2016年1月7日木曜日

信じ込まされているものを変えるのは難しい

収まりがつくのが、なかなか難しそうです。

オカルト宗教というものの怖さを知る事例というのがあります。
こういってしまってはなんですが、「反日教」とでも言った方が適当なK国ではやりの風潮のことです。宗教ということになると改宗は至難の業となる。

宗教というのは、幸せを求めるためのものだと思うのだが、日韓の合意を得たことになった後も揉め捲っていて、この先の幸せに進む道を目指すことにはならなさそうであります。
この先も仲良くしていく気はさらさらない、とでもいうのであろうか?

信じて疑いを差し挟まないのが宗教の特徴とはいえ、ちょっと調べればいくらでも事実が明らかになる筈なのに、それをしないのか或いは出来ないのか、収拾することがなさそうにみえる。

言論の自由が制限されていて資料が手に入らないとしたならば、日本の資料にアクセスしてみれば良い。そんなことは簡単にできる。
「反日罪」などというものはないから、日本にとって都合の良いことも悪いことも、あらいざらい全部調べることができよう。
戦争という異常状況下にあったのだから、何も不都合なことはなかったとは思わない。
K国とは戦わなかったとはいえ、平時にあってでも、恨みの残ることはあり得る。
大戦後、戦争の相手国日本を悪者に仕立て上げなければならなかった米国が、多大な予算を費やして調べたと言う資料にも、今はアクセスできるらしい。
そこにも、資料は沢山あるはずだが、K国がいうようなものはないといわれる。

正しい歴史認識というものは、そういうものを公平に検証してこそできるのではないのか?
思い込みを押し付けられても困る。
そんなことをいったら、戦後に三国人と言われる人たちの暴虐行為だって酷いものであったと聞く。広島・長崎の原爆投下だって、東京大空襲だって民間人を対象にしたのではなかったのか?それでも、過去に囚われずに先に進むのが良いとするより他ないのではないのか。
激情に任せて恨みを晴らさずにはおけないことのみを信じ込もうとしているだけては、解明できないものがあるのです。
はっきりした事実に対してなら、日本はかなり懐の深い対応ができる国だと思う。

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