2018年2月28日水曜日

どのような仕組みになっているのだろう

どうにも不思議でならないことがある。

マスコミの報道の仕方や世論への持って行き方が変なのではないかと思えるのです。
伏せてしまって報道しないものも多いように感じるが、その選別はどのようになされるのだろうか?知られるとまずことなのだろうか?

国会の中継を見ていていつも疑問に思うのだが、野党議員はどうしてああも居丈高・喧嘩腰でものを言うのだろう?議論を尽くす場なのだから、冷静に、互いに尊敬しあって話し合えば良かろうにと思ってしまう。
マスコミがそれを窘めるようなことを言うことは無く、どちらかと言えば与党の答弁の言葉尻を捉えて大きく扱うように感じる。

アメリカのトランプ大統領に対する批判などもそうである。日本なのに批判一色である。
確かに報道されることだけを聞けば、それはどうかと思うこともあるが、実際に米国内ではどのような評価なのかとか、彼が実績として残した政策はどのようなものがあり、それはどのような成果をあげているのか、というようなことは全くと言っていいほど伝えない。
日本で報道されているようなことだけであったら、いかに米国が自由の国であったとしても、政権は持ちこたえられまい、と思えるのである。
他国の元首のネガテブキャンペーンを日本でやっているようにすら感じてしまう。

それに引き換え、中国や韓国を非難するような報道というのは、まず目にしない。
日本に対してかなり酷いことをやっていても、それは伏せられているように思えてしまう。
金王朝は崩れそうにないし、新たに習王朝が生まれそうな気配だってあるが、それに口を挟むわけにはいくまい。

卑近なところでは、大相撲の暴力事件についてもそうであった。
普通に考えればそれは刑法上は犯罪であり、重傷を負った被害者が擁護されるべきだと思うが、加害者が謝罪に行ったのに会わなかったからと言って被害者の方を悪くいう報道の方が多い。
被害者が加害者に会いたくないと思うのは、どんな事件でも普通なことであろうに。
親方も協会に報告しなかったからと言って批難の的にされているが、警察沙汰になったら、事件が決着を見るまで、当事者が話せなくなってしまうことは多かろう。
協会に報告したら、協会はどのように対処したというのだろうか?

凶悪犯罪が起きたときもそうである。加害者が特定の外国人だとでもいうことになると、未成年でなくても実名報道は何故かされない。被害者の側のことになると、家族も含め顔写真まで簡単に公表されてしまうのにである。何を基準として報道しているのかが解らない。

公共の生活に多大な影響を及ぼすメディアの報道責任は、論を待つまでもなく非常に重い。
ニュースにするには、当然のことながら裏付け取材は欠かせないし、議論が分れるような問題については両論を公平に扱うべきだと思うが、なぜか偏る。

誤報であったことが後に明らかになったら、訂正記事を載せて読者に謝罪すべきだと思うが、滅多にそれをすることがない。仮にあったとしても、気づかないほどの小さい扱いとなり、報道時に扱った紙面の大きさに比べ申し訳程度のものになる。

メディアは権力を監視する機関であると高言するが、それは一体どこから付託されたものだと言うのだろう?
メディアの振う権力をチェックする機関が必要だと思えてならない。
感情的に煽られて、K国のようになってしまうのではないかとの恐れを抱くことすらある。


2018年2月27日火曜日

日本の日の丸の色

韓国の宮廷ドラマなどを見ていると、鮮やかな色の韓服を纏った人たちが出てきて、こんな文化があったのかと惑わされるが、それは捏造だという人がいる。朝鮮では染料は高価であり、貧しくてとても買えるものではなかったと。
事実、残されている朝鮮王朝末期の頃の風俗を写した写真は、首都といえども藁ぶきの家が並び、そこに屯している民はどれも粗末な白い衣服しか着ていない。
少なくとも、庶民はそうであったと思われる。

日本ではどうだったのかというと、平安時代の昔から、四季折々に見られる自然の色を衣服にも取り込んだ鮮やかな衣装を着ていた。
大抵の色は染めることができたらしい。
そういう色を四季に合わせ身にまとうのが貴族の教養であり嗜みとされていたから、グラデーションも考えた色使いも美しい。
十二単に代表される日本の装束は、植物染料によって染められていたというが、発色を高めたり色落ちを防ぐために、媒染処理を行っていたとされる。
太陽神を信仰する日本人は、赤に対しての意識が強い。
一口に赤といっても、それは50種類にも及び、その一つ一つに名前が付いている。
黄色い花を咲かせる紅花から黄色の色素を捨て、藁灰のアルカリ、米酢の酸で赤色を抽出し、梅から取り出した酸で布や紙に染め付けた知恵というのはどこから出てきたのだろう?

