2017年5月4日木曜日

憲法記念日に感じたこと

証明書の交付が必要となって、ある区役所を訪ねたことがありました。
応対に出てきた係員は、無精ひげを生やし、サンダルをつっかけた私服で、見るからにだらしない恰好をしていました。
「ちょっとお伺いしたいのですが、公務員といえば公僕と呼ばれるように、一種のサービス業だと思うのですが、ここではそんな格好でもよいことになっているんですか?民間ではとっても許されないと思うのですが。」と訊いてみました。
すると「規則に書いてありませんから。」というのが返事でありました。
「では、規則に書いてあることなら全部守るということですね。」と更に尋ねると、ぎょっとして立ちすくんだ。
まずいと思ったのか、上司らしい人が替わって親切丁寧に対応してくれました。
こういう法をはき違えた輩を、きちんと指導できないシステムにも問題がある。

法典というのは、最小限のことを条文にしているのであって、守らねばならない精神というのは、言われなくても共通認識としてなくてはなるまい。
それでも、前提条件が変わってくれば、法典の条文を改正して対応しなくてはならなくなるのは当然のことかと思う。不変のものではない。
仮令それが憲法であっても、そうなのだと思う。

日本国憲法第21条には、
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」とある。
条文通りに読めば、ヘイトスピーチは罷りならないということにはならない。
プロパガンダや扇動の文言は野放しだし、偏向報道の自由は現にある。
法の精神は条文に書かれていないでも、読み解いて解釈し、他との整合性を求める。

日本国憲法の前文には、
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」とある。

いかに我が国だけが、諸国民の公正と信義に信頼していても、相手が決してそうではないことは、誰も否定できない事実であろう。
憲法9条が有るから平和であったのだという意見は、法典の条文から抜け出せない議論であって、実態の認識がずれてきているように思えてならない。
今までは、米国が守ってくれていたけれど、この先がどうなるかは保障の限りではあるまい。
自衛を考えるのは、独立国の責務だと思う。

憲法を改正したら、すぐに徴兵制だの戦争になるだのと短絡的なことを言って反対したり、庶民を煽ったりする人がいるが、一体どこの国の為に言っているのかと疑いを持ってしまう人であることが多い。

「戦争を起こさない。起こされ難くする。」ことを盛り込んだ憲法の成立に知恵を絞るということがあってもよいのではないのか。
タブー視して触ることもできないというのではなく、まずは議論から始めなくては先に進まない。
制定されたら守らなければならないのは当然としても、金科玉条不変のものとは思えない。

最終的に結論を出すのは国民なのである。日本国民が愚かであるとは思わない。

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