2019年4月27日土曜日

宇宙戦艦ヤマトから


超ド級戦艦「大和」は、日本がその技術を結集して造った世界最大級のものであったことを知らない人は少なかろう。
「大和」を読むのに「だいわ」と読む人がまずいないことも、同様に日本人の基本知識である。
どうして「やまと」と読むのか気になったので、ウィキペディアで探ってみました。

元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。
その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする令制国を大和国とした。さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり日本国の別名として大和が使用されるようになった。
更に続けて、やまと」の語源は諸説あるとの記述があった。
·         山のふもと
·         山に囲まれた地域であるからと言う説
·         この地域を拠点としたヤマト王権が元々「やまと」と言う地域に発祥したためとする説
·         「やまと」は元は「山門」であり山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説
·         「やまと」は元は「山跡」とする説。
·         三輪山から山東(やまとう)を中心に発展したためとする説
·         邪馬台国の「やまたい」が「やまと」に変化したとする説
·         「やまと」は元は温和・平和な所を意味する「やはと」、「やわと」であり、「しきしま(磯城島)のやはと」から転訛して「やまと」となり、後に「しきしま」がやまとの枕詞となったとする説。
·         アイヌ語で、は接頭語、マトは讃称で、高貴を意味するムチや祥瑞を意味するミツ等と同根の語とする説。
·         ヘブライ語で「ヤ・ウマト」=「神の民」とする説(日ユ同祖論)
·         古墳時代頃に漢字文化が流入すると、「やまと」の語に対して「倭」の字が当てられるようになった。中国では古くより日本列島の人々・政治勢力を総称して「倭」と呼んでいたが、古墳時代に倭を「やまと」と称したこと]は、「やまと」の勢力が日本列島を代表する政治勢力となっていたことの現れとされる。
·         次いで、飛鳥時代になると「大倭」の用字が主流となっていく。大倭は、日本列島を代表する政治勢力の名称であると同時に、奈良地方を表す名称でもあった。7世紀後半から701年(大宝元年)までの期間に、国号が「日本」と定められたとされているが、このときから、日本を「やまと」と訓じたとする見解がある。
·         奈良盆地を指す令制国の名称が、三野が美濃、尾治が尾張、木が紀伊、上毛野が上野、珠流河が駿河、遠淡海が遠江、粟が阿波などと好字をもって二字の国名に統一されたのと同じく、701年には「倭国」を「大倭国」と書くようになったと考えられている。
·         奈良時代中期の737年(天平9年)、令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19年)には、再び「大倭国」へ戻された。そして757年(天平宝字元年(818日改元))、橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。このとき初めて「大和」の用字が現れた。その後、「大倭」と「大和」の併用が見られるが、次第に「大和」が主流となっていった。

いろんな説があるものです。
邪馬台国を「ヤマタイコク」と読んでいるが、「ヤマトコク」とも読めるのだという。邪馬臺国の「臺」という字は、もともと「ト」あるいは「トウ」と読むのだというから、ヤマタイコクから「やまと」と呼ぶようになったというのが、説得力があるように感じる。
現に卑弥呼の後を継いだ「台与」は、トヨと読んでいる。

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