2018年2月8日木曜日

もっと孝行すればよかった

もう70年以上昔のことであり、父も母も居なくなってしまった今となっては、確かめるすべはもはやない。
それでも、とぎれとぎれにではあっても、僅かに思い出す記憶というのがある。
4歳の時に満州から帰還したのであるから、それが両親にとって如何なる困難を伴ったことであったかは、想像を絶する。
体の弱かった母を、黒い負ぶい紐で背負って連れ帰ろうとしている父に「私は置いて、子供たちだけでも連れ帰って。」といっていた姿を、幼いながら覚えていて思い出す。
5歳年上の兄と、2歳年下の妹、5人の家族がどのようにして帰国できたのであろう。

明日は出発という日の夜、隣の喧嘩相手であった男の子が石炭置き場で泣いていたのも記憶にある。
きっと帰れない事情があったのであろう。
かくいう私も、途中で食べた物にあたったのか、半死半生でようやく両親の故郷にたどり着くことができたらしい。
残留孤児として、かの国に残されても不思議の無い状況でありながら、戻れたのである。

多分、日本に着いてからのことだと思うが、父の背中から見た道脇に生える赤ん坊の木の赤い新芽の記憶があるが、降りた駅からどの道を辿ったのだろう?

日中の国交がなって、彼の地に旅行することが可能になったとき、母に「昔住んでいたところに行ってみたいか。」と尋ねたことがあったが、言下に断られたことがあった。
母にはその後二度とそれを尋ねることはしなかった。

帰国はしたが、戦後の厳しい時代の中、育てて貰った恩がある。
そんな簡単なことさえこの年になるまで思うこともなく、親不孝を重ねてしまったのではないかとの取り返しようもない後悔はある。
百歳近くまで生きてくれたのだから、もっと優しくすれば良かった。
せめて時々は思い出して、手を合わせ感謝したいと思う。


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