2019年5月21日火曜日

伝統を培ってきたことで


職人や物を生産する人を大事に考える国は、基本的に強い国になる。
頭だけを使うのが偉いのだとして踏ん反り返っていた国には蓄積されたものが少ない。
底力が違うのである。日本やドイツを見れば納得できよう。
その他にも使われる言葉にも違いがある。同じ言葉であっても意味が全く違うのだという事を理解していなくてはならない。
例えば「約束」という熟語なぞはそもそもなかったのだというし、政治家が使う「遺憾」などというのは、極めて軽い意味合いしかないのだという。

ある国が好んで使う「パートナー」というのは、目先の利益がある間だけの関係であり、それがなくなればあっさり終わりになる。「共同」というのも同様である。
「友人」ということになると、他人のものは自分のもの、自分のものは自分のものと考えるのが親しいという意味になる。親しき中にも礼儀ありなどという概念はない。
文化が違うのだということを知らないと、腹が立つだけで終わる。

日本には「形見分け」という文化があって、良いものは代々伝えられていく。
が、そういうものは無いらしく、親が死んでも遺品は捨ててしまうのが普通なのだと言う。
日本ではさらにその上、ものごとを為すときに事前に大義を立てているということが多いから、短期的には考えずできるまでやるから、積みあがってできあがったそれは無双である。
日本民族は、物心両方に、大義のために殉じるということができる国民であった。それが叶わず命を落とすことになっても潔かった。
それが主たる目的ではなかったにしても、日本人の行いがきっかけとなって人種差別や植民地がなくなる結果を齎したことは否定できまい。

物を作るということは、汗もかくし体が汚れることは当然である。殿様だって工事に出て、人足と一緒になって働くことがあっても特異なことではなくて、それが普通であった。
優れた物を作るには、技術の積み重ねが必要不可欠である。労働する者が蔑まれるような国では、文化が発展するわけがない。先輩の技量を尊敬するから、さらにその上を目指そうとしてきたことが、日本文化を発達させた。
伝承・口伝、いいものは復活してでも残す。それに労を惜しむことはない。
日本人は昔から多くの者が基本的に文字の読み書きができたから、名人が書き残したものが、古文書として残りやすかった。

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