古い絵巻物にも描かれているし、書物にも色の記述は多い。
庶民にもそれらの色は広まったようであるが、江戸時代に入ると奢侈禁止令などが出され、身分によっては使えない色ができた。
そうなると庶民は工夫して、使える色のものでも種類を増やした。
利休鼠などは有名であるが、四十八茶百鼠とか藍四十八色と呼ばれるように、色彩感覚がすぐれていないと区別できないものを沢山作り出した。
反骨精神の強い人は、表地は粗末に見えても裏地に贅を凝らすなどということもした。
浮世絵などに描かれている色や模様は、技術文化の高さを窺わせる。

2018年2月26日月曜日

国連の力は発揮されるのだろうか

オリンピックが終わると、北朝鮮の核を廃棄させるための国連制裁決議というのがいよいよ厳しさを増しそうである。
国連の活動はいろいろ報道されるが、果たして法的拘束力というのはあるのだろうか?
唯一、安全保障理事会の決議事項は、法的拘束力があるのだという。

ウィキペディアによると、
国際連合安全保障理事会決議UNSCR, United Nations Security Council Resolution)とは、安全保障理事会の構成国の票決による決議のこと。
理事15か国中、9か国以上の構成国が賛成し、かつ、常任理事国の反対が一切なかったときに承認される。
安全保障理事会の表決は、国連憲章第27条3項に規定されており、各国1票ずつの投票権を有し、「常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票」が決議成立の条件となっている。
常任理事国のうち、1か国でも拒否した場合は、「拒否権」の行使として、決議は成立しない。
常任理事国の「棄権」は「同意」ではないので、27条を文言通りに解釈すれば、決議の成立を妨げることになる。
しかし、常任理事国の棄権は決議の成立を妨げないとされ、他の9か国により決議が成立させる運用がなされている。
法的にこれを説明するためには、「後の慣行」によって暗黙に憲章が改正されたとか、棄権についての規定がもともと欠缺していたなどと説明する他はない。
安全保障理事会決議は、法的拘束力を持っているとされているが、国際連合憲章においては、安全保障理事会が決定 (decide) した場合のみに法的拘束力をもつ国際連合憲章25
そのため、議長声明公式コミュニケ、非公式となるプレスステートメントの順で拘束力が弱く、これらはコンセンサスで決められる。
コンセンサスは全会一致が必要のため、プレスステートメントでも非常任理事国の1カ国でも特定の言及記述をブロックできることはあまり知られていない。

さて、2395号という強烈なのがあるらしいのだが、これは議決されたのだろうか?

2017-12-27 安保理23951221日に国連安保理で決議2395が出され、このことは殆ど全てのニュースで報じられていない。
これは何か言えば、世界的に高まるテロの危険に対処するため、国連がそれをなんとか防ごうと
いう動きである。
具体的には、各国が危険な団体を指定し、その情報を国際的に共有し、その動きを封じる動きを
とろうということである。
どうやって封じるかというと、
空港で飛行機に搭乗させない。そのためにはハイジャック防止を企図する国際民間航空機関とも連携する。
そのために、各国は危険団体を報告する。
日本では、オウム真理教と赤軍、YAKUZA、それ故指定暴力団の組員はこれに該当する。
次には、テロ予備軍として破防法の監視対象団体としての極右、極左グループと、未だに暴力革命を目指すことをやめない共産党のlistupが検討されている。
飛行機は国際線のみならず国内線も対象になる。
共産党は一時、暴力革命により現政権を転覆することを謳っていたため監視団体に指定されたが、その後この意思を変更したかどうか明白でないために今でも監視団体となっている。

この決議がなされると、二重国籍者やマネーロンダリングを目論む人たちにも、大きな打撃となる。

2018年2月25日日曜日

歴史を押し付けられていないか?

