2016年1月27日水曜日

解釈が違えば憎みあう対象となるのだろうか?

宗教から始まる争いというのは多い。
「異端は、異教より憎い。」
異端を打ち負かすためなら、今まで敵としてきた異教とだって手を結ぶというのでは、何ともやりきれない。
昔から言われる同族(近親)憎悪というか、仲の悪い親戚同士ほど激しく憎みあい争い合うということは、周りで見ないわけではないが・・・

我が国にだって、宗派ごとの争いはあった(或いはる)が、今は殺し合うほどの激しいものではなくて、ある程度許容しあっている。
信じるということに、他の人の信じることを全否定しないという精神の奥行きがあるということであろうか?

自分の信ずることのためにテロに走る。それも無辜の民を対象とするソフトターゲットを戦略とするのでは、主張に同感を得られないと思うのだが、騒ぎを起こして注目を集めれば、何とかなるとでも思っているのだろうか?

我が国にも暗殺の歴史がないわけではない。
昔は巨魁と言われる政敵を斃せば、革命というものは成ったかも知れない。但し、自信の命と引き換えにする信念というものに、歴史的に一定の理解が得られるということは必要であった。

現代の民主主義の世の中というのは、リーダーを一人や二人倒したところで、替りはいくらでもいるから、体制を変えるためにはそんな非効率的な手段が有効とは思えない。
反対する者は皆殺しにするまで止むことがないとしたなら、つまるところ世界中で一人だけが生き残るということに繋がる。
そんなことに、人としての正当性を認めることはできない。

信じ込んでしまったものはもはや理屈ではないから、議論して互いが納得できるものを導き出すことは難しい。
ましてや、今までの行きがかり上の恨みつらみも加わってこんがらがった想いまで、綺麗に洗い流すことには絶望的ですらある。
人智ではもはや如何とも難しいとしたら、人類全員が納得するかひれ伏して従うことができる大神様が現れるのを待つしかないのだろうか。

そんなことはあるまい。
いざとなったら、人間はそんなに愚かではないと思う。
面子で世の中よくはならない。

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