2014年2月27日木曜日

古希を過ぎての親不知のおかげで見つけた神社


古希を過ぎて親不知が生えてくるとはおもいませんでした。

まっすぐ上に向かって生えればよいものを、真横に向かって生えてきたから、その痛いこと痛いこと。

炎症を起こしてしまっていたので、それを抑えるのに抗生物質と痛み止めを飲むこと2週間の余。

かかりつけのは医者の紹介状を持って、花小金井にある公立昭和病院で、親不知の抜歯手術をしました。

大きな神経のそばにある歯なので、大きな病院でないとできないということでしたが、親切に対応していただきました。

あと数日は、痛みに耐えなければなりません。

 

昭和病院のすぐそばに、武蔵野神社というのがあります。

ご祭神は、諏訪神社と猿田彦の命。

諏訪神社は全国で5千社とも1万社あるとも言われます。

道先案内の神様、猿田彦の命を御祭神として祀る神社は、全国で2000社ほどあるらしい。

猿田彦神社は、伊勢でお参りしますが、他の神社で祀られているのに気付いたのは、武蔵野神社が初めてです。


 

 

2014年2月24日月曜日

伊達の薄着は、後々に影響


実際には身体によくないことの例ですが、伊達の薄着という言葉があります。

私もも若い頃は、寒いのを我慢して薄着で過ごしたものでした。

 

 でも、これっていずれどこかに変調をきたすものです。言うまでもないですが、冷えは万病のもとなのです。

 私は大学時代の1シーズンで気づいたので、その後50年、努めて徒に身体を冷やさないようにしています。

 

 私の業界は、高齢者が多く働いているのでよくわかります。

顔色がよくて元気な人は、寒そうな格好をしていません。

そしてどういうわけかコブトリです。

 お伽噺の瘤とりではなくて、小太りです。

 

 夏にということでも、オヘソを出したりお尻を出している人達は、お気をつけ下さい。

 自損行為とも言えることをしていたのだと、後になって気づいても、痛かったり苦しかったり、冷えを防御するために醜く脂肪がついてしまったりしてからでは遅いのですから。

 

大抵の病、それも重大な病といわれるものは、体温の低下に関係があるようです。

 

 

2014年2月22日土曜日

蜂蜜の1か月はミード造りに励んだ


ハネムーン(honeymoon)は、漢字で書けば「蜜月」。

新婚旅行のことだと一般的には思われていますが、古代ゲルマン民族において新婚直後の新婦は住居から外出せず役目として1ヶ月間は蜂蜜酒(ミード)を造り、新郎に飲ませて子づくりに励んだことに拠ると言われています。

蜂蜜の1ヶ月間=蜜月(Honeymoon・ハネムーン)ということであります。

 

蜂蜜には、強壮作用があるとされたことや、蜂が多産であることにあやかる為にそうしたのではないかとされています。

では、蜂蜜から如何にして酒を造ったかということになるのですが、現代の我々が手に入れられる殺菌された蜂蜜とは違って、自然の蜂蜜には酵母などが含まれていて、糖度を下げる為に水で薄めて置いておけば、自然にアルコール発酵したらしい。

(糖度が高すぎると、アルコール発酵は抑制されてしまう。)

 

新婚夫婦の 甘い関係を表していると思われがちだが、新婚夫婦が幸せを願って蜂蜜酒というかなりアルコール度の高い酒を飲んだのだという風習に由来するらしいのです。

 

2014年2月18日火曜日

「はい、メシ」と言って、お雛様に


毎年この時季になると、家内は押入れの中からお雛様を取り出して飾ります。

還暦をとうに過ぎたけれど、今年も楽しそうに一つ一つ雛壇に据えつけていきます。
 

もう50年以上前のものだから、傷みもはげしいのだけれど、それはそれで思い出があるようです。

飾り付けが終わると、「はい、メシ。」と言って、最近気に入って食べている発芽玄米のご飯を器に盛って供えたので、普段と違う言葉づかいに思わず笑ってしまいました。

 

2014年2月15日土曜日

雪を見て雪辱という言葉を思い起こしました


雪が沢山降りました。

雪ぐのは、恥ということになっていますが、こんなに諸方に影響が出ると、困る人が多くなります。

 

濯ぐは、水で汚れを流すこと。

漱ぐは、水でウガイをすること。

夏目漱石は、石で口を漱いだ?