戦後に学校教育を受けたから、1億総懺悔の時代でもあり、日本は酷いことをしたのだと言われても、そうだったんだとしか思えず育った。

しかし、まわりの大人たちの言うことややることを見ていて、日本人がそんな残虐なことをしたとはどうしてもずっと信じられなかった。
道徳感や倫理観、国民性が数年で変わるわけがあるまい。

戦勝国が押し付けてきた歴史観というのは、そこで終わっていれば、そのまま今も受け継がれたのかも知れない。
しかし、戦後何十年にも渡って中国や韓国が使ってくる度を過ぎた歴史カードに、若者たちが反発し、疑問を持つに至った。
その意味でいえば、反面教師としての働きをしてくれたことで、歴史に目を向ける機会を得られたことは良かったのかもしれない。

その気になって調べれば資料は山のように手に入るし、事実を事実として捉えることができる。
捏造してまでそれらの国が国内の都合で反日の為の喧伝・教育したものは、日本の若者たちの多くが、証拠に基づき論破できるようにまでなったのだと感じる。

A新聞の報道により世界中に広まってしまった慰安婦問題は、日本を貶めたことでは特に問題が大きい。それを糺そうとすると、歴史修正主義だといって真実まで退けられるに至っていて、この軛から逃れることは難しくなっている。
それに限らず、歴史というのは、事実が事実通りに認識されるのであれば、受け入れざるを得ないが、どうも違うことが多そうである。

そうは言っても、善も悪も一方的なものではないのは確かであるから、公平公正であらねばならないことは当然である。
国粋主義的に日本を敢えて擁護しなくても、事実を知ることで取り戻せる日本人の自尊心というのは大きいのではなかろうか。
世界に向かって修正することを求めなくとも、日本人として知っておくべき事柄は多い。
自分達がしっているだけでも良いのだと思う。

日本の進歩人と言われる人は、何故か反日を旨とする人が多いが、学者は真実を追求するのが本来の目的であって、その知り得た真実を広く知らしめるのが仕事なのだと思うのだが・・・
そういう動きはなかなか起こって来ない。それをすると右翼だと決めつける勢力が根強いからかも知れないが、右翼だ左翼だの問題ではあるまい。

2018年2月24日土曜日

私の書いている小説ページ「夏風越の」

ページの上部に空白があり、スクロールしないと文頭が出てこないという不備があり、ご迷惑
をおかけしていましたが、修正致しました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私が書いた小説 
ある日突然、頭に「これを書け」という声が響いて書き始めた小説「夏風越の(なつかざこし
の)」は、書き始めてから年月がかかっってしまいました。
どう書き進めるのかは、降りてくるお告げに従ってのことですので、一気に何ページにも及ぶ
こともあれば、何か月にもわたって一文字も書かないということもありました。
幕末から現代に生まれ変わって、超常現象を介して話しが進むということなのですが、何かが
時々降りてきて言われる通りに少しずつ書き進め、12月20日、第10部まで書き終えまし
た。

童話 
「トイレの神様」・「鬼切丸」・「昔ばなし」・「麦の命」・「猿酒を飲んだ天狗」・「狐のお嫁さん」・
「花を摘んでいた少女」ほか、幼児に読み聞かせるのに良さそうなお話を書いています。

こんなくらいなことは、どこに行っても有る

基本的に、相手が何国人であっても、日本人は差別的に対応することはまずないし、可能な限り友好関係をつくろうと思って接する。
しかし、どこの国に行っても均一的ではなく、友好的な人も居ればそうではない人も居て、それはどうなるものではない。
それでも、大まかに親日的だとこちらが思い込んでいる国というのはある。
だから相手もそうであろうと思ってみても、相手が全てそうだとは思いこまない方が無難である。

