2013年12月29日日曜日

性善説が採りにくい


 むかしは官姓名(所属身分)を明らかにしてからモノを言ったり為したりしたから、世間様に恥ずかしい行いは自ら慎んだので、まわりも芯のところでは性善説を採って大過なかった。

 

 ちかごろは、物影にかくれ誰の所業かわからぬようにして天人ともに許されぬことをするのが多く、バレても大抵は心神耗弱とやらで、乃至は未成年とやらで、被害者よりも加害者の人権のほうが擁護されるから始末が悪い。

 誰の所業かわからないままなら、それで幕というのもある。

 

 意見を言う人も、自分がどう思っているか考えているかではなく、○○国がどう言っているとか、さる高官が(名前を明かすことはない)とか言って、いつでも責任逃れできるようにしているから、後に間違っていたと明らかになっても、謝罪することはない。

 

 そりゃおかしいだろうと声をあげる人は少ないし、思っていてもそうしないでいることに慣れると、大勢がおかしな方向に行ってしまいかねない恐れがあるのだと感じる能力さえ失せる。

 

 おまけに、皆がしているんだからいいじゃないかとか、誰かに注意されるまではトボケてズルをするとか、結果がのっぴきならないところまで行ってから「そういうのは良くないことだと最初から思っていた。」などとか後出しジャンケンみたいなことを言って、自分の品性を自ら貶めて恥じないというのもいる。

 

 日本は、恥を知るというのが文化であったはず。

 

 そろそろなんとかしないとまずいんじゃないかってこと、周りに多いんじゃなかろうか。

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