2018年2月27日火曜日

日本の日の丸の色

韓国の宮廷ドラマなどを見ていると、鮮やかな色の韓服を纏った人たちが出てきて、こんな文化があったのかと惑わされるが、それは捏造だという人がいる。朝鮮では染料は高価であり、貧しくてとても買えるものではなかったと。
事実、残されている朝鮮王朝末期の頃の風俗を写した写真は、首都といえども藁ぶきの家が並び、そこに屯している民はどれも粗末な白い衣服しか着ていない。
少なくとも、庶民はそうであったと思われる。

日本ではどうだったのかというと、平安時代の昔から、四季折々に見られる自然の色を衣服にも取り込んだ鮮やかな衣装を着ていた。
大抵の色は染めることができたらしい。
そういう色を四季に合わせ身にまとうのが貴族の教養であり嗜みとされていたから、グラデーションも考えた色使いも美しい。
十二単に代表される日本の装束は、植物染料によって染められていたというが、発色を高めたり色落ちを防ぐために、媒染処理を行っていたとされる。
太陽神を信仰する日本人は、赤に対しての意識が強い。
一口に赤といっても、それは50種類にも及び、その一つ一つに名前が付いている。
黄色い花を咲かせる紅花から黄色の色素を捨て、藁灰のアルカリ、米酢の酸で赤色を抽出し、梅から取り出した酸で布や紙に染め付けた知恵というのはどこから出てきたのだろう?

古い絵巻物にも描かれているし、書物にも色の記述は多い。
庶民にもそれらの色は広まったようであるが、江戸時代に入ると奢侈禁止令などが出され、身分によっては使えない色ができた。
そうなると庶民は工夫して、使える色のものでも種類を増やした。
利休鼠などは有名であるが、四十八茶百鼠とか藍四十八色と呼ばれるように、色彩感覚がすぐれていないと区別できないものを沢山作り出した。
反骨精神の強い人は、表地は粗末に見えても裏地に贅を凝らすなどということもした。
浮世絵などに描かれている色や模様は、技術文化の高さを窺わせる。

0 件のコメント:

コメントを投稿