むかしドイツの最高峰であるツークシュペッツに登ったことがある。
9月の中旬は過ぎていたと思うが、頂上付近は深い雪に覆われていて、下山した時にはかなり疲れていた。
時間的に遅くもなっていたし、麓近くでホテルを探し、そこで一泊した。
朝起きて外をみると、そこはすぐそばに湖があり、なかなか良い場所であった。
朝食を摂りにレストランフロアーに行き、眺めの良い席を選んで座った。
食べ始めて少しした頃、二人ずれの宿泊客が入ってきて、食べているテーブルの側を行ったり来たりしてもの言いたげである。かなり不満そうな顔つきをしていた。
どうやらその席は、彼らがいつも座る定席らしく、こちらにどけと言わんばかりの態度を露骨に表し始めた。
そんなのは此方の知ったことではない。座る前にリザーブ席だとの表示はされていなかったし、事実レストランのスタッフからもそんなことは告げられていない。
こちらがマナー違反を侵しているわけでもないのに、誇り高き日本人としてはムザムザ譲るわけにはいかないから無視した。
今後の日本人客の扱われ方も考えれば、ゆえないことを要求されてスゴスゴ引き下がるわけにはいかない。
東洋人と侮っての振る舞いであったようだが、態度物腰からどうやら此方が誇り高き日本人であると悟ったらしく、諦めてほかの席に移って行った。
言葉なんか通じなくても堂々としていることは大切である。

2018年2月23日金曜日

そんな酷い名で呼ばれるほど不潔だった?

中国は、自らを中華と考え、周辺国に酷い名前を付けて呼ぶ習わしがあった。
日本人のことを「倭人(小さいひと)」と呼ぶくらいのことは、まだましなほうである。

半島に住む人たちのことを、中国の史書では穢族(わいぞく)と呼んでいた。
実際に使っていた文字がまた酷い。穢いは禾偏であるが、そのノギをわざわざサンズイに替えて表した。獰猛であり、衛生概念というのがなくて非常に不潔な民族だったという。

エベンキ人=穢族(わいぞく)と、女真族という最低の馬賊がいたのですが、この民族が現在の韓国人のルーツであるとする説がある。
この穢族という未開人が、遣唐使の時代、半島に跋扈していた。
遣唐使というのは、海路で直接大陸に向かったのだとばかり思っていたが、どうもそればかりではなく、半島経由の陸路をとることがあったのだとか。
非常に危険と困難を伴い、海路で渡る危険さと共に、遣唐使が持ち帰る文化と比べてリスクが大きすぎたことが、遣唐使を廃止した理由の一つであるともいう。

2018年2月22日木曜日

いろいろ知れ渡って行きそう

約束ということについて、それは守らねばならないとするのが、世界各国の共通認識である。
ところが、約束をしても守る守らないは自分の勝手と考えるのが国民性だと思われている国があるのだという。。

世界最古の金属活字本でフランスが保管中の『直指心体要節』という文化財をフランスが韓国に貸し出したが、返還されないままだというし、日本からなぞは、仏像が窃盗団によって盗み出されたのだが、犯人は逮捕され仏像も確保できているのに、何だかんだ屁理屈をつけて返還しないままでもある。
そんなことでは、本当に仏罰があたるに違いない。
イランが経済制裁を受けていたときに凍結され、いうなればイランからの預かり金ともいうべき巨額な金も、使い込んでしまっていて返さないのだという。

「本を貸す馬鹿、借りた本を返す馬鹿」という諺があるのだという位だから、国内では通用するかも知れないが、世界が相手だということになると、いずれは制裁される事態だってありえる。
オリンピックを機会として、いろんな問題点や本性が浮かび上がってきてしまっている。

諸国が言っている取り扱いマニュアルというのが、かなり的を射ている。解ってはいても、各国とも手を焼いているのだということが見て取れる。

戦後の日本は人の好さ丸出しでつきあってきたが、日本相手なら何をやっても許されるということにそろそろ歯止めをかけないと、最後の頼みの綱である日本が冷めきってしまいかねない。
正気になって欲しいものだと思うのだが、今となっては難しいのだろうか?


