2015年1月31日土曜日

会社には大抵、専務と常務がいるが


会社には大抵の場合、専務と常務というのがいる。

そもそもは、偉い順というわけではない。

 

商法上、会社は代表取締役と取締役がいれば成立するが、社長(代表取締役であることが多い)・専務取締役・常務取締役は、株主総会で選任された取締役が開く取締役会で選出される。

 

専務は、社長の業務全般を補佐する役職であるから、仕事の内容は社業の全部門に及ぶことが多く、部門別にその業務を担当し纏めるのが常務ということであるが、そこらへんが厳密に区分されていない会社の方が多いようです。

 

おおまかに言えば、そんなところです。

 

2015年1月30日金曜日

何故か異様さを感じてしまうのだけれど


今度は、窃盗容疑で告発したのだとか。そこまで徹底的に潰そうとしているのを見ると、何故か異様さを感じてしまいます。

スタップ細胞のことです。

別にどちらかに肩入れするということではありません。

 

科学のことは門外漢だから、何とも言えないのは事実その通りなのですが、無いかもしれないしあるかも知れないのだから、違う方法を探ればよさそうにも思うのだけれど、その分野に触る道は閉ざされてしまいそうです。

 

常温核融合という研究分野があります。水素原子を臨界量まで凝縮すれば超高温超圧力でなくてもできるのではというので、パラジウムを使う研究をしていた人たちも、徹底的に潰されたのだと聞きます。

パラジウムより効率的なのがウランらしいから、何かのタブーに触れたのかも知れないと勘ぐってしまいます。

 

科学の進展には、沢山の失敗はついてまわるもの。近寄れないようにすることに不思議さを覚えてしまうのです。

 

石油が枯渇すれば植民地となりかねなかったのだとか


ABCDラインで封じ込められ、野垂れ死にをするか起死回生を図るかまで追い込まれたのだということは、知る人があまりいません。
石油がなければ、戦艦も飛行機も動かないから、戦わずして負ける。そうなれば植民地となってしまう
時代であった。

 

広島・長崎への原爆投下や東京大空襲は、国際法で禁止されていた無辜の民を対象にした攻撃であったから、日本が悪であったからだという理由付けをなくすことは将来もないに違いない。

恨みを忘れられない人たちが沢山いることは事実であろうし、個人的にも憤りを禁じ得ないことがなくはない。

 

それでも多くの人たちが、不幸な歴史から学んだのは、過去を乗り越え如何に明るく幸せな世界をつくるか、ということであったのだと思う。

どこかで線を引かないかぎり、前に進めないのだという選択をしたのだと思う。

 

日本人というのは、やるだけやったら後は過去に捉われずに、先の幸せを探せる度量があるのだと思う。

 

2015年1月29日木曜日

伝来の書を読めないようにするには


ネットに小さな記事が載っていました。中国のものです。

日本の高校生が、国語教科書の漢文を読めることに驚いているという記事です。自国民でも読めなくなっているのに、中国人でもない日本人がどうして、というのです。

 

自国で使っていた文字を全く変えてしまうというのは、利便性を考えてというより、他に目的があるように思えなくもない。C国もK国もそうです。

 

勝てば官軍とよくいわれますが、政権の正統性を主張するのには、教えた通りに動く国民が必要となる。自国内に向かう批判を、外に向ける方が纏めやすいに違いない。

易姓革命(前の支配者を根絶やしにする)をしても、文献が残っていて、それを読めば比較衡量するに決まっているから、古文書は読めなくした方が都合がよい。

日本は、漢字が伝来する前にあったとされる神代文字までは流石に読めないとはいえ、ちょっと勉強すれば古文書は読める。

 

歴史を調べ、昔の良かったことをいうと寄ってたかって袋叩きにする世のことを、息苦しいというのであって、個々の意見に個々の批判をするのを、息苦しいとはいえない。

 

自由に調べ自由に意見が言えるのは素晴らしい。

 

2015年1月28日水曜日

征服されなかったのは風水が理由?


