動物において、性的には完全に成熟した固体でありながら、非生殖器官に未成熟な部分が残る現象をネオトニー(幼形成熟)というのだそうです。昆虫や犬、人にも多いのだとか。
外見上のことをいうらしいですが、精神面のことまでいうならば、遥かなる約束どころか単純な愛だ約束だなどのことも発達しないまま大きくなってしまったのは、そこらへんに溢れかえってている。
雨月物語だとか葉隠れだとかをかじって、朧気ながら約束ということの意味することを感じたのは、われわれの年代だと中学校の高学年から高校にかけてくらいだったかのように思う。
なにもかもをいちいち教わったわけではないが、下地となる教育や情操は、学校に上がる前の家庭や地域社会に有って、その類推で判断して自分で育ってきた部分が多かったのではなかろうか。
「そういうことをすると恥ずかしいでしょう。」と言われると、なぜ恥ずかしいのかという説明なんかなくても以後気をつけるようになったし、それは人が見ている見ていないに拘わらず自らを律する基ともなった。
今、1日に100通を越える迷惑メールが届きます。誰だか解らなければなにをやってもいいんだという卑しい行為に歯止めがかからないというのは、日常茶飯見かけることではありますが、どこに原因があるんでしょう。
「おてんとうさまはお見通しだ。」って教えておくことだけだって効果があると思うけど。
私は、性善説を信ずる者です。皆が良いものをもっているのに覆いを被せてしまっては勿体無いと、つねずね思っています。
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