2018年2月21日水曜日

選手は頑張っているのに

オリンピック競技を見ていると、教義の技術は、これが人間業かと思える程のものに信かしている。スキー然りスケート然りで、ただただ驚嘆する。
フィギュアスケートで、男子は4回転ジャンプができないと上位には入れないし、トリプルアクセルなどは苦も無く飛ぶ。それも入り方に難しいステップを入れ、着氷後の滑りも滑らかである。
女子選手で、オリンピックの時にトリプルアクセルを成功させたのは、伊藤みどり・浅田真央・長洲未来の3選手だけだというが、これも飛べる女子選手が増えてきているというから、今後の試合は大変そう。
初めて成功させたと言われる伊藤みどりの当時のスケート靴は、いうなれば鉄下駄を履いているくらいの重さだったのだというが、今の靴は軽くなっているらしい。

選手は、他に抜きんでる技術を体得するのに、怪我の恐怖にも打ち勝ってきた凄みがある。
尊敬せずにはいられない。

古代オリンピック大会は、1000年以上続いたというが、近代オリンピックは今回で第23回だというから、せいぜい100年くらいの歴史しかない。
これは、どの競技においても同様なのだと思うが、大会の運営については、何かと不明朗な話も取り沙汰されていて、今回は特に多いように思えることは残念なことである。
他国選手に妨害行為をしたり、スピードスケートのスターターが変なタイミングをとったり、判定結果にクレームをつけたり、薬物疑惑を持ち上げたりと、後味が悪い。
自国選手が反則で負けたことに腹を立て、繰り上げでメダルを得た選手に殺害予告をした等となれば、最早論外であろう。スポーツマンシップの何たるかから学びなおさねばならない。

2018年2月20日火曜日

日本にも文字はあった

星空をながめると、冬の大三角から春の大三角に代わる時季。
その三角の中に、おとめ座というのがある。
ギリシャ神話によれば、昔、人間が仲良く暮らしていた時代は、神もまた地上で人間と共に仲良く暮らしていた。
しかし後に現れた人間たちは争ってばかりだったので、神々は人の世界に愛想をつかせて見限り、1人ずつ天に帰っていってしまった。
最後まで残ったのが正義と天文の女神アストライアーで、1人地上に残り人間に正義を教えていた。やがて彼女も人間に失望し、自ら天に昇っておとめ座となった。
手に持っているのは麦の穂、使っていた正義を計る天秤は、天秤座となって付き従った。

日本の神々は、人を見捨てることなく、身近にいて護っていてくれる。
日本人の先祖は、プレアディス星団の昴からやってきた末裔だという説がある。
遺伝子的にいって、他民族と違うらしい。

2000年程前にその文化が杳として途絶えてしまったシュメール文化というのがある。
シュメール人は日本人との共通点が多いのだと言われる。
彼らは、彼らが残した文字によると、ニビルという星からやってきたのだという。
「ニビル」とはシュメール語で「交差する星」という意味なのだとか。
メソポタミアで発掘された粘土板には、「ニビルという星に住むアヌンナキが地球にきた」と書かれていて、そこから地球に渡ってきたのがシュメール人の先祖なのだということらしい。

日本には、漢字が渡来する前にカタカムナ文字というのがあったのだという。
古代から何か他民族と違うものが有って、それが芯のところで息ついでいるのだろうか?

何か大昔のことには壮大な夢がある。


2018年2月19日月曜日

選手たちは頑張った

オリンピックの選手というのは、数多くいるその競技者の中から代表として選ばれただけでも凄いことなのだと思う。
その上メダルまで獲得したら、文句なく称賛の対象だと思う。

外野席から勝手にメダル獲得を期待して、それが叶わなかったとして選手を責めることを平気でTVなどで公言できる人たちの神経というのはどうなっているのだろうか。
専門外なのに偉そうにして批判的にものをいうのは、聞き苦しい。
一体、選手の何を知っているというのだろう?自分はそれができたとでもいうのだろうか?
まず褒めれば良いのに、と思ってしまう。

競技なのであるから、その時の順位は決まる。それが競技というものの厳しさである。
実力が出し切れた時もあれば、運が味方しないケースだってあり、重圧を背負って出場した選手本人が一番理解していることなのであろうに、結果だけで鞭打つようなことができる人の人間性を疑ってしまう。