半島は、長きにわたって中国の属国扱いされてきたというのは、世界で知られている歴史です。

C国も過去に何回も攻め入ったといいますが、ついに完全支配することはなかった。

海に出るのに、地政学上重要であったにも拘わらずです。

 

風水を重要視する中国で、この地を組み込むのはどうも好ましくないと考えたのだという説もあるようですが、覇権を争うのが良いということはない。

ただ、そんな歴史があるから、互いが恨みあい蔑みあっていることもあるらしいから、一見仲良くしているようでいて本気で仲良くできないということもあるようです。

近隣というのは、何かと難しい。

 

表だってに出てこないことというのは、どんなことでも解決が難しい。

 

2015年1月27日火曜日

我慢強い年金世代


年金の負担が、若年層にとって重いのだという。

少子化の現状を見ると、確かにそうなのかも知れない。

 

しかし、年金受給者層の多くは、戦後の貧しかった時代に、それこそ食べる物も食べず、寝る間も惜しんで、必死に経済復興に働いた人たちなのではないだろうか?

学問が必要だと考えれば、自らの生活費と学費を親に頼ることなく自らの働きで稼ぎ出し、いわゆる苦学して大学まで進んだ人も数多い。

 

世に出てからは、自分たちの親の世代を養うことにも不満をもらさず、必死になって働いた。

成功した人もいるし、さほどではなくて定年を迎えた人もいるが、陰日向なく努力したことは間違いない。

 

子供たちも育て上げ、ようやくほっとできるころになって、約束されていた年金が高いからとカットされるというのでは、報われない。

堪らない思いをしていることは想像に難くないが、彼らは声を上げることは少ないようです。

この期に及んでも、我慢強い。

 

2015年1月26日月曜日

実はエネルギー資源大国となれる日本


電池や核融合反応に不可欠であるリチウムは、いわゆるレアメタルと呼ばれるように、産地が限定されていて、入手するのに困難なことが多かった。
しかし、日本の技術は、海水中に無尽蔵といわれるリチウムを抽出することに成功したといい、特殊技術としてのこれらの特許も取得済みなのだという。
海中より得られるメタンハイドレード・マンガン・重水素etc.は、経済水域ということであれば世界で6位となる面積を有するから、日本が資源大国となる日は近い。


これらを、エネルギー源として活用する動きというのはいつ出てくるのであろうか?

そういう動きがでてきているということは、寡聞にして知らない。
それらに進む道を閉ざしているものがあるのだろうか?既存の利権構造というものがあるのだろうか?それとも膨大な資金が必要なのだろうか?

 

 

2015年1月25日日曜日

話題になった神と仏


初詣の帰り、神と仏はどう違う?ということが話題になりました。

 

大いなる意思とは、一体なんなのでしょうか。どのように現れるのでしょうか?

 

神と崇められるのは、日本やギリシャのように、いわゆる八百万の神々というように多神もあれば、キリスト教やイシラム教のように一神教というのもあるから、一概には比べられないが、一神教の神は、絶対伸であり、創造者という面が強調される。

この世の全ては、神が作ったものであり、人間に自由意志などはなくて、神の言う事には逆らえないということになる。

もっとも、誰が口にしたかということには疑義が生じる。天動説の時代に地球が回っていると唱えるなどは仮令それが事実であっても命がけであった。


八百万の神々などには、この世の創造者という面も一部あるが、どちらかと言えば人知を超えた力を持っっていることの方が強調される。

人を寄せ付けない険しい山や、何百年も生きた古木がご神木とされるのも、共通認識として極めて自然に受け入れられる。

このような神々は、敬い感謝することで持てる力を貸し与え、人間を幸福にすると信じられてきた。
一方、仏は、この世には気づけないでいるが確たる法則があり、それを自覚できた(いわゆる悟りを得た)人がこの世の四苦八苦はその法則から生じるのだから、それを実感できればそれらを超越し成仏できるとする。死ねば仏というわけではない。

全宇宙が自らの内にすべてあるのだと、思索と修行の中で悟るということである。

一つのものが別れて、それぞれがその持ち分として役割を果たすということであるなら、万物は等しく救済されねばならない。
法則にはずれれば、それは破壊に向かわざるを得ないということでもある。

2015年1月24日土曜日

神田明神


仕事始めの日には長蛇の列をなす参拝客が少し治まったのを見計らい、神田明神で昇殿参拝してから新年会をする、ということになっていました。

神社に参るときは昇殿参拝すると、感慨が違います。今年は、都合で集合時間に行けなかったけれど、代わりに会員のお爺さんたちが私の分も祈願してくれ、直会の品とお札を頂いてきてくれました。

