2013年3月31日日曜日

脳卒中注意


 今朝、電車のなかに、読み終えた雑誌を網棚にポイッと放り投げた若いおにいちゃんがいました。

 「それ、捨てたの?」と尋ねると、平気というか臆面も無くというか当然のように「うん」と頷いた。

 「ごみ捨て場じゃないんだから、持って帰りなさいよ。」と言うと、たいそう不満そうに此方を睨んでいる。

 こうなったときに無言の状態で発する私の迫力ってのは、我ながらかなりなものがあるのだと思います。

「ご返事は?」と念押しする前に、しぶしぶ従った。

 

「そんなことやって、血圧あげてちゃしょうがないでしょう。」なんて心配はご無用。

 なんとなれば、一生のうち一度飲めば、脳卒中にかからないという飲み物を、既にのんでるんだから。

 

写真は、イカリソウ。碇のほうですけれど・・・
 
 

2013年3月30日土曜日

石神井公園で会った可愛い子たち


 公園を散歩の途中、池に張り出した東屋で小憩をとることにし、ベンチに腰掛けるのと前後するくらいに、幼い姉弟がおばあちゃんらしき婦人と一緒にその東屋にはいってきました。

 家内が持参の携帯用ポットでお湯を注ぎ、コーヒーを紙コップにドリップさせようとしていたときのことです。

「私のどが乾いたから、なにか飲む。」といいながら、肩にかけていた小さなバッグをおろしジュースを取り出したおねーちゃんの横にちょこんと腰掛けた弟も、同じ柄のバッグを開いてスナック菓子の箱をあけ、中から小さなお菓子を指につまんだ。

 食べるのかと思ったら、とことこと私のそばに寄って来て、手のひらに握った小さな魚のかたちをしたクラッカーを差し出した。くれるという。

「ありがとネ。でもおじちゃん(おじいちゃんとは決していわない。)はいいから、ぼく食べなさい。」というと、連れのおばあちゃんも「大人はたべないのよ。」なんてフォローした。

 そのクラッカーは、あっというまに子供の口の中に消えた。

 それを見ていた家内が、キャリーザックの中からチョコレートを取り出し、二つに分けて姉弟に「じゃぁおばちゃんからは、これをあげるネ。」と手渡した。

「ありがとう。」「ありがとう。」と口々にお行儀良くあいさつもできました。

 

 「一緒に鯉に餌をあげよう!」と、持って来たビスケットを渡すと、毀して半分くらいは鯉に与えていたが、残りは自分で食べてしまった。

 まあ、そもそも人間様の食べるものだから大丈夫だけど・・・

 バイバイと手を振って帰っていく姿がかわいかった。日本の将来は明るい。

タイツリソウとコマクサ


 かなりむかしの一時期、たいつり草とコマクサを混同してたことがありまして、話しが変だな~という場面がときどきありました。

 

 ここへきて急に、道路沿いの歩道の植え込みにニセジャスミンの花が咲きました。

 でも、なんでニセなんて剥きつけの名前をつけちゃったんだろネ。ジャスミンもどきとか、もうちょっと婉曲的に言ったほうが風情があるのではなかろうかと思うのだけれど・・・

 

 差別語だなんて難癖つけられてる言葉にも、どう考えても普通名詞で、なんでなんだか意味がわからんのがあるけれど、そもそもの命名のときのことについての疑問です。

 

 そういえば、その""っていう字を分解すれば、人は一度は叩かれるっていうことになってるって字なんだとか。

 でも、叩かれたって強く雄雄しく育つんだから、エライじゃありませんか。

 

タイツリソウ

 


 

コマクサ



2013年3月29日金曜日

陰陽道と泰山


泰山府君(たいざんふくん)は、泰山の麓に住まう神であり、鬼を司るということで、陰陽道では特別の響きを持つ極めて重要な神なのだそうです。

山東省泰安市にある中国五大名山の一つであり、主峰の玉皇頂は標高1514メートルといわれる山と同じなのかどうなのかは知りません


陰陽道で泰山府君はお馴染みの神で、泰山府君祭という陰陽道を代表する祭りは、陰陽師安部晴明が始めたものとされるが、平安時代は鬼を異常に恐れたというから、特に宮中で執り行われる朝廷独占の秘祭であった。現在ほとんど民間には伝わっていない。

 

