2017年5月6日土曜日

フェアトレード

フェアトレード(Fair Trade : 公平貿易)というのは、発展途上国で作られた作物や製品を適正な価格で継続的に取引することによって、生産者の持続的な生活向上を支える仕組みだということになっている。良い取り組みであるとは思う。
従来通りの一方的な国際協力・資金援助というやり方は、援助する側の都合によって左右され、継続性に欠けるという問題点があった。
それに対し、フェアトレードは、我々消費者が自分の気に入った商品を購入するときにできる、ささやかながら身近な国際協力のかたちということになる。
フェアトレードはヨーロッパを中心に1960年代から広まり、世界へと広がる運動になったのだというが、現在では数千もの「第三世界」ショップが世界中に開かれている。
第一次産品しか生産できない後進国の産物を、経済力にまかせて買い叩くということでは、特産物だとは言っても殆どが農産物に頼るしかない国が、いつまでたっても貧しさから抜け出せないということを考えれば、フェアな取り組み方であり人道的だと思う。
善意から出ている愛ある行動だと思うけれど、殆どの国が被植民地として搾取されていた国々であることを思えば、支配舎だった側が今更ながら綺麗ごとを言っているように聞こえなくもない。やらないよりはやった方がいいとは思うけれど・・・
その一方では、過激な価格競争で鎬を削っている現実がある。
公平な競争で価格を安くする努力は大切だと思うが、限度を越えればデフレということにもなりかねない。
適正な利益というのは、経済活動に必要なのだと思うが、国際間のかけひきをどう乗り越えていくか。
綺麗ごとだけをいっていられない難しい問題である。


2017年5月5日金曜日

暖かい陽射しに誘われて散歩をしていると、空き地や土手にピンク色の小さな花をつけた草を見かけるかと思います。
ホトケノザとヒメオドリコソウ。

 どちらも雑草として一括りされてしまうけれど、春に可憐な花を咲かせ、繁殖の力はつよい。
 ホトケノザとヒメオドリコソウはよく似ていますが、別なものだと意識している人は少ないようです。

ホトケノザは,比較的古い外来植物だといわれます。
道端や空き地,田園風景の中で,ホトケノザが繁って咲く風景は,すっかり日本の春の風景となっています。知らないうちにどんどん増えます。
ホトケノザはシソの 仲間でありますが、ちょっと見では解りにくい。
茎の断面が四角いことや花の形などがシソ科らしい特徴を持ってはいます。
重なり合っている葉の形は丸形、三段に重なるので別名を三界草ともいいます。
このホトケノザは、春の七草とは違うのだそうです。




ヒメオドリコソウは、花の形が笠をかぶった踊り子の姿を連想させることから付いた名前なのだと聞きます。
関東一帯に見られる、これも帰化植物なのだとか。
葉が茎の 先端になるほど紫色がかるのが特徴なので、見分けやすい。
こちらは葉の形が丸形ではなく、葉の先が三角をしています。



2017年5月4日木曜日

「とよむ」とはどういう意味?

「とよむ」とはどんな意味なのか知らない人の方が多いのではないでしょうか。
 響むを「とよむ」と読むと書いてありました。

 調べたわけではありませんので、ワタクシなりに思っていたのは、「とよむ」というのは、あたり一面に響きわたるということであって、“あたり”というのは自分の居る空間のことであるから、庭にいれば庭の広さ、野にいれば野の広さ、海にいれば海の広さにということになり、ひそやかな趣のこともあれば轟々、朗朗ということもあるのだということであります。
あくまでまで私見です。

 パチンコやさんから流れ出てくる軍艦マーチの歌詞にも「とよむ」というのがありますが、
まもるもせむるもくろがねの・・・出だし位しか知らない人が殆どになりました。


憲法記念日に感じたこと

証明書の交付が必要となって、ある区役所を訪ねたことがありました。
応対に出てきた係員は、無精ひげを生やし、サンダルをつっかけた私服で、見るからにだらしない恰好をしていました。
「ちょっとお伺いしたいのですが、公務員といえば公僕と呼ばれるように、一種のサービス業だと思うのですが、ここではそんな格好でもよいことになっているんですか?民間ではとっても許されないと思うのですが。」と訊いてみました。
すると「規則に書いてありませんから。」というのが返事でありました。
「では、規則に書いてあることなら全部守るということですね。」と更に尋ねると、ぎょっとして立ちすくんだ。
まずいと思ったのか、上司らしい人が替わって親切丁寧に対応してくれました。
こういう法をはき違えた輩を、きちんと指導できないシステムにも問題がある。

法典というのは、最小限のことを条文にしているのであって、守らねばならない精神というのは、言われなくても共通認識としてなくてはなるまい。
それでも、前提条件が変わってくれば、法典の条文を改正して対応しなくてはならなくなるのは当然のことかと思う。不変のものではない。
仮令それが憲法であっても、そうなのだと思う。

日本国憲法第21条には、
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」とある。
条文通りに読めば、ヘイトスピーチは罷りならないということにはならない。
プロパガンダや扇動の文言は野放しだし、偏向報道の自由は現にある。
法の精神は条文に書かれていないでも、読み解いて解釈し、他との整合性を求める。

