだろうか?現れて衆生を救済されんことを願う。

 

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傍から見て、さして一所懸命ではなさそうに見えるのに、やることなすこと巧くいってしまう人というのが確かに居ます。

努力は大事ですが、物事が成功するとき、自分の力だけではないものが働いていることを否定できる人はいないと思います。いわゆる運といわれるものの加護のことです。

 

自分は才能・能力をもっていて努力も人一倍して頑張っているのに、いまいち正当な成果が得られていないと思っているとしたら、何故そんな境遇のままなのでしょう?

自分一人だけではなんともならないものが現にあるのに気付かないか、気づいてもそのように動かないからではないでしょうか。

 

 

 

2014年10月15日水曜日

古武道をする人たちが研究しているというナンバ歩き


明治以前の日本における歩行というのは、現代ではナンバ歩き・ナンバ走りと呼ばれていて、その基本は、「右手と右足、左手と左足を同時に出す」ところであるとされる。

 

残っている写真は 飛脚の走っているもので、当然動画映像などはないから、現実にはどういううごきであったか明確にはわからないらしい。

 

そのナンバ歩きが廃れてしまった原因は、明治初期に徴兵制が導入された際、西欧式軍事教練によるのだといわれる。

 

ナンバ走りは、一般に走行時にピッチが増加し、上肢の振りや上体の捻りが少ないため通常の走法と比較して効率の良い楽な走り方なのだといわれるが、歩きは農民が狭い畦道をとおるのに適していたのだともいわれる。

 

古武道をされる方々が、研究しているらしい。

 

2014年10月14日火曜日

クラシックって何?


クラシック音楽とかクラシックバレエとか、クラシックということがよく言われます。

クラシックの対照にあるのがモダンだから、クラシックは古典でありモダンは現代という風に解釈され、そう使われているのが普通です。

 

古代ローマの市民階級の最上階級をラテン語で「classici」といい、「classis」や「class 」へと変化した。 classis」は、「第一級の」を意味する形容詞。

 

ですから、そもそもは古いという意味ではなく、第一級のという意味でした。

長い時代を経て脈々と生き続けてきた古典芸術「クラシック」は、いつの時代にあっても素晴らしいから残っているのだと思います。