人の命は、魂とともに、泰山府君が司るといわれているため、天皇は、国家を始め臣民を護るために、或いは自らの長寿のために、泰山府君祭を奉祭したというが、その様子を私たちが窺い知ることができない秘術とされる。

その修法には、まず、宗源壇(そうげんだん)、灑水壇(れいすいだん)、太極壇(たいきょくだん)、興与壇(こうよだん)の社壇を設け、天地陰陽五行の祭式を行ない、千秋万歳(せんしゅうばんざい)を祈祷し、祭文(さいもん)を唱え、秘符(ひふ)、鎮札(ちんさつ)が駆使されたという。

 

泰山府君は、地獄の閻魔大王と同一視される向きもある。

小野篁(おののたかむら)が珍皇寺(ちんのうじ)及び福生寺の井戸から地獄に出入りして談合していた閻魔大王は、泰山府君(たいざんふくん)であったのかもしれない。
陰陽道というのは、何年かおきに忘れた頃とりあげられるが、無碍にできない謎めいた話が多い。

2013年3月28日木曜日

野草として見過ごすには惜しい


ホトケノザとヒメオドリコソウ。

 どちらも雑草として一括りされてしまうけれど、春に可憐な花を咲かし、繁殖の力はつよい。

 ホトケノザとヒメオドリコソウはよく似ているが、別なものだと意識している人は少ないようです。

 

ホトケノザは,比較的古い外来植物だといわれます。

道端や空き地,田園風景の中で,ホトケノザが繁って咲く風景は,すっかり日本の春の風景となっています。

ホトケノザはシソの 仲間。茎の断面が四角いことや,花の形などが,シソ科らしい特徴を漂わせています。重なり合っている葉の形は丸。

このホトケノザは、春の七草とは違うのだそうです。

 


ヒメオドリコソウは、花の形が笠をかぶった踊り子の姿を思わせることから付いた名前なのだと聞きます。

関東一帯に見られる、これも帰化植物。

葉が茎の 先端になるほど紫色がかるのが特徴なので、見分けやすい。
こちらは葉の形が丸ではなく三角。

2013年3月26日火曜日

ミニヒヤシンスの花が咲いて嬉しい


命あるものというのは、凄い。

直径10センチほどの鉢で育てていたミニヒヤシンスが花を咲かせました。
 

鉢が小さいということは、入れられている土も少ないから、乾燥に耐えなくてはならない。

今年の冬は殊の外寒さが厳しかったから、それにもよく絶えて、時季がくれば芽を出し花を咲かせる。

誰にみしょとて紅かねつけて・・・というわけではない。

あらんかぎりの力を振り絞っての結果が美しいのだと思う。

 

9月~4月くらいまでの生育期の間は、土の表面が乾いたらタップリと水を与えるというのが、普通の育て方であるが、そもそもは水耕栽培されていたものを鉢に植え直したもの。

花が枯れたら花ガラを摘み、水やりを減らし、天気任せの雨だけで毎年咲きます。

葉がしげっている間は、ときどき肥料を根元に撒くくらいですが、来年もきっと咲いてくれると思います。

2013年3月25日月曜日

プラシーボ効果というのがある


病院に行けば治るという思い、信じられるものを信じることからくる力のように思えてなりません。

偽薬とは、本物の薬のように見える外見をしているが、薬として効く成分は入っていない偽物のことです。

成分としては、少量では人に対してほとんど薬理的影響のないブドウ糖や乳糖などが使われることが多いといいます。

プラシーボはラテン語で、「私は喜ばせる」の意。

偽薬は、偽薬効果を期待して処方される事もあるが(昔、未開地で歯磨き粉を特効薬だと言って飲ませたら、病気が治ってしまったという話を聞きました。)、本物の薬の治療効果を実験的に明らかにするため、比較対照試験で利用される事が多い。

不眠を訴え続けるる患者に対し、睡眠薬を継続して処方することは危険だとして、ビタミン剤を睡眠薬と偽って処方することがあると言います。

これも一種の偽薬効果を狙ったものであって、患者に安全かつ安息の機会を与えるための正当な医療行為なのだそうです。

 

