2019年4月15日月曜日

神話のある国はありがたい


日本の神話というのは、読んでみると意外に面白い。

古事記は、日本最古の歴史書であるとされている。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたということになっている。
内容は、神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事(神話や伝説))が、紀伝体で記載される。数多くの歌謡を含む膨大なものである。

稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が文字に書き表して編纂したというが、如何に稗田阿礼の記憶力が優れていたとしても、俄かには信じがたい。稗田阿礼は、一部の人だけが読める何らかの古代文字で書かれていたものを読み伝えたのではなかろうか、と推測する方が説得力があると思うのだが如何だろう?

明治時代に急速に西洋文明を取り入れようとしたときと同じようなこと、或いはもっと激しい文化革命のようなことが漢字を採用しようとしたときにあったのかも知れないではないか?
古事記の編集の段階で、時の政権に都合が悪いことは伏せたであろうし、伏せきれないものは象徴的あるいは暗号的に書き記したのではなかろうか。
そのように考える歴史学者というのはいないのだろうか?

神々のことをそのまま信じることにはロマンがあるが、日本人は優れている人を神として祀ってきたことも事実である。
どこまでが神で、どこからが人かと想像することは、あっても良さそうである。
男神であるイザナギが目や鼻を洗って生まれ出たという三貴神、アマテラス・ツクヨミ・スサノオは、一体何を暗号化したというのだろう?

ヲシテ文字というのがあるのだという。それによって書かれたホツマツタエという3世紀に書かれた古文書は偽書だということになっているらしいが、果たしてそうなのだろうか?内容まで読んで検証した結果なのであろうか?
歴史論争をしようというのではなく、書かれていることの研究価値のことを言いたいのです。

それに書かれていることと記紀との大きな違いは、カミヨ(神代)の出来事は、天上の出来事ではなく、日本列島の上に実在の人物が、実在の場所で行った出来事として記述していることであるのだという。聞いた限りのことではあるが、縄文遺跡の発掘から判って来る状況証拠と比べて、説得力があるように思える。
神社には、必ず祀られている祭神が在わしますが、それは実在した人物であったことをうかがわせるらしい。
神産みなど以後のことは、そうであった方が分かりやすいのではないかと思うが、それらの研究が目に触れることは殆どない。

古いことは確かに判らないことが多いから、いろんな説が出てくる。
神武東征も、高千穂を発ってから大和を平定するまでに年数を要して、紀元前660年に初代天皇に即位していることから、紀元前721年にアッシリアに滅ぼされた北イスラエルから失われた10氏族の指導者であったイザヤとの関係を唱える人も出てくるのかも知れない。彼らは東の果ての国を目指していた。
イザヤはイザナギではないのかと結びつけるが、それはできすぎにも感じるけれど、真実はどうなのだろう?

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