2019年5月27日月曜日

如何に属国だったとは言え


貢女(コンニョ)は、朝鮮が中国への朝貢品の1つとして献上した女性のことである。
如何に何も貢ものがないからと言って、女性を差し出すというのは程度を越えている。
運よく帰国が出来た女性であっても、国の為に犠牲になったのだとして篤く遇されることなく、還鄕女として蔑視・差別待遇を受けた。現在でも朝鮮語・韓国語で女性を節操のない女だと罵倒して卑下する言葉として用いられるファニャンニョンの由来となっている。
高麗・朝鮮王朝時代の「貢女」の実態とは、高麗時代から朝鮮王朝時代まで続いた「恥辱」そのものである。朝鮮は貧しくて、さしたる産物もないことから、女性を貢物にした。
そのため、娘を守りたい親は、娘が候補になると、顔に薬品を塗って醜く爛れさせてそれから逃れる工夫をしたり、傷を付けることで醜い容貌にしたりした。
娘が生まれたら秘密にしたまま暮らす。他人に知られるのが心配で、隣人にも娘を見せられない。娘を隠していた事実が発覚すれば、村全体が害を被ることになるから、どうにも隠しようがなかった。
そうなれば処女を選ぶ過程で賄賂が取り交わされるのは当然で、金がある者は切り抜け、金がない者は 連れて行かれるということでもあった。
その恥辱の歴史は、5世紀初めまでさかのぼる。しかも、日本が関与するようになる迄、朝鮮は独力でそれを廃止することができなかった。
高句麗・新羅から中国の北魏に、女子を送ったという記録があるのだという。現代の韓国人はその多くが漢字を読めないから、仮令読める人がいたとしても、その歴史を知らないふりで居るが、知ったら平静ではいられまい。
貢女の献上が最も盛んに行われたのは、高麗後期から朝鮮王朝時代にかけてだった。
高麗時代の元宗15年(1274年)、元が140人の婦女を連行したのを皮切りに、忠烈王・恭愍王代に元に対し献上した貢女は170人以上、44回に上った。
朝鮮王朝時代にも、太宗から孝宗の時代にかけて、明・清に対し9回にわたり146人が献上された。
中国の高官が私的に連れて行ったケースを合わせると、数千人に上ると推定されるのだという。
中国から、貢女を選ぶ「採紅使」が訪れると、朝鮮の朝廷では貢女選抜機関を臨時に設置し、
巡察使が各地を物色して回った。
朝鮮王朝時代には、貢女に取られないようにする目的で、娘が幼少時に婚姻することを防ぐために、世宗王は「12歳以下の女子については婚姻を禁ずる」という法令を公布しなければならないほどだった。
朝鮮王朝時代の太宗84月、各地から処女30人が選ばれ、ソウルに移送された。
父母を亡くして3年以内の女性や、息子がいない家の一人娘を除いた7人が、景福宮での最終審査に臨んだ。
しかし中国の使臣は、その中に「美しい女がいない」として官吏を棒で打とうとした。
娘たちも指名を避けようと、体に障害があるかのように口をゆがめたり、足を引きずったりした。
最終的に、それらに関わった娘たちの父親は全員罷免されたり、流刑に処されたりした。
同年7月、再び選抜が始まった。
太宗は「処女を隠した者、針灸を施した者、髪を切ったり薬を塗ったりした者など、選抜から免れようとした者」について、厳罰に処するという号令を下した。
要するに、国王が率先して、自国の女性を生贄にして差し出したということになる。
近年騒いでいる慰安婦は、どんなに探しても強制性を示す証拠は1件も見いだせないが、貢女は紛れもなく朝鮮の国策であった。
同様に、米軍兵を相手とした洋公主も、韓国が国として提供したのである。

ついでに言うと、韓国人が名君であったと崇める世宗王は、国民を愚民と言って憚らなかった王でもある。
歴史を学ばねばならないのは彼らなのではないのか。

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