そもそもは、「枕石漱水」(流れに漱(くちすす)ぎ石に枕す)という詩からの熟語であり「俗世間から離れて、川の流れで口をすすいで石を枕として眠るような生活をしたい」

という意味なのだが、間違えて「漱石枕流」と言ってしまった人がいた。

それを友人から指摘されると、

「石で口をそそぐのは、歯を磨くため。川の流れを枕にするのは、水で耳の中を洗うためだよ」と負け惜しみを言った。


このことから、漱石枕流には負け惜しみ、頑固者という意味を持つようになりました。

自分のことを変わり者だと思っていた夏目漱石は、この漱石を筆名に選んだと言われています。

 

2014年2月14日金曜日

ともに確かなものを示す「折り紙つき」と「お墨付き」


子供の遊びである、千代紙を折って花や動物の形を作るのを折り紙と言いますが、

折り紙つきというときの「折り紙」とは、紙 を横半分に折った文書のことで、平安時代の末期から、公式文書や贈呈品の目録として用いられ ていたものを指していいます。

それがやがて、公文書にも使われるようになり、江戸時代には美術品や刀剣などの鑑定書にも使われるようになって、折り紙つきというのは確かな物ということにも使われるから、腕や品質などに間違いないことを指す言葉でもあります。

 

一方「お墨付き」というのは、将軍や大名の作った文書で「墨の花押」があるものをいい、それが転じて、権威のある人や専門家から保証や承認を得たものを言うようになりました。

2014年2月13日木曜日

「だい」か「おお」か、読み方で迷う大舞台


オリンピックが始まりました。

晴れの大舞台で活躍される選手の皆さんの、日頃の精進の結果が披露されるのですが、結果は別のものでありましょう。

やむを得ないことではありましょうが、報道には配慮して欲しいと思うこともあります。

 

表題の「大舞台」を、「だいぶたい」と読むか「おおぶたい」と読むかについては、異論があるようです。

重箱読み・湯桶読み、日本語はなかなか難しいようです。

NHKの「ことばのハンドブック」や「アクセント辞典」では、古典芸能以外の活躍の場といった意味のときには「ダイブタイ」と決めているようです。

大地震はオオジシン、大震災はダイシンサイというのも、よく話題になります。

地震も震災も漢語ですが、言い易さも加わってくるのでしょうが、慣用的に言い習わされて広まって定着してしまうのも、言葉遣いの特性かもしれません。

 

放送では、古典芸能のときは[オーブタイ]のみ、それ以外のときは[ダイブタイ]または[オーブタイ]の両方の読み方をするようです。

大○○という言葉があったとき、「ダイ」なのか「おお」なのかは、そのあとにくる○○によって変わるようです。

○○の部分が日本古来の言葉(大和言葉)であれば、「おお」となり、伝来した漢語であれば「だい」となる。

例えば、大一番、大御所、大相撲、大太鼓、大道具、大広間、大部屋、大晦日、大番頭、大捕物、大荒れ、大食い、大引け、大目付、大事などは「おお」となり、

大家族、大地震、大規模、大元帥、大自然、大前提、大多数、大動脈、大惨事、大部分、大問題などは「だい」となります。

舞台は日本語(和語)ですので「おおぶたい」となりますが、「大舞台」と読んだ方が語感的には馴染むように、私には思えます。

 

 

