2016年1月12日火曜日

後世に歴史の解釈は変わることだってあるかも知れない

このところ歴史に興味をもって、ネット記事を読むことが多くなった。
歴史というものは、当事国の都合や見方があるから、同一の判断がなされないのは当然として、良い悪いの観点からではなく、事実を事実通りに記述するという作業はお互いにできていないのではないのかと感じる。

朝日新聞の記事訂正についても、言論に対する圧力があってそうしたのだという海外の意見もあるらしいから、押して知るべしということでもある。

なまじ真相を究めようとすると、できあがってしまった価値観に対する歴史修正主義だとして一括りに処理され、拒否反応はあっても真意は伝わり難い。
更にそこに感情というのも加わるから、難しさはいや増す。

「アジアには日本がいた。アラブには日本がいなかった。」 エジプトのナセル大統領の言葉です。
ことほど左様に、ナセル氏に限らず、各国指導者たちの受け止め方というのには賛否ある。

しかしながら、どうしてそういう歴史の結果を招来したのかということを検証するには、丹念な事実関係の積み重ねが重要なのではないだろうか?
何事にも、どちらか一方が100パーセント正しくて、他方が一方的に悪いということはない。
その時の法に照らして公平に裁判するということもできてはいないと思える。
現在の価値観でできている法をもって考えるのは、安定性を欠く。
過去を覆そうというのではない、という前提条件をつけてでも、今やっておかねばならないことは多いのではなかろうか。予算をつけてでもすべきことかと思う。

ルーズベルトが何を言い、何をしたか。
チャーチルが何を言い、何をしたか。
スターリンが、毛沢東が、どのようなことをしたのか。
ヒットラーが何をして、東条英機が何をどう言いどのようにしたのか。
その時代の経済・政治・国際情勢などの背景はどんなものだったのか。

こういったものを学問的に感情を交えず互いに研究し合うということなくして、結果に対する反省も将来に対する理想も共有することは難しいのではないのかと思える。
互いに痛みを伴うことが多かろうとも、人類の未来の為には通らなければならない過程なのではないだろうか。


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