2017年3月21日火曜日

歴史事実を知ろうとするのは修正主義なのだろうか?

報道の自由は守られなければならないということに異を唱える人はいないであろう。
但し、裏付けも確認した真実である必要はある。飛ばしや捏造であっては困る。
しかしそれにも増して、報道しない自由ということで伏せられてしまったものの中に、重大なことが数多く隠されているのではないのかということは感じる。

細かいことなのか知らないが、正義の味方のようなことを言って、取材対象者の人権を無視し、親類縁者や近辺住人まで洗いざらい報道することについて、制限というものはないのだろうか?彼らが好んで使う人権ということは、彼らが破るのはいいということにしているのだろうか?
正義というのは、そういうものではない筈である。
後に冤罪であったと知れたとき、どうやって回復できるというのだろうか。

歴史問題に関連しても、同じことが言えよう。一部マスコミには、ことさらに反日記事を書いたことはないとは抗弁できないように思う。
捏造記事を書いて、それがどんな悪影響をもたらしたとしても、事実が判った後に謝罪記事を書いて訂正を広く徹底するなら兎も角、そんなことはまずない。
そんなことがいつまでも許されていて良い筈はあるまいが、とどめる術がない。

慰安婦の問題しかり、南京事件しかりである。
証拠として使った写真が明らかに間違っていたと書いた本人が口にした本田氏のことは、報道しない自由かどうか知らないが、訂正されないまま放置され、未だに日本軍が残虐であったことにされたままである。
例えば、日本刀で首を斬るとしたとき、日本人なら刀を両手で持つのであって、決して片手でそれをすることはない。着ている軍服も明らかに日本軍のものではないが、それを日本軍のものとしたのは捏造であろう。
日本軍に凌辱されて殺されたのだとされる写真の中に、和服が見えるのを何といって説明するというのか?殺されたのは、中国人ではなくて日本人だったと推定されるのに十分である。
写真というのは、いつ・どこで・誰が撮ったのかが明白でないものは証拠たりえない。

歴史というのは、事実関係を一つ一つ検証し、それが事実だったのか捏造あるいはプロパガンダによるものだったのかを明らかにしていかなくてはなるまい。
日本ばかりでなく、他の諸国だってもっと残虐なことをしたではないか、と言ってみたところではじまらない。
謀略やプロパガンダによるものは、後々まで狙い通りの悪影響力を及ぼすのである。

事実を解明しようとする動きは、修正主義だとか戦争を肯定するのか、ということにすり替えられ、なぜか日本だけが非難の的にされるが、そういうことではあるまい。
戦争が悲惨なものであるとしたら、余計に真実というものを明らかにしなければならないのは当然である。事実ではないことまで謝罪を求められてきたとしたら、猶更のことではないか。

事実を知ろうとするそれを阻もうとするのは、都合が悪い事が出てくると困るということと同義ではないのか。
戦争に負けたから、植民地主義の悪も、残虐行為も全て日本だけが負わされるということでは、健全な世界への発展は難しい。

東京裁判において、被告席に立たされた人たちが毅然とした態度をとり続け、裁く側に立った人たちが忸怩たる気持ちを顔や態度に表していたのだとも聞く。
もっとも、これは伝聞に過ぎないけれど・・・
そのことを今更言い立てたいというのではない。ただ、事実がどうであったのかを知りたい。
歴史というのは、事実の積み重ねによる評価なのだと思う。

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