2019年4月29日月曜日

 巫祝(ふしゅく)


いわゆる神や仏と言われるものに向かい合ったとき、どうするか?
 柏手を打ったり、十字を切ったり、手を合わせて合唱したりするのが一般的な作法として思い浮かぶが、日本人は八百万の神としての自然神に対するとき、山や海や樹や岩に、静かに頭を垂れるのである。
 巫祝(ふしゅく)という言葉がある。意味は神につかえる者のこと、というくらいにしか辞書には出ていないが、敬うべき大いなるものだと感じたときの日本人は、誰に言われなくても頭を下げるのである。
 このことを、国民を代表して常時なされているのが、天皇陛下なのだと感じる。

日本人は無宗教だと言われているのに、モラルの高さやマナーを守ることにおいては、諸外国人が一様に称賛するところである。
しかし、日本人が無宗教なのだとは思わない。
神道にしろ仏教にしろキリスト教にしろ一宗一派にとらわれないだけのことで、敬う神というのは心の中に持っているのではなかろうか。
それぞれの神の良いところを昇華して、意識していなくてもいつも共に居る。
極め付けが「お天道様が見ている」という言葉に代表される概念のように思う。
誰が見ていなくても、自らを律することに意識の高さを感じる。
自分の外に神が居るのではなく、自らの内に神性が宿っているということを悟っているのでないとこうはいかない。

長い歴史の中で培われ身に染み付いた能力なのであろうが、目先の損得や競争ばかりに明け暮れて、「人様に迷惑をかけるんじゃないよ」という基本的なことさえ教えなくなった親が増えてしまっては、この先が思いやられてならない。
自分の中に神様がいるのだという意識が持てるようにすることは大事だと思う。
頭を垂れる

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