自分自身を信じることができればよいのだけれど、それはなかなか難しい。

信じられる神なり師なり友人なりがあれば、プラシーボ効果として自分の潜在能力が発揮され、困難に打ち勝つことができるのかもしれません。

2013年3月24日日曜日

八重桜


 早いもので、もう桜は八重の時季です。今にも降りだしそうな空の下で咲い

ていました。 

ハラハラと散り敷く花びらを、なぜか掃き捨ててしまう気になれません。 幼

いころ、母から聞いた話を想いだします。(母は、今98歳の誕生日を迎えて

亡くなりました。)

 

 あるお寺に修行で入った小坊主さんがいました。

秋が深まり紅葉が舞い落ちる頃、和尚さんに言われて庭の掃除をしました。綺

麗に掃き清めて報告に行くと、庭を一瞥した和尚さんがやりなおすようにと言

ったのだそうです。ちゃんときれいにしたのに・・・と思いつつもやり直しを

して再度報告に行くと、先ほどと全く同じにやり直しをいいつけられました。

 思い余ってか腹立ち紛れかモミジの幹を蹴飛ばすと、紅葉した葉が地面に散

り敷きました。

「終わりました。」と和尚さんに告げにいくと、「うむ、それでよい。」と満足げにおっしゃったのだそうです。

 庭をみやると、緑の苔の上に程よく散らばった紅葉した葉が冴えて、美しかったのでした。

 お掃除は、なんのためにやるのかということでは、意味深いこと。

 

 ところで、八重で連想する言葉に、七重の膝を八重に折って、というのがあります。  七重の膝ってどんな膝なのかわかりませんが、決まり文句で使われていて、丁寧さが伝わる言葉です。

 

 ナナエじゃなくてヒチジュウというのがあるそうです。

 どこにあるかというと、極楽。

 七重宝樹というのは、金樹・銀樹・瑠璃樹・玻璃樹・珊瑚樹・瑪瑙樹・シャコ樹なんだというけれど、見たことはありません。何十年か先には見られると思いますが・・・。

 

「何十年か先とは随分強気なこと言ってるね。」ですって?

だってそうなんです。瑠璃も玻璃も磨けば光るというように、お掃除を毎日たゆみなくやっている会社をやっているんですから。

 その上、墓石クリーニングを素人でもできるようにマニュアルを作って、広く広めることも始めているのですから。

 世の心ある人の、お役にたてればとの思いが、広く伝わるとよいのですが・・・

 

 写真は、峠の頂上に咲いていた夕暮れ時の八重桜です
 

2013年3月23日土曜日

赤い花びらのマンサク


紅花常盤万作(ベニバナトキワマンサク)

マンサクというのは、黄色い花が咲くものだと思っていましたら、名札が付いた紅色のマンサクが飾られていました。



 

 ベニバナトキワマンサクは中国が原産の常緑小高木で、トキワマンサクの変種であり、庭園木として植栽されるのだそうです。

3月の中頃から5月にかけて咲き、花弁は4枚、雄しべも4本なのであるが、花が密集しているのでわかりにくい。

花弁は細いリボン状で、マンサク属の特徴をよく示していますが、花の色からはマンサクの仲間だとは思い浮かびませんでした。

繁殖は挿し木からも出来るとのことであります。

クマガイソウの花を見ると


5月になると、クマガイソウが美しい花を咲かせます。

今年は暖かいから、4月には咲いてしまうかも知れません。

 

山梨の園芸店で苗を見かけたので、買い求めようと店主に尋ねました。

「鉢植えやプランターでも育てられますか?」

すると即座に、「これは広範囲に根を張る植物なので、無理です。」との答えが帰って来たので諦めました。

 

平安時代末期から鎌倉時代初めにかけて活躍した埼玉県の熊谷郷の武士。

源平の合戦での活躍が有名で、源頼朝をして「日本一の剛の者」と称えられました。

しかし、一の谷の戦い(1184年)で、平敦盛を討ち取ってからは戦場に姿を出さなくなり、その後出家して名を「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」と改め、修行に励み敦盛の供養をしたのだという。

平家物語』によれば、この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎馬の若武者を呼び止めて、一騎打ちを挑んだ。直実が、組み合って若武者を馬から落とし、首を掻き切ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの齢だった。

直実が「私は熊谷出身の次郎直実だと名乗り、あなたさまはどなた様か」と訊くに、敦盛は「名乗るほどのことはない、首実検すれば分かることだ」と、若い身ながら健気に答えたのだという。

直実は、一瞬この若武者を逃がそうと思ったのだが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたさん」といって、涙をのんでその首を掻き切った。

