2016年1月17日日曜日

認め合うところがないと

一神教の神様を信じると、他の神様は全部否定しなくてはならないように見える。
場合によれば、それを悪魔とまで呼ぶ。それを信じる者は、人間ではないと見做すこともかってはあったように記憶する。
神様は、祈りや感謝の対象であり、敬うのはよいが、その域に近づこうとすることは許されないのだと聞く。経典の教えに従う。
最後の審判というのがあり、天国に行くか地獄に行くか決まるらしいが、その基準となるものは何なのか解らない。殺生戒などというのもあるのだろうか?
その割にはよく戦争をする。日本に平和憲法を押し付けた後の世界各国は、戦争の放棄という流れにはならなかったのは何故なのだろう?

そんなことを題材にしようというのではない。宗教を研究したこともないから、比較することも僭越ということになる。
ただ単純に、認め合うということができないものなのかと思うのみである。

無宗教と言われもする我が国における宗教?というのは、神の領域に近づこうとすることが禁じられてはいない。
死生観が違うのかどうか知らないが、神の領域ともいえる悟りを目指す人がいることを、誰も否定しないし、返って尊敬している。行いが優れてくることを知ってもいるからであろう。
森羅万象の全てに神性を見出し、自然物であれ人間であれ動物であれ、優れたものはそれを認めて、神として敬い祀ることに違和感はない。
その結果として、慈愛とか慈悲とか、西洋にいうところの博愛というのを、神ではない人間がする国のように思える。平和というのは、そういうものの延長線上にあるのではなかろうか。

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