宴会には参加できたので、その席でお礼を言って受領してきました。

 

神田明神は、武蔵の国 豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まるとされます。

祭神は三柱。一の宮は、「大己貴命(オオナムチノミコト)。二のノ宮は「少彦名命(スクナヒコナノミコト)。三の宮は「平将門命(タイラノマサカドノミコト)。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。

平将門は、平安貴族にとって、神と祀って鎮めなくてはならないほど、その祟りが恐ろしかったのだといいます。

天神様として祀られた菅原道真も、同じなのだといいます。

 

 

2015年1月23日金曜日

日本刀に女性の「白銀師」がいるという


日本刀は、鞘を上にし柄を下にしても、決して刀身が滑り出るということはありません。

鞘の鯉口にぴったり嵌るハバキという工夫がされているからです。

 

ハバキはばき)は、日本刀の刀身の手元の部分に嵌める金具です。刀身は朴ノ木を削って作られる鞘の中で、棟(むね)とハバキによって支えられ、他の部分は宙に浮いている状態で保持されるように工夫されてています。

初期のころ、ハバキは刀工が鉄で作っていたといわれますが、後に専門の白銀師(しろがねし・ハバキ師)によって銅・銀・金などを使って装飾性の高いものが作られるようになった。

伝統の技術を継承する職人は少なくなってきましたが、大学時代に興味を持った女性で、卒業後、白銀師の修行をしている人がいるのだと聞きます。心強いかぎりです。

 

日本刀は・刀身・鍔・鞘・ハバキ・柄等々に勝れた職人さんがいて、世界に冠たる実用と美を兼ね備えた文化を伝承してきました。分業したというのも凄いことです。

 

2015年1月22日木曜日

時代劇を見ていると


鍔の付いた大小を差しているのは、武士であることの証明でした。

浪人などが生活に困って差料を売り払っても、武士であることを捨てられないと、刀身を武光などに変えて、外見を保った。

町人たちが二本差しと呼んだのは、武士のことでした。

 

武士が締めていた角帯は、幅も広く厚手で、重い刀を固定するのに適しています。

角帯は、腰に三周回して後ろで結びますので(結び方にもいろいろある、帯と帯の間が二個出来ます。

脇差は体の外側の隙間へ、大刀は体寄りの隙間に刃を上にして差しますが、先に差す脇差しは体の正面寄りに差し、後から差す大刀は、大小の鞘の交差が90度位となるのが普通です。

1メートルほどの刀(もっと長いのを差す人もいた)を、抜く手も見せず刀身を鞘走らせる為には、鍔の位置関係や大刀をどのくらいのところで帯にとどめるかに工夫があったようです。

 

差し方にも色々あり、横から見て刀が地面と水平になっているような差し方を「かんぬき差し」と呼び、鞘尻が下がって柄が胸側に近づくのを「落とし差し」と呼びました。

着流しのときなどには、この差し方が多いように見えます。

 

 

2015年1月21日水曜日

日本の刀の数え方


日本語における物の数え方というのは、床しい。

例えば、箪笥は一棹二棹と数えますが、運ぶときに棹を通して担いだからだといいます。

 

ところで、世界に冠たる日本刀は、一口(ひとふり)、一振り、一腰などのように数えます。

 

日本の刀剣は、鎧を着て戦った時代は太刀拵えといって、太刀緒で帯取りしたり鎧の太刀絡みに刃を下に向けて括り下げていたので、一振りとか一腰と呼ばれたのは判りやすい。

刀の別名の腰の物というのも、そんなあたりから始まっているのかも知れません。

 

馬上で戦うのに適した太刀(たち)も、武士階級が興隆する室町以降は、刃を上向きにして帯に手挟んだ「差料(さしりょう)」として、これまでの呼び方に加えて「口」というのが加わったようですが、この単位としての「口」は、刀を振り下ろして切り口を つけるという意味があるのだといいます。

武士は、刀に添えて脇に差す鐔付きの、刃渡り二尺未満の小刀(ちいさかたな)を差しますが、そのときには「口」「刀」「振」と数えるか、刀と合わせて「揃(そろい)」と数えたようです。

 

いわゆる帯刀が許されない身分の者が持つのは、鐔(つば)なしの脇差や、刀並みの刃渡りの長脇差(ドス)などですが、これは「本(ほん)」「挺(ちょう)」のように呼んだようです。

 

2015年1月20日火曜日

グローバルスタンダードって誰の為のもの?