首実検をするに及び、この公達は清盛の甥である平敦盛、齢十七]だった。

討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」(さえだ)は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛鳥羽上皇から賜ったものだという。

一の谷の戦やぶれ 討たれし平家の 公達あわれ・・・と歌に唱われる。

2013年3月22日金曜日

福を呼ぶ顔をつくる


これは超簡単にできます。
口の両側に少し力を入れ上に持ち上げるようにすることです。
一口にいえば、つまりはにっこり微笑むということです。

笑うことが心や体に良くて、免疫力までも高めるのだと言われていますが、笑顔でいるだけで、ものごとはうまくいくようになるのだとも言われますから、大事です。

お笑い番組や落語を見て笑うのも良いと思いますが、普段から口元を持ち上げて、笑顔を作るようにしていると、それが顔になります。
昔から、笑う門には福来ると言われているのには、意味がありそうです。
微笑みを振りまくことは、周囲に良いエネルギーを発散するので、周りからも良いエネルギーが還ってくることになるのです。

唇の端が下がっている状態、いわゆる「への字」に結んだ口や、「苦虫を噛み潰したような口」をしていて出世した人はいないのだそうです。

2013年3月21日木曜日

旅をして実際に目にすると


アンコールワット遺跡でも、感じさせられたのですが、

世界各地に残されている古代巨石文明の遺跡には、
「一体どんな手段でこんな何十トン何百トンもある巨石を運搬したのか」
「こんな硬度の高い石材にどうやって精密な彫刻を施したのか、デザインの統一はどのようにして為されたのか?」

などという解けない疑問が残ります。

 

古代には岩石を軟化させる未知の溶媒があったんだとか、極端な話になると念力や宇宙人の助けで巨石を宙に浮かせて運んだなどという荒唐無稽とも思える説がまことしやかにささやかれもします。

 

当時の人口を考えても、60キロも離れた所から石を運んだのだとしたら、歴史に伝えられるような30年40年で可能だったとはとても思えません。

壁面全面に刻まれた膨大な量の歴史画だけ考えても、紙に絵を描くだけでも、不可能に思えてしまいます。



 

伝承されずに絶えてしまった技術があったのだろうか?

あったとしたら、それを復活できたら凄いことになるのにと思わずにいられません。

オーム返しの法則


 オーム返しの活用。

 他人からの乱暴な言動によって気分が乱れるということは、誰にでもよくあります。

 しかしながら、これは簡単に考えて放置しておけないことです。

 

 荒い波動は心を傷つけ、いつまでもわだかまりとなって残るようだと体のためにも良くありません。

霊感の鋭い人などは特に、「うけて」しまう状態となって、後々まで影響が出がちです。

 

 こういうのは、その場ですかさず「この嫌なことは、このまま全部お帰り下さい。」と心の中で唱え、嫌なことをした人にお返ししてしまうのです。

 オーム返しの術とでも言えばよいでしょうか。

 嫌なことをしたのは自分ではないのですから、とらわれてしまうことはありません。

 

 因果は巡る火の車。これがお互いの向上のためによい方法です。

2013年3月20日水曜日

龍神に護られたアンコールワットの欄干


アンコールワットの門に至るまでの長い石橋の欄干は、ナーガで飾られています。

そのほか至る所にナーガは刻まれていました。



 

ナーガ は、インド神話に起源を持つ、蛇の精霊あるいは龍蛇神のことである。

上半身は頭頂に5匹の蛇を飾る人間で、下半身は蛇(コブラ)という姿をしている。アンコールでは7匹でした。

釈迦が悟りを開く時に守護したとされ、仏教に竜王として取り入れられて以来、仏法の守護神となっている。

特に法華経の会座に列した八大竜王は有名で、天気を左右する力を持ち、怒ると旱魃になり、なだめられると雨を降らすという。

何事も過ぎれば民の嘆きなり 八大竜王雨やめさせたまえ (源 実朝)と詠まれた通りの通力があるとされていた。

天候に関しては責任感も持っていて、そのため自身の感情を抑えたりもできるという。

心と体を浄化するのに


浄化。人を清める 場所を清める

人ごみの中に出かけて行ったり、病院へ行ったりしたときや、愚痴や悩みごとの相談ばかり散々聞かされたり、或いは怒ってばかりの人と一緒にいたりしたあとは、異常に疲れる。誰にでもある経験かもしれませんが・・・