労うか、或いは敢えてそれに触れないでそっとしておいてあげるのが人としての優しさであろう。
血の滲むような努力と、精神的葛藤を乗り越えて出場した選手のことを軽く扱える人なんていないと思うのだが・・・
口にはださずとも、選ばれたことで果たさねばならない役目を負っているのだという自覚がない選手なぞいまい。

メダルを獲得できた方々には、深甚なるお祝いを申し上げます。

2018年2月18日日曜日

日本には発見されているペトログラフが多い

日本には古代遺跡から発掘された土器や石器、住居跡などが多いということは誰でも知っているが、実はペトログラフというのも非常に多いのだという。
ペトログラフとは、岩石などに刻まれた文字や絵のことを指すが、日本の考古学は世界的水準から見てどの程度のところにあるのだろうか?
土器の編年などについては、各地の遺跡からの出土物の 収集・整理の点で目を見張るほどの成果があがっているかに見える。
しかし 、欧米諸国と比較した場合、その研究対象と関心の範囲は、極めて限られたもののように感じる。
遺蹟の発掘調査の場合、欧米ならば天文学・生物学・ 地質学から言語学・民族学・宗教学などあらゆる関連部門の学者が参加し協力して研究しているように思えるが、日本では、縄張り意識というかどうかしらないが、限られた専門家の意見に従っているかのように感じる。

ペトログラフといえばシュメール文化のように理解していたが、日本のそれもシュメールのものと酷似しているのだという。
どちらが古いといって争う心算はないが、シュメール文化は2000年~5000年前のこと。
日本の縄文文化はもっと古くて、15000年まえのことになる。
世界は何らかの形でつながっていたのだろうか?

日本のペトログラフというのは、古くから伝わる神社やそのまわりから沢山見つけ出されるというから、この分野の研究は是非進めて欲しい。





2018年2月17日土曜日

誰もが成功できるわけではないが

人は誰も大抵は、その心の中に成功を願っている。
しかし何をもって成功とするか?
富や財産であったり、権力であったり、芸事や武術の卓越した練度であったり、学問上の成果であったり、商売の繁盛であったりと様々であるが、それによって何を為そうとするのであろうか。
切磋琢磨して競い合い、互いが向上しようとするのは解るが、他と較べて優位にあるとして満足するのでは、目指す先が違うように思う。
人は誰もが同じわけではないし、較べてどうこうを言えない得手不得手の持ち分というのがある。
頭脳明晰な人も、体力が衆に優れている人も、それとは逆に五体すら不自由な人もいる。努力できる人もいれば、それができない人もいて何の不思議もない。
確かに一番にならなければならないという分野はあるだろうが、そのことによってそれが達成された後に何をしようとするのかがないと、何かが足りない。
何をなすべきかに気づく人も居れば、そんなことにお構いなしの人も居る。
その差は一体どこから生まれ、それが何を意味しているのかを意識する人は少ない。
しかし、どんな人であったとしても、その域に届いていると、何かの折に人としての優しさを自然に表すことができる。
それなくして人類が生き続けることはできまい。全ての先達ではなく一握りの人であっても、それが発現されることをもって、全体が成り立っているのかも知れない。


2018年2月16日金曜日

子供の頃に聴いた記憶があるアリラン

オリンピック放映を見ていると、時々アリランのメロディーが流れてくる。
子供の頃、大人たちが歌っていたのを聞いた記憶があるから曲には覚えがあるが、それがどんなものであるかは知らなかった。

朝鮮の代表的な民謡なのだというが、由来に関しては諸説があるらしい。
一説に、李太王7 (1870) 年頃大院君が景福宮復興のために全国から徴発された労働者たちが、故郷を思って「我離娘 (アリラン) 」と歌ったのが発端だという。
地方によって歌詞と曲調に違いがあり「キンアリラン」「密陽アリラン」「珍道アリラン」などの種類があるとされる。
時代に対する反感や怨情を歌ったものが多く、旋律は聞くだに哀調をを帯びていて、明るさというのは感じられない。

アリランは、キキョウを掘る娘を歌ったトラジとともに、朝鮮民謡として朝鮮半島で最も有名なものの一つだとされているが、明るいメロディーのトラジと哀調を帯びたアリランは朝鮮民謡の代表作とされている。
一番の歌詞は民族感情の一つであるハンの感情を表すともされる。悲しい歴史があるのだろう。
歌詞に歌われているアリラン峠は伝説上のものであり、今あるアリラン峠は後に名付けられたのだとか。

よその国が選んだものだから文句は言えないが、気持ちが鼓舞されるものとは程遠いように感じる。


2018年2月15日木曜日

競技結果は風次第?