起きて半畳 寝て一畳といいます。住むのに必要な面積はそんなものかも知れません。

一日玄米三合と、麦と少しの野菜を食べ・・・と言うほどに慎ましやかな生活をしろとは言いませんが、飽くなく貪る心というのは、幸せかどうかわかりません。

足るを知ることを知った方が、豊かな気持ちになれるのかもしれません。

 

世に言うグローバリゼーションというのは、使いきれない量の富を集めてなお、もっと自分の所に、という欲そのものに思えるのです。

 

国によって、自然環境や信じる神様が違い、周りとの付き合い方が違っていて当然ですし、長い歴史の中で培われてきた大切なものも沢山ある筈。

 

それを同一ルールで、人・物・金・サービスを競い合わせるのが人間として公平だとは思えない。

ハンデなしで戦わせれば、力の強い者が勝つに決まっている。

自分が何の努力もせず怠けているのでなかったとしたら、人類の誰もが幸せになれるルール作りというのは、どうやったら擦り合わせがきき納得できるのだろうか?

違いを認め合うということは、どうしたらできるのだろうか?

 

2015年1月19日月曜日

どんな事情があったのやら


このところ連日、子猫が窓先にやってきて「にゃあにゃあ」鳴いて餌を求めてきます。

飼い猫であった証拠に、人影を見ても逃げません。

 

器量があまりよくないから、生まれて間もなく捨てられたのか、とても痩せていて、栄養失調によるのか他の猫にやられたのか、前足が不自由でびっこ(差別語?)をひいています。

 

この寒空に腹を空かしているのは不憫に思い、猫の餌の用意はないので、自分の食べるご飯の中から、分け与えています。

いいのか悪いのかわかりませんが、腹がへっているときのひもじさはわかるので、無碍にもできず、いずれ自立して去っていくまでやむをえないかと思っているところです。

 

なんか、うちのサイ(普段ツノは見えません)のほうが親身になって心配しています。

飼うんなら捨てるな!と言ってみても、詮無いことですが、どんな事情があったのやら・・・

 

 

2015年1月18日日曜日

意味と美しい響きを持つ日本語


兵庫の大震災の時にも、感動的な話が沢山あったことが、伝わってきます。

美しい心は美しいこうどうとなり、美しい言葉となって残っていきます。

 

「津軽てんでんこ」というのは、大震災の後、あまりにも有名になった言葉です。

信州にも、似た方言があります。「てんでに」というのですが「自分自分で」というような意味でつかいます。

自分自分でといっても、自分勝手にということではなく、自分自分が責任を持って、ということです。

極限状態に立ち至ったとき、一人でも生き延びろということでの「てんでに」というのは、普段から濃密な信頼関係が築かれいてるということでありましょう。

その言葉の持つ意味というのは重い。

 

いかに「おわす」父母、恙なしや友がき・・・

「おわす」は「います」の尊敬語。「いらっしゃる」は、来るという意味もありますが「居る」の尊敬語でもあります。

日本語には、その言葉が中に含んでいる深い意味があり、音の持つ波動というのも美しい。

「和菓子の怨」などと「我が師の恩」のことを勘違いするようなことではなくて、言葉の神髄をきちんとする恐育も必要だと思うのです。

 

英語教育も大事ですが、美しい日本語はもっと大事です。

 

2015年1月17日土曜日

隠しおおせなくなったナッツ姫


非理法権という言葉があります。

理屈も何も非ずという無秩序な状態に対し、理屈が通るということが上位し、理屈が整備され法として体系化されれば、法が理に上位する。

しかし、法によってすべてが統べられるとは限らず、現世においては権力に歪げられることが多々あることから、あの世ではそれを匡そうというのが、来世思想の一因であるともされる。

 

ニュースによると、悪名高いナッツリターン事件は、「副社長である私にそのサービスの仕方は何よ!」というのが発端であり、調べたらマニュアル通りのサービスであったことに逆切れして、揉め事を責任者の所為だと、滑走路に向かっている航空機を引き返させ彼を降ろしたというのが真相だといいます。

 

機内では法である筈の機長も同罪だが、法を曲げてまで自己主張を通せる権力とは、一体何なんだろうか?