 

マイナスエネルギー、宗教家がよくいう邪気に憑りつかれてしまっているこ
とがあるといわれれば、そう思えます。


神社などを詣でるのも、午後遅くは避けたほうがいいと言われるのも、流石の神様でも払いきれない邪気が、大勢が来た後には残ってしまうからだそうです。


そこで、悪いエネルギーを流す浄化をします。
つまりは、心身をきれいにすることなのですが、外面は勿論内面のスピリチュアルなものも浄化するのです。

綺麗な水でシャワーを浴びたりして穢れを洗い流すのですが、このとき「清まれ!」と、自分に声をかけるのがよいそうです。

言葉にもエネルギーがある。

2013年3月19日火曜日

商品を売るためには


アンコールワットの遺跡を訪ねました。

 

バスを降りると、この地でもお土産売りの子供たちが群がってきました。

身形を見ても、生活のために一所懸命なのはわかります。

歩いている間中ずっとついて回り、何とかして売らんかな、という熱意はよくわかるのですが、買ってもいいかと思うような商品が一つもない。

客が欲しいと思うようなものを用意しておいてくれれば、旅行の記念にとか土産品として購入しても良いのだけれど、まさか現金だけを渡すというわけにはいかない。買ってその後捨てるということも憚られる。

 

絵葉書くらいならと思わないでもないが、汚れた指で1枚2枚10枚と数えて見せるから指紋だらけになっているし・・・流石に引いてしまう。

 

商品を売るためには熱心さだけでは如何ともならないということを、改めて感じてしまいました。

クメール文化を誇った国であるだけに惜しいと思いつつ、諦めずに食い下がる姿勢は勉強になりました。

カンボジャのアンコール遺跡を訪ねました


アンコールワット遺跡を訪ねました。

 

アンコールワットは、12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンズー教寺院として30年を超す年月を費やして建立されたのだといいます。

1431年頃にアンコールが放棄されてブノンペンに遷都されると、忘れ去られていましたが、後に再発見され、アンチェン1世は未完成であった第一回廊とその周辺に彫刻を施したのだとされていますが、その繊細さ、数量は圧巻です。

 

1632年、日本の森本右近太夫が参拝した時、柱に残した墨書が今も残っていて、日本にもこの寺院が知られていたことをうかがい知ることができますが、ガイドさんが日本人の落書きと説明したのには参りました。

戦乱の度、多くの石像は首を撥ねられたり砕かれて、敷石にされたといいます。

アンコールワットは純粋に宗教施設であるとはいいながら、その造りは城郭と言ってよく、陣地を置くには最適だったようで、ポルポト時代の戦闘時の弾丸がめり込んだままの壁もありました。

境内は外周、東西1,500メートル、南北1,300メートル、幅190メートルの濠で囲まれている巨大なものです。 神聖な場所を飾るため、回廊は精緻な薄浮き彫りで埋め尽くされていました。

 
 
 

 

 

「女の砦」という意味を持つ寺院「バンテアイスレイ

当時のアンコール王朝摂政役のヤヴァニャヴァラーハの菩提寺として建立されたと言 われ、周囲が約400mの小寺院ではありましたが 、外壁は赤色砂岩とラテライトで構築されていて、彫刻は見事なものでした。

東洋のモナリザと呼ばれる女神像は、穏やかな顔をしていました。

 
 

 

アンコール・トム は、アンコールワット寺院の北に位置する城砦都市遺跡です。

12世紀後半、日本でいえば鎌倉時代、建設されたといわれています。

周囲の遺跡とともに世界遺産に登録されているのはご存じの通りです。

アンコールは、サンスクリット語のナガラ(都市)からでた言葉であり、トムは、クメール語で「大きい」という意味なのだと説明されました。

アンコール・トムは一辺3kmの堀と、赤色のラテライトで作られた8mの高さの城壁で囲まれている巨大な城郭でした。

外部とは南大門、北大門、西大門、死者の門、勝利の門の5つの城門でつながっており、各城門は塔になっていて、東西南北の四面に観世音菩薩の彫刻が施されています。

また門から堀を結ぶ橋の欄干には乳海攪拌(にゅうかいかくはん=天地創造)を模したというナーガ(蛇?、竜神?)が彫刻されています

またこのナーガを引っ張りあうアシュラ(阿修羅)と神々の像が並んで刻まれています。