2017年3月7日火曜日

我が師の恩

そろそろ卒業式の時期を迎える。
学び舎や友達と別れる一抹のさびしさと、新たな希望がないまぜとなって、複雑な気分になるときでもある。
終戦後何年か経てから学校に通った年代であるが、当時は学校の式典において、国旗を掲揚し君が代を斉唱したが、それに異を唱える先生も父兄もいなかった。
いつのころからか、それを避けるようになっていっていたらしいが、近年はそれらには決着がつきつつあるように思う。
国旗と君が代が戦争につながるなどということは、余りに短絡にすぎる主張という他ない。
そんなことを言ったら、極端なことをいえば、日本語だって使えないことになる。
国や学校、社会や家庭家族を基盤にできないで、自己を確立していくことはできまい。

「蛍の光」か「仰げば尊し」が卒業式では歌われたものだが、今はそうではないらしい。
仰げば尊し我が師の恩、などということは、先生の側が辞退するということからだというが、何故なのだろう。
師として尊敬されるようなことをしていない、というのもあるのだそうだが、尊敬されるように日々研鑽努力していないとでもいうのだろうか?そんなことはあるまい。
教壇というのも、生徒より高いところからものをいうのは、同等ということに反するとか変なことを言うらしいが、教える側と教わる側が同等の筈はあるまい。

父兄にも先生のことを軽んずる人が多いと聞くが、先生を敬うことを教えない結果が、親も尊敬されないということに繋がっていないか?他人を軽んじて自分が成長できるだろうか?
努力している人、自分よりも優れたものを持っている人を尊敬できないようでは、本当に大事なことを先々に学ぶことはできまい。

表面上で耳障りの良い言葉が罷り通ることになれば、内心の充実からは遠ざかる。
「我が師」と思える人に巡り合うには、謙虚さが先になくては叶わない。
使われてきた言葉には、意味があるということを考え直してみる必要があるのではなかろうか。

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