日本国憲法の前文には、
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」とある。

いかに我が国だけが、諸国民の公正と信義に信頼していても、相手が決してそうではないことは、誰も否定できない事実であろう。
憲法9条が有るから平和であったのだという意見は、法典の条文から抜け出せない議論であって、実態の認識がずれてきているように思えてならない。
今までは、米国が守ってくれていたけれど、この先がどうなるかは保障の限りではあるまい。
自衛を考えるのは、独立国の責務だと思う。

憲法を改正したら、すぐに徴兵制だの戦争になるだのと短絡的なことを言って反対したり、庶民を煽ったりする人がいるが、一体どこの国の為に言っているのかと疑いを持ってしまう人であることが多い。

「戦争を起こさない。起こされ難くする。」ことを盛り込んだ憲法の成立に知恵を絞るということがあってもよいのではないのか。
タブー視して触ることもできないというのではなく、まずは議論から始めなくては先に進まない。
制定されたら守らなければならないのは当然としても、金科玉条不変のものとは思えない。

最終的に結論を出すのは国民なのである。日本国民が愚かであるとは思わない。

2017年5月3日水曜日

早く行きたい山菜狩り

 例年であれば5月の連休には、毎年家内と山菜狩りにでかけるのですが、今年はまだ予定が立たずにいます。
 ワラビ・ゼンマイ・コゴミ・ピョンピョングサ(カンゾウ)・セリ・クレソン・ミツバ・山蕗・モミジガサ・山独活・山椒などなど、帰ってからの整理に数日かかります。

 フキやサンショは、つくだ煮にしておくと、来年の収穫までの1年間ずっと楽しめます。

 ニリンソウのお浸しも美味しい。
ただ、知っていれば間違いようもないのですが、ニリンソウは毒草であるトリカブトの葉っぱとよく似ているから注意が必要です。
ニリンソウは、白い花をつけている時期に採れば心配しないで済みます。

 素人がタラノメと間違えて、ウルシの芽をとっているのを見たことがあるが、タラノメの茎には棘があり、ウルシの幹はつるつるしている。

 ギョウジャニンニクとスズランも間違いやすい。
スズランは猛毒です。葉っぱが良く似ていますが、擦ってみてニンニクの香りがするのがギョウジャニンニクであり、しないのはスズランです。

 山野の幸は、体の奥のエネルギーになるから、有難く食べさせてもらっています。


2017年5月2日火曜日

因・縁・果

因果応報
 おどろおどろしいタイトルですが、今日は、少しお勉強です。
因果応報とは、原因があって結果が生じるということです。

 因縁とか因果ということは、よく口にされますが、業というのもよく言われます。
 しかし、意味がわかって使っている人は殆どいないのではないかと思われます。

業とは、いうなれば「行為の結果生じた記憶」ともいうべきもので、過去世から現在に至るまでの経験から意識下無意識下に蓄えられたものです。
 圧倒的に無意識下のものが多いのですが、これら大量の業は、覚えているいないに拘わらず、根底の意識に一つ残らず記憶されているのだと言われています。
 記憶の仕組みは、因縁によるものに他ならず、因(原因)・縁(環境)・果(結果)の連鎖に従って起ります。

 因果というと、親の因果が子に報いなどのように、過去のあやまてる想念が苦悩となって現れることの方に多く使われますが、原因が環境を得て結果を齎すということであれば、善因ということだって当然のことながら在るわけで、善縁に巡り会い善果を得ることだってある筈ですから、悪い事ばかりだということではありません。
 ツキというのは、そんなあたりの全員の現れかも知れません。

 善縁(良い環境)というのは、何もしないでいて触れることができるわけではなく、身を浄めたり感謝をしたりなどなど、我が身ひとつだけではないことに気づかなくてはならないと思うのであります。誰が見ていなくても神様が見ていて下さるかも知れませんし、何より自分が知っています。
自分の内なる神様、すなわち潜在意識が時と場所を得て結果として表れるのだと知れば、身を慎むことに否も応もないということになりそうです。


2017年5月1日月曜日

価値観を共有することは大変

文化の違いをとやかく言っても始まらないが、感情的対立になってしまうことが合い。

食事の時に食器を手にもって食べるのを批難すれば、置いたままの食器に顔を近づけて食べるのは「イヌ食い」だと応酬されることになる。
マナーというのは、どちらが優雅で合理的かということだから、長い歴史に培われている。

友達になったら、自分のものも友人のものも挨拶なしに勝手に使うのが親しさの表れだとする習慣もあれば、親しき中にも節度を守って誰のものかは明確にするのが当たり前だとする文化もある。
上下関係に異常なこだわりを見せる文化もあれば、誰とでも公平なのだということで対等な立場でつきあう文化もある。
相手が嫌がることを好んでするくせに、自分は好かれていると思い込んでいるのは不思議である。

価値観を共有できないのであるから仕方がないのであるが、自分の価値観だけが絶対だと頑なに信じ込んで、それを一方的に押し付けて文句を言われても困る。
どちらが特異な文化なのかは、広く世界を見渡してみれば解ることであろう。

何を約束しても、約束を守らないというのも困る。
都合が悪くなると、全て悪いのは相手であると自分勝手な理由をこしらえて約束を破るのを恥とも思わない。
そのあとで本当に困ったことが起こると、厚顔にも平気ですり寄ってきて、「一度だけ許して下さい」というのだが、一度で済んだためしがない。
仏の顔も三度というが、信頼を得るには誠実さと長い努力がいる。
世界と仲良くしていくのは大変である。