2014年2月5日水曜日

荒い波動の言葉を使うと


毒のある言葉、荒い波動の言葉を使うのは、極力避けた方がいい。

何故かと言えば、因果の法則というのは厳密で、如何にそんなことはないと否定しようとも結局は自分のところに悪い結果が帰ってきてしまうからです。

その場凌ぎの自分の感情まかせで吐いた毒は、いずれは自分のものになる。

棘のある、或いは毒のある物言いを好んで使う人がいるが、

陰陽師は、人を呪殺しようとするとき、呪い返しに遭うことを覚悟し、墓穴を自分の分も含め二つ用意させたといわれいる。他人に害を及ぼすようなことは、自分も一緒にその責めを負うというのが、逃れられないことらしいのです。

 

良い言葉というのは、精妙で穏やかな波動をもつから、言っても聞いても快い。

そういう言葉をいつも使いたいものです。

 

2014年2月4日火曜日

伊勢神宮の参拝の後にいつも買うことにしています


伊勢神宮に参拝すると、一緒に道先案内の神様である猿田彦神社と、伊勢神宮の鬼門の守りである朝熊山の金剛證寺を訪ねることが多い。

猿田彦は、ご存知、アメノウズメノミコトと夫婦です。

 

でも大抵の人は、上記の神社には行かないで、二見が浦へ回って、そこでの眺めを楽しみます。

私は、伊勢に行くと、二見が浦の夫婦岩の前にある土産物店で、万古焼の急須を買うのを常としています。前回贖ったものは壊れてしまったので、今回も2回焼きした製品を新たに求めました。

この急須は焼きが硬くて丈夫であり、打ち当てると金属音がするのだが、何より良いのが茶葉が詰まらずお茶が出ることです。

萬古焼(ばんこやき)は、陶磁器の一つで、葉長石(ペタライト)を使用して耐熱性に優れた特徴を持っており、陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器に分類される。

万古焼は、その耐熱性の特長を活かした紫泥の急須や土鍋が有名です。

 

2014年2月3日月曜日

意識をどこに向けるかで簡単にチャンネルが合ってしまうらしい


人の運命は、自分が顔を向けた方向で簡単に決まってしまうらしい。

意識を向けるだけで、人として望ましい世界にでも悪の世界にでも、簡単にチャンネルが合ってしまうらしい。

 

波動が合うと、良いことに向いていれば良い結果を、悪いこに向いていれば更に悪い結果を次々に齎すらしい。

悪口をいったり不平不満を口にしたりするのは、歯止めが効かない状態にしていると、最悪の結果を引き寄せてしまうことを覚悟しなければならない。

それは自分が選択して、自分が招く結果なので、避けなければならないことです。

 

世の中には、当たり前なことというのはまずないから、いろんなお陰様を蒙って無償でその恩恵に浴していることに気づき、まず感謝することができるようになることが大事です。

 

「有難う」「お陰様で」と素直に言えることに意識を向けるようにしていると、良いことが次々に続いて起こるようになるようです。

どんな小さなことであっても「ありがとうございます」と先ず言えるようになることから始めます。

 

人は本人が知らないだけで、何かに護られているものですから、早くそれに気づいて感謝できるようになると、どんどん幸せになれるのだと言われています。

 

蕎麦の花は綺麗だったが


 源平の戦いが終わって、落人伝説ができたといいます。

 そこがそうなのかどうか調べたことはありませんが、山登りで各地を歩くと、人里を離れていて「よくこんな厳しいところに人が住んでいるね。」と思うような場所を目にすることがあります。

冬景色となれば、更にそうです。蕎麦畑の跡は、切株も寒々しい。

 


 "平家の"と頭につくことが多いのだけれど、どうしてなのでしょうね。

それ以前にだって国譲りをしたということに神話ではなってはいるが、それは天津神と国津神の戦いがあったのだと考えるのが普通だし、事実、国津神のタケミナカタノミコト(諏訪大社の祭神)は天津神のタケミカズチノミコト(鹿島神宮の祭神)との戦いに敗れて出雲から諏訪まで落ち延びたということになっているから、その頃から「何々の隠れ里」という名がついたものができていても不思議ないはずなのに・・・