国際的企業を私物だとでも思っていて、何をしても許されるとでも勘違いしていたのだろうか。

威を背景にした事件後の隠蔽工作も、陰湿であり姑息である。

 

まあ、よその国のことだからどうでもいいようなものの、乗っていた他の客にはいい迷惑だったに違いない。

 

2015年1月16日金曜日

恩讐のかなたにあるもの


何か事を為すのに、恨みのエネルギーというのは大きいのは事実です。

しかしながら、恨みというのは破壊には大きく作用しても、その後の創造に力が働くとは思えない。

 

中学生の頃、菊池寛の小説「恩讐の彼方に」というのを読みました。恨みを超えた先にある感動と清々しさがあったことを記憶しています。

 

内政の不満を逸らすために外に敵を作り、恨みの念を掻き立てて、そのエネルギーを使うというのは常套手段です。

しかし、いかに大仰に喧伝教育しようと、いずれは事実が知れ渡るときがきます。

例えば、諺文といって蔑み捨て去られていた文字を復活させ、学校を沢山建てて識字率を上げる教育をした結果がどうであったか。

偏狭な身分制度を廃止し、インフラを整備した結果がどうであったのか。

衛生状態が良くなり農業生産力があがる方策を敷いた結果、寿命が延び人口が増加したのは?

 

知れ渡ったそのとき、騙されていたと知った人たちの反撃がどのようなものになるか。

程度を超えたものには、大きなリスクを伴うものなのだと思うのです。

 

2015年1月15日木曜日

トロイの木馬とならなければよいが


やりすぎたのだと思えてならない。引きどころを考えないで突き進むと、収拾がつかなくなる。

行き過ぎたことで、嫌○が増えている。

日本人は我慢強いが、我慢しきれなくなったときは怖い。

 

私も含め、戦後に育った大方の日本人は、教えられるままに、多大な迷惑をかけたであろう近隣諸国と如何に友好関係を築いていくかということについて、まず頭を下げることから始めるのに、納得がいかず多少理不尽だと思える要求があっても、やむを得ないことだとしていたと思います。

 

慰安婦が20万人も強制連行されたとか、南京で30万人の虐殺されたとかいわれて、本当のところはどうだったのだろうかと疑問に思う人たちが増えてきて、いろいろ歴史を調べ始めたのだと思うのです。寝ていた子が起きてしまった。

 

人数が問題なのではないと論点を変える人が多いが、それは違うと思います。

事実と違うことをいうと、事実の部分まで信じるに足りないとされるのだから、事実を明確にしていくことは大切だと思うのです。

 

本多勝一 加藤千洋 植村隆(あえて敬称略)、は、この問題を調べていこうとすると、随所にこの名前がでてきます。

 

南京事件については、今年習近平中国国家主席が(口の悪いネット住民は、臭菌屁などと揶揄しています。)、記念式典で大々的に打ち上げたのですが、国内においても、毛沢東や鄧小平でも言わなかったことを、今頃になっていうのかという疑問の声があがっているのだとか。

文化大革命や天安門事件などを通じて自国民を殺した数の方が多いのではないのか?とか国内の内政上の難題から目を逸らせようとしているのではないのか、などの声が自国民の中からでもあがっていると言われている。

戦争をしていたのだから、死者が出たことは否定しないが、虐殺はなかったというのが日本の立場ということ。

 

慰安婦もいなかったとは言っていない。強制性はどこをどう探しても、その証拠は出てこないというのが意見である。

ジープやヘリコプターで移動したという証言も、時代との整合性を欠くが、それをあえて隠さず発表していることに疑問を感じます。

朝鮮戦争時の米軍人慰安のために、韓国が強制的に慰安婦を従事させたことがいずれ公になることを想定していたのではないかと思えなくもない。

 

テロリストに狙われるのは、テロリストを支援した人であると言われる。

朝鮮戦争やベトナムのライダイハン問題は、太平洋戦争よりももっと卑近な例だから、記憶に新しい筈。日本叩きをしていても、いずれ無理が出ると思うのは普通に考えれば解る。

そのとき、どうやって抱き付く先を担保するか。

 

慰安婦を支援した人は、慰安婦に狙われるというのがテロリストと同様だとすれば、米国に慰安婦象を建てるのは、相当な権謀術策。そんな訴訟も提起されたから、あながち穿った見方であるとは思えない。一緒になってうやむやにしてくれるかもしれない。

トロイの木馬となるのかも知れない恐ろしさを、見過ごしたか?

