2021年11月6日土曜日

大事にならないようにする備え

 

弱いと見縊られたら、それが戦争に結びつくのだと言うことは歴史が証明している。

「歴史に学べ」と軽く口にするが、本質を理解しようとしないのでは、意味を持たない。

日本が先の大戦に向かう発端となったとされる日清戦争は、いきなり起こされたのではない。

前哨戦となる事件が連続した結果であると認識しないと、判断を誤るという轍を繰り返すことになりかねない。

歴史を学ぶということは、過去と同様な流れになっているのを知る機会でもある。

 

明治19年(1886年)8月1日、清国海軍の北洋艦隊の軍艦「定遠」「鎮遠」「済遠)」「威遠」が長崎に入港し。
どれも最新鋭の軍艦で、特に「定遠」「鎮遠」は東洋一の威容をほこる大戦艦であった。
鉄は国家なりといわれた時代であり、軍艦の大きさは国力の象徴であったし、大戦艦は強国の証であった。
北洋艦隊が日本に立ち寄った表向きの理由は、「艦艇修理」であったが、実際には、日本に対しての軍事的偵察と威圧、恫喝の任務を帯びていたといわれている。

中国は儒教の国といわれているが、同じ儒教でも、中国と日本では、ぜんぜん違った理解をされてきた。
中国の儒教では、上下関係こそ、あらゆる価値観に優先するとされてきていたのである。
真実や正義、道理よりも、「上からの意思」が優先され、下の人間は、常に上の人間に従うことが正しいとされてきた。中国にとっては、「どっちが上か下か」は大問題になる。
そんな中国にとって、彼らの思想からみて「下」にある日本が、清国にたてつき、欧米列強から武器を購入して軍備を増強するなど、まさに不届き千万。懲らしめ組み敷くべき相手国であった。

8月13日、500名の水兵を無断で長崎の街に上陸させたのであった。

日本を見縊り上陸した水兵たちは、市中をのし歩き、飲酒、放言、略奪、婦女子を追いかけまわすなど、傍若無人な振る舞いを繰り返した。

当時の長崎には、日本三大遊郭のひとつである丸山遊郭があった。いくら丸山遊郭が大きな盛り場だったとはいっても、いきなり大人数の「ならず者」たちがやって来れば混乱する。水兵たちは、遊郭の備品を壊すなど、いきなり暴れはじめた。
それを取り鎮める対応の中で双方に死者が出た。日本側に落ち度はなかった。

明治20年(1887年)2月、事態をまるくおさめようとする井上馨外務大臣と徐承祖(じょしょうそ)全権行使の両名によって、日本側が一方的に悪いとする妥協案がまとめられた。なぜそのようなことになったのかと言えば、悔しいことながら当時の日本の海軍力は、清国の「定遠」「鎮遠」が、共に排水量7千トン級の大戦艦であるのに対し、日本側は排水量4千トン級の巡洋艦「浪速」「高千穂」を擁するのみであり、対抗する能力はなかったからである。

陸軍力でいえば、清国は2百万以上の動員兵力を持っていたが、日本は総動員しても最大で25万であった。
ほぼ十倍の兵力差ですから、清国は日本に対して、「楽に勝てる」と踏んでいたから強気であった。

道理に合わない無理を言われても、軍事力の前には屈せざるを得ない。
それが、いまも昔も変わらない国際社会の冷徹な原則なのである。

長崎事件を受けて、山県内閣は軍備を整える必要性を痛感し、議会でその予算の承認を提案したが、敢え無く否決された。

現在の日本と同じ状況である。

 

その結果、日本は弱腰であると認識され、清国からの挑発はますます活発化された。

尖閣諸島への侵入は、それらを彷彿させて余りある。本質は同じである。

長崎事件から8年後の明治27年(1894年)7月25日、朝鮮半島の北西岸の豊島(てしま)沖で、日本の巡洋艦「秋津洲」「吉野」「浪速」の三隻が、会合予定だった巡洋艦「武蔵」と「八重山」を海上で捜していたところ、清国巡洋艦「済遠(さいえん)」および「広乙(こうおつ)」と遭遇した。
このような場合、軍艦は礼砲を発して挨拶するのが世界の通例であるが、清国艦船は突然、21センチ砲を撃ってきたので、やむなく日本も反撃した。

あきらかな正当防衛であった。
日本の巡洋艦が応戦をはじめると「済遠」と「広乙」は逃走し始め、「広乙」は追い詰められて座礁した。
「吉野」と「浪速」が追った「済遠」は、国旗を降ろして降伏の意を示したかと思えば突如、逃走を図ることを繰り返し、卑怯にも海上にあった清国軍艦「操江(そうこう)」とイギリス商船「高陞(こうしょう)」のもとに逃げ込んだ。

清国とイギリスは日本を非難したが、『タイムズ』紙に法学者による「日本側に違法性はない」という論文が載ると、イギリスの世論は沈静化していった。
あたりまえのことである。

いかに不当な宣伝工作が行われようと、堂々と「日本がなぜそのような行動をとったのか」という理由をきちんと説明すれば、世界は納得する。
言うべきことは、ちゃんと言う。それが国際社会の常識である。
そこを説明しないでいると、いいように貶められてしまうだけである。

 

翌々日、清国軍は牙山から逃げ帰った兵士とあわせて、合計1万2千の大軍を平壌に集結させた。
日本は、あくまで開戦を避けようと、外交交渉を継続しますが、清軍はこれに応じない。

8月1日、日本は止む無くけじめとして清国に宣戦布告文を発した。
清国が朝鮮の意思を尊重して、兵を引かないなら、日本は戦いますよ、という布告文であった。

我々日本人は、武道の慣習に従って、戦いというものは礼に始まって礼に終わると、なんとなく思っているが、以上の経緯に明らかなように、すでに戦いは始まっていたのである。

清国の一方的挑発が繰り返されての結果である。

そしてこの場合、宣戦布告文書は、むしろ「戦いをしないため」の警告文として発せられていた。

 

弱腰を見せれば付け込まれる結果を招くのだと言う好例だと思えてならない。

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