 

 まあ、厳しい土地ということが前振りなんだけど、ソバというのは昼と夜の温度差が大きくないと結実しないと言われています。

すなわち気象上も厳しい土地で作られたということになる。

 

 平氏と較べれば、優雅といってもよいかも知れないのが今川氏。

 織田との桶狭間の合戦に破れたあとのことは余り知られていませんが、家が絶えてしまったというわけではありません。

私の住んでいる近くに、今川という地名があります。4丁目まであるくらいの広い地域です。

 今川氏の裔は徳川家に仕え、このあたりに住んでいたのだとか。

このあたりは肥沃の地ですから、蕎麦などつくらなくても作物は何でもできたんじゃないでしょうか。

 表通りは家が並んでいますが、ちょっと入ると畑がまだ沢山残っていて、美味しそうな野菜が作られています。

 

 

2014年2月2日日曜日

神社の宮司が話しかけてきて


近所に小さな構えの神社があります。二百数十年の歴史をもつと言われていますが、近在の住人以外に訪れる人は少ない地域守護の神様です。

 

朝の散歩がてら参拝していたら、宮司が出てきて、初めて言葉を交わしました。

ここの境内には、むくろじ樹木の大木があります。

 

むくろ樹からは、追羽根(羽根つき)の芯になる硬くて黒い実がとれます。

そんな話をしていたら、むくろ樹の実は鳥が飛んできて食べるのだという。

「えっ、あんな硬い実をですか?」と聞くと、「実を包んでいる殻ごと食べて、硬い実の部分は糞と一緒に落としてゆくのです。」とのこと。

その実からは、頼りない茎が伸びるのだが、目立たないから刈り取られてしまうことが多いのだけれど、一本だけ伸びるその細い茎は、三年程たつと二股に枝分かれし、その後はどんどん枝が出てきて、あっという間に大木になるのだとか。

 

ちょっと言葉を交わすだけで、知らなかったことを教えてもらうことができ、有難いことでした。

隣の駐車場との境にあって、四月初旬に赤や白の綺麗な花をつける樹木があるのですが、それは「箒桃」というのだとも教えてもらいました。

長生きすれば幸多し。

 

2014年2月1日土曜日

散文詩「それはないでしょ」


幼いころから好きでした

こんなに好きだと気づいてからも

口に出せずにもう長い

心やすさの軽口ばかり

素直に好きと言えずにいたわ

 

会えば会ったで苦しくて

会わずにいようと決めたのよ

忘れられずに悩んだわ

そんなところに電話があった

たまには会って話をしよう

 

嬉しくってもうスキップしたわ

天にも昇るここちして

いつもに増しておしゃれして

待ち合わせ場所に急いだわ

時間前には着いてたわ

 

よー久し振りと手をあげた

笑顔がとてもまぶしくて

笑いも返せず見上げてた

顔がゆがんでいたかしら

綺麗じゃなくって見えたかも

 

会いたがったわけわかったわ

とんだわたしの勘違い

貴女の望みがそれだとは

私のともだち紹介してと

屈託もなく言う貴方

 

それが貴方の願いなら

悲しいけれどわかったわ

愛しているからそうするわ

これでほんとにお別れね

きっと幸せ掴んでね

出した後に入ってくるのが順番


息は、吐き出さないと、次の空気は入ってこない。

だから「呼吸」の「呼」は、吐く息のことであるし、「吸」は、吸う息のことです。

 

自分の持っている能力、違う言い方をすればエネルギーというのも同じで、自分の為にのみ貯めこんでいて使わないでいると、次の新しいエネルギーは入ってこない。

他人の為に使うのは損だと思っている人も多く見受けられるが、そんなことは決してないようです。

出した以上のものが入ってくるというのが道理のようです。それも、感謝という利子つきですから、これは大きい。