正月休みにネットを見ていて、ふと感じたことです。

 

 

2015年1月14日水曜日

後世まで残っていくものは


久し振りに、子供の頃よく歌った唱歌を聴きました。

メロディーが難しいわけでもなく、歌詞も至って淡々としているのにも拘わらず、浮かんでくる情景はとても豊かです。

和歌も俳句もそうですが、奇を衒ったような言葉や、思いついただけのけばけばしい表現をしたものが名句として長く残っているわけではない。

 

心に感じた神髄のものを残し、削ぎ落とし削ぎ落とししたものに集約されているから、割愛されたであろう情景や心情が、その裏から溢れんばかりに伝わってくるのだと思います。

 

踊ったり叫んだりというのも一つの表現方法ではありますが、昇華されたものとは程遠いものに私には思えるのです。

 

優れた職人が作ったものは、焼き物にしても工芸品にしても、簡素化された形の中に、厳しい修行と研鑽に裏打ちされた深い精神性を自ずから醸し出しているように感じます。

 

誰が見ていなくても、誰からも認められなくても、そうした努力に裏打ちされたものは、圧倒的に力強い。

そういうものが、後世まで残るのだと思うのです。

 

2015年1月13日火曜日

捨てられてしまったらしい子猫


庭先を、痩せこけた子猫が時折通り抜けていきます。器量はあまり良くない。

飼い猫だったのが捨てられてしまったらしい。

飼い猫だった証拠に、人影を見ても慌てて逃げ去ることはしないし、「にゃあ」と声をかけると「にゃあ」と応える愛嬌を残しています。

今日は腹が減っていたのか、にゃあにゃあ庭先で鳴き続け、なかなか立ち去らないので、昼に食べた魚の残りをやったところ、かぶりついて食べていました。

可哀そうだが、それ以上のことはできない。

この寒空にどうしているのか心配ではあるのだが・・・

 

 

2015年1月12日月曜日

愛嬌がでてきた狸


昨晩、久しぶりに狸が庭先に現れました。

外れとはいえ一応は都内なのに、どこに巣くっているのか、大分人慣れしたのか、以前のように慌てて逃げ去ることなく、こちらの顔を見てからゆっくりと私の鼻先を歩いていきました。

 

丸々と太っていたその2匹は、親子なのか兄弟なのかわかりませんが、どこかで餌を得て、まずは生き延びていることに安心しました。

 

鳥といい、このような小動物といい、逞しいものです。

 

2015年1月11日日曜日

お気楽な平和主義では


戦争の悲惨さは誰もが口にするし、戦争がない世界を誰もが望むが、未だにそれは実現できないでいる。

自分の側からの主張がお互いに強すぎれば、折り合いがつく道理がない。

 

戦後まもなくの小学生時代を過ごしたから、先生方の体験というのを聞く機会というのが沢山ありました。

船が沈められ海に投げ出された人を救うために救助艇を出すのだが、一定数を拾い上げると、後は船べりに縋りつく人を振り払って見殺しにしたということもあったという。

 

子供心に、それは酷過ぎる。みんな助けてあげれば良いのに、と思ったものでした。

長ずるに及んで、考え方というのは少しづつ変わりました。

 

全てに良いというものは無い。それが極限状態にあるときであれば、どこかで最悪だけは避けるための選択を決断しなければならない。

全滅しないために涙でそうせざるをえなかったことを、経験もないのにお気楽な平和主義で非難することはできないのだと・・・

 

無い方が良いものがまだ有るとしたら、最悪を避けるためにどうするかということを、上っ面ではなくて考えなければならない。

ヨーロッパがきな臭い。