2018年2月7日水曜日

恨み言を言ってみたところで

人は育つ過程において、いろんな師から学ぶ。学ぶとは真似ぶことから始まる。
その師といえど、完全ではなく学び続けている途次にあるのであるから、弟子にとって快い教え方でないことだってありうる。
脅したりすかしたり、後から思い返して弟子が恨みに思うことだってあるだろうが、それが全てではあるまい。自らの努力も当然あってそれらを乗り越えて成長する。
よく訳知り顔をした識者というのが出てきて、教育の方法について自分の主張することを絶対視してものを言っているが、暴力的であったりの限度を超えなければ、いろいろあってこそ弟子は強く鍛えられるのではなかろうか。
現実社会はひ弱なままでは乗り越えられまい。
弟子は一定の域になると、今までの全てが良かったのだとして昇華できる人と、あれが嫌だったこれが嫌だったといつまでも捉われて、よせば良いのに他人にもそのことを語る人とがいる。よせばよいのにというのは、恨みに思っていつまでもそれを思い返し掴みなおしていると、それが業になるからである。
負のエネルギーは、現れたらそれは消える時なのであるから、これで消え去るのだと自分から手放さないと、傷つくのは磨かねばならない魂なのである。
全てよしと思えるようになることが即ち成長なのだと思う。全てを受け入れることができるようにならないと、決して優しくはなれない。いうことやなすことが、人の気持ちに届かないのである。


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