スポーツ競技である以上、条件を揃えて競い合わなければならないのではないだろうか?
それでなくては公平とは言えない。
今回のオリンピックは、何かと問題が多い。

寒さは、選手にとって共通することであるから仕方ないとして、強風対策は何もされていない。
選手の競技順によって、風が重大な影響を及ぼしている。
風に煽られて転倒したり落下したりして、負傷する事態が続出しているから、見ていてハラハラする。風が強すぎる。
怪我の程度によっては、その後の選手生命にかかわることになる。競技に人生を賭けて鍛え上げてきた努力の結果がそれでは、気の毒でならない。

韓国は、国のメンツにかけてオリンピックを招致したかったのだろうが、開催場所には問題が多すぎたのだとと感じる。競技に相応しい場所の選定に土台無理があって、それをむりやり開催地にしたからだと思えてならない。
そもそもが鱈を乾すのに適している地域だというから、風が強いのは最初から判っていたのではないのか?

2018年2月14日水曜日

北朝鮮重視のオリンピック開催国

平昌オリンピックを見ていると、平和の祭典というよりも政治色の方をより強く感じてしまう。
外から見ているから判ることなのかも知れないが、実に危うい。

文大統領は親北を公約に掲げて韓国民の信任を得たのだから、その意味では北に隷属したような動きをしても解らなくはないが、現実的に韓国をどうしようというのだろうか。
国民も、国に何を望んでいるのかさっぱりわからない。感情的すぎる。
肌感覚で国の行く末に危機感を覚えた韓国民が、安倍首相を会場で歓迎したのかも知れない。

韓国は建国以来、国の中核をどこに据えるかということを考えなかったからのように感じられてならない。頭初は反共自由主義と反日で国をまとめようとしたのだろうけれど、継続的に政権の正統性を打ち立てるには弱かった。目指すものより後ろ向きのことの方が多かった。
むしろ北朝鮮には、金王朝という強力な核があるから強い。守るものを持っている。

それに引き換え、米兵4万人もの血によって守られ成り立った国なのだということも、現代韓国の発展の基礎が日本統治時代に培われたものであるとの認識も持てず、感謝どころか反米反日で凝り固まるような教育を徹底しすぎて、国民が合理的判断ができなくなってしまった結果なのだと思う。
南が主導して北を統一する心算でいるようだが、それは土台無理な妄想であろう。
反米・反日をつづけていれば、北には北朝鮮、西には中国という強力な共産主義国があるから、いずれは共産化されてしまうのではないだろうか。
自由主義を守ろうとするなら、取ってはならない政策を続けすぎた。
経済が発展している間はよかったが、輸出に頼る経済は、安値製品であるからこそ戦えた。
それにも陰りが出てきた。
安値競争をしようとしたら、この先中国とは対抗できまい。そうかといって、付加価値のある製品を作ろうとしても、基礎研究や素材産業は育っていない。内需もそうである。
頼みの綱の財閥も目の敵にして解体しようとしているのでは、先が見えてこない。

戦争というものがどんなものなのかということも、自分たちが名目を掲げ、存亡を賭けて戦ったことが無いから理解できていない。
戦闘には負けても戦争目的は達することができて、結果的勝利と言える。
大東亜戦争における日本もそうであろうし、ベトナム戦争におけるアメリカもそうである。
アメリカがもし戦っていなかったら、アソアン諸国の大半は共産主義国になっていただろう。
その意味では、アメリカは目的を果たした。

日本においても一部メディアやジャーナリスト或いは学者などが必死になって左翼的なことを叫ぶが、大半の日本人はそれにひきずられることはない。
それらの体制を敷く国々が現実的にどんな有様なのかということは、合理的に判断できる知性を備えているからである。

ものごとは相対的に捉えて平和的に発展できるように考えないと、感情的なことに左右されがちになってしまう。